第38話 Day 21 異なる日常
寒波が始まって、三週間が経った。
朝九時過ぎ、蓮のマンションで初めて強盗事件が起きた。
六階で一人暮らしをしている高齢男性の部屋へ、同じマンションに住む三人の住民が押し入り、米や缶詰、飲料水などを持ち去ったのだ。
老人は抵抗した際に強く突き飛ばされ、そのまま頭を壁へぶつけて負傷した。幸い命に別状はなく、しばらくして意識も戻ったものの、同じマンションの住民が住民の部屋へ押し入り、食料を奪ったという話は、ものの数分で住民グループ全体へ広がっていった。
『六階で強盗があったそうです』
『犯人は同じマンションの住民三人です。防犯カメラにも映っています』
『警察には連絡したんですか?』
『連絡済みですが、道路状況の問題でいつ来られるか分からないそうです』
当然、最初は犯人を非難する書き込みばかりだったが、しばらくすると別の意見も混ざり始める。
『でも六階の人、かなり食料を持ってたって話もありますよね』
『だからって強盗していい理由にはならないでしょう』
『もちろん駄目です。でも共同備蓄にはほとんど出してなかったって聞きました』
『それとこれとは別問題です』
『じゃあ食料がなくて死にそうな人はどうすればいいんですか?』
『人の家を襲えばいいって言ってるんですか?』
『そんなことは言ってません』
『言ってるのと同じでしょう』
持っている者が分けるべきなのか、それでも他人の財産を奪ってはならないのか。警察に任せるべきだという意見が出ても、その警察がいつ来るのか分からないという現実が返ってくる。
何が正しく、何が間違っているのか。住民グループでは朝から、ほとんどその話ばかりが続いていた。
蓮はソファへ腰を下ろし、コーヒーを飲みながら流れていくメッセージを眺めていたが、しばらくすると口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「……まだ品がいい方だな」
強盗が一件起きただけで大騒ぎになり、住民代表が対応し、警察へ連絡し、それでも足りずに住民同士で善悪について議論している。昨日までは他人の扉を蹴るだけだった人間が、今日はとうとう部屋の中へ入り、実際に食料を奪った。
確実に壊れ始めている。
それでも、まだここには社会の残骸が残っていた。
蓮が住んでいるのは、都内でもかなり上の部類に入る高級マンションだ。住民には経営者や医師、高所得の会社員なども多く、もともとの備蓄量にも比較的余裕があり、建物そのものの設備も一般的な集合住宅より遥かに充実している。
そんな場所でさえ、三週間でここまで来た。
蓮は窓の外へ目を向けた。雪に埋もれた街には、もう人影すらほとんど見えない。
「他所なんて、とっくに無秩序だろうな」
その予想は、決して大袈裟ではなかった。
◇
同じ頃。
一ノ瀬美咲が暮らすマンションでは、廊下の壁に茶色く乾いた血の跡が残っていた。
三日前、食料を巡る争いの末に、一人の男が階段から突き落とされた。救急車を呼び、警察にも連絡したが、誰も来なかった。
翌朝には男は動かなくなっており、住民数人が遺体を地下駐車場の一角へ運んだ。
最初の日は大騒ぎだった。泣いている者もいれば、警察へ何度も電話をかける者もおり、犯人を捕まえろと怒鳴る者までいた。
ところが二日目になると、その話をする者は目に見えて減り、三日目の今日には、もうほとんど誰も話題にしていなかった。
美咲はリビングに座り、柴田が上着を羽織っている姿を眺めていた。
「どこ行くの?」
柴田は靴紐を結びながら、何でもないことのように答えた。
「さて、今日も行ってくるか」
美咲の表情が一瞬だけ固まったものの、驚きはしなかった。もう初めてではない。
「今日はどこ?」
「八階」
「八階?」
「あそこ、まだ持ってるらしい」
柴田はそう言いながらスマートフォンを確認した。
画面には、いつの間にか作られた小さなグループチャットが表示されている。参加者は柴田を含めて五人で、全員が男だった。
『集合した』
『階段にいる』
『袋持ってきた』
『今日は夫婦二人だけらしい』
美咲はその画面を横から覗き込み、少し眉を寄せた。
「いつからそんなの作ったの?」
「この前から。一人じゃ効率悪いからな」
柴田は悪びれる様子もなく答えた。
最初は隣の部屋だった。食料を分けてほしいと頼み、断られた柴田は、そのまま部屋へ押し入って米や缶詰を持ち帰った。
二度目は、同じ階の別の部屋。そして三度目からは、一人では行かなくなった。
食料が尽きた男、妻と子供を抱えた男、以前から柴田と顔見知りだった住民。事情はそれぞれ違っていたが、彼らが求めているものだけは同じだった。
食べ物が欲しい。
ただ、それだけだった。
気がつけば柴田を中心に人が集まり、一つの小さな集団が出来上がっていた。
柴田が玄関を開けると、外にはすでに四人の男が待っている。
「おせえよ」
「悪い悪い」
「八階の角部屋だよな?」
「ああ」
「何人?」
「夫婦二人」
それを聞いた一人が笑った。
「じゃあ楽勝だな」
美咲は玄関から、その会話を黙って聞いていた。
以前なら恐ろしいと思ったかもしれない。今でも怖くないわけではないが、それより先に別のことが頭へ浮かんでいた。
(今日は何持って帰ってくるかな)
自分でも、そんな考えが自然に浮かんだことには気づいていた。それでも、止めようとは思わなかった。
「気をつけてね」
「ああ」
柴田は片手を上げると、四人の男と一緒に廊下を歩いていった。
◇
八階の角部屋。
インターホンが鳴り、住人の男がモニターを確認した。そこに五人の男が立っているのを見た瞬間、顔色が変わった。
『……何ですか?』
柴田はインターホンへ顔を近づけた。
「食料、少し分けてもらえません?」
声だけを聞けば穏やかだった。
『ありません』
「あるって聞いてますよ」
『ありません。帰ってください』
「少しでいいんですよ」
『警察呼びますよ』
その言葉を聞いた瞬間、後ろにいた誰かが笑った。
柴田も笑う。
「またそれか」
もう「警察」という言葉には、以前のように相手を止める力はなかった。
柴田はインターホンから離れると、後ろにいる男へ顎をしゃくった。
「開けろ」
男が持ってきた金属製の工具を構え、そのまま扉へ叩きつけた。
ガンッ、と大きな音が廊下へ響き、間を置かず二度目の衝撃音が続く。
室内から女性の悲鳴が聞こえた。
「やめてください!」
他の部屋の住民たちにも、当然その声は聞こえている。それでも、誰も出てこなかった。
数分後には鍵の周辺が大きく歪み、最後に男二人が身体をぶつけると、とうとう玄関扉が開いた。
「入るぞ」
五人が一斉に部屋へ入っていく。
怒鳴り声、物が倒れる音、女性の泣き声が廊下まで漏れ、それがしばらく続いた。
十数分後、柴田たちは両手いっぱいの荷物を抱えて部屋から出てきた。米や缶詰、飲料水、菓子、酒、調味料など、持てるだけの物を袋へ詰め込んでいる。
「結構あったじゃねえか」
柴田が笑った。
「隠してやがったな」
誰も走らなかったし、逃げる様子すらなかった。
五人は奪った荷物を抱えたまま、普段とほとんど変わらない足取りで廊下を歩いていく。
まるで、買い物を終えて帰るように。
◇
「ただいま」
玄関が開く音に、美咲が振り返った。
柴田の両手には大きな袋が下がり、その後ろから別の男が米袋を抱えて入ってくる。
「ここ置いとくぞ」
「ああ、サンキュー」
男はそれだけ言うと、すぐに帰っていった。
美咲は待ちきれないように袋へ近づき、中身を覗き込んだ。缶詰、レトルト食品、菓子、酒が詰め込まれており、その中に見覚えのある包装を見つけた。
「あ」
チョコレートだった。
美咲はすぐに取り出した。
「これ食べていい?」
「好きにしろ」
「やった」
包装を開け、一口食べる。
久しぶりに口の中へ広がる甘さに、美咲は思わず目を細めた。
「……おいしい」
それが誰の家から持ってきた物なのか、その部屋で何が起きたのか、美咲は聞かなかった。柴田も説明しなかった。
そうしたことが、このマンションではもう特別ではなくなり始めていた。
◇
その夜。
美咲は久しぶりに腹いっぱい食べていた。
白米にレトルトのハンバーグ、缶詰まで並び、食後には昼間のチョコレートも残っている。向かいでは柴田が缶ビールを飲みながらテレビを眺めていた。
「明日は九階かな」
何でもないことのように柴田が言う。
美咲も箸を止めずに聞き返した。
「また行くの?」
「ああ。まだ持ってる家があるらしい」
「気をつけてね」
「だから大丈夫だって」
柴田が笑い、美咲も小さく笑った。
今日の食事は、数日前までなら十分すぎるほど贅沢なものだった。腹も満たされ、久しぶりに甘い物まで食べることができた。
それでも、美咲の頭には一つの不安が残っていた。
このマンションでも、いつか奪える物がなくなる。
最初は同じ階だったが、今では別の階へ行っている。そのうち、この建物そのものから食料が消える。
では、その時はどうするのか。
そこで美咲の頭に、ふと一人の男の顔が浮かんだ。
(……あの男、今どうしてるんだろ)
神崎蓮。
寒波が始まる前、偶然デパートで見かけた時、蓮は信じられないほど大量の商品を買っていた。食料や酒、日用品まで、何をそんなに買う必要があるのかと思うほど、次々と商品をカートへ積み込んでいた。
あの時はただの変な買い物にしか見えなかった。
しかし、今になって考えると意味が違って見える。
(あれ……まだ残ってるんじゃない?)
しかも蓮が住んでいるのは高級マンションだ。
以前、一度だけ訪ねたことがある。結局、中には入れてもらえず、玄関前で追い返された。
思い出すだけで腹が立った。
昔なら、自分が会いたいと言えば喜んで飛んできた男だった。少し甘えれば奢ってくれ、欲しい物を匂わせれば買ってくれた。困ったと言えば助けに来る。
美咲にとって蓮は、そういう便利な男だった。
それが今では、自分から連絡してもまともに相手をしない。
(調子に乗ってる……)
そう思う一方で、美咲の頭には別の想像が膨らみ始めていた。
高級マンション、暖かい部屋、食料、綺麗な水。もしかすると蓮は、自分たちより遥かにまともな生活をしているのではないか。
確証などない。部屋の中を見たことすらないのだから、すべて想像に過ぎない。
それでも、蓮からは一度も助けを求める連絡が来ていなかった。食料がないとも、水がないとも言ってこない。
(……絶対、私たちより余裕あるよね)
美咲は柴田へちらりと視線を向けた。
今日も他人の家へ押し入り、ようやく食料を持ち帰ってきた男。
そして、高級マンションに住んでいる蓮。
二人の姿が、頭の中で並んだ。
(ちょっと探ってみようかな)
「お湯出るうちにシャワー浴びてくるね」
「ああ」
柴田はテレビを見たまま答えた。
美咲はスマートフォンを持って寝室へ入り、静かに扉を閉めると、ベッドへ腰を下ろして蓮とのトーク画面を開いた。
しばらく考えてから、文字を打つ。
『蓮くん、大丈夫?』
『こっちは本当に大変なことになってるよ。マンションでも人が亡くなったし、食べ物を巡って毎日喧嘩してる』
少し間を空ける。
『正直、ちょっと怖い』
送信したあと、さらにもう一通。
『以前はごめんね。私も素直じゃなくて、ちゃんと話せなかった』
本当に謝りたいわけではなかった。
ただ、蓮にはこういう言い方が効く。
昔からそうだった。
強く頼むより、少し弱ったところを見せる。困っていると言う。そうすれば、あの男は勝手に心配して動いた。
美咲は最後にもう一文を打った。
『もし蓮くんが一人なら、私そっちに行ってあげようか? 一人じゃ寂しいでしょ?』
送信。
美咲はスマートフォンを眺めながら、小さく笑った。
(これで少しは食いつくでしょ)
数分後、スマートフォンが震えた。
蓮だった。
「……来た」
美咲はすぐに画面を開いた。
『大丈夫だよ。こっちも一応節約してる。今日はパン一個減らした』
「パン?」
その下には、一枚の写真が添付されていた。
美咲は何気なく開き、そのまま動きを止めた。
「……は?」
大きな皿の中央には、焼き目の付いた分厚いステーキが載っていた。切り口には綺麗な赤みが残り、その横にはマッシュポテトと温野菜が添えられている。
隣には赤ワインがあり、籠の中にはパンが二つ。そして背景には、暖炉の炎まで映っていた。
美咲は無言のまま写真を拡大した。
ステーキ、ワイン、パン、暖炉。
もう一度、最初から確認する。
「……何こいつ」
思わず声が漏れた。
寝室の扉を僅かに開き、リビングのテーブルへ目を向ける。
そこには、自分たちが食べ終えたレトルトハンバーグの容器や、空になった缶詰が残っていた。
柴田たちは今日、五人で他人の部屋へ押し入り、食料を奪ってきた。それでようやく、自分たちは腹いっぱい食べることができた。
なのに、蓮は暖炉の前でステーキを食べ、赤ワインを飲んでいる。
しかも、
『今日はパン一個減らした』
美咲はもう一度写真を見る。
籠の中にはパンが二つある。
つまり、普段は三つ食べている。
「全然節約じゃないじゃん……」
胸の奥から、強烈な苛立ちが込み上げてきた。
ついさっきまで美味しいと思っていた食事が、一瞬で惨めなものに見えてくる。
(なんで……)
以前、自分を追いかけていた男。何度呼び出しても来た男。少し甘えれば、何でもしてくれた男。
その男が今、自分より遥かにいい生活をしている。
美咲は再びリビングへ目を向けた。
柴田は缶ビールを片手にテレビを見ている。今日も他人の部屋へ押し入り、食料を奪ってきた。
その姿と、スマートフォンの中に映る暖炉、ステーキ、ワインが頭の中で並んだ。
(もし、あの時……)
一瞬だけ、強烈な後悔が胸を刺した。
もし自分が蓮を選んでいたら、今頃、自分もあの暖炉の前へ座っていたのではないか。ステーキを食べ、ワインを飲み、寒さにも空腹にも怯えずに済んでいたのではないか。
そう考えた瞬間、羨ましさは嫉妬へ変わった。
(なんでこいつだけ……)
しかし、美咲はその感情を蓮には見せなかった。
すぐに表情を整える。
まだ怒る時ではない。
蓮は返信してきた。写真まで送ってきた。
なら、まだ自分に気がある。
美咲はそう解釈した。
『えー! 何それ! すごい!』
『まだそんなの食べられるの!? 超羨ましい笑』
『ステーキめっちゃ美味しそう。私も食べたいなー』
少し迷ったあと、さらに一文を加えた。
『今度私にも食べさせてよ笑』
送信。
美咲は満足そうにスマートフォンを眺めた。
重くならないように、冗談っぽく、少しだけ甘える。
それで十分だった。
◇
同じ頃。
蓮は二つ目のパンを千切り、ステーキの肉汁へ浸していた。
スマートフォンが震える。
一ノ瀬からだった。
『ステーキめっちゃ美味しそう。私も食べたいなー』
『今度私にも食べさせてよ笑』
そのメッセージを見て、蓮の口元が僅かに上がった。
「……食いついたな」
当然だった。
写真は、わざと送った。
食料がないと思わせるためではない。むしろ逆だった。
自分が何を食べているのか、どんな場所で暮らしているのか。そして、こちらへ来れば何があるのか。
それを一ノ瀬自身に想像させるために送った。
前世、蓮はあの女のために食料を運んだ。吹雪の中を歩き、命懸けで届けた。
それでも美咲は最後まで自分を部屋へ入れず、利用し続けた。
そして最後には、柴田に殺された。
あの日のことを、蓮は忘れていない。
今すぐ突き放すだけなら簡単だった。ブロックしてしまえば、それで終わる。
だが、それでは足りない。
一ノ瀬美咲には、最後まで自分なら助けてもらえると思っていてもらう。
希望が大きくなればなるほど、それを失った時の絶望も大きくなる。
蓮は赤ワインを一口飲み、返信を打った。
『それは無理かな。俺の分もそんなに余裕ないし』
送信。
完全には拒絶しない。
続けてもう一通。
『まあ、本当に困った時は相談くらいなら乗るよ』
数秒後、既読が付いた。
すぐに返信が来る。
『えー、ケチ笑』
『でもありがと。やっぱ蓮くん優しいね』
蓮はその文字を見て、小さく笑った。
「そう思ってろ」
今は、これぐらいでいい。
焦る必要はない。
柴田が食料を持ち帰れる間は、一ノ瀬にもまだ余裕がある。
しかし、このマンションでさえ、今日とうとう強盗が始まった。一ノ瀬のマンションなら、食料が尽きる日はそう遠くない。
その時、今日送った一枚の写真を、あの女は必ず思い出す。
暖炉の前で食べるステーキ、赤ワイン、籠に入ったパン。
自分が今いる場所とは、まるで違う生活。
もっと欲しがればいい。もっと羨めばいい。もっとここへ来たいと思えばいい。
そして、ここしかないと思うところまで追い詰められた時、自分から扉の前まで来ればいい。
蓮は残ったステーキへゆっくりとナイフを入れた。
まだ、その時ではない。
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Day 21
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「欲望は、見せられた瞬間から膨らみ始める」
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