第53話 Day 42 代表という名の権力
朝。
マンション一階の配給所には、今日も長い列ができていた。
以前のような怒鳴り声はなく、誰もが黙って自分の順番を待っている。名前と世帯人数を確認され、そのうえで決められた量の食料を受け取る。
米、缶詰、レトルト食品、水。
その量は数日前より明らかに少なくなっていたが、それでも誰も奪わず、列を乱そうとする者もいない。
少なくとも、表面上は秩序が戻っていた。
「次の方」
住民代表の男が名簿を見る。
「1403号室。三人家族ですね」
「はい」
決められた食料が渡される。
女性は袋の中を見ると、不安そうに聞いた。
「あの……昨日より少なくないですか?」
「配給量を調整しています」
「でも、これだけだと……」
「皆さん同じです」
女性は何か言いたそうにしていたが、後ろにはまだ何十人も並んでいる。
結局、
「……分かりました」
それだけ言って離れていった。
その後も次々と住民が前へ進み、決められた食料を受け取っていく。
誰も満足してはいない。
それでも、配給があるうちは従う。
それが、今のマンションだった。
◇
昼過ぎ。
共用スペースの一角に設けられた簡易的な診療スペースには、今日も数人の住民が並んでいた。
咳、発熱、腹痛、怪我。
一ヶ月以上続く異常な生活によって、体調を崩す者は日に日に増えている。
その中には、朝霧詩織の姿もあった。
昨日あれだけグループで好き勝手に言われたにもかかわらず、今日も来ていた。
「次の方」
田村が椅子に座ったまま声を掛ける。
詩織はその横で患者の状態を確認していた。
「熱はいつからですか?」
「昨日の夜からです」
「咳は?」
「少し……」
詩織は患者の呼吸を確認しながら質問を重ね、必要なことだけを淡々と聞いていく。
愛想はなく、雑談もしない。
ただ、診察だけは丁寧だった。
住民グループでは昨日の件について、まだ詩織への嫌味が残っている。
それでも彼女は何も言わなかった。
◇
2501号室。
蓮はコーヒーを飲みながら、その様子を住民グループ越しに眺めていた。
診療を受けた住民から投稿が入る。
『今日も朝霧さんが診てくれています』
『田村先生と朝霧先生がいるので、体調が悪い方は早めに相談してください』
昨日、あれだけ叩かれた。
それでも今日も診ている。
蓮はカップを置いた。
「……お人好しなこった」
それ以上は何も言わなかった。
連絡するつもりもないし、助けるつもりもない。
ただ、朝霧詩織。
その名前だけは覚えておくことにした。
◇
午後八時。
一日の配給が終わったあと、住民代表たちは管理室へ集まっていた。
机の上には、現在の共同備蓄をまとめた一覧表が置かれている。
今日配った量。
残っている量。
世帯数。
一日あたりの消費量。
そして、次の救援物資。
予定なし。
一人の代表が電卓を叩く。
何度計算しても、答えは変わらなかった。
「……まずいな」
誰も聞き返さなかった。
全員、分かっていた。
「今日かなり減らしたんですよね?」
「ああ」
「それでもこれですか?」
「これでもだ」
男が一覧表を指で叩く。
「今の量を維持しても、長くは持たない」
「次の救援は?」
「連絡なし」
「自治体には?」
「今日も問い合わせた」
「何て?」
「未定」
室内に沈黙が落ちた。
一人が椅子にもたれる。
「未定って……」
誰も続きを言わなかった。
これまでは、救援物資が来ることを前提にして何とかやってきた。
だが、もし来なかったら。
今ある食料が、このマンションに残された最後の食料になる。
もちろん、各家庭に多少は残っている。
だが、それも家宅調査でかなりの量を共同備蓄へ回させた。
今では、この管理室にある食料こそがマンション住民にとって最大の生命線だった。
◇
しばらくして、一人の男が口を開いた。
「……なあ」
誰も反応しない。
「俺たちの分、先に確保しておかないか?」
数人が顔を上げた。
「何ですか、それ」
「どういう意味です?」
男は机の上の一覧表を見る。
「このまま減っていったら、そのうち本当に何もなくなる」
「だから配給を減らしてるんでしょう」
「それでもなくなる」
「……」
「その時、俺たちの家族はどうする?」
一人が眉をひそめた。
「それは皆同じでしょう」
「同じ?」
男が顔を上げる。
「本当に同じか?」
「どういう意味ですか」
男は少し黙ったあと、言った。
「俺たちは代表だぞ」
室内が静かになった。
「……だから?」
「毎日ここで何時間使ってる?」
誰も答えない。
男は続ける。
「食料の残量を確認して、配給量を決めて、水の使用を調整して、住民同士が揉めれば呼び出される」
机の上の名簿を叩く。
「救援物資が来れば受け取るのも俺たち。誰にどれだけ渡すか決めるのも俺たちだ」
「それは住民から任されてるだけでしょう」
一人の女性代表が言った。
「だからって私たちが多く取っていい理由にはなりません」
「じゃあ聞くけど」
男が彼女を見る。
「俺たちが全員倒れたら、誰がこれをやる?」
「……」
「誰が食料を管理する?」
答えはない。
「誰が配給する?」
沈黙。
「誰が住民をまとめる?」
男は椅子へ深く座った。
「昨日、田村先生への優先配給を決めたよな」
何人かが頷く。
「医者だからでしょう」
「そうだよ」
男も頷いた。
「医者が倒れたら困るからだ」
そして、自分たちを見る。
「じゃあ俺たちは?」
誰も答えなかった。
「俺たちが倒れても困らないのか?」
「それとこれとは……」
「何が違う?」
女性代表が言葉に詰まる。
別の男が腕を組んだ。
「……確かに」
女性が振り返る。
「え?」
「いや」
男は少し考えてから続けた。
「俺たちも一日中これやってるからな」
もう一人も言う。
「仕事じゃないのにね」
「毎日文句言われて」
「配給が少ない」
「水が足りない」
「薬を寄越せ」
「誰かが揉めた」
一人が苦笑する。
「何かあれば全部俺たちだ」
少しずつ、室内の空気が変わり始めた。
◇
最初に提案した男が言った。
「別に好きなだけ持っていこうって言ってるんじゃない」
「じゃあ、どれくらいです?」
「最低限だよ」
「最低限って?」
「例えば三日分」
別の男が首を振る。
「三日じゃ意味ないだろ」
「じゃあ五日?」
「次の救援がいつ来るか分からないんだぞ」
「一週間くらいは必要じゃないか?」
一週間。
その言葉が出た瞬間、女性代表が再び口を開いた。
「待ってください」
全員が見る。
「一週間分を私たちだけ確保するんですか?」
「私たちだけじゃない」
「え?」
男は当然のように答えた。
「家族もだ」
今度こそ女性の表情が変わった。
「家族まで?」
「当たり前だろ」
「それはさすがにおかしいでしょう」
「何がおかしい?」
「代表本人なら、まだ管理業務のためという理屈は分かります。でも家族は関係ないでしょう」
「じゃあ俺だけ食って、妻と子供を飢えさせろって?」
「そういう話じゃありません」
「同じだよ」
男の声が強くなる。
「自分の家族すら守れない人間が、何百人もの住民を守れるのか?」
「……」
「俺たちは代表だぞ」
また、その言葉だった。
だが今度は、最初ほど誰も違和感を示さなかった。
むしろ一人が小さく頷く。
「……まあ、家族の安全が確保されてないと、管理に集中できないっていうのは分かる」
「でしょう?」
「でも、住民にどう説明するんです?」
その問いに、男はすぐ答えた。
「説明する必要あるか?」
「え?」
「共同備蓄の管理を任されてるのは俺たちだ」
「だからって……」
「全部記録すればいい」
男は一覧表を引き寄せ、その余白に文字を書く。
――管理要員用非常備蓄。
「これでいい」
女性代表がその文字を見る。
「名前を変えただけじゃないですか」
「違う」
男はペンを置いた。
「管理体制を維持するための備蓄だ」
「……」
「横領でもない。盗んでもいない」
男は周囲を見る。
「俺たちが管理してる食料から、管理に必要な人間の分を確保するだけだ」
別の代表が頷く。
「田村先生と同じ優先枠ってことか」
「そういうこと」
「それなら……」
また一人が頷く。
そして、また一人。
◇
結局、反対していた者も最後まで席を立たなかった。
一週間分。
代表本人。
その配偶者。
子供。
同居している家族。
人数を計算すると、決して少なくない量になった。
米、缶詰、レトルト食品、飲料水、カップ麺、保存食品、カセットボンベ、必要最低限の医薬品。
それらが共同備蓄から別に分けられ、箱が一つ、二つ、三つと積み上がっていった。
途中、一人の代表が呟いた。
「……結構な量だな」
誰も答えなかった。
一般住民なら、これだけあれば何世帯が何日生きられるだろう。
全員、それくらい分かっている。
だが、誰も止めなかった。
◇
作業が終わる頃、別の問題が出た。
「これ、どこに置きます?」
管理室の一角には、代表たちのために分けられた食料が積まれている。
「ここでいいだろ」
「いや」
一人が首を振った。
「住民が来たら見られるぞ」
沈黙。
「配給の時に誰か入ってくるかもしれない」
「じゃあ倉庫の奥は?」
「そこも確認される可能性ある」
少し考えて、誰かが言った。
「……分けて持って帰れば?」
全員がそちらを見る。
「各自の家で保管する」
「それは……」
一瞬、誰も賛成しなかった。
共同備蓄を自宅へ持ち帰る。
その行為だけを切り取れば、何をしているのかあまりにも分かりやすかった。
だが、最初に提案した男が言った。
「別に自分の物にするわけじゃない」
「……」
「保管場所を分散するだけだ」
「でも……」
「何かあった時、一ヶ所に全部置いてる方が危険だろ」
もっともらしい理由だった。
「前みたいに住民が暴れたら、管理室を襲われる可能性だってある」
その言葉で、数人の表情が変わった。
二十日前、届いたばかりの救援物資へ住民が群がった光景を、誰も忘れていない。
「……確かに」
「分散保管ならリスク対策にもなる」
「各代表宅で保管して、必要になったら戻す」
「それなら問題ないか」
いつの間にか、決まっていた。
◇
午後十時。
代表たちは人目を避けながら食料を運び始めた。
一度に全部ではない。
箱、袋、リュック。
それぞれに分け、各自の部屋へ持ち帰っていく。
その途中、一人の若い代表が立ち止まった。
両手には、米と缶詰が入った袋。
「……これ、本当に大丈夫なんですか?」
前を歩いていた男が振り返る。
「何が?」
「いや……」
若い男は袋を見る。
「これ、住民から集めた物ですよね」
男は黙って見ている。
「明日からまた配給減らすんでしょう?」
「ああ」
「なのに俺たちは一週間分持って帰るって……」
「何が言いたい?」
若い男は答えられなかった。
少しして、男が笑った。
「考えすぎだよ」
「でも……」
男は自分が持っている食料の箱を持ち直し、当たり前のことを教えるように言った。
「俺たちは代表だぞ」
若い男は何も言わなかった。
そのまま二人は、それぞれの部屋へ向かった。
◇
午後十一時。
住民グループに通知が入った。
『共同備蓄の残量を再確認した結果、現状の配給量を維持することは困難と判断しました』
『明日より各世帯への配給量を、さらに調整させていただきます。次回の救援物資到着まで共同備蓄を維持するため、ご理解とご協力をお願いいたします』
すぐに返信が入る。
『また減るんですか?』
『今日でもかなり少なかったですよ』
『子供がいる家庭は考慮してください』
『あと何日分あるんですか?』
『次の救援物資、本当に来るんですよね?』
代表から、同じような説明が繰り返される。
公平。
維持。
協力。
皆で乗り越える。
その頃、代表たちの家には、一般住民には配られなかった食料が積まれていた。
昨日までは、食料を預かる人間だった。
今日からは、食料を配る人間になった。
そして今夜、自分たちだけは食料がなくならない場所へ移った。
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Day 42
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「権力は名前を付ければ正当に見える」
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