第57話 Day 45 嫉妬の先
「寒いし、気をつけて帰ってね」
その言葉を最後に、インターホンから蓮の声が消えた。
一ノ瀬美咲はしばらくその場から動けず、目の前にある決して開こうとしない玄関扉を見つめていた。
足元には一つの手提げ袋が置かれている。中に入っているのは、蓮が前世で最後に一ノ瀬へ用意した食料と同じもの。
たった、それだけだった。
「……待って」
一ノ瀬はもう一度インターホンを押した。
ピンポーン。
「蓮くん」
返事はない。
「ねえ、待ってって」
もう一度ボタンを押すと、同じ呼び出し音が静かな廊下に響いた。
数秒して、ようやく蓮の声が返ってくる。
『何?』
一ノ瀬はほっとしたように息を吐いた。
「さっきの、冗談だよね?」
『何が?』
「だから……」
一ノ瀬は笑おうとした。
「部屋に入れてくれないってやつ」
『冗談じゃないよ』
その瞬間、どうにか浮かべていた笑顔が消えた。
「……なんで?」
『なんでって?』
「私、ここまで来たんだよ?」
『知ってる』
「蓮くんが来ていいって言ったから!」
『食べ物を分けるって言ったんだよ。そこにあるだろ』
一ノ瀬は思わず足元の袋へ目を落とした。
「こんなの……すぐなくなるじゃん」
『節約すれば何日か持つんじゃない?』
「そういう問題じゃないでしょ!」
思わず声を荒らげた一ノ瀬だったが、すぐに自分を抑え込んだ。
怒ってはいけない。ここまで来たのだから、あと少し、この扉さえ開かせればいい。
一ノ瀬は大きく息を吸い、先ほどまでとは違う柔らかな声を作った。
「……ごめん」
返事はなかったが、そのまま続ける。
「私、前のことなら謝るから。蓮くんにずっと冷たかったよね。本当にごめん」
一ノ瀬は玄関扉へ少し近づいた。
「私も悪かったと思ってる。だから……ね? 入れて?」
『帰れ』
「……」
一ノ瀬の頬が僅かに引きつったが、それでも笑顔を崩そうとはしなかった。
「お願い」
『無理』
「私、何でもするから」
『いらない』
「掃除もするし、料理だってする」
『自分でできる』
「じゃあ……」
一ノ瀬は一瞬だけ躊躇したあと、さらに声を落とした。
「蓮くんの好きなこと、してあげてもいいよ」
インターホンから返事がなくなった。
一ノ瀬はじっと扉を見つめながら待った。
男なら、これで――。
『いらない』
「……え?」
あまりにも平坦な声だった。
一ノ瀬の表情から、それまでどうにか保っていた余裕が少しずつ消えていく。
「何で……」
『帰れ』
「待ってよ。私、本当に帰るところないんだよ?」
そこで、蓮が言った。
『あの男のところに帰ればいいだろ』
一ノ瀬の動きが止まった。
数秒間、本当に何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
返事はない。
「今……何て言った?」
『彼氏のところに帰ればいいだろって言った』
一ノ瀬の顔から、すっと血の気が引いていった。
「なんで……? なんで剛のこと知ってるの?」
返事はない。
「蓮くん?」
一ノ瀬は扉へ詰め寄った。
「なんで!?」
それでも蓮が答えないと、一ノ瀬は突然声を張り上げた。
「違うの! 違うから! あの男は違うの!」
扉の向こうから返事はない。
「一緒に住んでるのは……そうだけど、それには理由があるの! こんな状況だから一人じゃ危ないでしょ!? だから仕方なく一緒にいるだけで、別に私、剛のことなんか好きじゃないから!」
必死に言葉を重ねる一ノ瀬に対して、蓮は何も返さない。
「本当だよ!」
『俺には関係ない』
「あるでしょ!」
思わずそう言ってしまった一ノ瀬は、すぐに自分の失言に気づいた。
「だって……私……」
再び声を作り直す。
「私、蓮くんのところに来たかったから。剛なんかとは何もないの」
『俺とも何もないけど』
「……」
一ノ瀬の言葉が完全に止まった。
何を言っても、何を差し出しても、この男は扉を開けるつもりがない。その事実を、ようやく一ノ瀬は理解した。
「……何なの」
小さな声が漏れた。
「何なのよ……」
拳を強く握り締める。
「私がここまで来てあげたんだよ?」
返事はない。
「こんな雪の中、車だって危なかった! 何回も滑った! それでもお前が来ていいって言ったから来たんでしょ!」
『俺は食べ物を分けるって言っただけだ』
「だから!」
その瞬間、一ノ瀬の中で何かが切れた。
「ふざけんな!」
ドンッ、と拳が玄関扉を叩いた。
「開けろよ! 私がここまで来てやったんだよ!」
今度は扉を蹴りつける。
ガンッ、と硬い音が廊下に響いたものの、扉はびくともせず、逆に足へ鈍い痛みだけが返ってきた。
「っ……!」
一ノ瀬は顔を歪めたが、その痛みさえも怒りへ変わったのか、再び扉へ向かって声を張り上げた。
「昔あれだけ私のこと追いかけ回してたくせに! 今さら何様なんだよ!」
もう一度、拳を叩きつける。
「開けろ!」
◇
その騒ぎに最初に気づいたのは、同じ二十五階に住む住民だった。
一つの玄関扉が開き、中年の男が不審そうに顔を出す。
「……何ですか?」
一ノ瀬が振り返ると、さらに別の部屋からも住民が姿を見せた。
「また2501?」
「何の騒ぎですか?」
「その人、誰?」
荒い息を吐きながら周囲を見回した一ノ瀬の前には、見知らぬ住民が三人、四人と集まり始めていた。
そのうちの一人が、一ノ瀬の足元に置かれている手提げ袋へ目を向ける。
「それ……」
一ノ瀬も袋を見た。
ほんの一瞬、何かを考えるような間があった。
そして次に顔を上げた時、その表情は先ほどまでとはまるで違うものに変わっていた。
「私……騙されたんです」
さっきまで怒鳴り散らしていた女とは思えないほど、弱々しく震えた声だった。
住民たちが顔を見合わせる。
「騙された?」
一ノ瀬は唇を噛み、2501号室へ視線を向けた。
「神崎蓮に」
その名前を聞いた瞬間、住民たちの表情が変わった。
◇
「どういうことですか?」
尋ねられた一ノ瀬は、俯いたまま小さな声で答えた。
「前から……しつこくされてたんです」
「神崎さんに?」
「はい。ずっと私のこと好きだって言われてて。でも私はその気なかったから断ってました」
もちろん嘘だった。
だが、そんなことを知っている人間はここにはいない。
「それで最近、食べ物がないって話をしたら……自分のところにはいっぱいあるから来ればいいって」
一ノ瀬はそう言いながら2501号室を見る。
住民の一人が眉を寄せた。
「いっぱい?」
「はい」
「食料が?」
一ノ瀬は頷いた。
「私も最初は信じてなかったんです。でも、写真を送ってきてたから」
そう言ってスマートフォンを取り出すと、画面を開き、一枚の写真を住民たちへ見せた。
「これ……昨日です」
数人が画面を覗き込んだ瞬間、誰もすぐには言葉を発することができなかった。
そこに写っていたのは巨大なタラバガニと刺身の盛り合わせ、炊き立ての白米に日本酒。そして写真の奥には、赤々と燃える暖炉まで写っている。
「……何これ」
一人がようやく呟いた。
「これ、神崎さんの部屋!?」
「はい」
「昨日?」
「はい」
別の女性がスマートフォンへさらに顔を近づける。
「刺身……?」
「タラバガニじゃない!?」
「暖炉まである……」
一ノ瀬は住民たちの反応をじっと見ていた。
驚いている。
だが、それだけではない。
写真を見る住民たちの顔には、明らかに別の感情が浮かび始めていた。
だから、一ノ瀬は言った。
「これだけじゃないです」
指を滑らせると、次の写真が表示された。
厚切りのステーキに付け合わせ、そして赤ワイン。
さらに指を動かせば、次はすき焼き。霜降り肉に野菜、卵。
その次には、湯気の立つコーヒーと暖かそうな室内。その後にも肉料理や酒が続き、一枚、また一枚と、これまで蓮から送られてきた写真を一ノ瀬はすべて見せていった。
住民たちの顔から、いつしか最初の驚きが消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、もっと暗く、粘ついた感情だった。
「……これ、全部いつの写真ですか?」
「寒波が来てからです」
「全部?」
「はい」
「一日だけじゃないんですよね?」
「違います」
一ノ瀬は少しだけ間を置いてから答えた。
「ずっとです」
その一言で、廊下の空気が変わった。
◇
「ちょっと待って」
女性住民の一人が、信じられないものを見るようにスマートフォンを見つめながら言った。
「神崎さん……ずっとこんなもの食べてたの?」
「みたいです」
「私たちが配給減らされてる間も?」
一ノ瀬は答えなかった。
答える必要などなかった。
別の男が画面を指差した。
「このステーキ、いつ?」
一ノ瀬が日付を見せると、男の顔が強張った。
さらに別の写真を開く。
「これも?」
「はい」
「すき焼きも?」
「はい」
「この海鮮は昨日?」
「そうです」
誰かが無意識に2501号室の扉へ目を向けた。
「……少し備蓄してるとかいう量じゃないだろ」
その言葉に反論する者はいなかった。
一ノ瀬は小さく頷く。
「本人も言ってました」
全員の視線が集まった。
「何て?」
「食べ物はどれくらいあるのって聞いたら……」
一ノ瀬はそこで僅かに間を置き、住民たちの顔を見てから答えた。
「『当分困らない』って」
沈黙が落ちた。
その言葉は、今の住民たちにとってあまりにも重かった。
当分困らない。
自分たちは今日の食事にすら困り始めているのに、この扉の向こうにいる男だけは、当分困らないという。
◇
その頃、扉の向こうでは蓮が静かに立っていた。
外の会話は聞こえている。一ノ瀬が何を話し、どんなふうに事実を作り替えているのかも、すべて聞こえていた。
「……そう来ると思ってたよ」
蓮は小さく呟いた。
前からしつこくされていた。
食料があるから来いと言われた。
自分は被害者だった。
ほんの数分前まで扉の前で何でもすると縋っていた女の話が、外に人が集まった途端、都合よく形を変えていく。
だが、蓮は訂正しようとはしなかったし、扉を開けることもしなかった。
好きに言わせておけばいい。
どうせ、この程度では終わらない。
◇
十分もしないうちに、一ノ瀬は住民グループへ招待されていた。
『先ほど2501号室前で騒ぎがあり、神崎さんの知人だという女性から事情を確認しています』
最初に住民の一人が説明すると、すぐにいくつもの反応が返ってくる。
『知人?』
『こないだの女ですか?』
『また来たんですか?』
『何があったんですか?』
そして、一ノ瀬本人が書き込んだ。
『一ノ瀬美咲です。突然すみません。神崎蓮とは以前からの知り合いです』
既読の数字がみるみる増えていく。
『最近、私の住んでいるマンションでも食料がなくなってきて、蓮くんに相談していました。そうしたら食べ物を分けてくれると言われたので、今日ここまで来ました』
その直後、一枚の写真が投稿された。
タラバガニ、刺身、日本酒、そして暖炉。
一瞬、グループの流れが止まった。
メッセージは来ない。ただ既読の数字だけが増えていく。
そして、最初の一件が入った。
『何これ?』
続けて、
『これ神崎さんの部屋ですか?』
『暖炉!?』
『これいつの写真ですか?』
一ノ瀬が答える。
『昨日です』
そこから、一ノ瀬はすべてを出した。
ステーキ、ワイン、すき焼き、コーヒー、肉料理、酒、暖炉。
これまで蓮から送られてきた写真を一枚ずつ、何も隠すことなく住民グループへ晒していった。
◇
『嘘でしょ』
『ステーキ?』
『ワインまで飲んでるじゃないですか』
『すき焼きって……』
『これ全部寒波が来てから?』
『私たち今日何食べたと思ってるんですか?』
『配給、あれだけしかなかったんですよ?』
『神崎さん、これだけ持ってたんですか?』
『だからずっと配給受けてなかったんだ』
『水も取りに来ないわけだ』
『暖炉があるなら燃料も大量に持ってるってことですよね?』
そのやり取りを、例の母親も見ていた。
昼間、蓮のもとへ薬を求めに来て断られた母親だった。
『……こんなもの食べてたんですか?』
少しして、さらに書き込む。
『うちの子が熱を出してた時も?』
その一言をきっかけに、別の住民まで反応した。
『やっぱり薬も持ってるんじゃないですか?』
『絶対あるでしょう』
『これだけ準備してる人が薬だけ持ってないなんてありえない』
『私たちが困ってるの分かってて全部無視してたってこと?』
もはや誰も「持っているかもしれない」とは言わなくなっていた。
そして一ノ瀬は画面を眺めながら、最後の一押しをする。
『蓮くん本人が、食料は「当分困らない」って言ってました』
その瞬間、グループが爆発した。
『当分!?』
『どれだけ持ってるんですか!?』
『一人で!?』
『おかしいでしょう!』
『私たちは自分たちの備蓄まで共同管理に出したんですよ!』
『神崎さんだけ何でこんな生活してるんですか?』
『説明してください!』
『神崎さん見てますよね?』
『返事してください!』
蓮のスマートフォンにも、次から次へと通知が届いた。
蓮は画面を開き、既読だけは付けた。
しかし、一言も書き込まなかった。
◇
その沈黙が、住民たちをさらに苛立たせた。
『また無視ですか?』
『これだけ証拠が出てるんですよ?』
『一度ちゃんと中を確認するべきです』
『前回とは話が違います』
『想像じゃない。実際にこれだけ食べてるんですよ』
そう、前回とは違う。
あの日、住民たちが持っていたのは想像だけだった。
水があるのではないか。
食料があるのではないか。
薬もあるのではないか。
そんな疑いだけで扉を叩き、工具を使い、最後には消火器まで叩きつけた。それでも扉は開かず、住民たちは一度引き下がるしかなかった。
だが、今日は写真がある。
それも一日だけではない。
何日も、何週間も、自分たちが空腹に耐えていたその時間に、2501号室では肉が焼かれ、酒が注がれ、暖炉が燃え、淹れたてのコーヒーから湯気が立っていた。
住民たちは、それを知ってしまった。
◇
一ノ瀬はグループの流れを黙って眺めていた。
自分が想像していた以上だった。このマンションの住民たちも蓮に不満を抱えており、それも昨日今日に始まったものではないらしい。
なら、使える。
一ノ瀬は再び2501号室の扉を見ると、スマートフォンの連絡先を開いた。
柴田剛。
その名前の上で一瞬だけ指が止まったあと、通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音のあと、低い声が返ってきた。
『……もしもし』
明らかに機嫌が悪い。
『美咲、お前どこ行った?』
一ノ瀬はすぐに声を変えた。
「剛……」
『は?』
「助けて……」
電話の向こうが静かになった。
『……何があった』
一ノ瀬は2501号室の扉を見つめながら答える。
「私……騙された」
『誰に』
「神崎に」
『……誰だよ、それ』
「前に知り合いだった人。食料を分けてくれるって言うから……来たの」
『どこに』
「神崎のマンション」
一瞬の沈黙のあと、剛の声が一気に荒くなった。
『お前、俺の車持ってったのか!?』
「ご、ごめん……」
『ふざけんな! 何勝手に――』
「でも!」
一ノ瀬はその言葉を遮るように声を上げた。
「部屋の中に大量の食料があるの!」
剛の声が止まった。
『……何?』
一ノ瀬は、今度はゆっくりと言った。
「本当にすごい量。ステーキも、肉も、海鮮も、酒もあるし、暖炉まである。本人が、当分困らないって言ってる」
電話の向こうから何も聞こえなくなった。
一ノ瀬はさらに続ける。
「なのに……私が来たら、急に条件出してきて……」
『条件?』
一ノ瀬は少しだけ間を置いた。
そして、震えた声で言った。
「……体で払えって」
数秒間、完全な沈黙が続いた。
やがて剛の声が、先ほどまでとは違う低さで返ってくる。
『そいつの部屋、どこだ』
一ノ瀬の口元が僅かに上がった。
だが声だけは震わせたまま、蓮の住所を伝える。
『そこで待ってろ』
「剛……」
『仲間連れて行く』
そこで通話が切れた。
一ノ瀬はゆっくりとスマートフォンを下ろし、目の前にある2501号室の扉を見つめた。
ついさっきまで、この扉を開けてもらうために謝った。
何でもすると言った。
好きなことをさせてもいいと言った。
それでも、開かなかった。
なら、もう頼む必要はない。
「……覚えてろよ」
小さく呟いたその声は、扉の向こうにも届いていた。
◇
2501号室。
蓮はインターホンのモニター越しに、一ノ瀬の姿を眺めていた。
廊下に集まった住民たち。
一ノ瀬。
そして、鳴り続けている住民グループの通知。
そのすべてを確認したあと、蓮は何事もなかったようにソファへ戻った。
テーブルの上には、淹れたばかりのコーヒーが置かれている。
蓮はカップを持ち上げた。
「あいつも来るか」
一口飲む。
それから、静かに笑った。
「ようやく役者が揃うな」
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Day 45
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「俺の飯を見せただけで、勝手に仲間が増えていく。」
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