第62話 Day 45 暗闇の中の光
二十四階から、人の流れがゆっくりと上へ向かい始めた。
先頭を歩く柴田の後ろには三浦直人、一ノ瀬美咲と四人の仲間、住民代表と元管理人、そしてこれまで2501号室への侵入を見守っていた住民たちが続いており、最初に集まった時よりも、その人数は明らかに増えていた。
玄関を壊そうとした時には距離を置いていた者もいる。2502号室の壁を破壊し始めた時には「さすがにやり過ぎだ」と止めようとした者もいれば、2401号室の天井を壊すことに最後まで反対していた者さえいた。
だが今では、誰も何も言わずに同じ方向へ歩いている。
神崎蓮は寒波が来ることを知っていた。
それなのに、自分だけ準備を整え、他の住民には何も教えなかった。
一度そう考え始めてしまえば、彼らの中では2501号室へ侵入しようとしている行為そのものの意味まで変わっていく。
食料を奪うためではない。
神崎蓮が何を隠しているのかを確認するためであり、自分たちがなぜこんな状況に追い込まれたのかを確かめるため。そして、もし本当に寒波を事前に知っていたのなら、その理由を本人の口から説明させるため。
誰も口にはしなかったが、そう考えることで、これまで自分たちがしてきたことまで正当化できるようになっていた。
◇
二十五階へ上がり、さらにその先へ続く管理用通路へ向かっていた時だった。
突然、廊下の照明が一斉に消えた。
「うわっ!」
「何だ!?」
「停電か?」
一瞬にして周囲が暗闇へ沈み、何人かの住民から驚いた声が上がったものの、大きな混乱にはならなかった。
誰かがスマートフォンを取り出して時刻を確認すると、「ああ……もうこんな時間か」と小さく息を吐く。
それを聞いた周囲の住民たちも、すぐに事情を理解した。
「電力制限か」
「そうか、今日もこの時間からだったな」
「しばらく停電だな」
寒波が始まって四十五日。
すでに電力供給の制限は珍しいことではなくなっていた。電気を使える時間と使えない時間があり、状況によっては予定より早く供給が止まる日もある。
最初の頃なら照明が消えるたびに住民グループが騒ぎになり、冷蔵庫は大丈夫なのか、暖房はどうする、いつ復旧する、管理会社へ連絡しろと声が飛び交ったものだが、今では電気が使えない時間があること自体が日常の一部になっている。
「こんな時に面倒だな」
柴田が舌打ちすると、暗闇の中から三浦の声が返ってきた。
「仕方ねえだろ」
「誰かライト持ってこい。懐中電灯でもランタンでも何でもいい。スマホだけじゃ暗すぎる」
柴田が声を張ると、すぐに何人かの住民が動いた。
「うちにあります」
「俺も取ってくる」
「うちにも非常用のランタンがある」
数分後、懐中電灯や電池式のランタンが集められ、何台ものスマートフォンと合わせて、暗い廊下にいくつもの白い光が浮かび上がった。
柴田は大型ハンマーを持ち直すと、短く「行くぞ」と言い、再び上へ向かって歩き始める。
もう誰も帰ろうとはしなかった。
◇
管理用通路の終点には、屋上設備の点検区画へ続く扉があった。
元管理人が懐中電灯を向けながら説明する。
「この扉の先までは共用管理区画です。ただ、屋上の一部は2501号室の専有区画になっています。そこから先は、本来なら神崎さん以外は入れません」
その説明を聞いていた住民の一人が、ふと眉をひそめた。
「あれ? でも待ってください」
周囲の視線が集まる。
男は扉の向こうを指した。
「そもそも屋上なんて、雪で埋まってるんじゃないですか?」
その一言に、何人かが「あ……」と小さく声を漏らした。
街にはすでに数メートルを超える雪が積もっている。
屋上だけが無事だと考える方がおかしい。扉の外に大量の雪が積もっていれば、そもそも開けることすらできないかもしれない。
「確かに……」
「ここまで来ても、出られないんじゃ意味ないぞ」
だが、少し後ろにいた元管理人だけが、曖昧な表情を浮かべた。
「……それは、多分大丈夫です」
柴田が振り返る。
「あぁ?」
「どういうことだよ」
元管理人はすぐには答えなかった。
扉を見ながら、何かを思い出すように少し考える。
「開ければ分かると思います」
柴田は訝しげに男を見たが、それ以上は聞かなかった。
そのまま三浦へ視線を戻す。
「開くか?」
三浦は扉へライトを向け、錠前を確認した。
2501号室の玄関とは違い、こちらは一般的な管理用の錠だった。工具ケースを開いて数分ほど作業すると、小さな金属音とともに錠が外れる。
「これなら問題ねえ。開いたぞ」
三浦が扉を引いた瞬間、マイナス三十度近い冷気が強風とともに通路へ吹き込み、入口付近にいた住民たちが思わず顔を背けた。
だが。
扉が完全に開いたところで、先頭に立っていた柴田の動きが止まった。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
屋上は暗い。
マンションそのものが電力制限に入っているため、共用設備の照明も落ちており、周囲の建物や道路も以前とは比べものにならないほど暗い。街全体が雪と闇に沈み、ところどころに非常灯や自家発電と思われる僅かな光が残っているだけだった。
そんな暗闇の中、屋上の奥だけが明るかった。
数十メートル先に巨大な構造物があり、その上部を覆う透明な屋根から白い光が漏れ、まるで暗闇の中に巨大な灯籠でも置かれているかのように、その輪郭だけがはっきりと浮かび上がっている。
「……待てよ」
一人の住民が後ろを振り返った。
「今、停電してるんだよな?」
誰もすぐには答えなかった。
やがて住民代表が、ゆっくりと頷く。
「……ああ」
「じゃあ、何であそこだけ電気が点いてるんだ?」
その疑問に答えられる者はいなかった。
だが柴田は、光そのものよりも別のものを見ていた。
「おい」
足元へ懐中電灯を向ける。
「何で歩けるんだ?」
その一言で、ようやく全員が気づいた。
寒波が始まってから四十五日。
屋上の周囲には、もはや人の背丈を遥かに超える雪が積み重なっている。風で吹き飛ばされた場所や吹き溜まりによって差はあるものの、場所によっては数メートルを超える巨大な雪の壁が形成され、屋上本来の景色などほとんど見えなくなっていた。
それなのに、屋上扉の前から奥の光へ向かって、一本だけ雪のない道が伸びていた。
幅は数メートルほど。
床面には雪がほとんどなく、今も細かな雪が降り続けているにもかかわらず、地面へ落ちた雪はすぐに水へ変わり、側面に設けられた排水溝へ流れ込んでいく。
その左右には、人間の身長を遥かに超える雪の壁がそびえていた。
「……融雪か?」
誰かが呟いた。
その時だった。
住民たちの後ろにいた元管理人が、静かに声を上げた。
「これです……」
「何がです?」
住民代表が振り返る。
元管理人は懐中電灯で、雪の中を真っ直ぐ伸びる通路を照らした。
「寒波が来る前、屋上工事の申請が出てたんです。2501号室からだけじゃなく、屋上側からも専有区画へ出入りできるようにしておきたいって」
「屋上から?」
「はい。それで、積雪時でも通路を確保できるように融雪設備を設置するって話でした。もちろん費用は全部自分で負担するって」
何人かの住民が顔を見合わせた。
「……寒波の前に?」
低い声が聞こえた。
元管理人が頷く。
「はい」
その瞬間、誰かが巨大な雪の壁を見上げた。
六メートルを超える雪。
その中を、まるで最初からこうなることを想定していたかのように、一本の道だけが奥まで伸びている。
「普通……」
一人の男が呟く。
「こんなの付けるか?」
誰も答えなかった。
だが、胸の中に生まれた疑問は、全員ほとんど同じだった。
神崎蓮は、本当に寒波が来ることを知っていたのではないか。
◇
「行くぞ」
柴田が融雪された通路へ足を踏み出した。
左右には巨大な雪の壁。
頭上からは細かな雪が降り続けている。
その奥では、謎の構造物が明るく光っていた。
一人、また一人と住民たちが後に続き、暗闇の中を光へ向かって歩いていく。
そして数十メートル進み、2501号室の専有区画へ入ったところで、再び何人もの足が止まった。
今度は通路だけではなかった。
「……嘘だろ」
専有区画全体に、雪がない。
周囲には六メートルを超える雪が積み上がっているというのに、巨大なシェルターを囲む一帯だけは完全に除雪されており、今も降り落ちてくる雪が床へ触れるたびにゆっくりと融け、そのまま排水設備へ流れ込んでいた。
その中央に、巨大な構造物が建っている。
鉄骨で組まれた骨格。
分厚い外壁。
そして屋根のほぼ全面を覆う、何層にも重ねられた透明なパネル。
内部から漏れる照明によって、その巨大な姿が暗い屋上の中にはっきりと浮かび上がっていた。
屋上に後から作った小屋などという規模ではない。
ほとんど、もう一つの建物だった。
「工事してたのは知ってたけど……」
住民の一人が呆然と見上げる。
「こんなの聞いてないぞ」
一ノ瀬も何も言えなかった。
写真で見た暖炉。
ステーキ。
果物。
酒。
それだけでも十分異常だと思っていた。
だが、目の前にあるものは明らかに次元が違う。
◇
2501号室。
蓮は監視室のモニターに映る屋上の様子を静かに眺めていた。
電力制限へ切り替わった瞬間、室内の照明はほんの僅かに揺れただけで、すぐに独立した蓄電設備へ切り替わった。
照明も、冷蔵庫も、暖房も、監視設備も何一つ止まっていない。
モニターの一つには、融雪された通路を進み、シェルターへ近づいていく柴田たちの姿が映っている。
「……そこを使ったか」
寒波が来る前、2501号室からだけでなく、屋上側からもシェルターへ出入りできるよう第二の経路を用意した。
数メートルもの雪が積もれば、ただ通路を作っただけでは何の意味もない。だから屋上扉から専有区画までの経路に融雪設備を設置し、さらに自分の専有区画内については、シェルター周囲を含めて常時使用できるようにしておいた。
もちろん、最初から自分が使うためだった。
他の住民のために用意したものではない。
だが今、その道を柴田たちが堂々とこちらへ向かって歩いている。
蓮はしばらく画面を眺めたあと、コーヒーを一口飲んだ。
「ちっ、それが仇になったな」
もっとも、それで困るわけでもない。
モニターの中では、柴田たちがようやくシェルターの前へ到着しようとしていた。
蓮は僅かに口元を上げる。
「まあ、これはこれで面白い」
◇
シェルターへ近づいた三浦は、真っ先に入口を見つけた。
そして、動きを止めた。
「……おい」
柴田が振り返る。
「何だ」
「これ」
三浦が懐中電灯を向けた先に、巨大な扉があった。
その形を見た瞬間、柴田の顔から僅かに表情が消える。
そこにいた住民たちも、その先にあったものを見て、全員の足を止めた。
「……なんだ、これ」
柴田が呟く。
そこにあったのは、普通の屋上設備にはどう考えても似つかわしくない巨大な金属扉だった。
分厚い鋼鉄。
幾重にも重なったような構造。
中央には巨大なハンドルがあり、その周囲には複数のロック機構らしきものまで見える。
柴田が扉へ近づく。
「これ開けりゃ中に入れるんだろ?」
「待て」
三浦が止めた。
扉の前まで進み、表面や蝶番、ロック部分を順番に確認していくうちに、その表情が少しずつ変わっていく。
「……おい」
「なんだよ」
三浦は扉から目を離さないまま言った。
「これ、金庫とかで使う扉と同じ類いだぞ」
「金庫?」
「銀行の金庫室とか、そういう場所に付いてるやつだ」
住民たちが黙った。
柴田も改めて目の前の扉を見る。
確かに、マンションの屋上にある扉には見えない。
どう考えても、何かを守るための扉だった。
柴田が聞く。
「開けられねえのか?」
三浦はしばらく扉を調べたあと、首を振った。
「無理だな」
「やってみなきゃ分からねえだろ」
「見りゃ分かる」
三浦は金庫扉を軽く叩いた。
ゴン。
鈍く、重い音が返ってくる。
「こんなの、その辺の工具でどうにかする扉じゃねえ。外で何時間も粘って体温削るくらいなら、他を探した方がいい」
柴田は不機嫌そうに扉を睨んだ。
ここまで来た。
目の前には明らかに何かがある。
それなのに、また入れない。
「……クソが」
柴田は扉から視線を外した。
なら、別の場所だ。
◇
柴田たちはシェルターの周囲へ散った。
そこで改めて、その異常さが見えてきた。
外壁は分厚く、継ぎ目も少ない。三浦が懐中電灯を向けながら床との接合部や角を確認し、何度か拳で叩く。
ゴン。
鈍く、重い音だった。
「……これも相当やってるぞ」
「またかよ」
柴田の声に苛立ちが混じる。
「今度は何だ」
「見えるところだけじゃねえ。壁の中まで補強してるな。普通の外壁じゃない」
柴田は大型ハンマーを肩から下ろした。
「試せば分かる」
三浦が止めるより早く、大きく振りかぶる。
ガァンッ!!
重い衝撃音が暗い屋上へ響き渡った。
ライトが一斉に壁へ集まる。
だが、表面に僅かな傷が残っただけだった。
三浦は作業へ加わるのをやめ、懐中電灯でシェルター全体を照らしながら、別の侵入口がないか探していた。
その時。
「……おい」
三浦の声に、柴田が振り返る。
「何だよ」
三浦がライトを向けた先には、外壁に沿って上へ伸びる一本の固定ハシゴがあった。
「上、見てみるぞ」
「何かあるのか?」
「分からねえ。けど、屋根まで上がれるようにはなってる」
柴田がシェルターを見上げる。
地上からでも屋根全体が透明な構造になっていることは分かる。内部の照明が透け、暗闇の中でシェルターそのものがぼんやりと光っていた。
だが、この位置からでは中に何があるのかまでは見えない。
「行くぞ」
三浦が先にハシゴへ手を掛けた。
金属部分にも雪はほとんど付着していなかった。シェルター周辺と同じように凍結防止が施されているらしい。
一段、また一段と、三浦は慎重に登っていく。
厚い防寒着では動きづらく、冷たい風も容赦なく身体を揺らす。やがて屋根付近に設けられた狭い点検足場へ身体を移したところで、三浦の動きが止まった。
「……何だ、これ」
下から柴田が声を上げる。
「何が見える?」
三浦は答えなかった。
ただ、透明な屋根の向こうを見下ろしている。
「おい、三浦」
「……自分で見た方がいい」
その言葉を聞き、柴田もハシゴへ手を掛けた。
続いて柴田の仲間、一ノ瀬、そして何人かの住民たちまで上へ登り始める。全員が登れるほど足場は広くないため、下に残った者たちは上から聞こえてくる声を待った。
屋根付近まで上がった者たちは、そこで初めてシェルター内部の全貌を目にした。
◇
巨大な透明屋根。
遠くから見た時には、内部の照明が漏れていることしか分からなかった。
だが、近くまで来れば違う。
何層にも重ねられた分厚い透明パネルの向こうには太陽光パネル、そして更にその先には巨大な設備群が並んでいる。
最初に目についたのは、巨大なタンクだった。
「……何だ、あれ」
住民の一人が目を凝らす。
別の住民が答える。
「貯水タンクじゃないか?」
「こんな大きいのか?」
「そもそも、こんな寒さで凍らないのか?」
その言葉で、別の男が気づいた。
「……凍ってない」
透明パネルの内側には霜がない。
巨大なタンクから伸びる配管にも、凍結している様子はなかった。
設備そのものが、寒波以前と変わらない状態で稼働している。
「ここ……」
男は透明な屋根の向こうを見つめた。
「シェルターの中ごと温度管理してるんじゃないか?」
「じゃあ、あの水も?」
「凍ってないってことだろ……」
視線がさらに奥へ向かう。
今度は機械類。
「発電機」
誰かが呟いた。
「……あれ、発電機だよな?」
「こっちは?」
「蓄電池じゃないか?」
さらに、その上。
透明な屋根の内側には、外部から守られるように大量の太陽光パネルが整然と並べられていた。
外側の透明パネル越しに太陽光を受け、発電した電力は巨大な蓄電設備へ送られる。その周囲には制御盤や配線が並び、小さなランプが今も点灯している。
ようやく、最初の疑問の答えが出た。
「……だからか」
一人の男が呟いた。
「何が?」
「ここだけ明るかった理由だよ」
男は、暗闇に沈んだマンションの方を振り返った。
「俺たちの電気が止まっても、こいつには関係ないんだ」
誰も言葉を返せなかった。
「停電しても……」
「電気がある」
別の住民の視線が巨大なタンクへ向く。
「水道が止まっても」
「水もある……」
さらに、足元。
今も雪を融かし続けている床。
「雪が積もっても」
「融雪できる」
一つ一つ、今までの疑問が繋がっていく。
◇
今まで住民たちが見ていたのは、神崎蓮の食料ばかりだった。
ステーキ。
すき焼き。
海鮮。
果物。
酒。
コーヒー。
自分たちが配給を減らされ、毎日の食事に困っている中、神崎蓮だけが寒波以前と変わらない食事を続けている。
それが羨ましかった。
腹が立った。
だから食料を奪えばいいと思った。
だが、違った。
この男が準備していたのは、食料だけではない。
水。
電気。
暖房。
発電設備。
蓄電設備。
融雪設備。
そして、それら全てを守るための巨大なシェルター。
「……食料なんて」
一人の住民が、力の抜けた声で呟いた。
「ほんの一部だったんだ」
誰も反論できなかった。
◇
「ふざけんなよ……」
住民の一人だった。
怒鳴っているわけではない。
むしろ呆然としていた。
「こんなの……最初から全部準備してたってことじゃないか」
「じゃあ、本当に知ってたんだ」
「寒波が来るって?」
「絶対そうだろ」
別の男が、来た道を振り返った。
雪の壁の間を通る一本の融雪通路。
そして、自分たちの目の前にある巨大なシェルター。
「じゃなきゃ、こんなもの作らないだろ」
声が少しずつ大きくなる。
「俺たちには何も言わずに?」
「自分だけ?」
「こんだけ準備して?」
「何で……」
「何で教えなかったんだよ」
それまで膨らんでいた怒りが、再び住民たちの中で大きくなっていく。
ただ、今回は嫉妬だけではなかった。
そこには、僅かな畏れさえ混じり始めていた。
神崎蓮は、自分たちが想像していた以上に何もかも準備している。
なら、2501号室の中には一体どれだけの物資があるのか。
写真に写っていた食料など、本当にほんの一部なのではないか。
◇
柴田はしばらく黙っていた。
やがて顔を上げる。
視線の先にあるのは、全面を覆う透明な屋根。
「……あれならどうだ」
三浦が嫌な顔をする。
「おい」
「中見えてんだろ」
柴田は大型ハンマーを握り直した。
「壁が駄目なら、上だ」
「待て。これも普通のガラスじゃ――」
「またそれかよ」
もう柴田は聞かなかった。
側面に設けられた点検用の足場へ上がり、透明パネルの一角へ近づく。
足場を確かめ、大型ハンマーを両手で握ると、大きく振りかぶった。
ガァンッ!!
凄まじい音が響き、住民たちが一斉に見上げる。
だが、透明パネルには何も起きなかった。
「……クソ」
もう一度。
ガァンッ!!
さらに三発、四発。
接合部分。
透明パネルの端。
鉄骨との境目。
何ヶ所も試す。
それでもヒビ一つ入らない。
仲間たちも加わった。
「そこだ!」
「端ならいけるんじゃないか?」
「もう一回!」
「もっと叩け!」
最初のうちは、住民たちから声が飛んだ。
だが、五分、十分、十五分と時間だけが過ぎていく。
暗闇の中、大型ハンマーが透明パネルへ叩きつけられる音だけが、何度も屋上へ響いた。
ガァンッ!
ガァンッ!
ガァンッ!
透明パネルの向こうでは照明が点いている。
巨大な貯水タンクがある。
発電機がある。
蓄電設備がある。
太陽光パネルがある。
欲しいものが全部見えている。
それなのに、届かない。
やがて打撃音の間隔が少しずつ長くなり、誰も声を上げなくなった。
◇
最後に三浦が足場へ上がった。
透明パネル、鉄骨、接合部分、周囲の構造を懐中電灯で一つずつ確認する。
誰も何も言わなかった。
そして、しばらくしてから三浦はゆっくり下へ降りてきた。
「……無理だ」
柴田が睨む。
「まだ――」
「違う」
三浦は首を振った。
「玄関より硬い」
シェルターを見る。
「窓より硬い」
そして、小さく息を吐いた。
「ここが一番ヤバい」
柴田は何も言わなかった。
手に持っていた大型ハンマーを地面へ置く。
ゴトン。
その音だけが、暗い屋上へ響いた。
◇
2501号室。
蓮は監視モニターに映る住民たちを静かに眺めていた。
電力制限が始まってから、すでにかなりの時間が経っている。
マンションの共用部分は暗い。
暖房も止まっている。
街の明かりも少ない。
それでも、この部屋は何も変わらない。
照明は点いている。
暖炉も燃えている。
冷蔵庫も監視設備も、何一つ止まっていない。
蓮は屋上の映像へ目を向けた。
暗闇の中に浮かぶ懐中電灯とランタンの光、その周囲に集まった何十人もの住民たち。
そして、その向こうでは自分のシェルターだけが明るく光っている。
「……全部見たか」
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
それ以上、何も言わなかった。
◇
もう誰もハンマーを振り上げなかった。
柴田も、三浦たちも、住民たちも。
自分たちの手元にあるのは、薄暗いランタンと懐中電灯、それにスマートフォンの光だけ。
マンションの照明は消えている。
暖房もしばらくは止まったまま。
水道もいつまで持つか分からない。
それなのに、目の前のシェルターだけは、寒波が来る前と何一つ変わらないように明るく輝いていた。
誰かが何かを言おうとした。
だが、もう言葉は出なかった。
怒鳴っても、罵っても、ハンマーを振り下ろしても何も変わらない。
目の前に欲しいものが全て見えているのに、手が届かない。
その事実だけが、暗闇の中に残った。
雪が静かに降り続ける。
ランタンの光が風に揺れる。
その向こうでは、蓮のシェルターだけが夜の屋上を照らすように、明るく光り続けていた。
全員は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
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Day 45
電力 ▲
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「暗くなって初めて、どこに灯りが残っているのか分かる。」
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