第47話 Day 36 選んだ先
寒波が始まってから、一ヶ月と六日が過ぎた。
三日前に届いた救援物資によって、蓮のマンションには一時的な余裕が戻っていた。もちろん以前の生活に戻ったわけではなく、配給される食料は最低限で、水や電力にも依然として制限があり、次の救援物資がいつ届くのかも分からない。
それでも、共同備蓄が底を突く寸前だった数日前と比べれば、住民たちの表情には僅かな余裕が戻っている。
そして余裕が戻れば、人間はまた別のことを気にし始める。
住民グループでは、相変わらず蓮への悪口が続いていた。
『あの神崎、今頃後悔してるでしょうね。』
『自分で協力を拒否したんだから当然でしょ。』
『次の救援物資も絶対渡さないでほしい。』
『あれだけ好き勝手したんだから、自分の備蓄で最後まで何とかすればいいですよ。』
三日前まで「食料を持っているなら出させろ」と騒いでいた人間たちが、救援物資が届いた途端に「絶対に分けてやるな」と盛り上がっている。
蓮は朝食を食べながら、そのやり取りを眺めていた。
「元気になったな」
それ以上の感想はなかった。
救援物資が一度届いただけで、昨日まで他人の食料を奪おうとしていた人間たちが、今日は他人へ食料を渡さないことに優越感を覚えている。
蓮にとっては、どうでもいい話だった。
◇
同じ日の朝。
黒崎恒一のマンションでは、別の問題が限界を迎えようとしていた。
「ねえ、今日、蓮は何食べてるの?」
佐藤愛がスマートフォンを眺めながら、何気ない調子で聞いた。
黒崎はカセットコンロの上に置いた鍋を見ながら、僅かに眉を動かす。
「知らねえよ」
「聞いてよ」
「何で俺が聞くんだよ」
「いいじゃん。ちょっと聞くだけでしょ?」
黒崎は返事をせず、鍋の中をかき混ぜた。
まただ。
ここ三日、ほとんど毎日この調子だった。
一度、蓮の昼食の写真を見てから、愛はやたらと蓮の生活を気にするようになった。昨日は何を食べた、一昨日は何を食べた、まだ食材はあるのか、肉も食べているのか。
最初は適当に答えていた黒崎も、さすがにうんざりしていた。
今日の朝食は、ご飯とインスタントの味噌汁、それに同じマンションの住民から分けてもらった海苔が少し。
今の状況なら十分すぎる食事だった。
ところが愛は、テーブルに並んだ食事を見るなり露骨に嫌そうな顔をした。
「……またこれ?」
黒崎は無視した。
「ねえ、蓮に聞いてよ」
「自分で聞け」
「昨日は焼き魚だったじゃん。今日は何食べてるか気になる」
黒崎の手が止まった。
数秒黙ったあと、ゆっくり振り返る。
「……いい加減にしろよ」
愛が顔を上げた。
「何?」
「何で毎日毎日、蓮の飯の話ばっかりなんだよ。そんなに気になるなら自分で聞けよ!」
突然声を荒らげた黒崎に、愛の表情も険しくなった。
「何で怒るの?」
「怒るだろ。一ヶ月ずっと食い物用意して、水確保して、寒くならないようにして、こっちは毎日必死なんだぞ。それなのに、お前が気にしてるのは蓮が何食ってるかだけかよ!」
「私だって我慢してるじゃん!」
「何を我慢してんだよ!」
「毎日こんなの食べてるじゃん!」
愛はテーブルを指した。
「レトルトとかインスタントとか、もう本当に嫌なの! 蓮は普通のご飯食べてるのに、何で私たちは毎日こんなのなの?」
黒崎はしばらく何も言えなかった。
やがて、乾いた笑いが漏れる。
「……お前、マジで言ってんの?」
「何が?」
「外で何人死んでると思ってんだよ。うちのマンションだって、みんな少ない食料を分けながら何とかやってるんだぞ。俺たちは毎日飯食えてる。ストーブだって使えてる。水だってある。それで何が不満なんだよ!」
「だから何!? もっとちゃんと準備してたら、こんな生活しなくて済んだんじゃないの!?」
「だから一ヶ月以上先のことまで分かるわけねえだろ!」
「でも蓮はできてるじゃん!」
また、蓮だった。
黒崎の顔から怒りが消え、代わりに疲れたような表情が浮かんだ。
「……もういい」
「何、その言い方」
「飯食えよ」
「いらない」
「じゃあ好きにしろ」
その一言で、愛の中でも何かが切れた。
「分かった。もう出ていく!」
「は?」
愛は勢いよく寝室へ向かった。
だが、感情的になっているからといって、何の装備もせずに外へ飛び出したわけではない。
この一ヶ月、愛も一度も外へ出なかったわけではなかった。救援物資の受け取りを手伝ったこともあれば、黒崎と一緒に短時間だけ外へ出たこともある。
外の寒さがどれほど危険なのかは、愛なりに理解していた。
厚手のインナーの上から防寒着を重ね、さらにスキーウェアを着込む。冬用のブーツを履き、手袋を重ね、ネックウォーマーで鼻まで覆う。
最後にゴーグルを手に取ったところで、黒崎が慌てて立ち上がった。
「おい、本当に出て行く気か?」
「もうここにいたくない」
「いい加減しろ! 外に出るってどこに行くんだよ!」
「うるさい! 関係ないでしょ!」
「愛!」
愛はゴーグルを装着すると、玄関を開けた。
幸い、今日はここ数日の中では雪が弱かった。
降っていないわけではないし、風もある。それでも視界を完全に奪うような吹雪ではなく、外を移動するならまだマシな時間帯だった。
愛はそのまま部屋を出た。
◇
黒崎もすぐに防寒着を着込み、愛を追った。
マンションの外へ出ると、愛はすでに除雪された通路を歩いていた。
この道は近隣へ救援物資を運ぶ主要ルートの一つで、雪上車や除雪車が何度も通っている。道路全体が使えるわけではないが、車が走れる程度の幅は確保されていた。
その両側には、人間の身長を遥かに超える雪の壁が続いている。
「愛!」
黒崎は追いつくと、その腕を掴んだ。
「戻れ!」
「離して!」
「今日は雪が弱いだけだ! いつ風が強くなるか分かんねえんだぞ!」
「だから何!?」
「だから喧嘩したくらいで外を歩き回るなって言ってんだよ!」
「うるさい!」
愛は黒崎の手を振り払おうとした。
「もうあんたといたくない!」
「今そんな話してる場合じゃねえだろ!」
「そういうところが嫌なの!」
「は?」
「何にもできないくせに偉そうにしないでよ!」
黒崎の動きが止まった。
だが、愛は止まらない。
「蓮はちゃんと準備してるじゃん! 普通のご飯だって食べてる! それなのに、あんたは毎日レトルトとインスタント! 何の役にも立たないじゃん!」
雪が静かに二人の間を流れていく。
黒崎は、ただ愛を見ていた。
そして愛は、最後の一言を吐いた。
「……能無し」
その瞬間、黒崎の手から力が抜けた。
「……勝手にしろ」
それだけ言って、黒崎は踵を返した。
愛も振り返らなかった。
◇
部屋へ戻った黒崎は、玄関の前でしばらく動けなかった。
テーブルには二人分の朝食が残っており、愛の分にはほとんど手が付けられていない。
黒崎は椅子へ腰を下ろした。
「……何なんだよ」
この一ヶ月、自分なりにやってきた。
寒波が始まる前、蓮に言われてできる限り食料を買った。水も用意した。カセットボンベ、防寒具、薬。
寒波が始まってからは住民たちと協力し、重い水を運び、愛が寒くないように暖房の時間まで考えた。自分の食事を減らして、愛に回したことだってある。
それでも返ってきた言葉は、
能無し。
役立たず。
黒崎は両手で顔を覆った。
腹が立つ。
それでも、心配だった。
「……どうせすぐ戻ってくるだろ」
外を少し歩けば頭も冷える。
寒くなれば、意地を張っている場合ではないことにも気付くだろう。
十分もすれば戻ってくる。
そう思っていた。
◇
だが、愛は戻るつもりなどなかった。
除雪された通路を、足早に進んでいく。
蓮のマンションは近い。同じ生活圏と言っていいほどの距離で、しかも今歩いている道をそのまま進めば着く。
最初の数分は、怒りの方が強かった。
(もう知らない)
(あんな奴)
蓮なら、自分を入れてくれる。
一人暮らし。
高級マンション。
豪華な食事。
そして、昔から女に弱い。
一ノ瀬美咲に都合よく使われていたことも、愛は知っている。
(私だって美咲に負けてないし)
自分から頼れば、むしろ喜ぶのではないか。
料理をしてあげる。
掃除もする。
一人より、女がいた方がいいに決まっている。
そんなことを考えながら歩いていたが、五分も過ぎる頃には、黒崎への怒りより外の寒さの方が気になり始めた。
防寒装備を整えていても、外が快適になるわけではない。ゴーグルの向こうでは雪が舞い、両側には高い雪の壁が続いている。
愛はさらに歩く速度を上げた。
雪上車や作業員が何度も通った跡が残っているため、新雪を掻き分けて進む必要がないのがせめてもの救いだった。
黙々と歩き続け、途中で一度だけ後ろを振り返る。
黒崎のマンションは、もう見えにくくなっていた。
(……今さら戻るのも馬鹿みたい)
しかも、ここまで来れば蓮のマンションへ向かった方が近い。
愛は再び前を向いた。
(もう少し)
そして十五分ほど経った頃、雪の向こうに大きな建物が見えてきた。
「……あった」
愛の顔に、笑みが戻った。
◇
高級マンションのエントランスへ近づく。
愛は幸運だったのかもしれない。
ちょうど電力が供給されている時間帯で、しかも住民がマンション前の除雪作業をしていたため、自動ドアはロックされていなかった。
愛が当然のように中へ入ったことで、作業をしていた住民も特に気に留めなかった。
自動ドアの向こうには照明が点き、広いエントランスが明るく照らされている。
中へ入った瞬間、暖かい空気が愛の身体を包んだ。
「……暖かい」
思わず声が漏れる。
外とは別世界だった。
高い天井に、広いロビー。
大きなソファと石張りの床。
明るい間接照明。
寒波前なら、ただの高級マンションのエントランスだった。
だが、雪の中を十五分歩いてきた愛には、まるで高級ホテルのように見えた。
(やっぱり全然違う)
黒崎のマンションとは何もかも違う。
そして愛の中では、勝手な確信が強くなっていった。
(ここなら普通に暮らせるんだ)
蓮だけではない。
ここに住んでいる人間は、みんな自分たちとは違う生活をしている。
そう思った。
そこで思い出す。
蓮は最上階に住んでいる。
「……何号室だろ」
愛はそこまでは知らなかった。
スマートフォンを取り出し、蓮へメッセージを送る。
『蓮って何号室だっけ?』
数分後。
返信が来た。
『2501。』
愛の口元が緩んだ。
蓮は、まだ何も知らない。
◇
ピンポーン。
突然鳴ったインターホンに、蓮はリビングのモニターへ視線を向けた。
そして、目を疑った。
「……は?」
画面に映っているのは、佐藤愛だった。
スキーウェア姿で、ゴーグルを頭へ上げ、髪にはまだ雪が残っている。
蓮は数秒、本当に何も言えなかった。
通話ボタンを押す。
「……何でここにいる」
愛が笑った。
「来ちゃった」
「来ちゃったじゃねえよ」
蓮の表情が険しくなる。
「恒一は?」
愛の笑顔が少し消えた。
「知らない」
「何があった」
「喧嘩した」
「それで?」
「もうあいつとは無理」
蓮は眉間を押さえた。
訳が分からなかった。
「そこで待ってろ」
蓮はスマートフォンを取り出し、黒崎へ電話を掛けた。
数回の呼び出し音のあと、黒崎が出る。
『……蓮?』
「恒一」
『何だ?』
「愛が俺の部屋の前にいる」
電話の向こうが静かになった。
『……は?』
「今、俺の玄関前」
再び沈黙。
やがて、黒崎が慌てたように聞いた。
『マジか!? あいつ外歩いたのか? 大丈夫なのか!?』
「生きてる。普通に喋ってる」
『……そうか』
黒崎が安堵したように息を吐いた。
それを聞いて、蓮は少し目を細める。
「恒一」
『ん?』
「お前、こんな女を一ヶ月以上守ってきたのか?」
黒崎は答えなかった。
蓮はスマートフォンを手元へ置いたまま、インターホンの通話ボタンをもう一度押した。
「愛」
『何?』
「恒一が何したんだ」
愛は、黒崎が電話越しに聞いていることを知らない。
『何って、何もしてくれないよ。毎日インスタントばっかりだし、何か言ったら今は仕方ないとか、外ではもっと大変とか、そればっか』
電話の向こうで、黒崎は黙っていた。
愛はさらに続ける。
『本当に頼りないんだよ。蓮の方が全然ちゃんとしてるじゃん』
「恒一だって必死にお前を守ってきただろ」
『全然だよ』
そして愛は、まるで当然のように続けた。
『それより、私さ、ここに居させてくれない?』
「何で?」
『一人なんでしょ? だったらいいじゃん。私、邪魔しないよ。掃除もするし、料理もするし』
少し間を置き、愛の声が甘くなる。
『それ以外のことだって……何でもするよ』
蓮の顔から表情が消えた。
電話の向こうからも、何も聞こえない。
「恒一」
蓮が静かに呼ぶ。
『……ああ』
声が、さっきまでと違っていた。
「聞いたな」
『……聞いた』
蓮は少し黙ってから尋ねた。
「迎えに来るか?」
長い沈黙があった。
そして。
『いや』
黒崎が答えた。
『もういい』
「……」
『勝手にしろ』
通話が切れた。
◇
そんなことも知らず、愛はまだ扉の前で自分を売り込んでいた。
『ねえ、蓮。本当に私、何でもするって。料理だって作れるし、掃除もする。洗濯もするよ。一人より二人の方が楽しいでしょ?』
「愛」
『ん?』
声が少し弾んだ。
蓮は冷たく言った。
「お前みたいな女、死んでもごめんだ」
『……え?』
ブツッ。
通話を切った。
◇
ピンポーン。
蓮は無視した。
少しして、もう一度インターホンが鳴る。
それも無視する。
三度目も同じだった。
今度はスマートフォンが震え始める。
『ちょっと待って!』
『どういう意味?』
『蓮?』
『冗談でしょ?』
『開けてよ。』
『蓮!!』
次々とメッセージが届く。
蓮は一つも開かなかった。
しばらくするとインターホンも鳴らなくなり、監視モニターを見ると、愛の姿はもう扉の前から消えていた。
◇
愛はエントランスへ戻っていた。
明るく暖かいロビーのソファへ腰を下ろし、苛立ったようにゴーグルを外す。
「何なのよ……」
蓮にも腹が立つ。
黒崎にも腹が立つ。
全員、自分のことを分かってくれない。
そんなことを考えているうちに、黒崎のことを思い出した。
(……もういい。迎えに来させればいいか)
どうせ、あいつなら来る。
さっきだって自分を追いかけてきた。
愛はスマートフォンを開き、当然のようにメッセージを送った。
『今蓮のマンションにいる。もういいから迎えに来て。』
数分後、返信が来た。
『知るか。』
愛の眉が動く。
続けて、
『もうお前とは別れる。』
「……は?」
愛の顔が歪んだ。
すぐに指を動かす。
『何それ?』
『あんたが勝手にキレたんでしょ?』
『こっちは寒い中にいるんだけど。』
『本当に最低。』
『だからあんたは何やってもダメなんだよ。』
最後に、
『もう二度と連絡してこないで!』
送信。
愛はスマートフォンを握ったまま、鼻で笑った。
「何様なのよ」
その時だった。
何気なく顔を上げた愛の目に、エントランスの壁に貼られた一枚の紙が入った。
【災害時住民連絡グループ】
その下には、大きなQRコードが印刷されている。
寒波発生後、住民同士で情報を共有するために臨時で作られたグループだった。緊急時に少しでも参加しやすいよう承認制にはなっておらず、QRコードを読み取ればそのまま参加できる。
愛はしばらくその紙を見つめた。
そして、スマートフォンを持ち上げる。
「……別に」
蓮じゃなくてもいい。
ここは高級マンションだ。
この暖かいエントランス。
この豪華な内装。
蓮があれだけの食事をしているのなら、他の住民だって似たような生活をしているに違いない。
愛はQRコードを読み取った。
グループへ参加し、そのまま参加者一覧を開く。
男らしい名前。
男性の写真。
一人。
二人。
三人。
愛は何人かへ個別にメッセージを送り始めた。
『突然すみません。今、一階のエントランスにいます。』
『帰る場所がなくて困ってます。』
『少しだけ一緒に居させてもらえませんか?』
最初の一人からは返事がない。
次。
その次。
愛は写真フォルダを開いた。
寒波前に撮った、自分が一番綺麗に見える写真。その中から身体のラインが出る服装のものを選び、メッセージへ添付する。
『家事もできます。料理もします。』
そして、
『何でも言うこと聞きます。』
送信。
数分もしないうちに、スマートフォンが鳴った。
『今、一階?』
愛の顔が明るくなる。
『はい!』
すぐに返信が来た。
『俺一人だから、来てもいいよ。』
愛は小さく笑った。
「ほら」
やっぱり。
自分ならどうにでもなる。
◇
数分後。
一人の男がエントランスへ降りてきた。
三十代後半くらいだろうか。
愛を見るなり、一瞬だけ視線を止める。
「メッセージくれた子?」
「はい」
「こんなところで何してたの?」
愛は簡単に事情を説明した。
彼氏と喧嘩して家を出た。
このマンションに住んでいる知り合いを頼ってきたが、部屋へ入れてもらえなかった。
「知り合い?」
「神崎蓮」
男の表情が変わった。
「神崎?」
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も、今このマンションで一番嫌われてる奴だよ」
「え?」
愛は初めて聞いた。
男は歩きながら話す。
「共同備蓄にも協力しない。部屋の確認も拒否。救援物資だって支援対象から外されてる」
「……物資も?」
「ああ。完全に孤立してる」
愛は思わず足を止めそうになった。
救援物資をもらっていない。
それなのに、
焼き魚。
豚汁。
すき焼き。
ステーキ。
(じゃあ……)
頭の中で、また勝手な想像が膨らんでいく。
(他の住民は、どれだけ持ってるの……?)
期待を膨らませながら、愛は男について部屋へ入った。
男は扉を閉めると、愛を見る。
「ここに置いてやってもいいけど」
「うん」
「メッセージに書いてたよな」
「何を?」
「何でも言うこと聞くって」
愛は少し黙った。
ここで断れば、また一人になる。
蓮には拒絶された。
黒崎にも戻れない。
でも、この男なら。
きっと蓮以上にいい生活をしているはず。
そう思った。
「……うん」
愛は答えた。
男はその返答を聞いて笑みを浮かべると、愛を寝室へ案内した。
◇
しばらく後。
愛はソファに座っていた。
男へ声を掛ける。
「ねえ、お腹空いた」
「ん?」
「何か食べさせて」
男は面倒そうに立ち上がると、棚を開けた。
少し探し、缶詰を一つ取り出す。
そして愛へ放り投げた。
「ほら」
愛の膝へ落ちたのは、
ツナ缶。
一個。
「……は?」
愛は缶詰と男を交互に見た。
「これだけ?」
「何が?」
「ご飯」
「そうだけど」
「もっとマシなのないの?」
男が眉を寄せる。
「あるわけねえだろ」
「え?」
「今どんな状況だと思ってんだよ」
愛は言葉を失った。
「でも……ここ、高級マンションでしょ?」
男は呆れたように笑った。
「高級マンションなら食料湧いてくんのかよ」
「……」
「嫌なら食わなくていい」
愛はしばらく缶詰を見ていた。
そして立ち上がった。
「もういい」
「は?」
「帰る」
「おい」
愛はすぐに着替え、そのまま部屋を出た。
男は追いかけなかった。
閉まった扉を見て、鼻で笑う。
それだけだった。
◇
愛は再び住民グループを開いた。
きっと、たまたまハズレを引いただけ。
そう自分に言い聞かせ、今度は別の男へメッセージを送る。
ただし、今度は先に確認した。
『食べ物ありますか?』
少しして、
『あるよ。』
『何があります?』
『カップ麺と缶詰。あと乾パン。』
愛は返信をやめた。
次。
また次。
そして、別の男から返事が来る。
『うちは温かいものくらいなら食べられるよ。』
愛の指が止まった。
『行っていいですか?』
『いいよ。』
◇
今度の男は、四十代くらいだった。
愛を見るなり、嬉しそうに部屋へ招き入れる。
「寒かっただろ」
「うん」
愛は中へ入った。
だが、すぐに違和感を覚えた。
「……寒い」
部屋の中なのに、明らかに空気が冷たい。
男は当然のように答えた。
「さっき電気止まったからな」
「え?」
「供給時間終わったんだろ」
愛が男を見る。
「電気……止まるの?」
「そりゃ止まるだろ」
「ここって、ずっと使えるんじゃないの?」
男が本気で呆れた顔をした。
「は?」
愛は何も言えない。
「何を今さら? この辺全部制限されてるだろ。ここだけ特別なわけないだろ」
愛はゆっくり部屋を見回した。
高そうな家具。
大きなテレビ。
立派なキッチン。
広いリビング。
確かに、元は豊かな暮らしをしていたのだろう。
だが今はテレビも点かず、暖房も止まっている。部屋の中は少しずつ冷え始めていた。
「ご飯は?」
愛が聞いた。
「さっき温めといた」
男がテーブルを指す。
カップ麺。
それに、小さな缶詰。
愛は動かなかった。
黒崎のところより、全然悪い。
温かいカップ麺がある。
それだけで、この男は十分だと思っている。
その瞬間、愛の頭の中で何かが崩れた。
エントランスが暖かかった。
照明が点いていた。
豪華だった。
だから、このマンションならみんな豊かな生活をしていると思った。
違った。
たまたま、自分が到着した時間に電気が来ていただけだった。
ここも同じなのだ。
食料はない。
電気は止まる。
暖房も止まる。
水だって自由には使えない。
そして、ようやく気付く。
蓮だけが違ったんだ。
「……」
愛は椅子へ座った。
急に何も考えられなくなった。
男がそんな愛の隣へ座る。
「なあ」
愛は顔を上げない。
「寒いしさ」
男が少し笑った。
「二人であったまろうぜ」
愛は何も答えなかった。
怒りもしない。
立ち上がりもしない。
ただ、頭の中が真っ白だった。
そしてなぜか、黒崎の顔が浮かんだ。
『愛、飯できたぞ。』
毎朝、そう言っていた。
『水減ってきたから、俺取ってくる。』
重い容器を持って、階段を往復していた。
『寒くないか?』
夜になると、何度も確認してくれた。
レトルトカレー。
インスタントのスープ。
缶詰のフルーツ。
自分が嫌だと言った食事。
でも。
毎日食べられた。
腹いっぱいになるまで。
暖房が止まれば、黒崎が石油ストーブをつけてくれた。
食料だって、自分の分を減らして愛へ回したことがあった。
それなのに、自分は言った。
能無し。
役立たず。
何にもできない。
愛の目から、一筋の涙が落ちた。
「……あれ?」
自分でも、なぜ泣いているのか最初は分からなかった。
もう一筋、頬を伝う。
男が愛を見る。
「何、泣いてんの?」
愛は答えなかった。
自分は、もっといい生活を選んだつもりだった。
もっと頼れる男のところへ行こうと思った。
蓮が駄目なら、別の男。
自分なら、いくらでも選べる。
そう思っていた。
違った。
選んだんじゃない。
自分から捨てたんだ。
毎日食べられる場所を。
暖かく眠れる場所を。
何の見返りも求めず、自分を心配してくれる人を。
そして、あれだけ馬鹿にしていた男が、この一ヶ月どれほど自分を守っていたのか。
ようやく分かった。
遅すぎた。
愛は両手で顔を覆った。
声は出なかった。
ただ、涙だけが止まらなかった。
男はそんな愛の状態を見ても、下品な笑みを浮かべながら服を脱ぎ始めた。
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Day 36
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「失ってから初めて、それが贅沢だったと気付く。」
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