第39話 Day 22 配給崩壊
朝。
蓮がテレビをつけると、画面には見慣れない光景が映っていた。
スーパーでも避難所でもない。映っていたのは高速道路で、雪を掻き分けて進む大型車両を、何十人もの人間が取り囲んでいる。
『昨日午後、関東地方の複数箇所で、救援物資を輸送していた車両が住民に取り囲まれる事案が発生しました』
映像は遠くから撮影されたものだった。停車したトラックの荷台へよじ登る人間、段ボールを抱えて走る人間、それを止めようとする警察官。画面の向こうからは怒鳴り声と悲鳴が入り混じって聞こえてくる。
やがて映像が切り替わり、今度は避難所として使われている体育館が映し出された。
『また、複数の避難所で食料配給を巡る混乱が発生しており、一部では負傷者も確認されています』
床には段ボールが散乱し、机は倒れ、その周囲では何人もの人間が物資を奪い合っていた。少し離れた壁際では、小さな子供を抱いた母親が騒ぎから逃れるように身体を縮めている。
アナウンサーは硬い表情のまま原稿を読み上げた。
『政府は、救援物資の輸送について警察および自衛隊との連携を強化するとしていますが、積雪による道路寸断に加え、燃料不足や車両故障も相次いでおり――』
蓮はコーヒーを飲みながら画面を眺めていたが、驚きはなかった。むしろ、ここまで持ったことの方が意外なくらいだった。
二十二日。
三週間以上。
備蓄していた家庭も、少しずつ食べていた家庭も、近所から分けてもらっていた人間も、食料が尽きるには十分すぎる時間だった。
そして、国が配る食料さえ十分ではないと分かった時、人間はもう大人しく待たなくなる。
テレビの画面下に速報が流れた。
『政府は不要不急の外出を厳重に控えるよう改めて要請』
蓮は小さく笑った。
「外出できるなら、まだマシだろ」
窓の向こうには、雪に埋もれた街が広がっている。
◇
午前九時。
マンションの住民グループに、共同備蓄についての連絡が入った。
『本日朝の時点で、共同備蓄の残量が極めて少なくなっています。現在の量では、本日分を全世帯へ配給することは困難です』
すぐに返信が付いた。
『どういうことですか?』
『昨日はあと二日くらいあるって言ってませんでした?』
『昨日の強盗と関係ありますか?』
『管理人さん、ちゃんと在庫確認してるんですか?』
『また誰か持っていったんじゃないでしょうね』
最初に出てきたのは、理由を知ろうとする言葉ではなく疑いだった。
誰かが盗んだのではないか。誰かが多く受け取ったのではないか。管理人がまだ何か隠しているのではないか。
昨日の強盗事件を経たことで、その疑念は以前よりもずっと強くなっている。
住民代表が説明を書き込んだ。
『昨日再確認した数字に誤差がありました。また、一部の高齢者世帯や乳幼児のいる家庭への追加配給も行っています』
その説明が、さらに火に油を注いだ。
『追加配給?』
『聞いてませんけど』
『なんで勝手に決めてるんですか?』
『子供がいる家だけ特別扱いですか?』
『高齢者より働ける世代を優先するべきじゃないですか?』
『何言ってるんですか?』
『全員同じ量にしてください』
以前なら、乳幼児や高齢者へ少し多く渡す程度で強く反発する人間は少なかった。
だが今は違う。
カップ麺一つ、缶詰一つ、水一本。その一つが、自分や家族の一日を延ばすものになっていた。
◇
午前十一時過ぎ、状況が変わった。
『管理人です。先ほど管理会社を通じて連絡があり、本日午後、救援物資が到着する予定です』
グループの流れが一度止まり、次の瞬間には一気に投稿が増えた。
『本当ですか!?』
『何時ですか?』
『どれくらい届くんですか?』
『全世帯分ありますか?』
『食料ですか? 水もありますか?』
『絶対に前みたいなことにならないようにしてください』
『今回は受け取った時点で全員立ち会った方がいいと思います』
蓮はそのやり取りを見ながら、僅かに眉を上げた。
「来るか」
予想より早い。
だが、管理人の投稿には数量が書かれていなかった。
そこが気になった。
そして住民たちも、すぐに同じことへ気付いた。
『どれくらい届くんですか?』
再び質問が入り、数分後に管理人から返信が来た。
『現時点では正確な数量は分かりません』
救援が来るという期待と、十分な量ではないかもしれないという不安。その二つが、同時にマンション中へ広がっていった。
◇
午後一時を過ぎた頃、一階のエントランスにはすでに三十人以上の住民が集まっていた。
まだ救援物資は来ていない。それでも、誰も部屋へ戻ろうとはしなかった。
少しでも前に並びたい。届いた瞬間に自分の目で確認したい。そして何より、自分の分を確実に受け取りたい。
考えていることは、全員ほとんど同じだった。
「順番に配るんですよね?」
「もちろんです」
「部屋番号確認しますよね?」
「はい」
「一世帯何個ですか?」
「物資が到着してから確認します」
「ちゃんと全員分あるんでしょうね?」
「それも、まだ分かりません」
最後の答えを聞いた瞬間、何人もの住民の表情が曇った。
午後二時になる頃には、集まった人数は五十人を超えていた。子供を連れた母親、高齢者、夫婦、一人暮らしの若者まで、様々な住民がエントランスに集まっている。
昨日、強盗事件を起こした三人の姿はなかった。
その代わり、彼らの家族らしい人間が列の後ろに立っていた。
誰も話しかけなかった。
◇
午後三時十四分。
エントランスの外が騒がしくなった。
「来た!」
誰かが叫んだ瞬間、集まっていた住民たちが一斉に動いた。
雪を掻き分けて作られた細い通路の向こうから、数人の人間が段ボールを抱えて歩いてくる。車両はマンション前まで入れないらしく、少し離れた場所から人力で運んできたようだった。
一箱、二箱と次々に荷物が運び込まれ、住民たちの視線はその一つ一つを追い続けた。
管理人と住民代表が前へ出る。
「皆さん、下がってください! まず数量を確認します!」
しかし、誰も下がろうとはしなかった。
むしろ少しでも近くで中身を確かめようと、前へ出ようとする者が増える。
「何箱あるんですか?」
「食料ですよね?」
「水は?」
「子供用ありますか?」
「まず確認しますから!」
荷物がすべてエントランスへ運び込まれる。
全部で十数箱。
その数が分かった瞬間、住民たちの表情が一斉に変わった。
「……これだけ?」
誰かが漏らした、その一言で空気が変わった。
百世帯を超えるマンションに対して、十数箱。
どう考えても足りない。
「待ってください!」
一人の男が前へ出る。
「これ、全世帯分ないですよね?」
管理人が答えた。
「ですから、まず中身を確認して――」
「何入ってるんですか?」
「まだ開けてません!」
「開けてくださいよ!」
「順番に確認します!」
声が次第に大きくなっていく。
住民代表の一人が両手を上げた。
「皆さん! 一度離れてください!」
それでも、誰も離れなかった。
◇
一つ目の箱が開けられた。
中身はレトルト食品。
二つ目は缶詰。
三つ目には栄養補助食品が入っていた。
住民たちの視線が、一斉に箱の中へ集中する。
「水は?」
「まだです」
「米は?」
「見てるところです!」
「一世帯いくつ?」
「だからまだ――」
その時、後ろから声が飛んだ。
「先に子供いる家に配ってください!」
すぐに別の声が返る。
「またそれかよ!」
「子供優先でしょ!」
「こっちだって三日まともに食ってないんだぞ!」
「子供と大人は違うでしょう!」
「じゃあ俺は死んでいいのかよ!」
怒鳴り声が重なり、管理人が必死に叫ぶ。
「落ち着いてください!」
だが、誰も聞かなかった。
その時、一人の男が開封された箱へ手を伸ばし、レトルト食品を一つ掴んだ。
住民代表がすぐに腕を掴む。
「何してるんですか!」
「一個だけだよ!」
「戻してください!」
「俺の分だろ!」
「まだ配ってません!」
「どうせ全員分ねえんだろ!」
その言葉が響いた瞬間、全員の動きがほんの一瞬だけ止まった。
そして、別の女が箱へ手を伸ばした。
「じゃあ私も!」
「待って!」
女性が缶詰を掴む。
「やめてください!」
誰かが止めようと前へ出た瞬間、別の人間とぶつかり、身体がよろめいた。
「痛っ!」
その拍子に段ボールが倒れ、中に入っていた缶詰やレトルト食品、栄養補助食品が床へ一気に散らばった。
数十人の視線が、一斉に床へ向いた。
ほんの一秒ほど、誰も動かなかった。
次の瞬間、
「取れ!」
誰が叫んだのかは分からなかった。
◇
一斉に人が殺到した。
「押すな!」
「それ俺のだ!」
「離して!」
「子供がいるんです!」
「俺だって腹減ってんだよ!」
床に落ちた缶詰を二人が同時に掴み、互いに譲らず引っ張り合う。
「離せ!」
「お前が離せ!」
別の場所では、女性がレトルト食品を何個も胸へ抱え込んでいた。
「それ一人で取りすぎ!」
「触らないで!」
腕を掴まれ、女性が叫ぶ。
「やめて!」
さらに別の男は箱そのものを抱えて持ち去ろうとし、住民代表が必死に止める。
「箱ごとは駄目です!」
「うるせえ!」
男に突き飛ばされ、住民代表がよろめいた拍子にテーブルまで倒れた。
悲鳴と怒鳴り声、泣き声がエントランスいっぱいに広がる。
管理人も何度も叫んでいた。
「やめてください!」
だが、もう誰も聞いていなかった。
そこにあったのは配給ではなかった。
◇
蓮は自室の監視モニターで、その光景を見ていた。
音声までは聞こえない。
それでも、何が起きているのかは十分に分かった。
倒れる人間、床へ群がる住民、箱を抱えて走る男、缶詰を胸に抱き、他人から奪われないよう身体を丸める女性。
蓮はしばらく画面を見つめたあと、静かに呟いた。
「……来たか」
昨日は三人が一つの部屋を襲った。
今日は、数十人が同じ場所で食料を奪い合っている。
きっかけは、たった一つだった。
全員分ない。
それが分かっただけだった。
◇
十分もかからなかった。
救援物資は、ほとんど消えていた。
エントランスには破れた段ボールや、踏み潰されたレトルト食品、転がった缶だけが残っている。その周囲では、座り込む人間、泣いている子供、食料を一つも取れなかった高齢者、口元から血を流す男などが呆然としていた。
管理人は壁際に立ったまま、何も言わなかった。
住民代表の一人が床へ落ちていた缶詰を拾う。
缶は大きくへこんでいた。
それでも、中身は食べられる。
男はしばらくその缶詰を見つめ、周囲を確認した。
そして何も言わず、自分の上着のポケットへ入れた。
誰も何も言わなかった。
◇
夕方。
住民グループには、何百件ものメッセージが流れていた。
『今日の配給、もう犯罪ですよ』
『一個も取れませんでした』
『箱ごと持っていった人いますよね?』
『防犯カメラ確認してください』
『誰が何個取ったか全部調べるべきです』
『子供がいる家庭に返してください』
『こっちだって家族いるんですけど』
『管理人は何してたんですか?』
『もう管理人に任せられない』
『次から部屋番号順にしてください』
『次なんて来る保証あるんですか?』
最後の一文が投稿されると、しばらく誰も書き込まなかった。
次。
次の救援物資。
誰も、それがいつ来るのか知らない。
そもそも、次が本当に来るのかどうかさえ分からない。
◇
夜。
蓮は住民グループを閉じた。
もう今日以前の状態には戻らない。
昨日までは、「奪う人間」はまだ一部に限られていた。
だが今日は、普通の住民まで食料を奪った。
子供のいる母親も、会社員も、高齢者も、昨日まで強盗を批判していた人間さえ、床へ落ちた食料へ手を伸ばした。
善人が突然悪人になったわけではない。
人格が一日で変わったわけでもない。
ただ、自分が取らなければ他人が取る。
その状況になった。
それだけだった。
蓮は椅子へ深く身体を預けた。
「これで終わりだな」
管理人が決める。
住民代表が配る。
列に並ぶ。
順番を待つ。
これまで何とか維持されていた、そうした仕組みが今日、目の前で壊れた。
次に食料が届いた時、住民たちはもう大人しく列には並ばない。
最初から取りに行く。
なぜなら今日、待っていた人間が損をした。
その事実を、全員が学んでしまったからだ。
蓮は監視モニターへ目を向けた。
エントランスには、まだ数人の住民が残っている。
食べられる物が何か一つでも落ちていないか、何度も床を探している。
三週間前なら、誰も想像しなかった光景だった。
だが今はもう、このマンションですらそこまで来ていた。
────────────────
Day 22
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「秩序は、守った者が損をした瞬間に壊れる」
────────────────




