第52話 Day 41 声の小さな医者
翌朝。
一階の共同スペースには、昨日と同じように住民たちが集まり始めていた。
食料の配給、水の確保、そして昨日から新しく始まった簡易的な診療。
病院へ行くことができない今、マンションに医師が二人いるという事実は、住民たちにとって想像以上に大きな安心材料になっていた。
特に田村の周囲には、朝から何人もの住民が集まっている。
「先生、昨日から咳が止まらなくて」
「熱は?」
「三十七度八分くらいです」
「喉を見せてください」
田村は慣れた様子で住民を診ていく。
「恐らく風邪でしょう。今は身体を冷やさないようにしてください。薬も限られていますから、まずは安静に」
「ありがとうございます、先生」
住民が何度も頭を下げる。
その隣では、朝霧詩織が昨日と同じように、ほとんど言葉を発することなく診療を手伝っていた。
体温を確認し、症状を書き留め、残っている医薬品の中から必要な物を田村へ渡す。
田村が診察し、詩織が補助する。
たった一日で、それが当たり前の光景になり始めていた。
◇
午前十一時を少し過ぎた頃だった。
「先生!」
突然、共同スペースに女性の叫び声が響いた。
住民たちが一斉に振り返る。
階段から駆け込んできたのは、昨日から子供が熱を出していた母親だった。
「先生、お願いします!」
田村が立ち上がる。
「どうしました?」
「子供が……急におかしくなって……!」
「落ち着いてください。どんな状態です?」
「分からないんです! さっきまで寝てたのに、呼んでもちゃんと返事しなくなって……!」
田村の表情が変わった。
「どこです?」
「部屋です!」
「分かりました。行きましょう」
田村が医薬品の入ったケースを手に取る。
詩織もすぐに立ち上がった。
「私も行きます」
「朝霧先生はここにいてください」
田村が振り返る。
「でも……」
「まだ待っている患者がいるでしょう。大丈夫です、私が診ます」
「……」
田村は母親とともに階段へ向かった。
詩織はその背中を見つめていたが、やがて手元の紙へ視線を戻す。
だが、数分経っても集中できなかった。
昨日診療を手伝った時、あの子供の状態を詩織も確認していた。
高熱が続き、咳もあった。さらに母親は、食事も水分もあまり取れていないと言っていた。
嫌な予感がする。
詩織は手元の紙を置いた。
「……すみません」
待っている住民たちへ小さく頭を下げると、そのまま田村たちの後を追った。
◇
子供はベッドの上に横たわっていた。
顔は赤く、呼吸も荒い。母親が何度呼びかけても、反応は鈍かった。
田村が額へ触れる。
「体温は?」
「さっき測ったら四十度近くありました」
「薬は?」
「昨日もらったものを飲ませました」
「吐きましたか?」
「一度だけ……」
田村は子供の状態を確認していく。
「水分は?」
「ほとんど飲んでくれなくて……」
田村が頷いた。
「高熱と脱水でしょう」
「脱水……?」
「この環境です。食事も水分も以前のようには取れていない。子供は大人より影響を受けやすいんです」
母親の顔が青ざめる。
「大丈夫なんですか?」
「まずは水分を取らせましょう。熱も下げないといけない」
その時、部屋の扉が開いた。
詩織だった。
田村が振り返る。
「朝霧先生?」
「……すみません。気になって」
「ここは私が診ると言ったでしょう」
詩織は答えなかった。
視線はすでに子供へ向いている。
荒い呼吸。
顔色。
胸の動き。
それらを見た瞬間、詩織の表情が変わった。
「少し診せてください」
田村の返事を待たず、ベッドのそばへしゃがみ込む。
「僕、聞こえる?」
子供の反応は弱い。
詩織は首元へ手を伸ばして脈を確認すると、続いて呼吸、胸の動き、瞳孔を確かめ、すぐに母親を見た。
「昨日からずっと熱が?」
「はい」
「咳は?」
「少し……」
「息が苦しいって言ってませんでした?」
母親が一瞬考える。
「昨日の夜……胸が苦しいって、一回だけ言ってました」
「いつ頃ですか?」
「寝る前だったと思います」
詩織がもう一度、子供の呼吸を確認する。
右。
左。
そして。
「……違う」
田村の眉が動いた。
「何が?」
「脱水だけじゃありません」
「朝霧先生」
「呼吸状態がおかしいです」
田村が小さく息を吐いた。
「高熱があるんだから、呼吸が速くなるのは当然でしょう」
「それだけじゃありません」
普段なら消えてしまいそうな詩織の声が、少しだけ強くなった。
「肺炎を起こしている可能性があります」
母親の顔色が変わる。
「肺炎……?」
田村がすぐに口を挟んだ。
「まだ可能性の話です。お母さんを不安にさせるようなことを簡単に言わないでください」
「でも、このまま様子を見る方が危険です」
「レントゲンも血液検査もできないんですよ?」
「だから、今ある所見で判断するしかありません」
田村の表情から笑みが消えた。
「私が診ています」
詩織も田村を見る。
普段なら、ここで黙ったかもしれない。
だが、今は目の前に患者がいる。
「呼吸が浅いです。意識状態も悪くなっています」
「高熱と脱水でも起こります」
「唇も見てください」
田村が止まった。
詩織はすぐに母親へ向き直る。
「救援物資の中に簡易酸素はありませんでしたか?」
「え?」
母親には分からなかった。
だが、部屋の外から様子を見ていた住民の一人が口を開く。
「確か……小さい酸素ボンベみたいなのがあったと思う」
詩織が振り返る。
「持ってきてください。急いで」
その声に押されるように、住民が走り出した。
◇
そこからの詩織は、昨日までとは別人だった。
「上半身を少し起こしてください」
母親が慌てて動く。
「このくらいですか?」
「もう少しだけ。はい、そこで大丈夫です」
詩織は子供から目を離さない。
「厚着させすぎています。毛布を一枚外してください」
「でも、寒くないですか?」
「今は大丈夫です。室温は確保できています」
田村が横から口を挟む。
「朝霧先生、勝手なことを――」
「田村先生」
詩織が初めて真正面から田村を見る。
「今は、この子を診てください」
田村が黙った。
やがて簡易酸素が届いた。
設備もない。
検査もできない。
使える薬も限られている。
普段の病院とは比較にならない環境だったが、それでも今ある物だけで、できることをする。
数分。
十分。
母親は祈るように子供の手を握り続けた。
やがて、荒かった呼吸が少しずつ落ち着き始める。
「……先生」
母親の声が震える。
詩織はまだ子供を見ていた。
「まだ安心できません」
「でも、さっきより……」
「はい」
詩織がようやく小さく頷いた。
「少し戻っています」
母親の目から涙が溢れた。
そして、子供が僅かに目を開く。
「……ママ」
「うん!」
母親がその手を強く握る。
「ここにいるよ!」
その場にいた住民たちからも、安堵の息が漏れた。
母親は涙を拭うことも忘れ、詩織へ何度も頭を下げた。
「先生……ありがとうございます。本当に……」
詩織は小さく首を振る。
「まだ安心できません。今夜はできるだけ誰かがそばにいてください。呼吸がおかしくなったり、また反応が悪くなったらすぐに――」
「朝霧先生」
田村が言葉を遮った。
詩織が振り返る。
田村は子供のそばへ来ると、改めて脈を確認した。
そして、先ほどまでの険しい表情が嘘だったかのように穏やかに頷く。
「うん。だいぶ落ち着きましたね」
母親が顔を上げる。
「もう大丈夫なんですか?」
「ええ。ただし、朝霧先生が言ったように今夜は注意して見ていてください」
「はい……!」
母親が何度も頷く。
田村はゆっくりと説明を始めた。
「最初に診た時点で、高熱と脱水がかなり進んでいました。それに加えて、呼吸器にも症状が出始めていたようです」
詩織の眉が僅かに動いた。
「田村先生、それは――」
「朝霧先生」
田村が笑顔のまま遮る。
そして、何事もなかったように母親へ話を続けた。
「ですから、まず状態を確認して、その後必要な処置へ移りました。朝霧先生にも手伝ってもらいましたが、早い段階で対応できたのがよかったですね」
「そうだったんですか……」
母親は医者ではない。
最初に田村が高熱と脱水だと言っていたことは覚えている。
途中から詩織が来て、何かを指摘したことも、処置が変わったことも、詩織が必死に自分の息子を診てくれたことも、ちゃんと見ていた。
だが、何が医学的に正しかったのか、誰が何を見抜いたのか。
そこまでは分からない。
田村は最初から落ち着いていた。
説明も分かりやすく、今も自信を持って大丈夫だと言ってくれている。
母親は深く頭を下げた。
「田村先生……本当にありがとうございました」
「いえ。当然のことをしたまでです」
そして、すぐに詩織にも頭を下げる。
「朝霧先生も、本当にありがとうございました。来てくださって……本当に助かりました」
「……いえ」
詩織はそれだけ答えた。
田村が満足そうに頷く。
「医者が二人いたから、より確実に対応できたということです」
「はい……。本当にありがとうございました」
母親に悪意などなかった。
田村にも、詩織にも、心から感謝していた。
ただ、実際に何が起きていたのかを理解していなかっただけだった。
◇
部屋を出た直後。
「朝霧先生」
田村が詩織を呼び止めた。
「……はい」
先ほどまで母親へ向けていた笑顔は、もうなかった。
「君ね。患者の前で、ああいうことをするのはやめてもらえるかな」
「でも、最初の診断は脱水だと……」
「だから?」
詩織が田村を見る。
「呼吸状態が悪化していました。このまま水分補給と解熱だけで様子を見ていたら――」
「分かっていたよ」
詩織が止まる。
「……え?」
「私だって医者だ。呼吸器症状が出ていることくらい分かっていた」
「でも、さっきは高熱で呼吸が速いのは当然だと……」
田村の眉が動いた。
「患者を不安にさせないためだよ」
「……」
「何でも思ったことをそのまま口にすればいいわけじゃない。まず脱水への対応をしながら状態を見る。その上で次の処置へ移るつもりだった」
そんな説明は、一度もしていなかった。
簡易酸素を求めたのも、呼吸状態の危険性を指摘したのも、すべて詩織だった。
だが、ここにはカルテもない。
看護師もいない。
診察を記録している人間もいない。
誰がどの時点で何を考えていたのか、それを証明するものなどなかった。
「それを君が勝手に割り込んできて、まるで自分が気づいたように振る舞った」
詩織の目が僅かに見開かれる。
「私は、そんなつもりでは……」
「じゃあ何で私の診察に割り込んだ?」
「子供が危なかったからです」
「だから私も診ていたんだ!」
田村の声が大きくなる。
詩織が黙った。
田村は周囲を確認すると、今度は声を落とした。
「君は東都中央医療センターにいるから、自分が優秀だと思ってるのかもしれないけどね」
「そんなことは……」
「小娘が、少し分かったくらいで出しゃばるな」
詩織の身体が僅かに固まった。
「私は君より長く医者をやっている」
「……」
「今回は私が最初から診ていたから、すぐ対応できた。君一人だったらどうなっていたか分からないぞ」
詩織は何も言わなかった。
反論しようと思えばできた。
間違っている。
そう言えばいい。
だが、言葉が出てこなかった。
田村はそんな詩織を見て、最後に言った。
「次からは私の指示に従ってくれ。分かったね?」
数秒の沈黙。
詩織は視線を落とした。
「……はい」
田村は満足したように頷き、その場を去っていった。
詩織だけが、廊下に残された。
◇
午後。
住民グループに、子供の母親から投稿が入った。
『先ほど息子の容体が急に悪くなりましたが、田村先生と朝霧先生に診ていただき、今は落ち着いています。本当にありがとうございました』
続けて。
『田村先生がすぐに状態を見てくださって、朝霧先生も途中から処置を手伝ってくださいました。お二人がいてくださって本当に心強いです』
母親にとっては、それが見たままの出来事だった。
すぐに返信が付く。
『よかった!』
『田村先生さすがですね』
『本当に医者がいてくれてよかった』
『田村先生、ありがとうございました!』
もちろん、詩織への感謝もあった。
『朝霧先生もありがとうございました』
母親自身も続ける。
『朝霧先生も本当にありがとうございました。息子にずっと付き添ってくださって感謝しています』
詩織にも、ちゃんと感謝していた。
だが、現場を見ていなかった住民たちは別の部分に反応し始めた。
『途中からって、朝霧先生は最初いなかったんですか?』
『田村先生が診てる途中で来たみたいですよ』
『私、近くにいましたけど、途中で田村先生とちょっと揉めてましたよね?』
『何か診断に口出してたみたい』
『田村先生が診てるのに?』
一人が書き込む。
『若いから張り切ってるんじゃないですか?』
そこから、少しずつ話が変わっていった。
『昨日も田村先生が診るって言ってるのに、自分も医者ですって出てきましたよね』
『大きな病院にいるから自信あるんでしょうね』
『でも田村先生の方がずっと経験長いんでしょ?』
『こういう非常時は経験ある人に任せた方がいいと思う』
そして、一人の女性が書き込んだ。
『朝霧さんって、前からちょっと感じ悪いですよね』
続けて。
『挨拶してもほとんど喋らないし』
『分かる。美人だからって、ちょっとお高く止まってる感じ』
『若いのに東都中央医療センターなんでしょう?』
『すごいですよね。いろんな意味で』
意味を濁した言葉。
だが、誰もがその意味を理解できた。
さらに一件。
『あれだけ綺麗なら、偉い先生にも可愛がられるでしょうね』
数人が笑うリアクションを付けた。
そこにはもう、今日の子供の容体などほとんど関係なかった。
◇
自室。
詩織はベッドに腰掛け、スマートフォンを見ていた。
指は動かない。
ただ、流れていく文字を見ていた。
感じが悪い。
愛想がない。
お高く止まっている。
顔で得をしている。
偉い先生に可愛がられている。
一つ一つ、初めて見る言葉ではなかった。
――朝霧先生って、本当に得だよね。
白い廊下。
病院。
数年前。
休憩室の前を通った時、看護師たちの声が聞こえた。
――あの顔なら上の先生も可愛がるでしょ。
――若いのに救急であそこまで任されるって、普通じゃないよね。
聞こえないふりをした。
別の日。
男性医師から食事に誘われた。
断った。
翌日。
――あの子、愛想ないよな。
また別の医師から誘われた。
断った。
――顔はいいけど、性格きつそうだよな。
患者を助けた。
難しい症例だった。
何時間も調べ、誰よりも早く病院へ行き、誰よりも遅く帰った。
勉強した。
経験を積んだ。
必死に医者になった。
それでも、聞こえてくる言葉は同じだった。
◇
もっと昔。
詩織には、父親の記憶がない。
母親の記憶もない。
顔は写真でしか知らなかった。
物心がついた時には施設にいた。
「詩織ちゃんは頭がいいね」
褒められることはあった。
だから、勉強した。
勉強なら、努力した分だけ答えが返ってきた。
人間とは違った。
正しい答えを書けば正解になり、頑張れば点数になる。
だから、勉強だけは好きだった。
そして、いつからか医者になりたいと思った。
理由は単純だった。
誰かの役に立ちたかった。
自分がここにいてもいい。
そう思える理由が欲しかった。
それだけだった。
◇
現在。
スマートフォンには、まだ書き込みが続いていた。
『田村先生の指示に従えばいいのに』
『こういう非常時に医者同士で揉めないでほしい』
『若い人って自分が正しいと思いがちだからね』
詩織は静かに画面を閉じた。
部屋が暗くなる。
誰もいない。
いつもと同じ、一人だった。
「……またか」
小さな声だった。
誰にも聞こえない。
「ここでも……同じなんだ」
少しだけ唇を噛む。
「私はただ……」
声が止まる。
しばらくして、ようやく続いた。
「誰かの役に立ちたいだけなのに……」
スマートフォンをベッドの上へ伏せた。
◇
2501号室。
蓮は住民グループを眺めていた。
田村への感謝。
詩織への批判。
その両方を最初から最後まで読んでいた。
もちろん、蓮は現場にいたわけではない。
実際にどちらの判断が正しかったのか、何が起きたのか。グループの書き込みだけでは完全には分からない。
だが、一つだけ気になることがあった。
子供の容体が急変した。
最初に田村が診察し、その後、朝霧詩織が加わった。
そして、処置が変わった。
子供は助かった。
蓮は画面を上へ戻す。
朝霧詩織。
東都中央医療センター。
救命救急科。
「……救急か」
蓮はスマートフォンを置き、ソファへ身体を預けた。
食料はある。
水もある。
薬もある。
燃料もある。
安全な場所もある。
だが、薬を持っていることと、正しく使えることはまったく別だった。
怪我。
病気。
感染症。
この生活が長引けば、いつか自分にも起こり得る。
その時、蓮には医学の知識がない。
「医者は……一人欲しいな」
もう一度スマートフォンを手に取る。
田村。
朝霧。
二人の名前を見比べ、今日の住民グループの流れをもう一度読み返した。
蓮の指が、朝霧詩織の名前で止まる。
「……欲しいな」
朝霧詩織。
救命救急の医師。
技術もある。
少なくとも田村よりは、遥かに使える可能性が高い。
だが。
「まだ早いか」
蓮はスマートフォンを置いた。
────────────────
Day 41 声の小さな医者
電力 ▲
ガス ▲
水道 △
通信 ○
【今日のメモ】
「声が大きい方が正しいなら、世の中は簡単だ。」
────────────────




