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氷河期ストレージ ~裏切られて死んだ俺は、30日前に戻り無限収納で世界を生き抜く~  作者: 宵白レン


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第52話 Day 41 声の小さな医者

翌朝。


一階の共同スペースには、昨日と同じように住民たちが集まり始めていた。


食料の配給、水の確保、そして昨日から新しく始まった簡易的な診療。


病院へ行くことができない今、マンションに医師が二人いるという事実は、住民たちにとって想像以上に大きな安心材料になっていた。


特に田村の周囲には、朝から何人もの住民が集まっている。


「先生、昨日から咳が止まらなくて」


「熱は?」


「三十七度八分くらいです」


「喉を見せてください」


田村は慣れた様子で住民を診ていく。


「恐らく風邪でしょう。今は身体を冷やさないようにしてください。薬も限られていますから、まずは安静に」


「ありがとうございます、先生」


住民が何度も頭を下げる。


その隣では、朝霧詩織が昨日と同じように、ほとんど言葉を発することなく診療を手伝っていた。


体温を確認し、症状を書き留め、残っている医薬品の中から必要な物を田村へ渡す。


田村が診察し、詩織が補助する。


たった一日で、それが当たり前の光景になり始めていた。



午前十一時を少し過ぎた頃だった。


「先生!」


突然、共同スペースに女性の叫び声が響いた。


住民たちが一斉に振り返る。


階段から駆け込んできたのは、昨日から子供が熱を出していた母親だった。


「先生、お願いします!」


田村が立ち上がる。


「どうしました?」


「子供が……急におかしくなって……!」


「落ち着いてください。どんな状態です?」


「分からないんです! さっきまで寝てたのに、呼んでもちゃんと返事しなくなって……!」


田村の表情が変わった。


「どこです?」


「部屋です!」


「分かりました。行きましょう」


田村が医薬品の入ったケースを手に取る。


詩織もすぐに立ち上がった。


「私も行きます」


「朝霧先生はここにいてください」


田村が振り返る。


「でも……」


「まだ待っている患者がいるでしょう。大丈夫です、私が診ます」


「……」


田村は母親とともに階段へ向かった。


詩織はその背中を見つめていたが、やがて手元の紙へ視線を戻す。


だが、数分経っても集中できなかった。


昨日診療を手伝った時、あの子供の状態を詩織も確認していた。


高熱が続き、咳もあった。さらに母親は、食事も水分もあまり取れていないと言っていた。


嫌な予感がする。


詩織は手元の紙を置いた。


「……すみません」


待っている住民たちへ小さく頭を下げると、そのまま田村たちの後を追った。



子供はベッドの上に横たわっていた。


顔は赤く、呼吸も荒い。母親が何度呼びかけても、反応は鈍かった。


田村が額へ触れる。


「体温は?」


「さっき測ったら四十度近くありました」


「薬は?」


「昨日もらったものを飲ませました」


「吐きましたか?」


「一度だけ……」


田村は子供の状態を確認していく。


「水分は?」


「ほとんど飲んでくれなくて……」


田村が頷いた。


「高熱と脱水でしょう」


「脱水……?」


「この環境です。食事も水分も以前のようには取れていない。子供は大人より影響を受けやすいんです」


母親の顔が青ざめる。


「大丈夫なんですか?」


「まずは水分を取らせましょう。熱も下げないといけない」


その時、部屋の扉が開いた。


詩織だった。


田村が振り返る。


「朝霧先生?」


「……すみません。気になって」


「ここは私が診ると言ったでしょう」


詩織は答えなかった。


視線はすでに子供へ向いている。


荒い呼吸。


顔色。


胸の動き。


それらを見た瞬間、詩織の表情が変わった。


「少し診せてください」


田村の返事を待たず、ベッドのそばへしゃがみ込む。


「僕、聞こえる?」


子供の反応は弱い。


詩織は首元へ手を伸ばして脈を確認すると、続いて呼吸、胸の動き、瞳孔を確かめ、すぐに母親を見た。


「昨日からずっと熱が?」


「はい」


「咳は?」


「少し……」


「息が苦しいって言ってませんでした?」


母親が一瞬考える。


「昨日の夜……胸が苦しいって、一回だけ言ってました」


「いつ頃ですか?」


「寝る前だったと思います」


詩織がもう一度、子供の呼吸を確認する。


右。


左。


そして。


「……違う」


田村の眉が動いた。


「何が?」


「脱水だけじゃありません」


「朝霧先生」


「呼吸状態がおかしいです」


田村が小さく息を吐いた。


「高熱があるんだから、呼吸が速くなるのは当然でしょう」


「それだけじゃありません」


普段なら消えてしまいそうな詩織の声が、少しだけ強くなった。


「肺炎を起こしている可能性があります」


母親の顔色が変わる。


「肺炎……?」


田村がすぐに口を挟んだ。


「まだ可能性の話です。お母さんを不安にさせるようなことを簡単に言わないでください」


「でも、このまま様子を見る方が危険です」


「レントゲンも血液検査もできないんですよ?」


「だから、今ある所見で判断するしかありません」


田村の表情から笑みが消えた。


「私が診ています」


詩織も田村を見る。


普段なら、ここで黙ったかもしれない。


だが、今は目の前に患者がいる。


「呼吸が浅いです。意識状態も悪くなっています」


「高熱と脱水でも起こります」


「唇も見てください」


田村が止まった。


詩織はすぐに母親へ向き直る。


「救援物資の中に簡易酸素はありませんでしたか?」


「え?」


母親には分からなかった。


だが、部屋の外から様子を見ていた住民の一人が口を開く。


「確か……小さい酸素ボンベみたいなのがあったと思う」


詩織が振り返る。


「持ってきてください。急いで」


その声に押されるように、住民が走り出した。



そこからの詩織は、昨日までとは別人だった。


「上半身を少し起こしてください」


母親が慌てて動く。


「このくらいですか?」


「もう少しだけ。はい、そこで大丈夫です」


詩織は子供から目を離さない。


「厚着させすぎています。毛布を一枚外してください」


「でも、寒くないですか?」


「今は大丈夫です。室温は確保できています」


田村が横から口を挟む。


「朝霧先生、勝手なことを――」


「田村先生」


詩織が初めて真正面から田村を見る。


「今は、この子を診てください」


田村が黙った。


やがて簡易酸素が届いた。


設備もない。


検査もできない。


使える薬も限られている。


普段の病院とは比較にならない環境だったが、それでも今ある物だけで、できることをする。


数分。


十分。


母親は祈るように子供の手を握り続けた。


やがて、荒かった呼吸が少しずつ落ち着き始める。


「……先生」


母親の声が震える。


詩織はまだ子供を見ていた。


「まだ安心できません」


「でも、さっきより……」


「はい」


詩織がようやく小さく頷いた。


「少し戻っています」


母親の目から涙が溢れた。


そして、子供が僅かに目を開く。


「……ママ」


「うん!」


母親がその手を強く握る。


「ここにいるよ!」


その場にいた住民たちからも、安堵の息が漏れた。


母親は涙を拭うことも忘れ、詩織へ何度も頭を下げた。


「先生……ありがとうございます。本当に……」


詩織は小さく首を振る。


「まだ安心できません。今夜はできるだけ誰かがそばにいてください。呼吸がおかしくなったり、また反応が悪くなったらすぐに――」


「朝霧先生」


田村が言葉を遮った。


詩織が振り返る。


田村は子供のそばへ来ると、改めて脈を確認した。


そして、先ほどまでの険しい表情が嘘だったかのように穏やかに頷く。


「うん。だいぶ落ち着きましたね」


母親が顔を上げる。


「もう大丈夫なんですか?」


「ええ。ただし、朝霧先生が言ったように今夜は注意して見ていてください」


「はい……!」


母親が何度も頷く。


田村はゆっくりと説明を始めた。


「最初に診た時点で、高熱と脱水がかなり進んでいました。それに加えて、呼吸器にも症状が出始めていたようです」


詩織の眉が僅かに動いた。


「田村先生、それは――」


「朝霧先生」


田村が笑顔のまま遮る。


そして、何事もなかったように母親へ話を続けた。


「ですから、まず状態を確認して、その後必要な処置へ移りました。朝霧先生にも手伝ってもらいましたが、早い段階で対応できたのがよかったですね」


「そうだったんですか……」


母親は医者ではない。


最初に田村が高熱と脱水だと言っていたことは覚えている。


途中から詩織が来て、何かを指摘したことも、処置が変わったことも、詩織が必死に自分の息子を診てくれたことも、ちゃんと見ていた。


だが、何が医学的に正しかったのか、誰が何を見抜いたのか。


そこまでは分からない。


田村は最初から落ち着いていた。


説明も分かりやすく、今も自信を持って大丈夫だと言ってくれている。


母親は深く頭を下げた。


「田村先生……本当にありがとうございました」


「いえ。当然のことをしたまでです」


そして、すぐに詩織にも頭を下げる。


「朝霧先生も、本当にありがとうございました。来てくださって……本当に助かりました」


「……いえ」


詩織はそれだけ答えた。


田村が満足そうに頷く。


「医者が二人いたから、より確実に対応できたということです」


「はい……。本当にありがとうございました」


母親に悪意などなかった。


田村にも、詩織にも、心から感謝していた。


ただ、実際に何が起きていたのかを理解していなかっただけだった。



部屋を出た直後。


「朝霧先生」


田村が詩織を呼び止めた。


「……はい」


先ほどまで母親へ向けていた笑顔は、もうなかった。


「君ね。患者の前で、ああいうことをするのはやめてもらえるかな」


「でも、最初の診断は脱水だと……」


「だから?」


詩織が田村を見る。


「呼吸状態が悪化していました。このまま水分補給と解熱だけで様子を見ていたら――」


「分かっていたよ」


詩織が止まる。


「……え?」


「私だって医者だ。呼吸器症状が出ていることくらい分かっていた」


「でも、さっきは高熱で呼吸が速いのは当然だと……」


田村の眉が動いた。


「患者を不安にさせないためだよ」


「……」


「何でも思ったことをそのまま口にすればいいわけじゃない。まず脱水への対応をしながら状態を見る。その上で次の処置へ移るつもりだった」


そんな説明は、一度もしていなかった。


簡易酸素を求めたのも、呼吸状態の危険性を指摘したのも、すべて詩織だった。


だが、ここにはカルテもない。


看護師もいない。


診察を記録している人間もいない。


誰がどの時点で何を考えていたのか、それを証明するものなどなかった。


「それを君が勝手に割り込んできて、まるで自分が気づいたように振る舞った」


詩織の目が僅かに見開かれる。


「私は、そんなつもりでは……」


「じゃあ何で私の診察に割り込んだ?」


「子供が危なかったからです」


「だから私も診ていたんだ!」


田村の声が大きくなる。


詩織が黙った。


田村は周囲を確認すると、今度は声を落とした。


「君は東都中央医療センターにいるから、自分が優秀だと思ってるのかもしれないけどね」


「そんなことは……」


「小娘が、少し分かったくらいで出しゃばるな」


詩織の身体が僅かに固まった。


「私は君より長く医者をやっている」


「……」


「今回は私が最初から診ていたから、すぐ対応できた。君一人だったらどうなっていたか分からないぞ」


詩織は何も言わなかった。


反論しようと思えばできた。


間違っている。


そう言えばいい。


だが、言葉が出てこなかった。


田村はそんな詩織を見て、最後に言った。


「次からは私の指示に従ってくれ。分かったね?」


数秒の沈黙。


詩織は視線を落とした。


「……はい」


田村は満足したように頷き、その場を去っていった。


詩織だけが、廊下に残された。



午後。


住民グループに、子供の母親から投稿が入った。


『先ほど息子の容体が急に悪くなりましたが、田村先生と朝霧先生に診ていただき、今は落ち着いています。本当にありがとうございました』


続けて。


『田村先生がすぐに状態を見てくださって、朝霧先生も途中から処置を手伝ってくださいました。お二人がいてくださって本当に心強いです』


母親にとっては、それが見たままの出来事だった。


すぐに返信が付く。


『よかった!』


『田村先生さすがですね』


『本当に医者がいてくれてよかった』


『田村先生、ありがとうございました!』


もちろん、詩織への感謝もあった。


『朝霧先生もありがとうございました』


母親自身も続ける。


『朝霧先生も本当にありがとうございました。息子にずっと付き添ってくださって感謝しています』


詩織にも、ちゃんと感謝していた。


だが、現場を見ていなかった住民たちは別の部分に反応し始めた。


『途中からって、朝霧先生は最初いなかったんですか?』


『田村先生が診てる途中で来たみたいですよ』


『私、近くにいましたけど、途中で田村先生とちょっと揉めてましたよね?』


『何か診断に口出してたみたい』


『田村先生が診てるのに?』


一人が書き込む。


『若いから張り切ってるんじゃないですか?』


そこから、少しずつ話が変わっていった。


『昨日も田村先生が診るって言ってるのに、自分も医者ですって出てきましたよね』


『大きな病院にいるから自信あるんでしょうね』


『でも田村先生の方がずっと経験長いんでしょ?』


『こういう非常時は経験ある人に任せた方がいいと思う』


そして、一人の女性が書き込んだ。


『朝霧さんって、前からちょっと感じ悪いですよね』


続けて。


『挨拶してもほとんど喋らないし』


『分かる。美人だからって、ちょっとお高く止まってる感じ』


『若いのに東都中央医療センターなんでしょう?』


『すごいですよね。いろんな意味で』


意味を濁した言葉。


だが、誰もがその意味を理解できた。


さらに一件。


『あれだけ綺麗なら、偉い先生にも可愛がられるでしょうね』


数人が笑うリアクションを付けた。


そこにはもう、今日の子供の容体などほとんど関係なかった。



自室。


詩織はベッドに腰掛け、スマートフォンを見ていた。


指は動かない。


ただ、流れていく文字を見ていた。


感じが悪い。


愛想がない。


お高く止まっている。


顔で得をしている。


偉い先生に可愛がられている。


一つ一つ、初めて見る言葉ではなかった。


――朝霧先生って、本当に得だよね。


白い廊下。


病院。


数年前。


休憩室の前を通った時、看護師たちの声が聞こえた。


――あの顔なら上の先生も可愛がるでしょ。


――若いのに救急であそこまで任されるって、普通じゃないよね。


聞こえないふりをした。


別の日。


男性医師から食事に誘われた。


断った。


翌日。


――あの子、愛想ないよな。


また別の医師から誘われた。


断った。


――顔はいいけど、性格きつそうだよな。


患者を助けた。


難しい症例だった。


何時間も調べ、誰よりも早く病院へ行き、誰よりも遅く帰った。


勉強した。


経験を積んだ。


必死に医者になった。


それでも、聞こえてくる言葉は同じだった。



もっと昔。


詩織には、父親の記憶がない。


母親の記憶もない。


顔は写真でしか知らなかった。


物心がついた時には施設にいた。


「詩織ちゃんは頭がいいね」


褒められることはあった。


だから、勉強した。


勉強なら、努力した分だけ答えが返ってきた。


人間とは違った。


正しい答えを書けば正解になり、頑張れば点数になる。


だから、勉強だけは好きだった。


そして、いつからか医者になりたいと思った。


理由は単純だった。


誰かの役に立ちたかった。


自分がここにいてもいい。


そう思える理由が欲しかった。


それだけだった。



現在。


スマートフォンには、まだ書き込みが続いていた。


『田村先生の指示に従えばいいのに』


『こういう非常時に医者同士で揉めないでほしい』


『若い人って自分が正しいと思いがちだからね』


詩織は静かに画面を閉じた。


部屋が暗くなる。


誰もいない。


いつもと同じ、一人だった。


「……またか」


小さな声だった。


誰にも聞こえない。


「ここでも……同じなんだ」


少しだけ唇を噛む。


「私はただ……」


声が止まる。


しばらくして、ようやく続いた。


「誰かの役に立ちたいだけなのに……」


スマートフォンをベッドの上へ伏せた。



2501号室。


蓮は住民グループを眺めていた。


田村への感謝。


詩織への批判。


その両方を最初から最後まで読んでいた。


もちろん、蓮は現場にいたわけではない。


実際にどちらの判断が正しかったのか、何が起きたのか。グループの書き込みだけでは完全には分からない。


だが、一つだけ気になることがあった。


子供の容体が急変した。


最初に田村が診察し、その後、朝霧詩織が加わった。


そして、処置が変わった。


子供は助かった。


蓮は画面を上へ戻す。


朝霧詩織。


東都中央医療センター。


救命救急科。


「……救急か」


蓮はスマートフォンを置き、ソファへ身体を預けた。


食料はある。


水もある。


薬もある。


燃料もある。


安全な場所もある。


だが、薬を持っていることと、正しく使えることはまったく別だった。


怪我。


病気。


感染症。


この生活が長引けば、いつか自分にも起こり得る。


その時、蓮には医学の知識がない。


「医者は……一人欲しいな」


もう一度スマートフォンを手に取る。


田村。


朝霧。


二人の名前を見比べ、今日の住民グループの流れをもう一度読み返した。


蓮の指が、朝霧詩織の名前で止まる。


「……欲しいな」


朝霧詩織。


救命救急の医師。


技術もある。


少なくとも田村よりは、遥かに使える可能性が高い。


だが。


「まだ早いか」


蓮はスマートフォンを置いた。


────────────────


Day 41 声の小さな医者


電力 ▲

ガス ▲

水道 △

通信 ○


【今日のメモ】


「声が大きい方が正しいなら、世の中は簡単だ。」


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