第60話 Day45 コンクリートの先
「ここ抜けばいいだろ」
柴田がそう言って大型ハンマーを両手で握った瞬間、2502号室の夫が慌てて前へ出た。
「待ってください!」
柴田は振り返ろうともせず、目の前の壁を見たまま答える。
「何だよ」
「何だよじゃないでしょう! そこはうちの壁なんですよ!」
「知ってる」
「だったらやめてください!」
夫の声が思わず大きくなった。
ついさっきまで、2501号室へ回り込むためにベランダを使わせてほしいと言われ、それすら半ば脅されるような形で了承したばかりだった。自分たちだって神崎の部屋に大量の食料があることは知っているし、住民たちがそこへ入りたがっていることも分かっている。
だから、ベランダくらいならと我慢した。
だが今度は、自宅そのものを壊すと言っているのだから、夫にとってはまったく別の話だった。
柴田がようやく振り返る。
「神崎の部屋に入れてねえだろ」
夫は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
柴田にとって、2502号室の壁が誰の所有物なのかなど、もはや問題ではない。目の前に壁があり、その向こうが2501号室なら、そこを壊せばいい。
ただ、それだけのことだった。
夫の後ろにいた妻も、とうとう我慢できなくなったのか声を上げた。
「もう出ていってください!」
柴田の仲間たちが一斉に振り返る。
妻の顔には明らかな怯えがあった。柴田たちがどういう人間なのかは、ここへ来てからの振る舞いを見れば分かる。それでも、自分たちの家が目の前で壊されようとしているのを黙って見ていることはできなかった。
「ベランダだって貸したでしょう! これ以上うちを壊さないでください!」
その言葉を聞いた住民たちの間にも、僅かなざわめきが起こった。
確かに、これはさすがにやり過ぎではないか。
そんな空気が一瞬だけ流れたものの、誰も夫婦の横へ並ぼうとはしなかった。
一ノ瀬が見せた写真を、全員が覚えている。そしてつい先ほど、ベランダのガラス越しにも実際に見た。
暖炉のある暖かな部屋に、果物や菓子、厚切りのステーキ。
自分たちが一日の配給量を気にしながら腹を空かせているそのすぐ隣で、まるで別の世界のような生活が続いている。
その事実が、住民たちの中に残っていた良識を少しずつ鈍らせていた。
◇
「代表さん!」
夫は助けを求めるように住民代表へ視線を向けた。
「止めてくださいよ!」
名前を呼ばれた代表は、明らかに困った表情を浮かべる。
「それは……」
「それは何ですか!」
「……少し確認するだけなら」
その言葉を聞いた夫の顔が歪んだ。
「壁を壊すことのどこが確認なんですか!」
代表は何も返せなかった。
自分でも分かっている。
これは確認などではない。2501号室へ入るために、他人の家の壁を壊そうとしているだけだ。
夫は代表から視線を外すと、今度は部屋の中に集まっている住民たちを見回した。
「皆さんも何とか言ってください!」
誰も答えなかった。
数人は露骨に目を逸らし、別の者は2501号室側の壁を見つめたまま、聞こえていないふりをしている。
その沈黙を見た夫の表情が、さらに深く歪んだ。
「……何なんだよ」
吐き捨てるような小さな声だった。
「さっきまで神崎さんのことを勝手だって言ってたじゃないか。自分の物を出さないのはおかしいって、皆で言ってたじゃないか」
誰かが俯いた。
それでも誰も何も言わない。
夫は自分の家の壁へ視線を向けたあと、もう一度住民たちを見る。
「今度はうちの壁を壊すのか?」
返ってきたのは、沈黙だけだった。
夫はそれを見て、小さく笑った。
乾いた、力のない笑いだった。
「結局、同じじゃないか」
その言葉だけが室内に残った。
◇
柴田は、それ以上待つつもりはなかった。
「退け」
「嫌です」
夫は2501号室側の壁の前へ立った。
「壊させません」
柴田が眉を寄せる。
「どけ」
「嫌だ」
夫は一歩も引かなかった。
一瞬、部屋の空気が張り詰める。周囲にいる住民たちも息を潜め、誰も次に何が起きるのか分からないまま二人を見ていた。
次の瞬間、柴田は夫の胸ぐらを掴んだ。
「っ!」
夫が抵抗するより早く、その身体を乱暴に横へ突き飛ばす。
「あなた!」
妻が悲鳴に近い声を上げた。
夫は勢いのままソファへぶつかり、バランスを崩して床へ倒れ込んだ。
「何するんだ!」
起き上がろうとする夫に、柴田は冷たい視線を向ける。
「次邪魔したら、もっと痛いぞ」
「……」
妻が慌てて夫の前へ出た。
「警察に言いますから!」
その言葉を聞いた柴田が、思わず笑った。
「呼べよ」
「……え?」
「今すぐ呼べ」
妻は口を開いたまま動けなくなった。
柴田は大型ハンマーを肩へ担ぎ、何でもないことのように付け加える。
「来るならな」
その一言で、妻だけでなく周囲の住民まで何も言えなくなった。
以前なら、警察を呼ぶという言葉には意味があった。誰かが暴れれば通報し、家へ押し入れば逮捕され、他人の財産を壊せば罰せられる。
そんな当たり前の仕組みが確かにあった。
だが今、その言葉には柴田を止める力がなかった。
◇
三浦は2501号室側の壁の前へ立つと、柴田へ声を掛けた。
「一応見せろ」
「何が」
「叩く前に構造見る」
柴田は少し面倒そうな顔をしたが、何も言わず一歩下がった。
三浦は壁へ手を当て、拳で軽く叩く。
コン。
少し位置を変える。
コン。
さらに別の場所。
コン。
返ってくる音を聞きながら、壁の厚さや内部の構造を想像していく。
「戸境壁だな」
柴田が聞く。
「何だそれ」
「部屋と部屋の間の壁。普通の部屋の中にある間仕切りとは違う。防音や耐火のために、かなり厚く作られてる」
三浦は壁を見ながら続けた。
「このクラスのマンションなら、コンクリート系だろうな。そんな簡単に穴は開かねえぞ」
柴田が鼻で笑った。
「またそれかよ」
「事実だ」
「でも玄関よりはマシなんだろ?」
三浦はすぐには答えず、壁全体を見ながら少し考えた。
「時間掛ければ、まあ」
その一言だけで、柴田の顔に笑みが戻った。
「なら十分だ」
床から起き上がった夫が叫ぶ。
「やめろ!」
柴田は聞かなかった。
大型ハンマーを持ち直し、すぐに振りかぶろうとする。
三浦が慌てて腕を上げた。
「待て。いきなりそこ叩くな。中に配線とか配管が通ってる可能性ある」
「じゃあどこだ」
「まず位置見る」
三浦は壁沿いに視線を動かし、コンセントやスイッチの位置、床と天井の取り合いまで確認していった。それから比較的何も通っていなさそうな場所を選び、指で示す。
「やるならここだ」
2502号室の夫が、その光景を信じられないものを見るように眺めていた。
「お前も……」
三浦は一瞬だけ夫を見たが、すぐに視線を逸らした。
もう今さらだった。
これまで何軒もの他人の家へ入り、鍵を開け、扉を壊すことにも手を貸してきた。今になって壁一枚を前に、突然正義を思い出す理由などなかった。
◇
「退け」
柴田が大型ハンマーを構えると、周囲にいた住民たちは今度こそ少し大きく距離を取った。
2502号室の夫婦だけが、自分たちの家でありながら逃げることもできず、呆然と立ち尽くしている。
そして。
ドゴォンッ!!
大型ハンマーが壁へ叩き込まれた。
部屋全体へ鈍い衝撃音が響き、壁の表面が一気に砕け、白い粉塵が舞い上がる。
妻が反射的に口元を押さえた。
「やめて……」
だが、柴田は止まらない。
二発目。
ドゴォンッ!!
表面の仕上げ材がさらに崩れ、床へ破片が落ちていく。
三発目。
ドゴォンッ!!
ようやく表面の奥から、コンクリートのような硬い層が露出した。
柴田は一度ハンマーを下ろして息を吐き、削れた壁を見て笑う。
「ほら。玄関よりマシじゃねえか」
その言葉を合図にするように、仲間の男たちも作業へ加わった。
大型ハンマーだけではない。電動工具やハツリ用の道具まで持ち出し、削れた部分へ少しずつ工具を当てては砕き、さらに別の場所を削っていく。
進み方は遅い。
それでも玄関扉の時とは違い、目に見えて壁そのものが失われていった。
住民たちは、その光景を黙って見ていた。
誰も止めない。
◇
一時間が過ぎ、さらに二時間近くが経った頃には、2502号室のリビングは完全に別の部屋のようになっていた。
空気中には細かな粉塵が漂い、家具や床には白い粉が薄く積もっている。砕けた壁材やコンクリート片が床へ散乱し、その間に大型ハンマーや電動工具が無造作に置かれていた。
2502号室の夫婦は途中からとても室内にいられなくなり、廊下へ避難していた。
自分たちの家の壁が少しずつ壊されていく音を、外から聞くしかなかった。
作業を続けていた男たちも、さすがに疲労を隠せなくなっている。
「まだかよ……」
一人が息を切らしながら、削られた壁へ手をついた。
三浦はライトを使って穴の奥を確認する。
「もう少しだ」
「本当にか?」
「向こう側までそんなに残ってねえ」
その言葉を聞いた柴田の表情が少し明るくなった。
「よし」
再び大型ハンマーを受け取り、狭くなってきた部分へ狙いを定める。
ドゴォンッ!!
さらに。
ドゴォンッ!!
その時だった。
壁の奥から、これまでとは明らかに違う音が返ってきた。
カンッ。
柴田の手が止まる。
「……何だ?」
もう一度、少し位置を変えて叩く。
ドゴンッ!
カンッ。
今度は聞き間違いではない。
コンクリートが砕ける鈍い音ではなく、明らかに金属へ何かが当たった音だった。
三浦がすぐに近づき、削れた部分へライトを当てて奥を覗き込む。
そして、その表情が変わった。
「……おい」
柴田が横から覗き込む。
「何だ」
三浦は削れた部分へ指を入れようとしたが、奥にある何かに阻まれて入らなかった。ライトをさらに近づけ、角度を変えて照らす。
そこにあったのは、灰色の金属だった。
「これ……」
柴田も目を細める。
「鉄板?」
「鉄板っていうより……補強板だ」
「は?」
「向こう側から壁を補強してやがる」
その瞬間、それまで作業音で騒がしかった室内が急に静かになった。
◇
「どういうことだよ」
柴田が聞く。
三浦は金属の見える穴を睨んだまま答えた。
「そのままだ。こっち側の壁を抜かれても中へ入れねえように、2501側からさらに金属で補強してる」
「壁の向こうに鉄板貼ってんのか?」
「たぶんな」
「そんなことする奴いるか?」
三浦はすぐには答えなかった。
普通はしない。
玄関には異常なほど頑丈な防犯扉があり、ベランダには特殊なガラスが入っている。そのうえ隣室との壁まで補強されているとなれば、もう単に防犯意識が高いという話ではない。
一つだけならまだ分かる。
だが、ここまで来ると話が違う。
どこから入ろうとしても、その先に次の対策が待っている。
三浦は小さく息を吐いた。
「こいつ……」
柴田が見る。
「何だ」
三浦は削られた壁の奥にある金属板を見たまま答えた。
「部屋全部、要塞にしてやがる」
住民たちの間からざわめきが起きた。
要塞。
その言葉は普通なら大袈裟に聞こえるはずだった。
だが今、この部屋にいる誰一人として笑わなかった。
◇
2501号室。
壁の向こうから聞こえる鈍い衝撃音は、すでに一時間以上続いていた。
蓮はソファへ深く腰を沈め、テレビに映した監視カメラの映像と、壁の向こうから伝わってくる振動を交互に確認していた。
「壁まで来たか」
驚きはなかった。
それも想定していた。
玄関だけを強化しても意味がないし、窓だけを守っても意味がない。侵入しようとする人間が正面からしか来ないという保証など、最初からなかった。
だから蓮は寒波が来る前、自分の専有部分側から可能な範囲で隣室との境界にも補強を入れていた。
完全に壊せないものを作る必要はない。
簡単には入れない。
その程度で十分だった。
人間は、いつまでも同じ場所を叩き続けるとは限らない。時間が掛かりすぎる、道具が足りない、もっと簡単そうな場所がある。そう思えば、次の場所へ向かう。
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
「次はどこだ」
どこか他人事のような声だった。
◇
2502号室。
柴田は、穴の奥に見える金属板を睨んでいた。
「これも壊せねえのか?」
三浦は壁の状態を見ながら答える。
「俺たちが今持ってる道具じゃ厳しい」
「時間かけてもか?」
三浦は少し考えたが、やがて首を振った。
「無理だろな。少なくとも今日ここでどうにかできるもんじゃねえ」
柴田の顔が歪む。
「クソが」
一人の男がその場へ座り込んだ。
「もう今日無理だろ」
「うるせえ」
「もうずっとやってるぞ」
「だから何だ」
男は疲れ切った顔で指を一本立てた。
「玄関」
もう一本。
「ベランダ」
さらにもう一本。
「壁」
そして柴田を見る。
「全部駄目じゃねえか」
誰も反論できなかった。
傷だらけになった玄関扉。
侵入できなかったベランダ。
そして何時間も掛けて削った末に、金属板へ行き当たった壁。
どこから入ろうとしても、神崎の部屋には届かない。
そんな重い空気が室内へ漂い始めた時、一ノ瀬が口を開いた。
「下は?」
柴田が振り返る。
「……何?」
一ノ瀬は自分たちの足元へ視線を落とした。
「下の部屋」
その言葉につられるように、全員の視線が床へ向いた。
「横が駄目なら……下から天井壊せばいいんじゃない?」
三浦が思わず目を閉じた。
「お前ら……」
呆れたような声だった。
だが柴田は、一ノ瀬の言葉を聞くとしばらく黙ったまま床を見つめていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「そうだな」
近くにいた住民の一人が、嫌な予感を覚えたように顔を引きつらせる。
柴田は立ち上がり、床へ置いてあった大型ハンマーを拾い上げた。
「下、何号室だ?」
誰かが答えた。
「……2401」
柴田はハンマーを肩へ担いだ。
「行くぞ」
何時間も掛けて2502号室の壁を壊した男たちは、今度は一階下へ向かって歩き始めた。
その背後には、壁を大きく抉られた2502号室と、自分たちの家が壊されたにもかかわらず何一つ取り戻せないまま、廊下で立ち尽くす夫婦だけが残された。
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Day 45
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「実際に見たら、そう簡単には諦められない。」
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