第40話 Day 23 中で死んだ
朝。
昨日の救援物資を巡る混乱の痕跡が、まだ一階ロビーに残っていた。
倒れた長机は壁際へ寄せられていたが、床には踏み潰された段ボールの破片や、誰かが落とした食品の包装、潰れて中身が漏れた缶詰などが散らばっている。住民代表が朝早くから片付けを始めていたものの、以前のように手伝おうとする住民はほとんどいなかった。
昨日、列に並んで順番を待っていた人間は食料を受け取れず、前へ割り込んだ者や箱へ直接手を伸ばした者が食料を持ち帰った。その光景をマンション中の住民が見ており、誰も口にはしなかったが、全員が一つのことだけは理解していた。
待っているだけでは、もう食料は手に入らない。
午前八時過ぎ、住民代表からグループへ短い連絡が入った。
『昨日の混乱により、届いた救援物資の大部分が正規の配給前に持ち去られました。現在、共同備蓄として配布可能な食料はほとんど残っていません』
しばらくして、一人の住民が尋ねた。
『ほとんどって、どれくらいですか?』
代表から返事が入る。
『本日の全世帯への配給は不可能です。今後については改めて検討します』
それ以上、大きな抗議は起きなかった。管理人を責める者も、住民代表を責める者もいない。昨日、救援物資へ殺到したのは自分たち自身だったからだ。
誰か一人を悪者にして済ませられる段階は、もう終わっていた。
◇
蓮は朝食を取りながら、静まり返った住民グループを眺めていた。
テーブルにはオムレツ、ソーセージ、トースト、それに熱いコーヒーが並んでいる。昨日のロビーの騒ぎとはまるで別世界だった。
蓮はオムレツを一口食べ、スマートフォンを置いた。
「共同備蓄は、ほぼ終わりか」
寒波が始まって二十三日。
最初は住民同士で少しずつ食料を分け、その次には共同備蓄が作られた。やがて管理人が横領し、住民代表へ管理が移り、最後は住民自身が救援物資へ殺到して配給制度を壊した。
二十三日も持ったと考えれば、むしろ長い方かもしれない。
ここから先は、もう誰かが全体の食料を公平に管理する段階ではない。持っている人間は自分で守り、持っていない人間は自分で探す。そして、その「探す」という言葉が、少しずつ別の意味へ変わり始めている。
蓮は監視モニターへ視線を移した。
各階の廊下を歩く人影が、以前より増えていた。誰かの家の前を通り過ぎたあとで一度振り返り、別の住民と立ち止まって話し、また別の階へ移動していく。何を話しているのかまでは聞こえない。
それでも、何を探しているのかは大体分かった。
「標的は、そこだろうな」
蓮はコーヒーカップを持ち上げた。
◇
午前十時。
マンション全体の住民グループとは別に、いくつもの小さなチャットが動いていた。七階、九階、十一階、十三階。同じ階の住民だけで作られたものもあれば、以前から付き合いのあった住民同士のものもある。
そのうちの一つ、十人ほどが参加しているグループに、一件の投稿が入った。
『十三階の田中さん、まだかなり食料を持ってるらしいです』
『前に揉めた家ですよね?』
『そうです』
『本当なんですか?』
『以前、米や水をかなり置いていたのを見た人がいるそうです』
『共同備蓄にはほとんど出してないですよね』
しばらくして、別の人間が書き込んだ。
『昨日あれだけ救援物資がなくなったのに、自分たちだけ隠してるならおかしくないですか?』
以前なら、「それは本人たちが買った物だ」「人の財産をどうしようと自由だ」といった反論がすぐに出ただろう。
今日は、誰もすぐには否定しなかった。
共同備蓄はほぼ空になり、次の救援物資が来る保証もない。すでに食事を抜いている家庭もある一方で、十三階の夫婦が大量の食料を持っているという噂だけは、ずっと消えずに残っている。
『一度、話しに行きませんか?』
『この前みたいに一人じゃなくて、何人かで』
『別に奪うわけじゃないです。少し分けてもらうだけでいいんです』
その言葉に、誰も「それは強盗だ」とは書かなかった。
◇
十三階。
備蓄を隠している夫婦は、朝から異変に気付いていた。
廊下を歩く人間が妙に多く、自分たちの部屋の前を通る時だけ歩く速度が少し遅くなる。中には、一度通り過ぎたあとに振り返る者までいた。
インターホンが鳴るわけではない。
それでも、見られている。
夫はドアスコープから廊下を確認すると、補助錠をもう一度確かめた。
妻がリビングから尋ねる。
「また来るかな」
「分からない」
夫はそう答えながら、玄関脇に立て掛けてある金属製のバールへ視線を向けた。
三日前、一人の男がこの扉を蹴った。あの時は、同じ階の住民たちが廊下へ出てきたことで何とか追い返すことができた。
だが、昨日の配給騒ぎでは全く違う光景を見た。子供を連れた母親も、会社員も、老人も、普段なら何の問題も起こさないような人間たちが、食料を目の前にした瞬間に押し合い、奪い合った。
夫は妻を見る。
「食料、もう少し分けて隠そう」
「また動かすの?」
「ああ。米も一ヶ所に置くな。寝室と風呂場にも分ける」
以前なら、そこまでやる必要があるのかと妻は言ったかもしれない。
今日は黙って頷いた。
食料を守ることが、自分たちの命を守ることなのだと、二人とももう理解していた。
◇
午後一時過ぎ。
インターホンが鳴り、夫婦は同時に動きを止めた。
夫がモニターを見ると、画面に映っていたのは四人ほどだった。だが、少し後ろにも人がいる。六人、九人と増え、さらに離れた場所にも何人か立っていた。
妻が青ざめる。
「……何人いるの?」
「十人以上」
夫は通話ボタンを押した。
「何でしょう」
先頭に立っていた四十代ほどの男が答えた。
『少しお話したいんです』
「何の話ですか」
『食料のことです』
夫の表情が硬くなる。
「うちにも余裕はありません」
男はそれを予想していたように続けた。
『皆かなり困ってるんです。昨日の救援物資もほとんどなくなりました。子供がいる家庭も、高齢者がいる家庭もあります』
「だから?」
『少しだけでも出してもらえませんか』
「共同備蓄にはすでに出しました」
『でも、まだ持ってますよね?』
夫は答えなかった。
別の男が後ろから口を挟む。
『全部出せとは言ってません。余裕のある分だけでいいんです』
夫は低い声で答えた。
「余裕なんてありません」
『本当に?』
「本当です」
少しの沈黙のあと、先頭の男が言った。
『だったら、中を確認させてもらえませんか?』
夫の顔から表情が消えた。
「お断りします」
『何でですか?』
「ここは私の家です」
『何も取らないです。ただ見るだけです』
「断ります」
『皆困ってるんですよ』
「うちも同じです」
『でも、あなたたちは食料持ってるでしょう!』
男の声が大きくなり、夫も強い口調で返した。
「帰ってください!」
そのまま通話を切ると、妻が不安そうに近づいてくる。
「どうするの?」
夫は補助錠を確認したあと、玄関脇のバールを手に取った。
「絶対に開けるな」
◇
数分後、玄関が激しく叩かれた。
ドンドン。
「田中さん!」
夫婦は返事をしない。
「話しましょうよ!」
さらに強く扉が叩かれる。
「別に全部寄越せって言ってるわけじゃないんです!」
夫が扉越しに怒鳴った。
「帰れ!」
廊下が一瞬静かになったものの、すぐに別の声が返ってきた。
「なんでそこまで頑ななんだよ!」
「本当にないなら見せればいいだろ!」
「隠してるから見せられないんじゃないのか!」
夫はバールを握る手に力を入れた。
「人の家に入る権利なんかない!」
外からすぐに返ってくる。
「法律の話してる場合かよ!」
その言葉に、誰も反論しなかった。
廊下にはさらに人が増えていた。全員が扉を壊そうとしているわけではなく、後ろで見ているだけの住民もいる。何が起きるのか、本当に食料があるのか、それを確かめるためだけに来た者もいた。
だが、人数が増えるほど空気は変わる。
一人ではできないことでも、十人ならできるような気がしてくる。
先頭の男が扉を強く叩いた。
「開けてください!」
中から返事はない。
もう一度、男が声を張り上げる。
「最後に言いますよ!」
その時、後ろにいた若い男が苛立ったように口を開いた。
「もういいだろ」
先頭の男が振り返る。
「何が?」
「こんだけ言っても開けねえんだから」
若い男は玄関を見る。
「入って確認すりゃいいじゃん」
数人が黙った。
誰も「そうしよう」とは言わなかった。
だが、「やめろ」とも言わなかった。
その沈黙で、流れが決まった。
◇
ドンッ!
若い男が扉を蹴った。
中から夫の怒鳴り声がする。
「やめろ!」
もう一度、扉へ大きな衝撃が加わる。
ドンッ!
「やめろって言ってるだろ!」
今度は別の男も加わり、やがて三人、四人と扉へ身体をぶつけ始めた。全員ではない。それでも何度も衝撃を受け続ければ、扉は少しずつ軋み始める。
ドンッ、ドンッ、と大きな金属音が十三階へ響いた。
妻はリビングで震え、夫はバールを両手で握ったまま玄関の前へ立った。
「警察呼んで!」
妻がスマートフォンを手に取る。
夫は扉から目を離さず、苦い笑いを浮かべた。
「来ないだろうけどな」
それでも妻は電話を掛けた。
◇
数分後、玄関の枠が歪み始めた。
先日とは違う。
人数が多い。
一人が疲れても別の人間が代わり、何度も何度も衝撃が加わっていく。夫は扉を内側から必死に押さえていた。
バキッ。
嫌な音がした。
妻が悲鳴を上げる。
「あなた!」
「下がってろ!」
次の瞬間、扉が大きく内側へ開き、夫の身体が押し戻された。そのまま廊下から男たちが雪崩れ込んでくる。
「やめろ!」
夫はバールを構えた。
先頭の男が一瞬止まる。
「おい、落ち着け」
「出ていけ!」
「話し合おうって!」
「出ていけ!」
夫は叫び続ける。
だが、その時、後ろにいた誰かが部屋の奥を見た。
「……あるぞ」
全員の視線が動いた。
移動しきれなかった箱。
米。
水。
缶詰。
それらが目に入った瞬間、空気が一変した。
「やっぱり隠してたじゃねえか!」
「嘘つきやがって!」
「これだけあるなら出せよ!」
「こっちは昨日からまともに食ってないんだぞ!」
夫が怒鳴る。
「俺が買った物だ!」
もう、誰も聞いていなかった。
一人が米袋へ向かい、夫が腕を掴む。
「触るな!」
男がその手を振り払い、別の住民が水の箱を持ち上げる。
妻が慌てて駆け寄る。
「やめてください!」
室内は一気に混乱した。
怒鳴り声が飛び交い、物が倒れ、妻の泣き声まで重なる。誰かが夫の腕を掴み、夫も必死に振りほどこうとした。
そして、ほとんど反射だった。
夫はバールを振った。
ゴッ、と鈍い音がした。
男がその場に崩れ落ちた瞬間、室内にいた全員の動きが一瞬だけ止まった。
「……おい?」
床に倒れた男は動かず、額からゆっくり血が流れ始める。
夫自身も、バールを握ったまま固まっていた。
「俺……」
その瞬間、別の男が叫んだ。
「てめえ!」
男が殴りかかり、そこから先は完全な乱闘になった。
◇
マンション全体の住民グループには、ほぼ同時に何件もの投稿が流れ始めた。
『十三階で大変なことになってます!』
『人が倒れてます!』
『殴り合いになってる!』
『誰か止めてください!』
『救急車呼んで!』
『警察!』
だが、警察は来ない。
救急車も来ない。
そして、食料を奪いに入った人間たちも、もう止まらなかった。
最初は少し分けてもらうためだった。次に、中を確認するだけという話になった。ところが扉が開き、食料が見え、一人が倒れた。
そこまで来た時には、もう最初の目的など誰も覚えていなかった。
◇
騒ぎが収まったのは、それから二十分ほど後だった。
十三階の廊下と室内には、水のペットボトル、破れた米袋、缶詰、レトルト食品が散乱し、壁や床には血も付いている。
最初にバールで殴られた男は廊下へ運び出されており、住民の一人が何度も呼び掛けていた。
反応はない。
首元へ指を当てるまでもなく、そもそも素人目にも分かるほどの損傷だった。
誰が見ても明白だった。
しばらくして、その住民がゆっくり首を横に振った。
誰も何も言わなかった。
四日前、マンションの外で人が死んだ。
そして今日、今度はマンションの中で、住民同士の争いによって一人が死んだ。
◇
蓮は監視モニターの前に座っていた。
十三階には大勢の住民が集まり、玄関は開いたままになっている。その周囲には物が散乱し、廊下には動かなくなった人影も見えた。
音声までは聞こえない。
だが、何が起きたのかは十分に分かる。
蓮はしばらく画面を見ていた。笑わず、驚きもしないまま、ただ静かに息を吐いた。
「……三週間か」
前世では、もっと早く壊れた場所もあった。逆に、もっと長く持った場所もあった。
だが、最後に辿り着く場所はだいたい同じだった。
食料がなくなり、助けが来なくなり、警察も来ない。
そして最後には、人間自身が自分たちのルールを作り始める。
今日、このマンションでは一つの大きな線が消えた。
昨日まで強盗は犯罪だった。
今日は食料を巡る争いの中で人が死んだ。
「もう戻れないな」
蓮は小さく呟いた。
◇
夜。
住民グループは異様な状態になっていた。
『十三階の件、誰が悪いんですか?』
『食料奪いに行った側でしょう』
『でも殺したのは十三階の人ですよね?』
『家に押し入られたんですよ。正当防衛でしょう』
『だから殺していいんですか?』
『じゃあ黙って食料奪われろって言うんですか?』
『そもそも食料を隠してたのが原因では?』
『自分で買った物でしょう!』
『こんな時に独占する方がおかしい』
『強盗を正当化するな』
以前なら、人が一人死んだというだけで、議論の余地などほとんどなかった。
今は違う。
住民たちは誰が殺したのかだけではなく、どちらが悪かったのかというところから議論している。
食料を守った側。
食料を奪おうとした側。
それぞれに自分なりの正義があり、誰も答えを出せない。
蓮は住民グループを閉じた。
今日、マンションの中で一人死んだ。
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Day 23
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「扉の外だった死が、今日、内側へ入ってきた」
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