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氷河期ストレージ ~裏切られて死んだ俺は、30日前に戻り無限収納で世界を生き抜く~  作者: 宵白レン


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第41話 Day 24 誰が裁く

昨日、十三階で起きた争いによって、マンション内で初めて一人の死者が出た。


朝になっても警察は来なかった。救急にも何度も連絡しているが、道路状況と相次ぐ出動要請のため、いつ対応できるか分からないという返事しかない。遺体は一時的に地下駐車場へ移され、シートが掛けられている。


だが、マンションで最も大きな問題になっていたのは、遺体をどうするかではなかった。


十三階の男をどうするのか。


その一点だった。


住民グループには、朝から昨夜の事件について何百件もの書き込みが続いている。


『あれは正当防衛でしょう。十人以上で家に押し入ったんですよ』

『でもバールで殴って人が死んでます』

『家の中まで入られたら抵抗するのは当然です』

『だから殺していいんですか?』

『そもそも食料を隠してたからこうなったんじゃないですか?』

『自分で買った食料でしょう』


意見は完全に割れていた。


昨日までなら、こうした事件が起きれば警察が来て事情を聞き、必要なら逮捕し、あとは司法が判断した。だが今は、その誰も来ない。


それでも死者だけは出る。事件だけは起きる。


つまり、このマンションの中には、罪を裁く仕組みだけがなくなっていた。



午前九時過ぎ。


死んだ男の妻の部屋には、夫の弟が来ていた。


妻は一晩中ほとんど眠っておらず、目は真っ赤に腫れている。高校生の娘もソファの端に座ったまま、ほとんど口を開かなかった。


弟は何度目か分からない警察への電話を切ると、スマートフォンをテーブルへ置いた。


「また同じだ」


妻が顔を上げる。


「何て?」


「順番に対応してるって。それだけ」


「……そう」


それ以上、会話が続かない。


少しして、弟が低い声で言った。


「十三階のやつ、今も普通に部屋にいるんだろ?」


妻の表情が強張った。


「でも……あの人たちの部屋に、お父さんたちが押し入ったのも事実だから」


「だから何?」


「……」


「兄貴は死んだんだぞ」


弟の声が大きくなる。


「向こうは食料抱えて、暖かい部屋で今日も飯食うのか?」


妻は答えられなかった。


それが正しいのかどうかではない。ただ、その言葉を聞いた瞬間、夫を失った妻にも同じ感情が少しだけ浮かんでしまった。


どうして、あの家だけ。



午前十時。


住民代表から緊急の呼びかけが出た。


『昨夜の十三階での死亡事案について、今後の対応を決めるため、各代表および希望者による話し合いを一階集会スペースで行います』


蓮はその文章を読みながら、コーヒーカップを口元へ運んだ。


「ついに始めるか」


何をするのか、だいたい想像はできた。


警察が来ない。司法も機能しない。それでも人間は何も決めずにはいられない。


なら、自分たちで決めるしかない。


問題は、その瞬間から誰に他人を裁く権利があるのかという話になることだった。


蓮は朝食を続けながら、住民グループを閉じた。


「まあ、見せてもらおうか」



集会には、予想以上の住民が集まった。


三十人以上。


住民代表だけではない。昨日の争いを目撃した人間、死んだ男の家族、十三階の住民、そしてただ成り行きを見たい者までいる。


最初は住民代表の一人が、できるだけ冷静に話を進めようとした。


「まず、昨日の件についてですが、警察にはすでに連絡しています。ただ、現時点では到着の見込みが立っていません」


すぐに声が飛ぶ。


「じゃあ、それまでどうするんです?」


「人殺した人が普通に暮らしてていいんですか?」


別の男が反論する。


「人殺しって決めつけるなよ。家に押し入られたんだぞ」


「死んだのは事実でしょう!」


死んだ男の弟が立ち上がった。


「兄貴は頭をバールで殴られたんだ!」


「お前の兄貴たちが先に家へ入ったんだろ!」


「食料を分けてもらいに行っただけだ!」


その言葉で、会場の何人かが顔をしかめた。


「分けてもらうのに扉壊すのか?」


弟が振り返る。


「じゃあどうすればよかったんだよ! 食料ないんだぞ!」


また声が重なる。


住民代表が何度も制止した。


「皆さん、落ち着いてください!」


その瞬間、何人かの住民が無意識に身を固くした。


昨日も、こうして怒鳴り合いから始まった。


その後、扉が壊され、殴り合いになり、最後には一人死んだ。


少しして、年配の男性が静かに口を開いた。


「……もうやめよう」


言い争っていた住民たちが振り返る。


「昨日みたいなのは、もうやめよう。このままじゃ、また誰か死ぬぞ」


別の女性も続いた。


「私も怖かったです。昨日、子供とずっと部屋に隠れてました」


「食料がないのはみんな同じです。でも、誰かが持ってるって噂になるたびに部屋へ押しかけてたら、本当に殺し合いになりますよ」


昨日の騒ぎに加わった者の中にも、黙って俯く人間がいた。


誰も善人に戻ったわけではない。


食料は欲しい。他人が持っていれば羨ましい。


だが、昨日まで想像でしかなかった死は、今は地下駐車場にシートを掛けられて横たわっている。その事実だけは、誰も無視できなかった。



話し合いは再開された。


徐々に多くの人間が同じ方向へ向かい始める。


十三階の男を、このまま何もなしで済ませるのはおかしい。だが、もう昨日のようなやり方もしたくない。


そこへ一人の女性が言った。


「亡くなった方のご家族に、食料を渡してもらうのはどうですか?」


会場が静かになった。


「もちろん全部じゃありません。でも、ご主人が亡くなって、奥さんと娘さんが残ってるんですよね。今後の生活もあるし……」


別の住民が頷く。


「それなら分かる」


「補償みたいなもの?」


「今、お金もらっても意味ないしな」


「十三階の家は食料持ってるんでしょう?」


「昨日みんな見たからね」


いつの間にか話は変わっていた。


殺人だったのか、ではなく。


食料をどれだけ払わせるかへ。


死んだ男の弟が言った。


「全部寄越せなんて言ってない。兄貴の妻と娘が、しばらく生きられる分だけでいい」


その言葉はもっともらしく聞こえた。


夫を失った家族。


食料を持つ加害者。


そこから補償を受ける。


社会が正常だった頃なら、そんな形で解決する問題ではない。だが今は金に価値がなく、警察も裁判所も来ない。


なら、食料。


それが一番分かりやすかった。



そこへ、さらに別の住民が口を開いた。


「それと……先日の救援物資はどうするんですか?」


会場の空気が僅かに変わった。


誰もが何のことを言っているのか分かった。


二日前、救援物資が届いた日、住民たちは一斉に物資へ殺到した。米、飲料水、缶詰、レトルト食品。段ボールごと抱えて、自宅へ持ち帰った者までいる。


住民代表が少し考えてから答えた。


「その件も今日決めたいと思っています」


何人かの住民が顔を上げる。


代表は周囲を見渡した。


「まず先に言っておきます。先日、混乱の中で物資を持ち帰った方を責めるつもりはありません」


ざわめきが少し収まる。


「あの状況です。自分や家族の分を確保したかった気持ちは分かります。ただ、このまま各家庭が持ったままでは、誰がどれだけ持っているのか分かりません」


一人の住民が黙って視線を逸らした。


「そして、また『あの家は持っている』『あそこは隠している』という話になれば、昨日と同じことが起きるかもしれません」


地下駐車場にある遺体。


誰も口には出さなかった。


だが、全員が思い出した。


代表が続ける。


「ですから、持ち帰った救援物資については、一度返却していただきたいと思います」


すぐに反発が出た。


「返すんですか?」


「もう食べちゃった分もありますよ」


「うちは子供がいるから多めに確保したんです」


「誰が何持って帰ったかなんて分からないでしょう」


代表は首を振る。


「すでに使った分や食べた分まで責めるつもりはありません。今残っている分で構いません」


「返して、その後どうするんです?」


「一度共同備蓄としてまとめます。その上で、各家庭の人数や備蓄状況を確認して、できるだけ公平に再配分します」


会場のあちこちで、小さな話し声が始まった。


納得しているわけではない。


だが、昨日のように奪い合うよりはマシだと考える者も多かった。


そこへ別の住民が言った。


「でも、それだけじゃ結局同じじゃないですか?」


「何がです?」


「救援物資だけ返しても、元々大量に備蓄してる家はそのままでしょう」


今度は違う意味のざわめきが起きた。


「それは個人の物でしょう」


「自分で買った物まで出せってこと?」


「そこまでやるのはおかしい」


すぐに反発が出る。


代表も慌てて言った。


「まだそこまで決めているわけではありません。ただ、今後の救援物資を公平に分配するためにも、各家庭がどれくらい備蓄を持っているのかは、ある程度把握する必要があると思っています」


「家の中を見せろってことですか?」


「それは嫌ですよ」


「そんな権利ないでしょう」


また会場が騒がしくなる。


だが、一人の男性が言った。


「じゃあ、また誰かの家に食料があるって噂になったらどうするんです?」


声が止まった。


「昨日みたいに、みんなで押しかけますか?」


誰も答えない。


「誰がどれくらい持ってるか分からないから疑うんでしょう。だったら一回確認した方がいいんじゃないですか?」


反発は残っている。


それでも、昨日までなら誰も受け入れなかったはずの話が、初めて現実的な選択肢として住民たちの中に残った。



午後一時。


住民代表三人、死んだ男の弟、グループチャットから選ばれた数人。合わせて十二人ほどが十三階へ向かった。


玄関の前に立ち、インターホンを鳴らす。


しばらくして、インターホン越しに夫の声がした。


『何ですか』


住民代表が答える。


「昨日の件について話し合いをしました」


『警察が来たら話します』


「警察がいつ来るか分かりません」


『だから?』


代表は少し躊躇したあと、続けた。


「亡くなった方のご家族への補償についてです」


室内が静かになった。


『……補償?』


「食料を一部、提供していただきたいという結論になりました」


数秒、返事がない。


やがて夫の声が低くなった。


『誰が決めたんですか』


「住民で話し合いました」


『住民?』


「はい」


『何の権利があって?』


誰もすぐには答えられなかった。


夫が続ける。


『あいつらが俺の家に押し入ってきたんですよ。食料を奪おうとした。妻まで襲われかけた。俺は家を守っただけだ』


弟が前へ出る。


「兄貴は死んだんだぞ!」


『だから何だ!』


「食料を出せ!」


『ふざけるな!』


一気に声が大きくなる。


住民代表が弟を止めた。


「待って!」


それからインターホンへ向かう。


「全部という話ではありません。まず、亡くなった方のご家族に一定量を――」


『一個も出さない』


即答だった。


「ですが――」


『帰ってください』


通話が切れた。



廊下に立つ十二人は、誰もすぐには動かなかった。


弟が扉を見る。


「ほらな」


住民代表が振り返る。


「今日は一度――」


「また帰るのか?」


「無理やり入るわけにはいかないでしょう」


その言葉で、全員が昨日を思い出した。


無理やり入った。


そして人が死んだ。


一人の男が静かに言った。


「だったら、もう勝手に部屋へ入るのは禁止にしましょうよ」


代表が振り返る。


「え?」


「昨日みたいなこと、もう繰り返せないでしょう。食料が欲しいからって扉を壊して入る。それを認めたら、次は自分の家かもしれない」


何人かが小さく頷いた。


別の住民も言う。


「何か揉めたら、代表に相談する。それで決めるしかないんじゃないですか?」


住民代表はしばらく黙っていた。


法律がある。警察がいる。管理会社がいる。


そんな当たり前の仕組みは、もうまともに機能していない。


なら、自分たちで作るしかない。


「……分かりました」


代表が頷いた。


「今日中にルールをまとめます」



夕方。


住民グループに、いくつもの通知が流れた。


『昨夜の事案を受け、今後、他住戸への無断侵入、扉の破壊、暴力行為、物資の強奪を禁止します』

『物資に関する問題については個人間で解決せず、住民代表へ相談してください』

『昨日の混乱時に持ち帰られた救援物資については、未使用分を明日一度返却してください。返却された物資は共同備蓄として一括管理し、各世帯へ再配分します』

『今後の公平な配給を行うため、各家庭の備蓄状況についても確認方法を検討します。詳細については明日改めてお知らせします』


当然、反発はあった。


『誰がそんなこと決めたんですか?』

『家の中まで確認するつもりですか?』

『自分で買った物まで共同管理はおかしいでしょう』


だが、それ以上に賛成する声も多かった。


『昨日みたいになるよりマシです』

『もう奪い合いはやめましょう』

『子供がいるので、廊下で暴れるのだけは本当にやめてほしいです』

『救援物資は元々全員のために届いた物でしょう。一度戻すのは当然だと思います』


そして、十三階田中宅についても通知が出された。


『住民協議による補償要請を拒否しているため、今後マンション全体による支援対象から除外します』

『共同備蓄、今後到着する救援物資、その他住民間支援についても、協議に応じるまで対象外とします』


事実上の制裁だった。


十三階の夫婦は食料を持っているため、すぐには困らない。それでも意味は大きかった。


このマンションで初めて、警察でも管理会社でもなく住民自身がルールを作り、住民自身が罰を決めた。


そして、多くの住民がそれを受け入れた。


正しいと思ったからだけではない。


もう一度、昨日のようなことが起きるのが怖かったからだ。



蓮はその通知を見ながら、僅かに口元を上げた。


「なるほど」


暴動が収まった理由も、人々が代表の言うことを聞き始めた理由も単純だった。


秩序が戻ったわけではない。


善人に戻ったわけでもない。


人が一人死んだ。


次に他人の扉を蹴破れば、自分が殺す側になるかもしれない。あるいは殺される側になるかもしれない。


その恐怖が、今はまだ空腹より僅かに勝っているだけだった。


「だから今度は、奪わずに分ける仕組みを作るか」


昨日奪った救援物資を返し、一つに集め、そこから再分配する。そして各家庭が何を持っているのかも確認する。


理屈としては通っている。


少なくとも、今の住民たちにはそう見えていた。


だが、蓮には別のものも見えていた。


誰が物資を管理するのか。


誰が配るのか。


誰が多いと判断し、誰が少ないと判断するのか。


そして、従わない人間を誰が罰するのか。


今日、その権限が少しずつ住民代表へ集まり始めた。


「こっちの方が厄介なんだよな」


暴徒なら見れば分かる。


だが、自分たちを正しいと信じている集団は違う。


今日一度認められたなら、次からはもっと簡単になる。


食料を出さないなら罰。


協力しないなら罰。


ルールに逆らうなら罰。


最初は、人を殺した男だけ。


だが、対象は必ず増える。


蓮はスマートフォンを閉じた。


「社会が作り直され始めたか」


ただし、以前の社会とはまるで違う形で。



夜。


十三階の夫婦は、暗いリビングでスマートフォンを見ていた。


グループには、自分たちへの制裁についての投稿が残っている。


妻が小さな声で聞いた。


「……これからどうなるの?」


夫は答えなかった。


食料はある。


まだ何週間か持つ。


だが、マンションの中で完全に孤立した。


今日までは扉の外に敵がいた。


今日からは、ルールそのものが敵になるかもしれない。


夫は玄関を見る。


昨日壊され、応急処置だけされた扉。


その向こうに何人の人間がいるのか、もう分からなかった。


そして、昨夜までマンションを覆っていた怒鳴り声は、この夜、嘘のように少なくなっていた。


平和になったわけではない。


ただ全員が、地下駐車場に置かれた一つの遺体を、まだ忘れていなかった。


────────────────


Day 24


電力 ▲

ガス ▲

水道 ▲

通信 ○


【今日のメモ】


「人が一人死んで、ようやく皆ルールを欲しがった」


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