第50話 Day 39 一線
翌朝。
午前九時を過ぎた頃には、二十五階の廊下に十数人の住民が集まっていた。
昨夜、住民グループで「明日みんなで2501号室へ行こう」という投稿に多くの賛同が集まった。その言葉通り、住民代表だけではなく、食料が尽きかけている家庭、薬を求めている者、以前から蓮への不満を強く口にしていた住民までが最上階へ上がってきている。
中には、昨日から子供が熱を出しているという母親の姿もあった。
誰もが手ぶらだった。
少なくとも、この時点では。
彼ら自身も、まだ「話し合いに来た」と思っていたからだ。
住民代表の一人が2501号室の前へ立ち、インターホンを押した。
数秒後。
『何だ?』
蓮の声が返ってきた。
代表は背後にいる住民たちを一度振り返ってから、落ち着いた声で話し始める。
「神崎さん。昨日のグループチャットは見ていますよね?」
『あぁ』
「では話は分かっていると思います。現在、マンションでは食料だけでなく、水や医薬品も不足しています。もう一度、共同備蓄への協力をお願いしたいんです」
返事は早かった。
『断る』
廊下に小さなどよめきが起きる。
代表はその反応を気にすることなく続けた。
「全部出してくれと言っているわけではありません。余裕のある範囲でいいんです。特に薬については、本当に困っている人がいます」
『俺が薬を持ってるなんて言ったか?』
「言ってはいません。ただ――」
『じゃあ終わりだろ』
代表の言葉を蓮が遮った。
すると後ろから、一人の男が声を上げた。
「終わりじゃねえだろ!」
住民代表が振り返る。
男はそのままインターホンへ近づいた。
「お前、一ヶ月以上まともに配給も受けず、水まで汲みに来てないんだろ。何も持ってないわけねえじゃねえか」
『だから?』
「だから出せって言ってんだよ」
『嫌だね』
「人が困ってんだぞ!」
『俺も困った時に助けてもらえないことになってるはずだけどな』
その一言で、住民たちの表情が僅かに変わった。
約一週間前、蓮が共同備蓄への協力を拒否したあと、住民たちは次々と制裁を決めた。
配給から外す。
救援物資も渡さない。
住民同士の物資交換にも参加させない。
上層階の水道がほとんど使えなくなってからは、下層階へ水を汲みに来ることすら認めないという話になった。
困れば、そのうち頭を下げる。
そう思っていた。
だが、一日経っても、三日経っても、一週間経っても、蓮は何も求めなかった。
代表が口を開く。
「それは神崎さん自身が協力を拒否したからです」
『そうだな』
「今は状況が違います」
『俺には同じだけど』
「違います」
代表の声にも、少しずつ苛立ちが混じり始めた。
「次の救援物資がいつ来るのかも分からない。体調を崩している人も増えています。このままだと本当に命に関わります」
『なら、お前らで何とかすればいい』
そこで母親が前へ出た。
「うちの子が熱を出してるんです」
蓮から返事はない。
女性はインターホンへ向かって続けた。
「解熱剤がもうほとんどありません。もし持ってるなら、一箱でもいいんです。お願いします」
『持ってるなんて言ってないだろ』
「でも、あるんですよね?」
『何でそうなる』
「水だって準備してたんでしょう? 食料も一ヶ月以上ある。それだけ準備してた人が薬だけ用意してないなんて思えません」
蓮は数秒黙った。
そして。
『それはお前らの想像だ』
女性の顔が歪む。
「じゃあ、中を確認させてください」
その言葉で、廊下にいた住民たちの空気が変わった。
昨夜、グループチャットでも出た言葉だった。
中を確認する。
誰が聞いても穏やかな表現だ。
だが、蓮はその意味を理解している。
『嫌だ』
「見るだけです」
『嫌だね』
「何も取らないって言ってるでしょう!」
『だったら見る必要もないだろ』
「みんなが納得するためです!」
『俺が何を持ってるか、何でお前らを納得させる必要がある?』
代表が答える前に、別の男が声を荒らげた。
「同じマンションに住んでるからだろ!」
『だから?』
「全員で生き残らなきゃ意味ねえだろ!」
『俺は一人で生き残る』
廊下が静かになった。
あまりにも迷いのない言葉だった。
男が顔を赤くする。
「……お前」
『何?』
「自分だけ助かればいいのかよ」
『最初からそう言ってる』
その瞬間、何かが切れた。
「ふざけんな!」
ドンッ!
男の足が玄関扉へ叩きつけられ、鈍い音が二十五階の廊下へ響いた。
住民代表が慌てて振り返る。
「やめてください!」
だが、男はもう一度蹴った。
ドンッ!
扉は僅かに震えただけだった。
「クソッ」
さらに一度。
それでも開かない。
あの日も、同じように怒った住民がこの扉を蹴った。
その時は、異常な頑丈さに気付いただけで終わった。
だが、今日は違った。
「ちょっと待ってろ」
別の男がそう言い残し、その場を離れた。
「何する気ですか?」
代表が呼び止めたが、男は返事をしなかった。
数分後。
戻ってきた男の手には、工具が握られていた。
「おい」
代表の顔色が変わる。
「それは駄目です」
「話し合いで開けねえんだろ?」
「だからって人の家を壊していいことにはなりません!」
「中に何があるか確認するだけだろ!」
「それと扉を壊すのは別です!」
だが、男は聞かなかった。
工具を玄関扉の隙間へ差し込もうとする。
一度、二度と角度を変えるが、まともに入らない。
「なんだよこれ」
苛立った男が、そのまま工具で扉を叩いた。
ガンッ!
大きな金属音が廊下へ響き、何人かの住民が驚いて一歩下がった。
男はもう一度振り下ろす。
ガンッ!
「やめろって!」
代表が腕を掴もうとする。
だが、その時、後ろにいた別の住民が壁際に置かれている消火器へ目を向けた。
「それじゃ弱いだろ」
消火器を外す。
「おい、本当にやめてください!」
代表の声が大きくなる。
しかし、すでに数人の顔には、話し合いに来た時とは違うものが浮かんでいた。
ここまで来た。
なら、少しくらい確かめてもいい。
中には大量の水と食料があるはずだ。
病人に必要な薬もあるはずだ。
自分たちは悪いことをしているのではない。
命を守るためにやっている。
そんな理由が、いつの間にか彼らの中で出来上がっていた。
「どけ」
男が消火器を持ち上げる。
ガンッ!!
玄関扉へ叩きつけた。
鈍い衝撃音が響き、表面に傷が入る。
「もう一回!」
ガンッ!
塗装が剥がれた。
さらに。
ガンッ!
今度は小さく凹んだ。
「効いてるぞ」
誰かが言った。
その言葉に、数人の表情が変わった。
開けられるかもしれない。
もう一度。
ガンッ!
ガンッ!
鈍い音が何度も廊下を震わせる。
表面には確実に傷が増え、一部は凹んでいる。
だが、開かない。
扉そのものは傷ついているのに、枠も鍵も異常を見せなかった。
「何だよこれ……」
消火器を持っていた男の息が荒くなっていた。
「普通、もう少し歪むだろ」
別の男も扉を見る。
「こんなの普通の住宅用ドアじゃねえぞ」
その時だった。
インターホンから、蓮の声が聞こえた。
『全部録画してるからな』
全員の動きが止まった。
住民たちがインターホンを見る。
蓮は静かに続ける。
『昨日までは話し合いだった』
誰も答えない。
『今やってるのは器物破損だぞ』
消火器を持っていた男の手が止まる。
『監視カメラにも全員映ってる。誰が何回叩いたかも全部残ってるからな』
「それが何だよ」
男が言い返した。
だが、さっきまでより声が弱い。
『何でもない。続けたいなら続けろ』
蓮の声は変わらない。
『ただ、自分たちが何をやってるのかくらいは分かってからやれ』
そこで通話が切れた。
廊下が静かになった。
住民代表は傷だらけになった扉を見たあと、周囲の住民たちへ視線を移した。
「……今日は戻りましょう」
「でも」
「戻ります」
今度は強い声だった。
「これ以上やったら、本当に話し合いでは済みません」
何人かは明らかに不満そうだった。
だが、誰も次の一撃を振り下ろさなかった。
先ほどまで勢いに任せていた者たちも、すでに人が死んでいる状況とはいえ、蓮に「録画している」と言われたことで少しずつ現実へ戻り始めていた。
やがて一人、また一人と、2501号室の前から離れていく。
最後まで扉の前に残っていた男が、小さく呟いた。
「……これだけやっても開かねえのかよ」
そして、傷だらけの扉を睨む。
「絶対、何か隠してる」
その言葉には、誰も反論しなかった。
◇
午後。
住民グループでは、当然のように午前中の出来事が話題になっていた。
『あの扉、本当に普通じゃないですよ』
『消火器で何回叩いても開かなかった』
『そこまで頑丈にする理由って何なんですか?』
『中に大量の物資があるからでしょう』
『絶対そうだと思います』
『あれだけ備えてるなら水も食料も薬もありますよ』
『何もない部屋に、あんな防犯扉付けるわけない』
午前中の実力行使によって、疑念が薄れるどころか、さらに強くなっていた。
壊れない扉。
中を見せない住人。
一ヶ月以上、助けを求めない生活。
住民たちの頭の中では、それらすべてが同じ答えへ繋がっていく。
2501には、大量の物資がある。
だが一方で、午前中の行動を批判する投稿もあった。
『さすがに今日はやりすぎだと思います』
『神崎さんに腹が立つのは分かりますけど、人の家の扉を壊すのは違うでしょう』
『私もそう思います。あれはもう犯罪です』
『子供がいる前でああいうことをするのもどうかと思います』
それに対して、すぐに反論も返ってくる。
『じゃあ食料なくなったらどうするんですか?』
『薬がなくて誰か死んでも同じこと言えます?』
『綺麗事で生き残れる状況じゃないでしょう』
チャットは再び荒れ始めた。
しかし、しばらくして一人の住民が別の投稿をした。
『神崎さんのことは、一旦置きませんか』
数秒後、続けて投稿される。
『あの扉を開けられない以上、今すぐどうこうできないでしょう。それより今ある共同備蓄をどう使うか考えないと、本当にまずいです』
その投稿には、少しずつリアクションが付いた。
悔しい。
腹が立つ。
絶対に物資を隠している。
それでも、2501号室の扉は開かなかった。
そして今日も夕方になれば、自分たちは食事をしなければならない。
住民代表が現在の備蓄量を改めて投稿した。
米。
乾麺。
缶詰。
レトルト食品。
飲料水。
残り僅かな医薬品。
話題は徐々に現実へ戻っていった。
『明日からもう少し配給減らすしかないですよね』
『子供と高齢者は今の量を維持してください』
『大人だって食べないと動けません』
『水の方もまずいですよ。今日は一階でも出が悪かったです』
『次の救援物資、本当に連絡ないんですか?』
住民代表から返ってきたのは、短い一言だった。
『まだありません』
それだけで、グループはまた静かになった。
2501号室には、おそらく何かある。
だが、取れない。
なら今は、自分たちが持っている物で生き延びるしかなかった。
少なくとも、今日のところは。
◇
夜。
2501号室。
蓮は監視カメラの記録を再生していた。
住民が玄関を蹴る。
工具を取りに行き、扉を叩く。
消火器を持ち上げ、何度も振り下ろす。
そして、自分が声を掛けた瞬間に動きを止める。
蓮はそこで映像を停止した。
別のモニターには、玄関扉についた傷が映っている。
塗装が何箇所か剥がれ、表面には小さな凹みもできていた。
だが、それだけだった。
蓮は椅子へ深く座り直す。
八日前。
あの時、住民は扉を蹴った。
今日、工具を持ってきた。
消火器まで振り下ろした。
まだ止める人間はいる。
まだ「犯罪になる」という言葉で手を止めることもできる。
しかし、その線は確実に後ろへ下がっていた。
今日許せなかったことを、明日は仕方ないと言う。
今日犯罪だと思っていたことを、明日は生きるためだと正当化する。
蓮は監視画面に映る住民たちの顔を、一人ずつ見ていった。
「……一週間でここまで来たか」
静かな声だった。
驚いてはいない。
前世でも見た。
人間が壊れていく時、昨日と今日で突然別人になるわけではない。
ほんの少しずつ、やってはいけないことが減っていく。
蓮はモニターを閉じた。
「エスカレートするのも時間の問題か」
玄関の傷などどうでもよかった。
問題は次だ。
今日、扉を壊せなかった住民たちは諦めるのか。
それとも、別の方法を考えるのか。
蓮は立ち上がると、そのままキッチンへ向かった。
焦りはない。
むしろ、ほぼ予想通りだった。
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Day 39
電力 ▲
ガス ▲
水道 △
通信 ○
【今日のメモ】
「一線は、越えるたびに低くなる。」
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