第48話 Day 37 帰る場所
朝。
蓮はいつもの時間に目を覚ますと、ベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取った。
昨夜から通知がかなり溜まっている。そのほとんどがマンションの住民グループだった。
また食料の話か。あるいは救援物資の配給を巡って揉めているのか。
そう思いながら画面を開いた蓮は、最初に表示された画像を見て眉を寄せた。
『昨夜、知らない女性からこんなDMが来たんですが、ほかにも来た人いますか?』
一人の男性住民が投稿したスクリーンショットだった。
そこには、見覚えのある名前が表示されている。
佐藤愛。
『突然すみません。今、一階のエントランスにいます。』
『帰る場所がなくて困っています。』
『少しだけ一緒に居させてもらえませんか?』
さらに、
『家事もできます。料理もします。』
『何でも言うこと聞きます。』
最後には写真まで添付されていた。
「……何やってんだ、あいつ」
蓮は思わず呟いた。
昨日、自分の部屋まで押しかけてきた愛を追い返したところまでは知っている。
だが、その後こんなことをしていたとは知らなかった。
そして一人が投稿したことで、次々と同じ報告が出てきた。
『俺にも来ました。無視しましたけど。』
『私の主人にも送られてました。』
『うちの夫にも来てます。何人に送ってるんですか、この人。』
『同じ写真ですね。文章もほとんど同じです。』
どうやら、愛はかなりの人数へ個別にメッセージを送っていたらしい。
ただし、そこに書き込んでいるのは、愛からの誘いを無視した者や相手にしなかった者ばかりだった。
実際に愛と会った者。
部屋へ入れた者。
その後、何があったのかを知っている者。
そうした男たちは、一人も名乗り出なかった。
彼らには彼らで、表には出したくない理由があった。
だからこそ、グループにいる大半の住民には愛が何者なのか分からない。
分からないから、想像が始まった。
『そもそも、この人誰なんですか?』
『住民じゃないですよね?』
『外から来た女性が勝手にグループに入って、男性に片っ端からDMしてるってこと?』
『何でも言うこと聞きますって……どういう意味なんでしょう。』
『どういう意味も何も、そのままでしょ。』
そこから先は早かった。
特に反応が激しかったのは、女性住民たちだった。
『主人にも送られていました。正直、ものすごく不愉快です。』
『こんな状況で何をしに来たんですか、この人。』
『食料目当てで男を探してるようにしか見えませんけど。』
『外から来た素性も分からない女性を、マンション内で自由に歩かせて大丈夫なんですか?』
『写真まで送りつけて「何でもする」って、普通の意味じゃないですよね。』
『こういう人をマンションに居着かせないでください。子供だっているんですよ。』
さらに、言葉は少しずつ強くなっていった。
『風俗じゃないんだから、そういうことは外でやってください。』
『食料欲しさに身体を売りに来た女にしか見えません。』
『こういう女にうちの救援物資を一口でも渡すのは反対です。』
『住民でもないんですよね? だったら追い出すべきでは?』
『こんな時に男漁りって、本当に品がない。』
画面を眺めながら、蓮は小さく息を吐いた。
誰も、本当のことは知らない。
愛がなぜここへ来たのか。昨夜、誰の部屋へ行ったのか。そこで何があったのか。
知っている人間は黙っている。
知らない人間だけが、僅かな情報から勝手に愛という人間を作り上げ、そして叩いている。
もっとも、蓮には愛を擁護する気もなかった。
少なくとも、複数の男へ自分から写真を送り、「何でも言うことを聞く」と書いたことだけは事実なのだから。
しばらくすると、住民代表から正式な注意喚起が投稿された。
『昨夜より、マンション外部の方が住民グループへ参加し、複数の居住者へ個別に連絡していることを確認しています。』
『現在、共同備蓄および救援物資は当マンション居住者のために管理しています。外部の方への食料、水、燃料、その他物資の提供は控えてください。』
『また、現在の状況では新たな外部者を継続的に受け入れる余裕はありません。個人の判断で居室へ招き入れる行為についても、十分注意してください。』
当然、この投稿にも多くの賛同が付いた。
蓮はそこまで読むと、愛が送ったDMのスクリーンショットと、住民たちのやり取りを何枚か保存した。
そして黒崎へ送る。
『恒一。一応これ見とけ。』
送信してから、蓮はスマートフォンをテーブルへ置いた。
◇
黒崎は一人で朝食を食べていた。
昨日まで向かい側には愛が座っていた。
今日は誰もいない。
用意したのも、一人分だけだった。
そんな時、スマートフォンが震えた。
蓮からだった。
『恒一。一応これ見とけ。』
その下に数枚の画像が添付されている。
黒崎は一枚目を開いた。
そして、箸を持つ手が止まった。
愛から送られたDM。
写真。
『何でも言うこと聞きます。』
二枚目。
別の男にも。
三枚目。
また別の男。
そして、住民グループでのやり取り。
黒崎は何も言わず、最後まで読んだ。
昨夜、愛が蓮の部屋の前で何を言ったのかは、自分の耳で聞いた。
蓮のところに置いてもらえるなら、掃除も料理もする。
それ以外のことも。
何でもする。
それだけで、もう終わったと思っていた。
だが蓮に断られたあと、今度は見知らぬ男たちへ同じようなメッセージを送っていた。
何人に送ったのか。
誰と会ったのか。
誰の部屋へ行ったのか。
その後、何をしたのか。
黒崎には分からない。
しばらく画面を見つめたあと、黒崎はスマートフォンを伏せた。
もう。
知りたいとも思わなかった。
昨日までは、心のどこかにほんの僅かに残っていた。
極限状態だったから。
愛も混乱していたから。
時間が経てば。
もしかしたら。
そんな考えが、完全に消えた。
「……好きにしろよ」
黒崎はそれだけ呟くと、冷めかけた味噌汁を口へ運んだ。
◇
その頃。
愛は昨日の男の部屋で目を覚ましていた。
カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。
昨夜はほとんど眠れなかった。
身体は重く、頭も痛い。
何度目を閉じても、黒崎の顔が浮かんだからだ。
しばらくソファに座っていると、キッチンから匂いが漂ってきた。
愛が顔を上げる。
男がカセットコンロの前に立っていた。
鍋には湯が沸き、その中でレトルト食品を温めている。
パックご飯。
レトルトのカレー。
今までなら、愛が文句を言っていたような食事。
だが昨日、ほとんど何も食べていない愛には、ひどく美味しそうに見えた。
「……私のは?」
男が振り返る。
「あ?」
「ご飯」
「ああ」
男は棚を開けると、中から缶詰を一つ取り出した。
そして愛へ放る。
「ほら」
反射的に受け取る。
サバの缶詰。
一つ。
愛は自分の手の中の缶詰と、男の前に並べられた食事を交互に見た。
「……これだけ?」
「そうだけど」
「それ、私にもくれないの?」
「は?」
「レトルト」
男の表情が露骨に嫌そうになる。
「何で?」
「一個くらいあるでしょ」
「あるけど、俺のだよ」
「でも……」
男は箸を持ちながら、冷たく愛を見た。
「お前さ、居候のくせに贅沢言うなよ」
愛の表情が固まった。
「缶詰だって貴重なんだぞ。食わせてもらえるだけありがたいと思えよ」
男はそれ以上、愛を気にしなかった。
温かいご飯を食べ、レトルトのカレーを口へ運ぶ。
愛は缶詰を握ったまま、その姿を見ていた。
昨日の朝。
黒崎が用意した食事。
パックご飯。
インスタントの味噌汁。
海苔。
それを見て、自分は言った。
――またこれ?
今なら食べたい。
黒崎の作った、あの朝食が。
愛は何も言わずに立ち上がった。
昨日脱いだ防寒着を着る。
スキーウェア。
冬用ブーツ。
手袋。
男が食事をしながら、その様子を横目で見る。
「どこ行くんだよ」
愛は答えない。
ゴーグルを持ち、玄関へ向かう。
男が鼻で笑った。
「どうせ行く宛もないくせに」
愛の足が一瞬だけ止まった。
だが、振り返らなかった。
そのまま部屋を出た。
◇
エントランスへ降りた愛は、防寒装備を整えた。
昨日と同じ場所。
昨日と同じソファ。
だが、昨日とは何もかも違って見えた。
昨日はここへ来れば、もっといい生活ができると思った。
蓮が駄目でも、別の男を選べばいい。
自分なら、いくらでも選べる。
そう思っていた。
今は、ただ帰りたかった。
黒崎のところへ。
スマートフォンを開く。
昨夜のトーク画面。
黒崎からの最後の言葉。
『もうお前とは別れる。』
その前には、自分が送った言葉が残っている。
『能無し。』
愛はしばらく画面を見つめた。
『ごめん。』
入力する。
だが、送れない。
削除。
もう一度。
『迎えに来て。』
そこまで打って、また消した。
直接行こう。
顔を見て謝ろう。
本当に反省していると伝えれば、黒崎ならきっと許してくれる。
昨日までの黒崎なら、最後には自分を受け入れてくれる。
そう信じたかった。
◇
外へ出る。
今日も幸い、雪はそれほど強くなかった。
愛はゴーグルを下ろし、ネックウォーマーを鼻まで上げると、除雪された通路を歩き始めた。
昨日とは逆方向へ。
蓮のマンションから、黒崎のマンションへ。
道路の両側には高い雪の壁が続き、ところどころで雪が舞っている。
愛は歩いた。
昨日よりずっと速く。
五分。
十分。
寒いはずだった。
手袋の中でも指先が冷えていき、頬も痛い。
それでも愛は、ほとんど寒さを感じなかった。
涙が止まらなかった。
ゴーグルの中へ溜まる涙を、何度も手袋で拭った。
「……ごめん」
誰に聞かせるでもなく、声が漏れる。
「ごめん……」
黒崎の顔が浮かぶ。
寒波が始まった日。
不安になった自分へ、
「大丈夫」
そう言って笑った。
水が少なくなれば、重い容器を持って取りに行った。
足りないと言えば、自分のご飯を少しくれた。
夜になれば、
「寒くないか?」
と聞いた。
毎日、当たり前のように自分を守っていた。
それなのに私は、もっといい生活があると思った。
もっと頼れる男がいると思った。
自分なら選べると思った。
「……馬鹿」
愛は泣きながら歩いた。
今度は誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていた。
◇
十五分足らずで、見慣れたマンションが見えてきた。
愛の足が速くなる。
マンションの入り口へ入り、ゴーグルを上げると、そのまま階段へ向かった。
昨日までは古く見えた。
狭く見えた。
蓮の高級マンションを知ってからは、余計にそう思っていた。
だが今日は、ひどく懐かしかった。
見慣れた階段。
見慣れた壁。
見慣れた廊下。
そして、ようやく自分が昨日まで暮らしていた部屋の前へ着いた。
愛は乱れた呼吸を整え、扉を叩いた。
コンコン。
返事はない。
もう一度。
「恒一」
少し待つ。
「私……」
扉が開いた。
黒崎が立っていた。
愛の顔が一瞬だけ明るくなる。
「恒一……」
だが、黒崎は笑わなかった。
昨日まで愛が外から戻れば、必ず、
「寒かっただろ」
「大丈夫か?」
何か一言、声を掛けてくれた。
今日は何もない。
ただ愛を見ている。
その顔を見ただけで、愛の目からまた涙が溢れた。
「ごめん……」
黒崎は黙っている。
「昨日……私、どうかしてた」
返事はない。
「本当にごめん」
愛は泣きながら続けた。
「もう文句言わない」
黒崎は動かない。
「レトルトでもいい」
「……」
「缶詰でもいいから……」
愛は一歩、黒崎へ近づこうとした。
「戻ってもいい?」
「無理だ」
即答だった。
愛の足が止まる。
「……え?」
「もうお前とは関係ない」
「待って」
「好きなところで勝手にしてろ」
「本当にごめんって!」
愛の声が大きくなる。
「私、本当に反省してるから!」
黒崎は何も言わず、愛を見ていた。
その顔には、怒りすらなかった。
そして静かに聞いた。
「蓮に断られたあと」
愛の表情が止まる。
「……何?」
「何してた?」
愛の顔から、少しずつ血の気が引いていった。
「何の……話?」
黒崎は、その反応だけで十分だった。
「もういい」
「待って、恒一」
「答えなくていい」
「違うの」
「何が?」
「それは……」
言葉が続かない。
黒崎は小さく息を吐いた。
「何人に連絡したとか」
愛の肩が僅かに震える。
「誰と会ったとか」
「……」
「誰の部屋に行ったとか」
「恒一……」
「もう知りたくない」
愛は首を振った。
「違うの。本当に違うから」
「違うとかどうでもいい」
「お願い……」
「愛」
黒崎が名前を呼ぶ。
それでも、そこに以前の優しさはなかった。
「俺は一ヶ月、お前を守ってきたつもりだった」
愛の涙がまた溢れる。
「でも、もう終わりだ」
「嫌……」
「もうお前とは何でもない」
「恒一……」
黒崎は愛を見ながら、小さく息を吐いた。
「つくづく自分が馬鹿だったと思う」
そして最後に、
「二度と俺のところに戻ってくるな」
扉が閉まった。
ガチャ。
鍵の音がした。
◇
「恒一!」
愛は扉を叩いた。
「待って!」
ドンドン。
「本当にごめん!」
返事はない。
「開けてよ!」
もう一度、強く叩く。
「お願い!」
それでも扉は開かなかった。
「恒一!」
何度も。
何度も。
だが、やがて愛の手が止まった。
その時になって、ようやく寒さを思い出した。
廊下に暖房はない。
外よりは遥かにマシだが、じっと立っていれば少しずつ身体は冷えていく。
昨日まで、この扉の向こうは自分の家だった。
暖かい部屋。
食事。
水。
ベッド。
そして、黒崎。
全部、当たり前にあると思っていた。
愛されて、守られて、食事を用意してもらって。
それでも、もっと上があると思った。
もっといい男を。
もっといい生活を。
自分なら選べると思った。
違った。
全部、自分から捨てた。
愛は扉へ額を当てた。
「……全部」
声が震える。
「自分のせいだよね……」
返事はなかった。
愛はしばらくそのまま立っていた。
やがて、ゆっくり顔を上げる。
もう扉を叩かなかった。
もう黒崎を呼ばなかった。
何も言わず、扉から離れた。
◇
再び外へ出た。
どこへ行くのか。
愛自身にも分からなかった。
蓮のところには戻れない。
黒崎にも拒絶された。
昨日会った男たちのところへ戻る気は、なおさらない。
それでも愛は歩いた。
除雪された道を一人で。
雪が静かに降っている。
もう涙も出なかった。
ただ乾いた笑いを浮かべて、前へ進んだ。
その時、近くのマンションの入口にいた男が愛に気付いた。
「おぉい!」
愛は止まらない。
「どこ行くんだ!」
返事はない。
男が入口から少し身を乗り出した。
「今、歩き回ると危ないぞ!」
愛は振り返らなかった。
「おい! 聞こえてるか!」
それでも足は止まらない。
男も、それ以上は追わなかった。
今の世界で、見知らぬ人間一人のために自分まで外へ出る者はもういない。
「……何なんだ?」
男はただ、愛の背中を見ていた。
少しずつ遠くなる。
やがて。
雪の向こうへ、その姿は消えていった。
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Day 37
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「失ったものは、謝れば必ず戻ってくるわけではない。」
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