第46話 Day 33 足りないもの
寒波が始まってから、一ヶ月と三日。
この二日間、蓮のマンションで大きな事件は起きていなかった。
だからといって、住民グループの空気が良くなったわけではない。むしろ蓮に対する悪口や妬みは、日を追うごとに増えていた。
『神崎さん、今日も配給来てないですよね。』
『当然でしょ。自分で拒否したんだから。』
『でも全然困ってる様子ないんですよね。』
『どれだけ食料あるんだろ。』
『あの防犯扉も普通じゃないし。』
『一人暮らしでそんなに必要?』
『こっちは子供の食事まで減らしてるのに。』
同じような言葉が、朝から晩まで繰り返されている。
最初は蓮を批判していた住民たちも、次第にその内容自体には飽き始めていた。それでも共同備蓄が目に見えて減るたび、誰かが思い出したように蓮の名前を出す。
自分たちは苦しいのに、あの部屋だけは何も変わらない。
結局、気に入らないのはそれだけだった。
◇
共同備蓄の方は、いよいよ厳しくなっていた。
昨日から配給量はさらに減らされ、大人一人分として渡される食料は、一日をまともに過ごせる量とは言い難い。
多くの家庭では大人が食事を一回減らし、まず子供へ食べさせ、高齢者にも最低限を回した上で、残った分を大人たちで分けている。それでも足りず、以前なら一食として考えもしなかったような量を、少しでも満腹感を得ようと時間を掛けて食べていた。
水も同じだった。
低層階ではまだ時間帯によって水が出るものの、その時間は日に日に短くなっている。
住民グループでは食料の話より先に、
『今、水出てます!』
『一階まだ出てます!』
『九階ほとんど出ません!』
そんな情報が飛び交うことも増えた。
電力もガスも不安定になり、通信まで時折数十分ほど途切れるようになっている。
住民たちが口にする言葉も、いつの間にか変わっていた。
「いつ終わるんだろう」
ではない。
「あと何日持つんだろう」
だった。
◇
午前十時過ぎ。
住民代表たちは一階の集会スペースで話し合っていた。
議題の一つは、また蓮だった。
「もう一度行った方がいいんじゃないですか?」
見回りを担当している男が言った。
住民代表の一人が渋い顔をする。
「前回、はっきり断られています」
「でも、もう備蓄がないんですよ」
「だからって、無理やりどうこうはできないでしょう」
すると別の男が口を挟んだ。
「別に無理やりとは言ってません。ただ、もう一度人数集めて話せばいいじゃないですか」
「また大勢で?」
「一人二人じゃ聞かないでしょう、あいつ」
住民代表は黙った。
蓮への対応については、代表の中でも意見が割れている。
もう放っておけばいいという者もいれば、まだ協力を求めるべきだという者もいる。その一方では、扉を開けさせるところまで強く出てもいいのではないかと考え始めている者までいた。
そこへ、一人のスマートフォンが鳴った。
「あれ?」
男が画面を見る。
管理会社からだった。
「ちょっと待ってください」
電話へ出る。
最初は真剣な顔で話を聞いていた男だったが、数分もしないうちに表情が一変した。
「本当ですか!?」
周囲の全員が男を見る。
「今日ですか!?」
さらに何度か確認し、電話を切った男は勢いよく立ち上がった。
「救援物資が来ます!」
全員が固まる。
「え?」
「今日の午後です!」
その一言で、その場の空気が一瞬にして変わった。
◇
十一時前。
住民グループへ正式な連絡が投稿された。
『管理会社より連絡があり、本日午後、救援物資が到着する予定です。今回は前回よりも物量が多いとのことです。詳細が分かり次第改めてご連絡します。』
数秒後。
グループは祭りになった。
『よかった!!!』
『本当に!?』
『助かった……。』
『ありがとうございます!』
『子供にちゃんと食べさせられる!』
『いつ来るんですか?』
『水もありますか?』
『米あるかな!?』
中には泣いている絵文字まで付いている。
昨日まで、あと何日食べられるのかを心配していた。
それが『救援物資が来る』という一言だけで、一気に希望が戻った。
そして人間の感情は、面白いほど簡単に別の方向へ向かった。
『これでしばらく大丈夫ですね。』
『神崎の食料なんてもう必要ないじゃん。』
すぐに別の住民が反応する。
『本当それ。』
『協力しない人なんて放っておけばいいですよ。』
『救援物資来ても当然神崎さんには渡さないですよね?』
住民代表から返信が入った。
『現在の方針に変更はありません。非協力世帯については共同支援対象外です。』
その言葉には、一気に多くの反応が付いた。
『当然。』
『後から欲しいって言っても無しで。』
『ざまあみろって感じ。』
『今頃後悔してるんじゃない?』
『一人でずっと自分の備蓄食べてればいいよ。』
昨日まで、蓮に食料を出せと怒っていた。
それが今日、救援物資が来ると分かった瞬間、今度は『お前にはやらない』へ変わった。
妬みは、あっという間に優越感へ変わっていた。
◇
蓮はソファに座り、グループの流れを眺めていた。
『後悔してろ。』
『こっちは救援物資もらえるから。』
『困っても絶対助けない。』
似たような投稿が続いている。
蓮はしばらく眺めたあと、スマートフォンを置いた。
「忙しい奴らだな」
昨日は食料を寄越せと言い、今日はお前にはやらないと言う。
どちらでもよかった。
蓮にとっては一切関係がない。
救援物資が来ること自体は悪くない。住民たちに少し余裕が戻れば、その分だけ暴走する可能性も下がる。
それだけだった。
蓮はコーヒーを一口飲んだ。
「せいぜい喜んどけ」
少なくとも今日くらいは。
◇
同じ頃。
黒崎恒一のマンション。
昼。
部屋の中には、レトルトカレーの匂いが漂っていた。
黒崎は鍋から温めた袋を取り出し、二枚の皿へご飯を盛る。
「ほら」
佐藤愛がテーブルへ座った。
レトルトカレーに、インスタントのコーンスープ。
一ヶ月前なら何の不満もない昼食であり、今ならむしろ十分すぎるほど食べている方だった。
黒崎たちのマンションでは、まだ住民同士の助け合いが続いている。
食料は減り、電気も止まり、水も安定しない。それでも住民同士で少しずつ分け合うことで、最低限の生活は維持できていた。
よそのマンションでは強盗が起き、死者まで出て、食料を巡る暴動も発生している。ニュースでは毎日のようにそんな話が流れているのだから、それを考えればここは異常なほど平和だった。
愛はカレーを一口食べ、小さく溜息を吐いた。
「……またこれ?」
黒崎が顔を上げる。
「何が?」
「レトルト」
「そうだけど」
「昨日もレトルトだったじゃん」
「昨日は牛丼」
「同じようなもんでしょ」
黒崎はスプーンを止めた。
「愛」
「何?」
「今の状況分かってる?」
愛の眉が僅かに動く。
「分かってるよ」
「だったら贅沢言うなよ」
「別に贅沢言ってない」
愛は皿へ視線を落とした。
「一ヶ月だよ? 毎日毎日、レトルト、缶詰、インスタント。もう嫌になるよ」
「保存食なんだから当たり前だろ」
「だからもっと他の物買っとけばよかったじゃん」
黒崎が少し呆れる。
「こうなるって誰が予想できたんだよ」
「でも蓮は?」
黒崎の手が止まった。
「……何で蓮が出てくるんだよ」
「だって、あの人あんなに準備しろって言ってたんでしょ?」
黒崎は答えなかった。
「じゃあ蓮は何食べてるの?」
「知らねえよ」
「聞いてみてよ」
「何で?」
「いいじゃん。気になるだけ」
黒崎は愛を見る。
正直、意味が分からなかった。
それでも深く考えず、面倒そうにスマートフォンを取った。
「……くだらねえ」
「いいから聞いてみてよ」
「自分で聞けよ」
愛が少し笑う。
「私、普段連絡しないもん」
黒崎は蓮へメッセージを送った。
『飯大丈夫か? 愛が何食ってるのか気になるらしい。』
少しして返信が来る。
『普通に食ってる。今日はこんな感じ。』
写真が一枚届いた。
黒崎が開く。
そこに写っていたのは、炊きたての白米に豚汁、焼き鮭、ポテトサラダ、冷奴。
豪華な料理ではない。
ステーキでも、すき焼きでもなかった。
ただの普通の昼食。
しかし今の愛には、その「普通」が異常なほど豪華に見えた。
「……え?」
黒崎からスマートフォンを奪うように受け取り、写真を拡大する。
鮭。
ジャガイモ。
豆腐。
具沢山の豚汁。
「何これ」
「昼飯だろ」
「分かってるよ」
愛は自分の皿にあるレトルトカレーを見たあと、もう一度写真へ視線を戻した。
「……なんで?」
黒崎が眉を寄せる。
「何が」
「なんで蓮はこんなの食べてんの?」
「知らねえよ」
「自炊してんの?」
「するだろ、あいつなら」
「鮭とか豆腐とか野菜とか、まだあるの?」
「あるんじゃねえの」
愛の表情が少しずつ険しくなる。
「あんたは?」
「は?」
「何であんたは、こんなインスタントばっかりなの?」
黒崎が数秒固まった。
「……お前、マジで言ってる?」
「だって蓮は普通に食べてるじゃん」
「蓮は蓮だろ」
「同じように準備してたんじゃないの?」
「同じなわけあるか」
黒崎の声が少し強くなった。
「俺は普通の人間だぞ。一ヶ月先のことまで分かるわけないだろ」
「でも蓮は分かってたんでしょ?」
「知らねえよ!」
部屋の空気が悪くなった。
愛は不満そうにスプーンを置く。
「もういい」
「何がもういいんだよ」
「食欲なくなった」
黒崎はしばらく何も言えなかった。
他所では、今日食べるカップ麺一つを奪い合っている。それなのに自分の目の前では、レトルトカレーが嫌だと言っている。
「愛」
「何?」
「本気で一回考えた方がいいぞ」
「何を?」
「今、俺たちがどれだけ恵まれてるか」
愛は返事をしなかった。
◇
午後。
黒崎が近所の住民の手伝いへ出たあと、愛は一人でリビングに座っていた。
テーブルには食べ残したカレーがある。
愛はスマートフォンを眺めながら、さっき黒崎から見せてもらった写真を思い出していた。
焼き鮭。
豚汁。
豆腐。
ポテトサラダ。
どれも一ヶ月前なら、特別でも何でもない料理だった。
だからこそ、余計に腹が立った。
(なんで私だけこんな生活なの)
実際には「私だけ」ではない。
むしろ愛は、圧倒的に恵まれている側だった。
だが、人間は下を見ている間は安心できても、上を見た瞬間、今まで満足していた物まで足りなく感じる。
愛はソファへ身体を預けた。
ふと、蓮のことを考える。
昔から一ノ瀬美咲に都合よく使われていた男。
呼ばれれば行き、奢り、頼まれれば何でもする。
愛もそのくらいは知っていた。
(ああいうタイプなんだよね)
女に弱く、押されると断れない。
しかも蓮自身、見た目も悪くない。
今は食料まで持っている。
愛は小さく笑った。
(美咲だからできたってわけじゃないでしょ)
鏡を見る。
寒波が始まって一ヶ月、化粧をする機会は減った。それでも自分の容姿には昔から自信がある。
(私だって、普通に可愛いし)
もし自分が少し優しくしたら、あの男なら簡単に勘違いするんじゃないか。
愛の中に、一つの考えが生まれた。
最初はただの興味だった。
蓮はどんな生活をしているのか。
どこに住んでいて、本当に毎日まともな物を食べているのか。
少し聞くだけ。
その程度のつもりだった。
愛は黒崎のスマートフォンではなく、自分のスマートフォンを開いた。
以前、黒崎を通して交換した連絡先が残っている。
神崎蓮。
少し考えたあと、愛はメッセージを送った。
『蓮くん、久しぶり。愛だけど分かる?』
◇
蓮のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
佐藤愛。
蓮の眉が僅かに上がった。
「……何だ?」
黒崎からなら、さっき話した。
なぜその彼女から直接来るのか。
少しして次のメッセージが届いた。
『恒一から今日のご飯の写真見せてもらったよ笑』
『ちゃんと毎日自炊してるの? 大変じゃない?』
さらに続く。
『こっちは本当に嫌になるよ。恒一馬鹿だから、レトルトとかインスタントばっかりしか用意してないし。』
蓮の表情から、僅かに残っていた笑みが消えた。
「恒一に言うことか、それ」
それでも画面を見ていると、さらにメッセージが届く。
『蓮くん一人で大丈夫?』
『ご飯とか洗濯とか全部自分でやってるの?』
少し間があって、
『そういえば蓮ってどこ住んでるの?』
質問が次々と来る。
蓮はスマートフォンを眺めながら、何となくその意図を察し始めていた。
一ノ瀬と似た匂いがする。
ただ、こっちはまだ何を考えているのか完全には理解していないらしい。
蓮は冷めた目で画面を見ながら、それでも返信した。
『自炊は普通にしてる。洗濯も問題ない。』
続けて、
『住んでるのはシティタワープラザの最上階だ。』
マンション名まで送った。
隠す必要はない。どうせ黒崎には以前伝えてある。
数秒後に既読が付き、しばらくして返信が来た。
『え!?』
『あそこ!?』
『めちゃくちゃ高いマンションでしょ!』
『しかもめっちゃ近所じゃん!』
蓮は返信しなかった。
さらにメッセージが続く。
『すご……。』
『じゃあ電気とか水とかも結構普通に使えるの?』
蓮は少し考えた。
『普通ではないよ。こっちも制限ある。』
嘘ではない。
マンション全体には制限がある。
蓮の部屋だけが別なのだ。
だが愛は、その言葉をただの謙遜程度に受け取った。
◇
愛はマンション名を検索した。
画面に表示されたのは、広いエントランスや高層階からの眺望、高級感のある共用部分など、寒波前の物件情報だった。
愛は無言でそれを眺める。
(……場所は知ってたけど、中はこんなに豪華なんだ)
そこから、頭の中で勝手に話が出来上がっていった。
蓮だけではない。
こんな高級マンションなら、住民はみんなある程度備えているのではないか。
建物の設備だって、黒崎のマンションとは比べものにならないはず。
電気も、水も、暖房も、食料も、ニュースで見るような生活とは別世界なのではないか。
もちろん、それは完全な想像だった。
実際には蓮のマンションでも強盗が起き、死人まで出ている。食料も尽きかけ、住民たちは蓮の備蓄を狙い始めていた。
だが、愛はそんなことを知らない。
知ろうともしなかった。
自分に都合のいい部分だけを繋げていく。
(だからあんな豪華なご飯食べてるんだ)
一つ納得すると、今度は目の前の部屋がさらに惨めに見えてきた。
小さなリビングには停電に備えたランタンが置かれ、レトルト食品や缶詰が積まれている。調理に使うのはカセットコンロ。
そして、黒崎。
(……何か全然違う)
今までなら黒崎が頼もしかった。
食料を準備し、住民とも協力し、少しでも寒くないように工夫してくれた。
それが蓮の生活を知った瞬間、急に「足りない男」に見え始めた。
愛は再びメッセージ画面を開いた。
『一人だと大変じゃない?』
送信。
そして、少し迷ってからもう一件。
『私だったらご飯くらい作ってあげるのに笑』
送った。
◇
蓮はそのメッセージを見て、数秒動かなかった。
『私だったらご飯くらい作ってあげるのに笑』
「……」
一ノ瀬だけでも反吐が出るのに、今度は黒崎の彼女。
しかも黒崎本人は、今も隣人を助けながらこの女を守っている。
蓮は返信を打った。
『ありがとう。でも大丈夫。』
それだけだった。
冷たく拒絶するわけでもなく、かといって誘う気もない。
愛からすぐに返信が来る。
『そっか笑』
続けて、
『でも一人で困ったら言ってね。』
蓮はもう返さなかった。
スマートフォンを伏せる。
「恒一……」
小さく呟いた。
黒崎は何も知らない。
おそらく今も誰かの水を運び、老人の様子を見に行き、自分の持っている食料を少しずつ周囲へ分けている。
その間に、彼女は別の男へ連絡していた。
蓮は少しだけ目を細める。
まだ黒崎へ言う必要はない。
何も起きていない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
寒波が始まって一ヶ月。
食料がなくなったことで変わる人間もいる。
暴力を振るう者もいれば、奪う者も、他人を見捨てる者もいる。
そして、生活そのものはまだ守られているのに、自分より良いものを見たというだけで、今までの生活に不満を覚える人間もいた。
◇
夕方。
黒崎が部屋へ戻った。
「ただいま」
愛はソファでスマートフォンを見ていた。
「おかえり」
「三階の婆ちゃん、水持てないって言うから運んできた」
「ふーん」
黒崎が上着を脱ぎながら尋ねる。
「今日の夜、インスタントラーメンでいい?」
愛の指が止まった。
「……また?」
黒崎が振り返る。
「何?」
「何でもない」
愛はスマートフォンへ視線を戻した。
その画面には、蓮とのトーク画面が残っている。
そして頭の中にあるのは、昼間に見た食事と、高級マンション、暖かそうな部屋、自分で勝手に作り上げた蓮の生活だった。
愛は小さく息を吐く。
「ラーメンか……」
その声には、以前にはなかった明らかな不満が混じっていた。
黒崎はまだ、その意味に気付いていなかった。
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Day 33
外気温 -28.9℃
電力 △
ガス △
水道 △
通信 ▲
【今日のメモ】
「足りないものは、食料とは限らない。」
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