第56話 Day45 自分が死んだ日
朝。
神崎蓮は、いつもと変わらない時間に目を覚ました。
寝室を出てカーテンを開けると、窓の向こうには今日も白い世界が広がっている。ただ、雪は昨日より随分と弱くなっており、完全に止んだわけではないものの、激しく窓へ叩きつけていた雪は、今では細かなものへと変わっていた。
蓮はしばらく外を眺めたあと、スマートフォンへ視線を落とした。
四十五日目。
今日が何の日なのかなど、確認するまでもない。昨日から分かっていたし、もっと言えば、この世界へ戻ってきた時から一度も忘れたことなどなかった。
前世で、俺が死んだ日。
「……四十五日目」
蓮は小さく呟くと、もう使い慣れたいつもの収納の力を何度か試した。
特に異変はない。
その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見る。
一ノ瀬美咲。
蓮は何も言わず、メッセージを開いた。
『蓮くん』
続けて、すぐにもう一件届く。
『もうこっち、本当に限界なの』
『食べ物もほとんどないし、毎日のように誰かの部屋が襲われてる』
少し間が空いたあと、さらに二件のメッセージが届いた。
『お願い』
『私、そっちに行っちゃ駄目?』
蓮は画面を見つめた。
昨日も同じようなことを言われ、その時はまだ雪が強いから危ないと返している。
だが今日は、昨日より明らかに雪が弱くなっていた。
蓮の口元が僅かに上がる。
「……来たか」
前世のこの日。
蓮は自分の部屋に残っていた僅かな食料を、一つの手提げ袋へ詰めた。
自分に残したのは、水一本だけだった。
それでも一ノ瀬には足りないと思い、黒崎の家まで行って頭を下げ、食料を分けてもらった。
黒崎はリュックいっぱいに食料を詰めてくれたうえで、絶対に何も一ノ瀬には渡すなと言った。
それでも蓮は、自分の食料だけは一ノ瀬のところへ持っていった。
雪の中を、命を懸けて。
そして、死んだ。
蓮はゆっくりと息を吐き、画面へ指を置いた。
『でも外、まだ雪あるけど大丈夫?』
既読はすぐに付いた。
『大丈夫!』
『友達が使ってる車がまだ動くから』
『大きい四駆だし、主要道路なら多分走れると思う』
友達。
その言葉を見て、蓮は小さく笑った。
誰の車なのかなど、わざわざ聞く必要もない。
『そっか』
そう返したあと、もう一文を送る。
『それなら俺の食べ物、分けてあげる』
少しだけ間を置いてから、
『気をつけて来てね』
送信した。
◇
「……え?」
一ノ瀬美咲はスマートフォンを両手で持ったまま、画面を見つめていた。
もう一度読む。
『それなら俺の食べ物、分けてあげる』
『気をつけて来てね』
「……やっぱり」
頬が緩む。
「やっぱりそうじゃん」
昨日は雪が危ないから来るなと言われた。
その時は拒絶されたと思い、一瞬腹が立ったが、今になってみれば違ったのだと分かる。
本当に、自分が雪の中を移動することを心配していたのだ。
だから今日は雪が弱くなり、さらに車があると伝えた途端、受け入れてくれた。
「最初からそう言えばいいのに」
一ノ瀬は笑った。
写真を送ってきたのも、タラバガニを見せたのも、刺身を見せたのも、暖炉を見せたのも、きっと自分に来てほしかったから。
それなのに素直に言えなかっただけなのだ。
「ほんと、面倒くさいんだから」
一ノ瀬は立ち上がると、すぐに旅行バッグを取り出した。
スマートフォンの充電器、化粧品、着替え、防寒着、勝負下着。
必要そうな物を次々と詰めていく。
食料をもらうだけなら、こんな物は必要ない。
だが、一ノ瀬にここへ戻ってくるつもりはなかった。
収納棚を見ると、残っている食料は僅かしかない。剛たちが周囲から奪ってきた物も、もう底が見え始めている。
以前は頼もしく見えた。
自分を守ってくれる。
食料を持って帰ってくる。
だから一緒にいた。
だが、今は違う。
仲間と一緒に奪ってきたカップ麺や缶詰を分け合い、寒い部屋で食べる男。
その一方では、暖炉の前で豪華な食事をし、日本酒まで飲んでいる男がいる。
比べるまでもなかった。
「……もういいでしょ」
剛は今、仲間たちと別の階へ出ているため、戻ってくるまでにはまだ時間がある。
一ノ瀬は厚手のダウンを着込み、バッグを肩に掛けると、そのまま部屋を出た。
◇
地下駐車場。
一ノ瀬は、剛たちが物資集めに使っている四輪駆動車へ向かった。
地下にあるため車体そのものは雪に埋もれていないうえ、剛たちも数日に一度は外へ物資を探しに出ているため、完全に放置されていた車でもない。
一ノ瀬はスペアキーを取り出し、運転席へ乗り込んだ。
キーを回す。
キュルキュル……。
だが、エンジンは掛からない。
「お願い……」
もう一度、キーを回す。
キュルキュル……ブォン!
「よし!」
エンジン音が地下駐車場へ響いた。
一ノ瀬は暖房を入れ、両手を擦り合わせてから、ゆっくりと車を発進させる。
地下駐車場から外へ出た瞬間、目の前には白い世界が広がった。
一般道の多くは、すでにまともに車が走れる状態ではない。
放置された車があり、歩道は雪に埋もれ、店の看板すら半分ほど隠れている。
だが、主要道路だけは違った。
救援物資を運ぶトラックや緊急車両のため、最低限の除雪だけは今も続けられている。
以前の半分ほどしか道幅はなく、両側には高い雪の壁ができているうえ、路面も圧雪され、ところどころに大きな雪の塊が残っていた。
それでも、走ることはできる。
一ノ瀬は両手でハンドルを握り締め、慎重に車を進めた。
時速二十キロほどしか出せず、何度かタイヤが滑るたびに心臓が跳ねたが、それでも引き返そうとは思わなかった。
頭に浮かんでいるのは、暖炉と豪華な食べ物、それにお酒。
そして、暖かい部屋で暮らす自分だった。
「……お風呂も入れるのかな」
思わず笑みが浮かぶ。
「さすがに入れるよね」
もう一度、蓮から届いたメッセージを見る。
『気をつけて来てね』
「待っててね、蓮くん」
一ノ瀬はアクセルを少し深く踏んだ。
◇
到着するまで、一時間近くかかった。
以前ならもっと早く着く距離だったが、雪のせいで思うように進めなかった。
マンションの近くまで来ると、道路脇の雪はさらに深くなっており、駐車場へ直接入るのは難しそうだった。
一ノ瀬は少し離れた場所に車を停め、防寒具を整えてから外へ出た。
「寒っ……!」
一瞬で身体が縮こまる。
バッグを肩に掛け、雪の中を歩き始めた。
だが、もう目の前だ。
そしてようやく辿り着いたところで、一ノ瀬は足を止めてマンションを見上げた。
「……やっぱりすご」
自分の暮らしていた建物とは明らかに違う。
雪に覆われた中でも、その高層マンションは異様な存在感を放っていた。
エントランスへ向かうと、当然のようにオートロックがある。
一ノ瀬は迷わず部屋番号を入力した。
2501。
呼び出し。
数秒後。
『はい』
聞き慣れた声が聞こえた瞬間、一ノ瀬の顔が一気に明るくなった。
「蓮くん! 私! 美咲!」
『着いたんだ』
「うん! もう凍えそう!」
『そっか。ちょっと待って』
ピッ。
ガチャ。
オートロックが解除された。
一ノ瀬は思わず笑顔になった。
「ほら」
やっぱり待っていてくれた。
扉を開けて中へ入った瞬間、外との違いに思わず声が漏れる。
「……あったか」
もちろん、まだ蓮の部屋ではない。
ただのロビーだ。
それでも外とはまるで違い、風も雪もなく、何より室内が広い。
石張りの床。
高い天井。
大きなエントランスホール。
照明は以前より落とされているものの、それでも高級マンションであることは一目で分かった。
「すてき……」
一ノ瀬の期待がさらに膨らむ。
エレベーターへ向かい、現在も限定的に稼働している一基へ乗り込むと、25階のボタンを押した。
上昇し始めたところで、一ノ瀬は鏡に映った自分を見る。
「……やば」
髪が乱れていた。
慌てて手櫛で整え、バッグから小さな鏡を出すと、化粧を確認してリップを塗り直す。
そして最後に、笑顔を作った。
チン。
25階。
扉が開く。
一ノ瀬はバッグを持ち直し、廊下へ出た。
「2501……」
部屋番号を確認しながら歩いていく。
そして、ようやく見つけた。
「あった」
自然と足が速くなる。
あと少し。
十メートル。
五メートル。
だがそこで、一ノ瀬の足が止まった。
「……え?」
2501号室。
その玄関前の床に、一つの手提げ袋が置かれていた。
◇
一ノ瀬は、しばらくその袋を見つめていた。
「何、これ……」
最初は、自分への歓迎かと思った。
蓮が何か用意してくれたのかもしれない。
一ノ瀬はしゃがみ、袋の中を見る。
入っていたのは、カップ麺が一つ、ツナ缶が二つ、クラッカーが一袋、レトルトのお粥が一つ。
そして、五百ミリリットルの水が一本。
「……」
一ノ瀬の笑顔が消えた。
何度見ても、それだけしか入っていない。
「……何これ」
立ち上がり、インターホンを押す。
ピンポーン。
すぐに蓮の声が返ってきた。
『はい』
「蓮くん、着いたよ」
『うん』
「……この袋、何?」
『食べ物』
「食べ物?」
『欲しいって言ってただろ』
一ノ瀬はもう一度袋を見る。
「……これが?」
『うん』
「いや……そうじゃなくて」
『俺の食べ物、分けてあげるって言っただろ』
一ノ瀬は、その場で固まった。
◇
扉の内側。
蓮は壁に背を預け、インターホン越しに一ノ瀬の声を聞いていた。
玄関の外に置いた袋の中身は、カップ麺一つ、ツナ缶二つ、クラッカー一袋、レトルトのお粥一つ、五百ミリリットルの水一本。
あの日、自分が持っていった物と同じだった。
そして、あの日の蓮にとって、これが自分の持っていた食料のほぼ全部だった。
今、俺の空間の中には、一生食べ続けても困らないほどの物資がある。
それでも蓮は、その中からわざわざこれだけを選んだ。
「……」
不思議と、興奮はなかった。
もっと笑えると思っていた。
もっと気分がいいと思っていた。
だが実際に同じ日を迎えてみると、蓮の頭に浮かんできたのは雪と寒さ、それに凍った指先だった。
そして何より、あの日に聞いた一ノ瀬の声。
蓮は静かに目を閉じた。
忘れるはずがない。
その直後、玄関の外から声が聞こえた。
『蓮くん』
蓮の意識が現在へ戻る。
『ねえ、開けてよ』
蓮はゆっくりと目を開いた。
◇
「蓮くん、中に入れてよ」
一ノ瀬は玄関扉を見つめていた。
『なんで?』
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「なんでって……」
笑おうとしながら言う。
「私、ここまで来たんだよ?」
『うん』
「だから開けてよ。寒いし」
『……』
「ねえ」
返事がないことで、一ノ瀬の声には少しずつ苛立ちが混じり始めた。
「食べ物くれるんでしょ?」
『そこに置いてあるよ』
「こんなのじゃなくて!」
思わず声が大きくなる。
「蓮くんの部屋、食べ物いっぱいあるんでしょ!?」
『あるよ』
「じゃあ入れてよ!」
再び沈黙が落ちた。
一ノ瀬は扉へ一歩近づき、今度は声を柔らかくする。
「お願い」
しばらくして、蓮が静かに口を開いた。
『部屋に入れてあげなくてごめんね』
一ノ瀬の表情が止まった。
「……え?」
そして、蓮はあの日と同じ言葉を続けた。
『まだ、そういう関係じゃないから』
一ノ瀬の目が大きく見開かれる。
「……何?」
蓮は最後に、静かに付け加えた。
『寒いし、気をつけて帰ってね』
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Day 45
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「返しただけだ。同じ日に、同じものを。」
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