第35話 Day 18 悪者
寒波が始まって十八日目。
朝。
管理人は、まだ誰も来ていない管理室で一人、机に向かっていた。
目の前には、昨日届いた第二便の救援物資に関する書類が並んでいる。自治体から受け取った際の受領記録、住民へ配布した数量、そして現在管理室に残っている在庫。その三つを何度見比べても、数字は完全には一致しなかった。
前回なら、まだ誤差で押し切る余地があった。缶詰が数個、レトルト食品が数袋、カセットボンベが一本。その程度であれば、配布時の数え間違いや記録漏れだったと言い訳することもできただろう。
だが今回は違う。
管理人自身、昨日は明らかに多く取りすぎたと分かっていた。
最初は数個だけのつもりだった。ところが箱の中に整然と並んだ食料を見ているうちに家族の顔が浮かび、次の救援がいつ来るか分からないという不安が頭を支配した。
缶詰を一つ取ると、もう一つくらいなら大丈夫だと思った。水も必要になる。栄養補助食品なら日持ちするし、パックご飯だけあっても意味がないのだからレトルト食品も必要だ。
そうやって一つずつ理由をつけているうちに、気付いた時には袋一つでは収まらない量になっていた。
管理人は昨夜から何度も在庫表を書き直している。
数字だけなら合わせることはできる。
問題は、その数字の元になっている自治体側の受領記録だった。何が何箱届き、おおよそ何個入っていたのかまで記録されている以上、昨日の配布数と現在残っている在庫を突き合わせれば、どうしても説明のつかない差が出る。
「……何とかなる」
管理人は自分へ言い聞かせるように呟いた。
何百個もの物資を扱ったのだから、多少の誤差はあって当然だ。段ボールの中身がすべて同じ数量だったとも限らないし、配布時に記録し忘れた家庭があったことにしてもいい。
言い訳だけなら、いくらでも作ることができる。
だが管理人自身が、その言い訳をもう信じていなかった。
◇
午前九時。
昨日グループで提案されていた救援物資の残存数確認を行うため、住民代表三人が管理室へやってきた。
管理人は椅子から立ち上がり、できるだけ普段と変わらない表情を作る。
「おはようございます」
「おはようございます」
代表の一人が、机の上に置かれた書類へ視線を向けた。
「昨日の残り、確認させてもらっていいですか?」
「もちろんです」
管理人は自然に答えたつもりだった。
住民代表たちと一緒に管理室の奥へ移動し、残された箱を一つずつ開けていく。缶詰、パックご飯、レトルト食品、栄養補助食品、飲料水、乳幼児用品。二人が数量を数え、一人が紙へ記録しながら、昨日公開された配布数と照らし合わせていった。
最初の数分は、特に何も起こらなかった。
管理人も少しずつ緊張が解け始めていたが、確認が半分ほど進んだところで、一人の住民代表の手が止まった。
「管理人さん」
「はい」
「昨日、自治体から受け取った時の記録ってあります?」
その言葉を聞いた瞬間、管理人の心臓が一度だけ大きく跳ねた。
それでも表情には出さず、すぐに頷く。
「ありますよ」
「見せてもらえます?」
「もちろんです」
机の引き出しを開け、受領書を取り出す。手が震えないよう意識しながら、ゆっくりと代表へ渡した。
代表は紙へ目を落とし、しばらく数字を追っていたが、やがて眉を寄せた。
「……あれ?」
隣にいた代表が覗き込む。
「どうした?」
「いや、ここ」
指差した数字を二人で確認し、そのまま昨日の配布記録へ視線を移す。さらに、今目の前にある残存物資をもう一度数え直した。
しばらく誰も喋らなかった。
やがて一人が顔を上げる。
「管理人さん」
声の調子が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「はい」
「これ、合わなくないですか?」
管理人も受領書へ目を落とし、初めて気づいたような顔を作った。
「ああ……たぶん、昨日の配布記録に抜けがありますね」
「抜け?」
「昨日はかなり混乱してましたから」
「何件くらい?」
「そこまでは……」
住民代表はもう一度計算し直すと、紙を机の上へ置いた。
「いや、これ数個とかじゃないですよね?」
管理人は答えなかった。
「缶詰だけでもかなり足りないし、パックご飯も少ない。水も合わない」
別の代表も口を挟む。
「昨日、そんなに記録なしで配ったんですか?」
「一部、急いで渡した家庭があって……」
「どこです?」
管理人の口が止まった。
「部屋番号ですよ」
「……」
「記録なしで渡したんですよね?」
「そうです」
「だったら覚えてるでしょう」
管理人は何も答えられなかった。
さっきまで数字を確認するだけだった管理室の空気が、一気に重くなった。
◇
午前十時。
その頃、管理人の妻は自宅の玄関前にいた。
停電時間に入る前に共用のゴミ置き場までゴミを持っていこうとしており、片手には小さな紙袋を持っている。その中には、昨日管理人が自宅へ持ち帰った栄養補助食品が数本入っていた。
救援物資として配られたものと、まったく同じパッケージだった。
廊下へ出たところで、ちょうど隣室の女性と顔を合わせた。
「あら」
「おはようございます」
軽い挨拶を交わした、その時だった。
紙袋の口から一本だけ覗いていた栄養補助食品に、女性の視線が止まる。
「それ……」
管理人の妻は、相手が何を気にしているのか分からないまま紙袋を見た。
「これ?」
「昨日の救援物資ですよね?」
「そうみたい」
女性が少し驚いた顔をする。
「そちらも多めにもらえたんですか?」
妻は何の疑いもなく笑った。
「主人が余った分を持ってきたの」
その瞬間、女性の表情がわずかに変わった。
「……余った分?」
「ええ。管理人だから昨日もずっと働いてたでしょう? 余った分を少しもらったみたい」
妻に悪意はなかった。
夫からは、本当にそう説明されていた。住民たちの対応や物資の管理で朝から晩まで働いているのだから、余った物を少しくらい持ち帰ってもいいのだろう。妻はむしろ、その程度にしか考えていなかった。
女性はそれ以上何も聞かなかった。
「そうなんですね」
それだけ言って部屋へ戻ると、すぐにスマートフォンを手に取った。
◇
管理室では、住民代表との確認がまだ続いていた。
「管理人さん」
「はい」
「本当に記録漏れですか?」
「そうだと思います」
「そうだと思いますって……あなたが管理してるんですよね?」
代表の男は眉を寄せながら、受領書と配布記録を交互に見た。
「昨日は本当に混乱してたんです」
「だからって、これだけズレます?」
男は受領書を指で軽く叩いた。
その時、三人のスマートフォンがほぼ同時に震えた。
住民グループへの新しい投稿だった。
『すみません。確認なんですが、管理人さんのご家庭は昨日の救援物資を別枠でもらっているんでしょうか?』
管理人の顔から、一気に血の気が引いた。
住民代表たちも投稿を開く。
すぐに別の住民から返信が入った。
『どういう意味ですか?』
最初の投稿者が続ける。
『先ほど奥さんと廊下で話したんですが、「余った分を主人が持って帰った」と言っていました』
数秒間、グループの流れが止まった。
そして次の瞬間、堰を切ったように投稿が増え始める。
『え?』
『余った分?』
『余ってたんですか?』
『昨日あれだけ少ないって言ってましたよね?』
『管理人さん説明してください』
『まさか管理人さんだけ別で取ってたんですか?』
管理室にいる住民代表三人の視線が、一斉に管理人へ向いた。
誰もすぐには口を開かなかった。
管理人はスマートフォンの画面を見つめる。
妻が何気なく口にした、たった一言。
その一言だけで、昨夜から必死に積み上げていた言い訳が全部崩れた。
◇
「管理人さん」
住民代表の一人が低い声で口を開いた。
「どういうことですか?」
管理人も何か答えようとしたが、言葉が出てこない。
「余った分って、昨日余ってたんですか?」
「……少し」
「少し?」
「本当に少しです」
「どれくらい?」
管理人は黙った。
「何個です?」
「……数個」
代表の男が、受領書を持ち上げる。
「数個じゃ合わねえんだよ」
初めて、その男の口調から敬語が消えた。
「これ見てください。数個じゃないでしょう」
「配布の記録漏れもあるんです」
「だから誰に配ったんですか?」
「……」
「言えないんですか?」
「……」
代表はしばらく管理人を見つめたあと、受領書を机へ叩きつけた。
「なら、取ったってことだろ」
その瞬間、管理人の中で張り詰めていたものが切れた。
「じゃあどうしろっていうんだよ!」
怒鳴り声が管理室いっぱいに響き、住民代表たちが一瞬言葉を失った。
管理人は椅子を押しのけるように立ち上がった。
「朝から晩まで、お前らの相手してるの誰だと思ってるんだ!」
声には怒りだけでなく、疲労と恐怖まで混ざっていた。
「管理会社に電話するのも俺! 自治体に何度も連絡するのも俺! 救援物資運ぶのも俺! 誰にどれだけ配るか決めるのも俺!」
「だから盗んでいいのかよ!」
「俺にだって家族がいるんだよ!」
管理人は拳で机を叩いた。
「お前ら、自分の家族守るために食料隠してるだろ! 三日しかないって嘘ついてる奴もいるし、一週間分あるくせに何も出さない奴だっている!」
「それとお前が盗むのは別だろ!」
「何が違うんだ!」
管理人はさらに声を荒らげた。
「全員、自分の家族が一番大事なんだろ! 俺だって同じだ!」
その言葉を、住民代表たちは完全には否定できなかった。
実際、その通りだったからだ。
しかし一人の代表が、しばらく黙ったあと静かに口を開いた。
「違う」
管理人がそちらを見る。
代表は受領書を持ち上げた。
「俺たちは、自分の食料を隠した」
そして管理人を真っ直ぐに見た。
「お前は、みんなの食料を隠した」
管理人の表情が固まった。
◇
話は十数分もしないうちにマンション中へ広がった。
管理室前には住民が次々と集まり、十人、二十人と数を増やしていく。怒っている者もいれば、泣いている者もいる。何も言わず、管理室の扉を睨み続けている者もいた。
住民グループにも怒りの投稿が止まらない。
『どれだけ取ったんですか?』
『返してください』
『昨日うちの子、あれだけしかもらえなかったんですよ』
『管理人さん信用してたのに』
『前回の救援物資もやってたんじゃないですか?』
最後の一文を見たところで、管理人の目が止まった。
前回。
そう、前回もやっている。
まだ誰にも証明されてはいない。
だが、一度疑われれば過去のすべてまで疑われる。
『最初の救援も数合ってたんですか?』
『前回からだったんじゃない?』
『在庫表全部見せてください』
これ以上管理室に閉じこもっているわけにもいかず、管理人は住民たちの前へ出た。
「皆さん、説明します」
「何を説明すんだよ!」
すぐに怒号が飛ぶ。
「取ったんだろ!」
「どれだけ取った!」
「返せよ!」
「うちの食料だぞ!」
管理人は両手を上げ、何とか声を通そうとした。
「落ち着いてください!」
その言葉を聞いた一人の男が、人混みを押し分けるように前へ出た。
「落ち着け?」
管理人の目の前まで来る。
「昨日、うちの子に何渡したか覚えてるか?」
「……」
「パックご飯二つだよ」
男の声が震えていた。
「四人家族で二つだぞ」
「全世帯に――」
「その時、お前の家には何個あった?」
管理人は答えられない。
男がさらに一歩近づく。
「何個あったんだよ!」
「近づかないでください」
「答えろよ!」
男が管理人の胸ぐらを掴んだ。
周囲から慌てた声が飛ぶ。
「おい!」
「やめろ!」
「離せ!」
管理人も必死に男の手を振り払おうとする。
「離してください!」
「返せ!」
「離せ!」
耐えきれなくなった管理人が男の胸を強く押すと、男は数歩よろめいた。
一瞬だけ、周囲が静かになった。
次の瞬間、男の拳が管理人の頬へ入った。
鈍い音が響き、近くにいた女性が悲鳴を上げる。管理人は床へ倒れ、殴った男自身も自分の拳を見ながら、一瞬驚いたような顔をしていた。
しかし管理人が起き上がると、今度はそのまま男へ飛びかかった。
「ふざけんな!」
二人がもつれるように床へ倒れ込み、周囲の住民たちが一斉に止めに入る。
「やめろ!」
「子供いるんだぞ!」
「離せ!」
怒鳴り声と女性の泣き声、子供の叫び声までロビーいっぱいに広がった。
ここは少し前まで、住民同士が朝の挨拶を交わしていた場所だった。宅配便を受け取り、学校へ向かう子供たちが親へ手を振っていた、何でもない日常の一部だった。
そこで初めて、住民同士が本気で殴り合った。
◇
二人は周囲の住民たちによって、ようやく引き離された。
管理人の口元には血が滲み、殴った男の服も大きく乱れている。
しばらく誰も何も言わなかったが、やがて一人の住民が管理人へ向かって口を開いた。
「もう管理させられない」
管理人は何も答えなかった。
「救援物資も共同備蓄も、全部住民代表で管理しましょう」
別の住民もすぐに続く。
「その方がいい」
「最低三人で確認しよう」
「在庫数も毎日公開した方がいい」
「配る時も必ず複数人で立ち会う」
次々と意見が出る中、誰も管理人へ相談する者はいなかった。
ほんの数日前まで、このマンションで一番頼られていたのは自分だった。何かあれば「管理人さん」と呼ばれ、連絡も判断もすべて自分に集まっていた。
だが今日、その役割を失った。
管理人は住民たちの会話を聞いたまま、やがて小さく頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
◇
午後。
共同備蓄の管理は、正式に住民代表四人へ移された。
管理室に残っていた物資、昨日の受領書、配布記録もすべて複数人で確認され、管理人が自宅へ持ち帰った物資についても、可能な範囲で返却することになった。
妻は何も知らなかった。
夫が「余った分」と説明していたものが、実際には住民全員へ配るはずの救援物資だったと知ると、顔を青ざめさせ、その場で泣き出した。
「ごめんなさい……」
謝った相手は夫ではなく、住民たちだった。
何度も頭を下げる妻の横で、管理人も自宅から物資を運び出していく。
缶詰、水、パックご飯、レトルト食品、栄養補助食品。
次々と出てくる物資を、住民たちは黙ったまま見ていた。
「こんなに?」
誰かが思わず呟く。
管理人の肩が僅かに震えたが、もう言い訳はしなかった。
◇
蓮は監視モニター越しに、その一連の様子を見ていた。
もちろん管理室内で何が話されたのかまでは聞こえない。それでもロビーに集まる人数、床へ倒れる管理人、周囲へ押し寄せる住民たち、その後に救援物資を持って管理人宅と管理室を何度も往復する姿を見れば、何が起きたのかは十分想像できた。
蓮はスマートフォンを開く。
住民グループには、すでに経緯が流れている。
管理人による救援物資の私的持ち出し。
住民代表への管理権移行。
今後は複数人による在庫確認。
毎日の数量公開。
配給時の立ち会い。
「なるほど」
蓮はソファへ身体を預けた。
住民たちは、一人の悪者を見つけた。
これでしばらくは気持ちが楽になるだろう。
食料が少なかったのは管理人のせい。
配給が少なかったのも管理人のせい。
自分たちが疑い合ったのも、管理人が不正をしていたからだ。
そう考えれば、今まで感じていた不安や怒りの行き先を一つにまとめることができる。
だが蓮は、収納空間から取り出したコーヒーを飲みながら、返却された救援物資の量を画面越しに眺めた。
確かに増えた。
管理人が返した分だけ、多少は増えている。
それでも百世帯以上の人間を何日も食わせられるような量ではなかった。
「一人追い出したところで、食料は増えないぞ」
◇
夜。
住民グループは、昼間とは違って妙に静かだった。
管理人を責める投稿はほとんど消え、代わりに明日からの新しい管理方法についての話が続いている。
『明日から在庫数を毎朝公開します』
『配給は住民代表四名の立ち会いで行います』
『一世帯あたりの基本量については改めて相談します』
しかし、それだけで問題が解決するはずもなく、早くも意見が割れ始めた。
『基本は全世帯同じ量でいいと思います』
『人数が違うのに同じはおかしいでしょう』
『子供優先は続けるべきです』
『高齢者もです』
『提供した量に応じて返してもらうべきじゃないですか?』
『それじゃ食料がない家庭はどうなるんですか?』
『でも出した人が損するのも違うと思います』
蓮は画面を眺めながら、小さく笑った。
管理人がいた昨日と、何も変わっていない。
変わったのは誰が配るのか、それだけだった。
食料の量は増えていないし、人間の腹が減らなくなったわけでもない。
「そりゃそうなるか」
蓮はスマートフォンを伏せた。
今日、このマンションでは管理人という悪者が生まれ、その悪者を住民たちの手で引きずり下ろした。
だが、空腹だけは誰にも引きずり下ろせなかった。
明日になれば、また同じ人数の人間が同じ量の食料を巡って話し合うことになる。
ただ一つだけ、昨日までとは違うことがある。
今日、このマンションに暮らす全員が、誰かを殴れば状況が動くことを目の前で見てしまった。
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Day 18
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「悪者を見つけても、空腹は消えない」
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