第54話 Day 43 別世界
朝。
一階の配給所には、今日も住民たちの列ができていた。
昨日、住民代表から配給量をさらに減らすという通知が出ている。そして実際に渡された袋を見た瞬間、何人もの住民の表情が変わった。
「……これだけですか?」
三人家族の女性が袋の中を覗き込む。担当していた住民代表は名簿を確認してから答えた。
「はい。本日分です」
「昨日よりまた減ってますよね?」
「共同備蓄の残量を考慮して調整しています」
「でも、うちは子供が二人いるんですよ」
女性の後ろには、まだ長い列が続いている。すると、別の住民も口を挟んだ。
「うちも四人家族です。これじゃ足りませんよ」
「次の救援物資が来るまで持たせる必要があります。現在の備蓄をできるだけ長く維持するためです。ご理解ください」
「次っていつですか?」
「……まだ連絡はありません」
「じゃあ、いつまでこの量なんですか?」
「それも現時点では分かりません」
女性の表情に苛立ちが浮かぶ。
だが、それ以上は言わなかった。食料を受け取り、そのまま列を離れていく。
次の住民が前へ出た。
「1207号室です」
「二人世帯ですね」
「はい」
決められた量が渡される。
誰も満足していない。それでも、誰も奪わず、列を乱す者もいない。
ここで騒げば、今後の配給に影響するかもしれない。
そんな考えが、すでに住民たちの中に根付き始めていた。
◇
同じ頃。
ある住民代表の自宅では、妻がキッチンの収納を開けていた。
そこには昨日、夫が持ち帰ってきた食料が、普段使っている物とは別に積まれている。
米、缶詰、レトルト食品、水、カセットボンベ。
妻はしばらくそれを見たあと、振り返った。
「ねえ、これ使っていいの?」
朝食を食べていた夫は、ほとんど考えることなく答えた。
「駄目だ」
「でも今日の配給、また減るんでしょう?」
「これは別だ」
「別?」
「非常用」
妻はもう一度収納を見る。
「でも……こんなにあるよ?」
夫の箸が止まった。
「次の救援がいつ来るか分からないんだ。本当に何もなくなった時のために取っておく」
「子供にも?」
「今は配給された分を食べさせろ」
妻は少し戸惑ったものの、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
夫は再び食事を始めた。
自分が悪いことをしているとは思っていない。
むしろ、これで家族を守れる。そして自分が倒れなければ、マンションの管理も続けられる。
何より――俺たちは代表だ。
全員と同じように飢えて倒れたら、誰がこのマンションを管理する。
昨日、代表たちの間で誰かが口にした言葉だった。
最初は食料を横領するための言い訳だったはずなのに、何度も繰り返しているうちに、彼ら自身がそれを正しいと思い始めていた。
◇
午前十一時。
2501号室で、蓮のスマートフォンが震えた。
住民グループではない。
個人メッセージだった。
相手は先日、子供が熱を出した母親だった。
『神崎さん、突然すみません。少しお願いしたいことがあります』
数秒後、続けてメッセージが届く。
『息子の熱がまだ完全に下がっていません。田村先生にも診ていただいています』
『もし本当に解熱剤などのお薬をお持ちでしたら、少しだけ分けていただけませんか?』
蓮はソファに座ったまま画面を眺めた。
住民たちの間では、いつの間にか自分が薬を持っていることになっている。
もちろん、実際に持っている。
それも大量に。
だが、それを住民に話したことは一度もない。
蓮は短く返信した。
『申し訳ありませんが、お断りします』
すぐに既読が付いた。
『少しだけでも駄目ですか?』
続けて、
『お金なら払います。今すぐじゃなくても必ずお返しします。息子のためなんです』
蓮は画面を見たまま、しばらく返信しなかった。
やがて、もう一度だけ文字を打つ。
『お断りします』
それだけだった。
今度はしばらく何も来なかった。
数分後。
『……分かりました』
最後にその一文だけが届いた。
蓮はトーク画面を閉じた。
「俺には関係ない」
一人助ければ、また別の人間が訪ねてくる。
困っているのは、このマンションだけではない。外では毎日人が死んでいる。そして、これからもっと増える。
俺は救世主でもなんでもない。
ただ、自分が快適に生きるために生きる。
蓮にとって、それ以外の人間がどうなろうと関心はなかった。
◇
昼。
簡易診療スペースには、今日も住民たちが並んでいた。
昨日と同じように田村もいる。だが、詩織の前に座る患者は昨日より明らかに増えていた。
熱、咳、頭痛、腹痛、軽い凍傷、転倒による怪我。
一ヶ月以上続く異常な生活によって、少しずつ、確実に体調を崩す者が増えている。
「水分は取れていますか?」
「少しだけ」
「もう少し必要です」
患者が困った顔をした。
「でも……水も制限されてるので」
詩織の手が僅かに止まった。
「……そうですか」
それ以上、何も言えなかった。
薬が足りない。
水が足りない。
栄養も足りない。
暖房も十分ではない。
診察をして薬を渡せば終わりだった世界とは、もう違う。
とっくに医者一人や二人でどうにかできる状況ではなくなっていた。
それでも詩織は表情を変えず、カルテ代わりのノートに症状を書き込む。
「できるだけ少量ずつでも水分を取ってください。次の方」
また一人。
その次も。
詩織は黙々と診察を続けていた。
◇
午後。
一ノ瀬美咲は、自宅のキッチンに立っていた。
収納棚には、まだ食料が残っている。
カップ麺やレトルト食品、缶詰、米、菓子、飲料水。
一般の家庭と比べれば、明らかに多い。
寒波が始まった時から、これだけあったわけではない。
柴田が持ち帰ってきたものだ。
同じマンション。
近隣の部屋。
そして、食料を持っていると分かった住民。
柴田は仲間と一緒に、取れるところから取ってきた。
だから、一ノ瀬たちはまだ飢えてはいない。
だが、一ノ瀬は収納棚の中を眺めながら眉を寄せた。
「……減ったな」
以前なら、剛が出ていけば何かしら持って帰ってきた。
最近は違う。
そもそも奪う相手が、もう食料を持っていない。持っていたとしても隠し、抵抗も激しくなった。
そして、奪う側も増えている。
マンション全体から、食べ物そのものが消え始めていた。
玄関が開いた。
「クソ寒ぃ」
低い声とともに、柴田が戻ってきた。
一ノ瀬が振り返る。
「何かあった?」
柴田は持っていた袋をテーブルへ置いた。
中から出てきたのは、カップ麺が数個、缶詰、菓子、ペットボトルが二本。
一ノ瀬はそれを見た。
「……これだけ?」
柴田の顔が険しくなる。
「あ?」
「前はもっと持って帰ってきてたじゃん」
「ねえんだよ」
柴田は苛立ったように上着を脱いだ。
「どいつもこいつも、もう大して持ってねえ。今日入った部屋なんて米もなかったぞ」
「じゃあ、どうすんの?」
「また探す」
「どこを?」
「知らねえよ。どっかの階で、持ってる奴はまだいるだろ」
一ノ瀬は黙った。
以前なら、その言葉を頼もしいと思ったかもしれない。
剛は強い。
他人が嫌がっても奪ってくる。
だから、一緒にいれば食べ物には困らない。
そう思っていた。
だが今は、寒い中を歩き回り、他人の家へ押し入り、揉めて、ようやく持ち帰ってくるのがカップ麺と缶詰。
一ノ瀬はテーブルの上の袋を見た。
「……」
柴田がソファへ座る。
「腹減った。何か作れよ」
その言葉に、一ノ瀬の眉が僅かに動いた。
「……分かった」
そう答えながら、なぜか別の男の顔が浮かんだ。
神崎蓮。
◇
少しして、一ノ瀬は柴田から離れた場所でスマートフォンを手に取った。
『蓮くん、そっちは大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?』
またしばらく待たないと返事は来ないと思っていた。
しかし次の瞬間、スマートフォンが震えた。
一ノ瀬の表情が明るくなり、すぐにメッセージを開く。
送られてきたのは、一枚の画像だった。
「……は?」
思わず声が漏れた。
テーブルの中央には巨大なタラバガニ。太い脚が皿いっぱいに並び、その横にはマグロ、鯛、ブリ、サーモン、甘エビなどが美しく盛られた刺身の大皿。
そして、炊き立てのような白いご飯。
さらに徳利とお猪口。
日本酒まである。
「……何これ」
一ノ瀬は画像を拡大した。
蟹を見る。
刺身を見る。
「刺身……?」
ついさっき、剛が何時間もかけて持ち帰ってきたものを思い出す。
カップ麺。
缶詰。
菓子。
水。
それなのに、蓮は。
タラバガニ。
刺身。
日本酒。
一ノ瀬の指が止まった。
写真の奥で、何かが赤く光っている。
さらに拡大する。
「……え?」
暖炉だった。
しっかりと火が燃えている。
一ノ瀬は思わず自分の格好を見た。厚手のセーターの上からさらに上着を着込み、靴下も三枚履いている。
もう一度、写真を見る。
暖炉。
海鮮。
日本酒。
そこへ、蓮から一言だけ届いた。
『今日は海鮮』
一ノ瀬はしばらく画面を見つめた。
「……何なの、こいつ」
「美咲?」
リビングから柴田の声がした。
一ノ瀬は反射的にスマートフォンを胸元へ寄せた。
「何?」
「飯まだ?」
「今やるって」
「早くしろよ」
「……分かった」
一ノ瀬は返事をしながら、リビングの柴田を見る。
ソファに寝転がり、苛立った顔でテレビを眺めている。
映るのは、災害情報、避難所、救援の遅れ、停電地域。
どこを見ても同じニュースばかり。
一ノ瀬は再びスマートフォンを見る。
暖炉。
タラバガニ。
刺身。
日本酒。
一瞬、柴田と写真を見比べた。
「……」
そして、何も言わずキッチンへ戻った。
◇
一ノ瀬は柴田に背を向けたまま、蓮へ返信した。
『すごーい! タラバガニ!?』
『お刺身まであるの!?』
少しして、蓮から返事が来る。
『あるよ。うまい』
一ノ瀬の眉が僅かに動く。
それでも笑顔の絵文字を付けた。
『後ろの暖炉もすごいね! そっちは暖かいの?』
『暖かいよ。半袖でも平気なくらい』
一ノ瀬の指が止まった。
「……半袖?」
室内にいる自分の吐く息は、僅かに白い。
暖房は必要最低限しか使えない。
なのに蓮は、半袖でタラバガニと刺身を食べ、日本酒を飲んでいる。
一ノ瀬はもう一度写真を見たあと、本当に聞きたかったことを入力した。
『蓮くん、食べ物ってまだ結構あるの?』
返事はすぐに来た。
『あるよ』
『どれくらい?』
今度は少し間が空いた。
『当分困らないと思う』
その文字を見た瞬間、一ノ瀬の顔から笑顔が消えた。
当分困らない。
自分たちには、まだ食料がある。
柴田が今日も奪ってきた。
明日も何かを持って帰ってくるかもしれない。
だが、それをいつまで続けられる?
毎日誰かの部屋へ押し入り、何時間も探し回り、喧嘩して、奪って、ようやく今日を繋ぐ。
その隣で、蓮は暖炉の前に座り、刺身を食べ、日本酒を飲んでいる。
しかも――当分困らない。
一ノ瀬は唇を噛んだ。
それでも送った文章には、そんな感情を一切出さなかった。
『いいなぁー 私も食べたーい!』
少しして。
『美味しかったよ』
「……」
一ノ瀬の眉間に皺が寄る。
「そうじゃないでしょ」
その時だった。
ドンッ!
一ノ瀬が振り返った。
廊下。
近い。
続けて、男の怒鳴り声が響く。
「開けろ! 食料あるんだろ!」
「ない! 本当にないから!」
女性の声。
直後。
ドンッ!
また何かが扉へ叩きつけられる。
「開けろって言ってんだろ!」
「やめて! 本当にないの!」
一ノ瀬の表情から苛立ちが消えた。
同じ階だ。
数部屋しか離れていない。
ドンッ!
ドンッ!
そして、何かが壊れる音がした。
柴田がソファから立ち上がった。
「またかよ」
一ノ瀬が振り返る。
「どうするの?」
「ほっとけ」
「でも近いよ?」
「俺らの部屋じゃねえだろ」
柴田は玄関へ近づこうともしなかった。
「余計なことして巻き込まれんのごめんだ」
一ノ瀬は何も言わなかった。
剛の言っていることは正しい。
自分たちには関係ない。
それなのに、なぜかさっきまで以上に剛が小さく見えた。
強い男だと思っていた。
自分を守れる男だと思っていた。
実際、今まで何度も食料を持って帰ってきた。
それでも、一ノ瀬の視線は自然とスマートフォンへ戻る。
画面には、さっきの写真が残っている。
タラバガニ。
刺身。
日本酒。
そして、暖炉。
一ノ瀬は画面を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
◇
夜。
2501号室。
蓮は暖炉の前に座り、日本酒を飲んでいた。
スマートフォンには、今日一日だけでもいくつものメッセージが届いている。
住民グループでは、
『今日の配給量では足りません』
『明日は少し増やせませんか?』
『次の救援物資について何か連絡はありませんか?』
『子供がずっとお腹空いたって言ってます』
そんな投稿が今も続いている。
個人メッセージには、昼間の母親。
最後の文章は、
『……分かりました』
そして、別のトーク画面には一ノ瀬美咲。
『いいなぁ♡ 私も食べたーい!』
蓮はそれぞれの画面を順番に眺めた。
住民は食料を欲しがっている。
母親は薬を欲しがっている。
一ノ瀬は、まだ冗談のように振る舞っている。
だが、欲しいものが自分のところにあると知った人間が、いつまでも我慢できるわけではない。
「あと二日か……」
蓮はスマートフォンを置き、残っていた蟹の身を口へ運んだ。
ゆっくり噛む。
「……うま」
暖炉の中で、薪が小さく弾けた。
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Day 43
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「人の飯が気になり始めたら、自分の皿はもう空に近い。」
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