第55話 Day 44 扉の向こう
朝。
マンション一階の配給所には、昨日よりさらに重い空気が流れていた。
配給量は減ったまま。次の救援物資についても、新しい連絡はない。
住民たちは袋を受け取るたびに中身を確認し、以前なら口にしなかったような不満を漏らすようになっていた。
「これ、一日分ですよね?」
「はい」
「本当に?」
住民代表が困った顔をする。
「今の備蓄量では、これ以上増やせません」
「子供いるんですけど」
「世帯人数は考慮しています」
「考慮してこれなんですか?」
代表は答えなかった。
後ろにはまだ長い列がある。女性もそれ以上は言わず、軽い袋を抱えて離れていった。
誰も暴れない。
まだ食料が配られているからだ。
だが、以前なら「もらえるだけありがたい」と思えた量を、今では誰もありがたいとは思わなくなっていた。
◇
午前十時過ぎ。
2501号室のインターホンが鳴った。
蓮は朝食を終え、コーヒーを飲んでいるところだった。
モニターを見る。
昨日、個人メッセージを送ってきた母親が立っている。目の下には濃い隈があり、階段を上ってきたせいか息も切れていた。
蓮は通話ボタンを押した。
『何ですか』
女性がすぐに顔を上げる。
「神崎さん……昨日メッセージした者です」
『覚えてます』
「お願いします」
いきなりだった。
「本当に少しだけでいいんです。解熱剤、ありませんか?」
蓮は黙った。
女性は両手を胸の前で握る。
「息子、まだ熱が下がりきってないんです。昨日よりは少し良くなったんですけど、薬ももうほとんどなくて……」
『昨日も返事しましたよね』
「分かってます。でも……直接お願いしたら、もしかしたらって……」
『変わりません』
女性の表情が歪んだ。
「一錠でも駄目ですか?」
『駄目です』
「お金払います」
『いりません』
「じゃあ何ならいいんですか?」
『何もいりません』
女性の目から涙が溢れた。
「子供なんです」
『……』
「まだ小さいんです。苦しそうにしてるんです。田村先生も診てくれてますけど、薬だって限られてるし……」
蓮の表情は変わらなかった。
女性は玄関扉を見る。
この向こうに何があるのかは知らない。
それでも、水もある。食料もある。薬もある。
住民たちは、そう信じ始めている。
「神崎さん……お願いします」
声が震える。
「本当に一回分だけでもいいんです」
『お断りします』
その一言で、女性の表情が変わった。
悲しみより先に、怒りが出た。
「……なんで?」
蓮は答えない。
「何でそんなに冷たくできるんですか?」
『関係ないからです』
「子供が苦しんでるんですよ!」
『だから?』
女性が固まった。
蓮は淡々と続ける。
『俺が一人に渡したら、次は別の人が来る。風邪薬が欲しい。食料が欲しい。水が欲しい。次々と来る』
「でも――」
『俺はそれをやるつもりがありません』
「一人くらい……!」
『その一人を誰が決めるんですか?』
女性が黙る。
『あなたの子供は助ける。でも隣の老人は助けない。それを俺が決めろって?』
「そんなこと言ってません!」
『同じことです』
女性は唇を震わせた。
理屈を聞きに来たわけではない。
欲しかったのは、薬だった。
「……最低」
蓮は何も言わない。
女性の目から、また涙が零れる。
「あなたには……」
声を詰まらせながら、最後に吐き出した。
「あなたには、人の心はないんですか!」
蓮は数秒だけ、モニター越しに女性を見た。
そして。
『用件がそれだけなら切ります』
通話が切れた。
女性はその場に立ち尽くし、しばらくして泣きながら階段へ向かった。
◇
だが、それで終わらなかった。
昼前。
再びインターホンが鳴った。
今度は四十代ほどの男だった。
『何ですか』
「神崎さん。少し相談したいんです」
『はい』
「食料……少し分けてもらえませんか?」
蓮はすぐに答えた。
『お断りします』
「待ってください」
男が慌てる。
「本当に少しだけでいいんです。うち、妻と子供がいて……今日の配給だけじゃ足りないんです」
『他の家も同じでしょう』
「だから……」
男は周囲を確認するように廊下を見た。
そして、声を落とす。
「他の人には絶対言いません」
蓮の眉が僅かに上がった。
「うちだけでいいんです」
『……』
「本当に誰にも言いません。食料があるってことも」
昨日まで、住民たちは「神崎が大量に持っているなら、マンション全体へ出すべきだ」と言っていた。
それが今、目の前の男は他人には渡さなくていい、自分の家だけにくれと言っている。
蓮は少しだけ笑った。
『お断りします』
「神崎さん!」
『失礼します』
通話を切った。
◇
午後にも、もう一人来た。
一人暮らしの老人だった。
「食べ物じゃなくて、水を少しだけ……」
断った。
次は女性。
「母が体調を崩してるので、何か栄養のある物だけでも……」
断った。
その次は。
「カセットボンベだけでも」
断った。
誰も、マンション全体のためとは言わなかった。
自分。
妻。
夫。
子供。
親。
家族。
理由は違う。
だが、全員が同じことを言った。
自分たちだけでいい。
そして、誰にも言わないから。
◇
夕方。
住民グループが荒れ始めた。
最初に書き込んだのは、朝2501号室へ行った母親だった。
『今日、神崎さんに直接お願いしました。子供の薬を一錠だけでも分けてほしいと頼みましたが、断られました』
すぐに反応が付く。
『直接行ったんですか?』
『それでも駄目だったんですか?』
『はい』
続けて。
『子供が苦しんでいると話しても駄目でした』
別の住民が書き込んだ。
『うちも今日お願いしました。食料を少し分けてもらえないか聞きましたが断られました』
さらに。
『私もです』
『カセットボンベも断られました』
次々と出てくる。
いつの間にか、今日だけで何人もの住民が2501号室を訪ねていたことが分かった。
『本当に何一つ出さないんですね』
『あれだけ持ってる可能性があるのに?』
『子供の薬すら?』
『普通じゃないでしょう』
そして、一件。
『あの人、自分だけ生き残ればいいんでしょうね』
多くのリアクションが付いた。
もちろん、誰も書かなかった。
「他の人には言わないから、うちだけにください」と頼んだことは。
◇
その頃。
一ノ瀬美咲の部屋。
柴田は仲間二人と床に座り、今日持ち帰った物を確認していた。
昨日より少ない。
米。
缶詰。
乾麺。
カップ麺。
飲料水。
まだ他の家庭と比べればかなりある。
だが、以前のように一度外へ出れば大量に持ち帰れることはなくなっていた。
柴田が缶詰を床へ置く。
「マジでねえな」
仲間の一人も苛立ったように答える。
「七階もほぼ空だった」
「九階は?」
「先に別の連中に入られてる」
「クソ」
柴田が舌打ちする。
一ノ瀬は少し離れた場所から、その会話を聞いていた。
「明日は?」
柴田が振り返る。
「あ?」
「明日はどこ行くの?」
「知らねえよ。探すしかねえだろ」
「それで何もなかったら?」
「うるせえな」
柴田の声が荒くなる。
「俺だって毎日探してんだよ」
一ノ瀬が黙った。
以前なら、柴田がそう言えばそれ以上何も言わなかった。
こいつがいれば何とかなる。
強い。
怖いもの知らず。
必要なら他人から奪ってでも、自分に食料を持ってくる。
だから一緒にいた。
だが今、一ノ瀬の目には昨日とは違うものが見えていた。
寒い中を歩き、人の家へ押し入り、殴り合いや武器で揉めて、それでも持ち帰れるのは米、缶詰、カップ麺。
一ノ瀬の頭に、昨日見た写真が浮かぶ。
タラバガニ。
刺身。
日本酒。
暖炉。
そして。
当分困らない。
「……」
柴田が一ノ瀬を見る。
「何だよ」
「別に」
「だったら飯作れよ」
一ノ瀬の目が僅かに細くなる。
「……はいはい」
立ち上がる。
その表情を、柴田は見ていなかった。
◇
少しして。
一ノ瀬はキッチンでスマートフォンを開いた。
蓮とのトーク画面。
昨日の写真が残っている。
一ノ瀬は数秒見つめてから、文字を打った。
『蓮くん』
少しして。
『昨日も近くの部屋が襲われたの』
『今日もずっと廊下で怒鳴り声してる』
間を置く。
そして。
『こっち、本当に怖くなってきたよ……』
送信。
数分後。
蓮から返信が届いた。
『大丈夫?』
その短い一言だけで、一ノ瀬の表情が少し緩んだ。
『今はまだ大丈夫』
『でも……』
指が止まる。
ここ数日、ずっと考えていたこと。
そして、ついに送った。
『ねえ』
『私、そっちに行っちゃ駄目?』
送信。
一ノ瀬は画面を見つめた。
すぐには既読が付かない。
後ろでは、柴田が仲間と話している。
「明日は二手に分かれようぜ」
「あの辺まだ入ってねえ部屋あるだろ」
「まだジジイ一人の部屋あったよな?」
一ノ瀬はその声を聞きながら、蓮の返信を待った。
やがて、スマートフォンが震える。
『まだ雪ひどいから危ないよ』
続けて。
『今は移動しない方がいいと思う』
一ノ瀬の表情が止まった。
「……」
本音が、すぐに浮かんだ。
じゃあ。
迎えに来てよ。
そっちに行けばいいって言ってよ。
私が行きたいって言ってるのに。
一ノ瀬は文字を打つ。
『でも――』
そこで止まった。
数秒後、すべて消した。
もう一度、蓮の文章を見る。
まだ雪ひどいから危ないよ。
一ノ瀬はゆっくり息を吐いた。
「……そうだよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
外は危険。
雪もまだ酷い。
人も襲われている。
つまり、蓮は自分を拒絶しているわけではない。
「私のこと……心配してるんだよね」
口元が僅かに緩んだ。
そう考えれば、全部納得できた。
蓮は昔から自分に甘かった。
自分が頼めば、最後には断れない。
今だって来るなと言っているのではない。
今は危ない。
そう言っているだけ。
一ノ瀬は新しく文字を打った。
『分かった』
『心配してくれてありがとう』
送信。
少しして。
『うん。気をつけて』
返信。
一ノ瀬はそれを見て、完全に確信した。
「……やっぱり」
蓮は、まだ自分に気がある。
そう思った。
◇
「美咲」
突然、後ろから声がした。
一ノ瀬は反射的にスマートフォンを伏せる。
振り返ると、柴田が立っていた。
「何?」
「何見てた?」
「別に」
「誰かと連絡してたろ」
「友達」
柴田が一ノ瀬の手元を見る。
「こんな時に?」
「こんな時だからでしょ」
一ノ瀬の声が少し冷たくなる。
柴田の眉が動いた。
「何だよ、その言い方」
「別に」
「最近お前、態度悪くね?」
一ノ瀬は柴田を見る。
少し前なら機嫌を取った。
抱きついた。
笑った。
「ごめんね」と言った。
今日はなぜか、そんな気になれなかった。
「疲れてるだけ」
それだけ答えて、スマートフォンをポケットへ入れた。
柴田は不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。
「飯まだ?」
「もうできる」
一ノ瀬は背を向ける。
その顔からは、完全に笑顔が消えていた。
◇
夜。
2501号室。
蓮はベッドに横になりながら、一ノ瀬とのやり取りを見返していた。
『私、そっちに行っちゃ駄目?』
その文字。
そして、自分の返信。
『まだ雪ひどいから危ないよ』
蓮は画面を眺める。
一ノ瀬から届いた、
『心配してくれてありがとう』
「……」
蓮は小さく笑った。
心配。
そう受け取ったらしい。
別に訂正する必要もない。
好きに思っていればいい。
そして、スマートフォン上部の日付を見る。
四十四日目。
蓮の目がほんの僅かに細くなる。
前世で自分が死んだ日まで、あと一日。
蓮は画面を閉じた。
「明日か」
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Day 44
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「人は信じたい答えなら、勝手に意味まで足してくれる」
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