第61話 Day 45 団結
「下、何号室だ?」
柴田の問いに、住民の一人が少し戸惑いながら答えた。
「……2401です」
柴田は大型ハンマーを持ち上げ、そのまま2502号室の玄関へ向かった。だが、後ろにいた住民たちはすぐには動かなかった。
床には砕かれた壁材が大量に散乱し、2501号室との境界には大きな穴が開いている。しかし、その奥には蓮が施工した金属製の補強板があり、結局そこから先へ進むことはできなかった。
玄関は開かなかった。
ベランダからも入れなかった。
隣室の壁まで破壊した。
それでも駄目だった。
ここまで来ると、住民の中にもさすがに戸惑う者が出始めていた。
「……まだやるんですか?」
一人の男が呟くように聞いた。
柴田が振り返る。
「ここまでやって帰るのか?」
「いや、でも……」
男は壊された2502号室を見た。
少し前までリビングだった場所は、今では工事現場のようになっている。壁には大穴が開き、床は粉塵と破片に覆われ、部屋の持ち主である夫婦はもう何も言わず、離れた場所から自分たちの家が壊されていく様子を見ているだけだった。
「神崎さんの部屋に入るために、関係ない人の家まで壊してるじゃないですか」
柴田は眉を寄せた。
「だから何だよ」
あまりにも当然のように返され、男は言葉を失った。
柴田にとっては、もうそれだけだった。
2501号室には食料がある。
自分たちはそれが欲しい。
ならば入る。
そのために何枚の扉を壊そうが、何軒の部屋を通ろうが関係ない。
柴田は大型ハンマーを肩に担ぎ直した。
「下行くぞ」
今度は誰も何も言わなかった。
◇
二十四階。
2401号室の前へ十数人の住民が集まった。
ピンポーン。
柴田がインターホンを鳴らすと、しばらくして中から男の声が返ってきた。
『……はい』
「開けろ」
『誰ですか?』
「上の2501に入る。お前んところの天井使わせろ」
数秒、室内から返事がなくなった。
やがて。
『……何を言ってるんですか?』
「聞こえなかったか? 2501の下がお前の部屋なんだろ。天井から入る」
今度は意味を理解したらしい。
男の声が一気に大きくなった。
『ふざけないでください! 上で何してるのか知ってますよ! 2502の壁まで壊したんでしょう!?』
住民たちが顔を見合わせた。
すでに噂はマンション中へ広がっている。
『絶対に開けません! うちは関係ないでしょう!』
通話が切れた。
柴田はしばらくインターホンを見つめたあと、隣に立っていた三浦直人を見る。
「開けられるか?」
三浦は2401号室の扉を確認した。
2501号室とは違う。
どこにでもある普通の玄関扉と、一般的な防犯錠だった。
「開けられる」
その言葉が室内まで聞こえたのか、すぐにインターホンから声がした。
『待ってください! 本当にやめてください!』
柴田は笑った。
「だったら開けろよ」
『警察に通報しますから!』
「呼べば?」
『……』
「俺も話したいから、早く呼んでくれよ」
返事はなかった。
三浦が工具ケースを床へ置いた、その瞬間。
カチャ。
玄関の鍵が開いた。
僅かに開いた扉の隙間から、四十代ほどの男が青ざめた顔を覗かせた。
「……壊さないでください」
◇
2401号室には、夫婦と中学生の娘が暮らしていた。
十数人の人間が次々と家へ入ってくると、三人はリビングの隅へ追いやられるように立った。娘は母親の背後に隠れ、怯えた目で大型ハンマーや電動工具を持つ男たちを見ている。
父親は、それでも何とか前へ出た。
「天井を壊すのだけはやめてください。上の人と何があったのか知りませんけど、うちには関係ないでしょう」
三浦は天井を見上げた。
「まあ、壁みたいにはいかねえぞ」
柴田が聞く。
「何でだよ」
「マンションの上下階を隔ててるのは鉄筋コンクリートの床だ。天井板剥がしたくらいじゃ上には行けねえ」
「だったらコンクリートも壊せばいい」
三浦は呆れたように柴田を見た。
「簡単に言うなよ」
「できるのか、できねえのか」
三浦は少し考えたあと、天井へ視線を戻した。
「時間掛けりゃ削れる」
それだけ聞けば十分だった。
柴田は仲間へ顎をしゃくる。
「道具持ってこい」
「待ってください!」
父親が再び前へ出た。
「さっきから何度言えば分かるんですか! ここはうちの家なんですよ! 神崎の食料が欲しいからって、どうしてうちの天井まで壊されなきゃいけないんですか!」
その言葉に、何人かの住民が視線を逸らした。
完全な正論だった。
それまで柴田たちのやり方に疑問を持っていた住民たちも、ここまで来れば、さすがに無関係な家を壊しているだけだと分かる。
だが、誰も帰ろうとはしなかった。
すぐ上には2501号室がある。
暖炉。
ステーキ。
海鮮。
酒。
大量の物資。
それを一度知ってしまった人間たちは、もう簡単には引き返せなかった。
柴田は父親を見ると、面倒そうに言った。
「悪いな」
父親の表情が一瞬だけ緩む。
だが。
「ちょっと退いてろ」
「……は?」
柴田はそれだけ言って、脚立を立てた。
◇
天井材そのものを剥がすのに、それほど時間は掛からなかった。
問題は、その奥だった。
灰色のコンクリートが露出すると、三浦の言った通り、そこから先は一気に作業が遅くなった。
持ち込んだ電動工具が唸りを上げる。
ガガガガガガッ――!
耳を塞ぎたくなるような音が室内へ響き、白い粉塵が舞い上がった。
2401号室の家族は耐えられず別室へ避難し、何人かの住民も廊下へ出たが、柴田たちは作業を止めない。
十分、二十分、三十分と交代しながら削り続けるうちに、少しずつコンクリートが砕け、やがて内部の鉄筋が露出した。
「鉄筋出たぞ」
作業していた男が工具を止めた。
三浦が脚立へ上がり、穴の中へライトを向ける。
「当たり前だ。鉄筋コンクリートなんだから」
「これ切れば上か?」
「まだだ」
三浦はさらに奥を照らした。
そして、動きが止まった。
「……何だ、これ」
柴田が下から見上げる。
「どうした?」
三浦は答えず、ライトの角度を変えた。
コンクリート。
鉄筋。
そのさらに向こう。
僅かに露出した場所から、建物本来の構造とは明らかに違うものが見えていた。
金属。
三浦はしばらくそれを見つめたあと、ゆっくり脚立から降りた。
「……また補強してある」
「は?」
「2501側だ。床まで金属で補強してやがる」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
◇
「床まで?」
住民の一人が聞き返した。
三浦は頷いた。
「玄関だけじゃねえ。窓も、隣との壁も、今度は床までだ」
「……そんなことある?」
女性が呟いた。
誰も答えない。
別の男が言った。
「普通、そこまでするか?」
また沈黙が落ちた。
玄関だけなら、防犯意識が高かったと説明できた。
窓まで特殊なガラスにしていたのも、金持ちの道楽だと思えなくはない。
だが、隣室との壁まで補強していた。
さらに、床まで。
それも寒波が始まる前から。
誰かの表情が変わった。
「……待てよ」
全員がその男を見る。
男は2501号室のある天井を見上げていた。
「これ……寒波が来る前にやったんだよな?」
一人の住民が答える。
「そうですよ。神崎さん、大規模な改装してましたから」
「いつ?」
「寒波の……一ヶ月くらい前」
男の顔が強張った。
「一ヶ月前?」
その言葉を聞いた瞬間、何人かが同時に同じことへ気づいた。
「……まさか」
女性住民が呟く。
「知ってたんじゃないの?」
静かになった。
「神崎さん……この寒波が来ること」
◇
その一言は、一度出てしまえばもう止まらなかった。
「そうじゃなきゃおかしいでしょ!」
別の女性が言った。
「玄関だけじゃないんですよ? 窓も、壁も、床も全部ですよ?」
「食料もある」
「暖炉もある」
「水だって一度も取りに来てない」
「それ以外の物資だって」
誰かが続ける。
「写真見たでしょう。寒波が始まって一ヶ月以上経ってるのに、毎日違うもの食べてる」
「ステーキ」
「すき焼き」
「海鮮」
「酒まで何種類もあった」
そして、一人の男がゆっくりと言った。
「じゃあ……食料も最初から準備してたってことか?」
空気がさらに変わった。
今まで住民たちは、蓮が大量の食料を持っていることを妬んでいた。
だが、意味が違ってきた。
ただの備蓄ではない。
寒波を知っていて、そのために用意した物資。
そう考えれば、写真に写っていたものなど、ほんの一部なのではないか。
「……どれだけあるんだよ」
誰かが呟いた。
「一ヶ月以上毎日あんなもの食って、それでも『当分困らない』って言ってるんだろ?」
「じゃあ、まだ相当あるってこと?」
「相当どころじゃないんじゃない?」
「一ヶ月分?」
「二ヶ月とか?」
「もっとあるかもしれない」
根拠など、もう必要なかった。
疑念が次の疑念を生み、それがいつの間にか事実へ変わっていく。
◇
「ふざけないでよ!」
突然、女性の声が響いた。
全員が振り返る。
そこにいたのは、以前から蓮に強い不満を持っていた住民だった。
「知ってたなら、なんで教えてくれなかったの!?」
誰も答えられない。
当然、蓮が本当に知っていたという証拠などない。
だが、もうそういう話ではなくなっていた。
「こんなことになるって分かってたんでしょう!?」
女性は天井を指差す。
「だから自分だけ部屋を要塞みたいにして! 食料買い込んで! 暖炉まで作って!」
別の男も声を上げた。
「俺たちには何も言わずに?」
「自分だけ助かるつもりだったってこと?」
「頭おかしいんじゃないの!?」
「自分勝手ってレベルじゃないでしょう!」
一気に声が増えた。
「一言言ってくれれば、うちだって備蓄できた!」
「俺だって会社休んで準備したよ!」
「子供いるんですよ!」
「知ってて黙ってたなら、今こうなってるのあいつのせいじゃないですか!」
そこまで言うのは、明らかに飛躍している。
寒波を起こしたのは蓮ではない。
誰かに食料を用意する義務もない。
だが、集団の怒りにそんな理屈はもう通用しなかった。
「うちの母親、食べるものなくて毎日ほとんどお粥だけなんですよ!」
「こっちは子供が腹減ったって泣いてる!」
「それを知ってて、自分はステーキ食ってたの?」
「しかも暖炉の前で酒飲んで?」
「ふざけんなよ!」
誰かが壁を蹴った。
ドンッ!
その音をきっかけに、空気が完全に変わった。
◇
それまで最後まで反対していた男がいた。
2502号室の壁を壊す時も、「やり過ぎだ」と言っていた男だった。
その男が今は、2501号室のある天井を睨んでいる。
「……開けよう」
隣にいた住民が見る。
「え?」
男はもう一度言った。
「絶対に開けた方がいい」
さっきまでとは、目が違っていた。
「もし本当に寒波を知ってたなら、あの部屋には俺たちが思ってるよりずっと多くの物資がある」
「……」
「食料だけじゃない」
男は指を折る。
「水、薬、燃料、日用品、防寒用品。全部用意してるかもしれない」
その言葉に、誰かが続いた。
「そうだよ」
さらに一人。
「絶対そうだ」
また一人。
「写真に写ってたのなんて、ほんの一部なんじゃない?」
それまで後ろで見ていただけだった住民たちが、少しずつ前へ出始める。
「ここまでやってる人間が、食料だけ少ししか準備してないわけない」
「皆に分けても余るくらいあるんじゃない?」
「だったら出させるべきでしょう」
そして、ついに誰かが言った。
「もう神崎さん個人の物って話じゃないでしょう」
誰もその言葉を否定しなかった。
◇
住民代表も黙っていた。
本来なら止めなければならない。
だが、もし本当に2501号室に大量の食料があるなら。
共同備蓄はもう底が見えている。
次の救援物資が来る保証もない。
住民代表自身の家族も腹を空かせている。
「……確認は」
代表が口を開いた。
皆が見る。
「必要だと思います」
それだけで十分だった。
誰かが頷く。
「そうですよ」
「一回中を確認すれば全部分かる」
「神崎さんが何も隠してないなら見せればいいだけでしょう」
「見せないから怪しいんだよ」
「絶対開けよう」
「ここまで来て帰れるわけない」
さっきまで柴田たちが勝手にやっていた。
住民たちは、それを見ていただけだった。
だが今は違う。
柴田たち。
住民代表。
そして、普通の住民たち。
少しずつ、目的が一つになり始めていた。
2501号室を開ける。
理由も、いつの間にか変わっていた。
食料を奪うためではない。
隠されている物資を確認するため。
皆を救うため。
そして、自分たちに何も知らせなかった神崎蓮に責任を取らせるため。
◇
その様子を、一ノ瀬美咲は少し離れた場所から見ていた。
さっきまで神崎蓮に腹を立てていたのは自分だった。
今は、マンション中の人間が怒っている。
一ノ瀬は2501号室のある天井を見る。
「……自業自得」
小さく呟いた。
そして、柴田が三浦へ聞いた。
「ここも時間かけても無理か?」
三浦は穴を見上げた。
「ああ。他の方法を考えた方がいい」
柴田は少し考える。
玄関。
駄目。
ベランダ。
駄目。
隣。
駄目。
下。
今ここ。
それでも、まだ一方向だけ残っている。
その時、一ノ瀬が言った。
「上は?」
柴田が振り返る。
「……上?」
一ノ瀬は指を上へ向けた。
「屋上」
一瞬、全員が黙った。
そして、住民代表と一緒にいた元管理人が顔を上げた。
「……屋上なら」
柴田が見る。
「行けるのか?」
「管理用の通路があります。普段は施錠されていますが……」
その瞬間、何人もの視線が三浦へ向いた。
三浦は嫌そうな顔をする。
「鍵見なきゃ分からねえよ」
柴田が笑った。
「見るだけ見ようぜ」
今度は住民たちは止めなかった。
むしろ、誰かが先に廊下へ出た。
「行きましょう」
別の住民も続く。
「絶対に開ける」
さらに。
「中を確認しないと納得できない」
もう柴田たちだけではなかった。
さっきまで侵入を止めようとしていた人間まで、同じ方向へ歩き始めていた。
◇
2501号室。
蓮はソファに座り、監視カメラの映像を眺めていた。
二十四階から、人が次々と廊下へ出てくる。
一人。
二人。
五人。
十人。
その数は、最初に降りていった時より明らかに増えていた。
住民グループも凄まじい勢いで流れている。
『神崎さんは寒波を事前に知っていたんじゃないですか?』
『説明してください』
『なぜ教えてくれなかったんですか?』
『あれだけの改装、偶然とは思えません』
『食料は本当はどれくらいあるんですか?』
『住民全員に説明する責任があると思います』
蓮はそれらを読みながら、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
やがて、一つの投稿で指が止まる。
『神崎が事前に教えてくれていれば、こんなことにはならなかった』
「……」
蓮は数秒、その文章を見つめた。
そして、小さく笑った。
「ついに俺のせいになったか」
寒波が来たのも。
食料がなくなったのも。
救援が来なくなったのも。
自分たちが他人の部屋を襲い始めたのも。
全部、神崎蓮が教えなかったから。
「便利だな」
蓮はスマートフォンをテーブルへ置いた。
「敵が一人いれば、全部そいつのせいにできる」
そして、監視カメラへ視線を戻す。
人の流れは上へ向かっていた。
二十五階。
さらに、その先。
蓮はゆっくりと天井を見上げた。
「次は屋上か」
玄関も、窓も、壁も、床も駄目だった。
だから最後に残った場所へ来る。
だが、屋上には住民たちがまだ知らないものがある。
蓮はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
「来いよ」
僅かに口元を上げる。
「そこ見たら、もっと俺を殺したくなるぞ」
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Day 45
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
降雪 弱
【今日のメモ】
「人は、自分の不幸に犯人を見つけた瞬間、一番団結する。」
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