第34話 Day 17 値段
寒波が始まって十七日目。
朝。
マンション一階の掲示板には、昨日までなかった一枚の紙が貼られていた。
【共同備蓄へのご協力について】
昨日集まった食料だけでは、マンション全体を支えるには到底足りない。そのため管理人と住民代表は、改めて各家庭へ可能な範囲で食料を提供するよう求めていた。
ただ、その文章の最後には、昨日までなかった一文が付け加えられている。
『現在の備蓄状況について、可能な範囲で正確な申告をお願いいたします』
部屋を確認するとは書かれていないし、強制するとも書かれていない。それでも掲示板の前に立つ住民たちは、その一文が何を意味しているのか分かっていた。
管理する側が、自分たちの家にどれだけの食料が残っているのかを知りたがっている。
掲示板を読んでいた男が、周囲に聞こえない程度の声で呟いた。
「正確にって……誰が正直に言うんだよ」
隣にいた女性は何も答えなかった。
昨日までは、食料を持っていることが安心につながっていた。自分たちだけでも数日、あるいは一週間生きられるという事実そのものが、先の見えない生活の中で数少ない心の支えになっていた。
だが今は違う。
食料を持っていると知られれば、次に何を要求されるのか分からない。昨日は「少し分けてほしい」だったものが、「正確に申告してほしい」へ変わり始めている。
住民たちは、食料そのものだけではなく、それを持っているという事実まで隠さなければならないのではないかと考え始めていた。
◇
午前九時過ぎ。
そんなマンションの空気を一変させる連絡が入った。
『自治体より連絡がありました。本日午前中、当マンションへの救援物資第二便が到着する予定です』
管理人から住民グループへ投稿された瞬間、既読の数字が猛烈な勢いで増えていった。
『本当ですか!?』
『何時頃ですか?』
『食料ありますか?』
『水も来るんでしょうか?』
『今回は全世帯分ありますか?』
質問が次々と流れ、管理人もすぐに返信する。
『内容と数量については到着後に確認します。混乱防止のため、管理室前には集まらず、配布方法の案内をお待ちください』
だが、その呼びかけに従った住民ばかりではなかった。
三十分もしないうちに、一階へ人が集まり始めた。管理室の前に直接列を作る者はいないものの、ロビーのソファ、エントランス付近、階段の近くなどに一人、二人と住民が増え、気付けば十数人が何をするでもなく一階に留まっていた。
誰も「救援物資を待っています」と口にはしない。
それでも全員の目的は同じだった。
本当に物資が来るのか。そして、自分の家族へ回ってくるだけの量があるのか。
それを、人から聞くのではなく自分の目で確かめたかった。
◇
午前十時二十分。
エントランスの向こうに人影が見えた。
「来た!」
誰かが声を上げると、それまで何気ないふりをしていた住民たちが一斉に入口へ視線を向けた。
積雪によって通常の大型トラックはマンションまで近づけないため、救援物資は途中から雪上車両へ積み替えられていた。自治体職員と消防関係者らしい数人が荷台から段ボールを降ろし、それを次々と建物の中へ運び込んでくる。
一箱、二箱、その後も何箱も続いた。
非常食。
飲料水。
栄養補助食品。
乳幼児優先。
箱の側面に印刷された文字が住民たちの目に入るたび、張り詰めていた空気が少しずつ緩んでいく。
「結構あるじゃん」
「よかった……」
「水もある」
「これなら何日か持つんじゃない?」
誰かがそう言い、管理人も職員たちへ何度も頭を下げていた。
「ありがとうございます。本当に助かります」
しかし、物資を運んできた職員の顔に笑顔はなかった。目の下には濃い隈が浮かび、疲れ切った表情のまま最後の箱を床へ置くと、管理人へ念を押すように言った。
「できるだけ計画的に使ってください」
「もちろんです」
「それと……次がいつになるか分かりません」
管理人の表情が止まる。
「分からない?」
「こちらも物資が足りていません。道路状況もさらに悪化していますし、今後は避難所への配送が優先される可能性もあります」
それだけ伝えると、職員たちは長居することなく次の配送先へ向かっていった。
近くにいた住民たちも、その会話を聞いていた。
つい数分前まで「これなら何日か持つ」と笑っていた男も、もう何も言わない。
次がいつになるか分からない。
その言葉一つで、届いた瞬間には希望に見えた大量の段ボールが、今度は「これが最後かもしれない物資」に見え始める。
安心は、わずか数分で再び恐怖へ変わっていた。
◇
管理人は住民たちを一度ロビーから離れさせると、住民代表二人とともに救援物資の確認を始めた。
箱を一つずつ開けていくと、中からパックご飯、レトルト食品、缶詰、乾パン、栄養補助食品、水、乳幼児用食品などが次々と出てくる。前回の救援便よりも、少なくとも見た目の量は多かった。
住民代表の一人が一覧表へ数量を書き込みながら、ようやく少しだけ表情を緩める。
「これなら、かなり助かりますね」
「ええ」
管理人も頷いた。
だが、その視線は何度も管理室の奥へ積み上げられた箱へ向かっていた。
前回の救援物資。
管理人は、そこから食料を抜いた。
最初は本当に少しだけだった。家族のために缶詰を数個確保する。それだけのつもりだった。
自分が管理を任され、誰よりも住民の対応に追われているのだから、この程度は許されるのではないか。そんな言い訳を自分にしながら手を伸ばし、それでも最初の一個を取った時には、誰かに見られていないか何度も周囲を確認した。
だが、誰にも気付かれなかった。
何も起きなかった。
そして、その食料のおかげで自分の家族にはまだ余裕が残っている。
管理人は目の前に置かれた缶詰の箱を見つめた。二十四個入り。その中から数個抜いたところで、百世帯以上へ配れば誤差のようなものではないか。
そう考えた瞬間、前回とは比べものにならないほど簡単に手が動いた。
缶詰だけではない。
パックご飯、レトルト食品、栄養補助食品、水。
一つ取るたびに、もう一つくらいなら大丈夫だと思った。これだけ届いたのだから、この程度なら誰にも分からない。家族が食べる分なのだから仕方がない。
前回は罪悪感を押し殺しながら一個ずつ抜いた。
今回は、気付けば用意した袋がいっぱいになっていた。
◇
昼前。
住民グループへ、午後から行われる配給の内容が通知された。
世帯人数に応じて配布量を調整し、乳幼児や高齢者などがいる家庭には一部を優先して配る。その方針と、一世帯あたりのおおよその配給量が書かれていた。
投稿から一分もしないうちに反応が始まる。
『……これだけ?』
『少なくないですか?』
『さっきかなり箱ありましたよね?』
『四人家族でこれだけなんですか?』
『次いつ来るか分からないんですよね?』
管理人はすぐに説明を書き込んだ。
『マンション全体へ公平に配布するため、この量となります。また、今後救援物資が届かない場合に備え、全量を本日配布せず一部を共同備蓄として残します』
それでも不満は収まらなかった。
『公平って何ですか?』
『子供がいる家庭が多くもらえるってことですか?』
『当然じゃないですか?』
『大人だって食べなきゃ死ぬでしょう』
『高齢者優先も納得できません』
『何言ってるんですか?』
『誰が優先順位を決めたんです?』
昨日までは、食料を隠しているかもしれない住民同士が疑い合っていた。
今日は、その食料を配る側の人間まで疑われ始めていた。
◇
午後一時。
配給が始まると、昨日とは比較にならないほど多くの住民が一階へ集まった。
管理人と住民代表は世帯番号と家族構成を確認しながら、あらかじめ分けておいた袋を一つずつ手渡していく。
「1203号室、三名ですね」
「はい」
「こちらです」
母親は受け取った袋を開け、中身を確認した。パックご飯や缶詰、水などが入っているが、その量を見た瞬間、表情が曇る。
「……これだけですか?」
「申し訳ありません。全世帯へ配る必要がありますので」
「子供がいるんですけど」
「お子さんは何歳ですか?」
「十二歳です」
「追加分は乳幼児を優先していますので……」
母親の表情が強張った。
「十二歳ならお腹が空かないんですか?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、どういう意味ですか?」
後ろから苛立った声が飛んだ。
「早くしてください!」
「こっちも待ってるんですよ!」
母親はまだ何か言いたそうだったが、後ろに伸びた列へ視線を向けると、それ以上は口にせず袋を抱えて離れていった。
次の家族が進み、さらにその次の家族が食料を受け取る。
住民たちは自分の袋を渡されたあとも、すぐにはその場を離れなかった。何気ないふりをしながら周囲を見て、他の家庭がどれだけ受け取っているのかを確認する。
あの家の袋は自分より大きくないか。
あの人は何個受け取ったのか。
家族は何人なのか。
子供は何歳なのか。
昨日まで知ろうとも思わなかった他人の家庭事情が、今日は自分たちの生存に直結する重要な情報へ変わっていた。
◇
配給開始から一時間ほど経った頃、一人の男が袋を受け取ってもその場を離れなかった。
「管理人さん」
「はい」
「これ、本当に全部ちゃんと配ってるんですよね?」
管理人の手が、一瞬だけ止まった。
「もちろんです」
「いや、朝見てたんですけど、もっと箱ありませんでした?」
それまで自分の順番を待っていた周囲の住民たちが、会話へ意識を向け始める。
管理人はできるだけ表情を変えずに答えた。
「一部は乳幼児用食品や備品です。それから先ほど説明した通り、今後のために一定量を共同備蓄として残しています」
「その共同備蓄って、どれくらいあるんです?」
「正確な数量については、配給終了後に改めて整理して公開します」
「なんで今は言えないんです?」
その一言で、周囲の空気が少し変わった。
住民代表の一人がすぐに間へ入る。
「まだ配給中で集計が終わっていないんです。終了後にこちらでも確認しますから」
男はしばらく管理人の顔を見つめていた。
「……ちゃんと公開してくださいよ」
「もちろんです」
男はようやく離れていった。
だが、その会話を聞いていた住民たちは、もう管理人から完全には視線を外していなかった。
◇
夕方。
住民グループへ一件の投稿が入った。
『今日の救援物資、到着した時に箱の数を数えてた人いませんか?』
数分後、返信が来た。
『数えてはいません。でも、かなりありましたよね』
『私も見ました』
『配給された量と合ってなくないですか?』
『残りは共同備蓄するって説明ありましたよ』
『だから、その残りがどれくらいあるのか聞いてるんです』
『疑いすぎじゃないですか?』
『この状況で確認するのは普通でしょう。次の救援がいつ来るか分からないんですよ?』
そして、誰かが書いた。
『明日、残っている救援物資を住民立ち会いで確認しませんか?』
『賛成です』
『私も賛成』
『管理人さん、お願いします』
管理人は自宅で、その投稿を黙ったまま見ていた。
すぐ横には、今日自分が抜いた食料が置かれている。
缶詰だけではない。パックご飯、レトルト食品、栄養補助食品、水。
こうして自宅へ持ち帰った物を改めて並べてみると、自分が考えていたよりずっと多かった。
妻が不安そうに尋ねる。
「……大丈夫なの?」
管理人は答えなかった。
最初は一個だけだった。家族のために、一度だけ。それだけのつもりだった。
しかし、一度やって何も起きなかったことで、自分の中にあった線は少しずつ消えてしまった。二度目は、一度目より遥かに簡単だった。
そして今、明日住民立ち会いで確認されれば、数が合わない。
管理人は膝の上で両手を組んだまま、目の前の食料を見つめる。
「……どうする」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
◇
夜。
蓮は住民グループに流れるやり取りを眺めながら、グラスへ酒を注いでいた。
『明日確認しましょう』
『管理人さん、返事してください』
『管理会社にも報告した方がいいんじゃないですか?』
管理人が本当に救援物資を抜いているのか、蓮には分からない。管理室の中まで常に監視しているわけではなく、まして管理人の自宅の中が見えるわけでもない。
それでも、前回からの流れや今日の配給時の様子を見ていれば、ある程度の想像はできた。
「あの管理人……たぶん、やったな」
蓮は管理人を責める気にはならなかった。
家族を守りたい。自分だけは生き残りたい。この状況でそう思うこと自体は、何もおかしくない。
むしろ、それが普通だ。
問題は、その先だった。
「一個でやめとけばよかったのにな」
一度だけ自分を特別扱いすれば、次は二個になる。二個取っても何も起きなければ、五個でも大して変わらないと思い始める。そして気付いた時には、最初に自分が引いていた線がどこにあったのかさえ分からなくなる。
蓮は酒を一口飲んだ。
明日、おそらく何か起きる。
そう思ってスマートフォンを置こうとした時、新しい通知が表示された。
今度は管理人の話ではなかった。
『すみません。どなたか缶詰を一個譲っていただけませんか?』
『現金一万円払います。種類は何でも構いません。すぐに欲しいです』
蓮の指が止まった。
グループもしばらく静かだった。
やがて一人が返信する。
『一万円? 本気ですか?』
『本気です。現金で払います』
そこへ別の住民が割り込んだ。
『私は五万円出します。缶詰一個、種類は問いません』
空気が変わった。
最初に一万円を提示した住民が、すぐに反応する。
『じゃあ六万円出します』
数十秒後、さらに別の投稿が入った。
『十万円出します。サバでもツナでも何でも構いません。現金です』
今度は誰も返信しなかった。
一分、二分、三分と時間だけが過ぎていく。
そして、ようやく一件の投稿が入った。
『十万円なら一個出せます』
『買います。今から取りに行きます』
成立した。
缶詰一個。
現金十万円。
二週間前なら、誰かが冗談でそんなことを書けば笑われただろう。
今は、誰一人笑わなかった。
◇
十分ほど後。
缶詰を売った男は自宅へ戻ると、受け取った一万円札をテーブルの上へ一枚ずつ並べていた。
一枚、二枚、三枚と数え、最後の十枚目を置いたところで、思わず笑みが漏れる。
「……マジかよ」
たった一個。
家に何個か残っていた缶詰のうち、一個を渡しただけだ。
それが十万円になった。
男は信じられないものを見るように、もう一度紙幣を最初から数え直した。何度確認しても間違いなく十万円ある。
「缶詰一個で十万だぞ……」
そこへ、同じ階に住む知り合いがやってきた。住民グループのやり取りを見ていたらしく、男の部屋へ入るなりテーブルに並んだ札へ目を向けた。
「さっき缶詰売ったの、お前?」
「ああ」
「本当に十万?」
男は得意そうに札を指差す。
「見りゃ分かるだろ。缶詰一個だぞ? めちゃくちゃ得したわ」
知り合いはしばらく札を見たあと、今度は男の顔を見た。
そして、呆れたように言った。
「……お前、馬鹿なの?」
男の笑顔が消えた。
「は?」
「その十万円で何買うの?」
「何って……」
男は言葉に詰まった。
知り合いは淡々と続ける。
「スーパー開いてる?」
「……」
「コンビニは?」
「……」
「通販で食料届く?」
男の視線が、ゆっくりとテーブルの上へ落ちていく。
知り合いは最後に、一万円札を指差した。
「じゃあ、その十万円、食えるの?」
男は何も答えられなかった。
目の前には一万円札が十枚ある。
二週間前なら、それなりの大金だった。欲しい物を買い、好きな物を食べ、外食へ行くこともできた。通販を使えば、缶詰一個どころか大量の食料を自宅へ届けてもらうことだってできた。
だが今は違う。
スーパーは開いていない。コンビニにも商品はなく、通販は届かない。次の救援物資がいつ来るのかすら分からない。
男の顔から、さっきまで浮かんでいた笑みが完全に消えた。
「……待てよ」
慌ててスマートフォンを手に取り、先ほど缶詰を買った住民へメッセージを送る。
『すみません。さっきの缶詰なんですけど、取引なしにできませんか?』
『十万円返します。缶詰返してください』
既読になった。
男は画面を見つめたまま返事を待つ。
しばらくして返信が来た。
『すみません。もう食べました』
男の指が止まる。
『もう?』
今度の返信は早かった。
『はい。子供に食べさせました。ありがとうございました』
男はしばらく画面を見つめていた。
それから、ゆっくりとテーブルの上に並んだ十万円へ視線を移す。
一万円札が十枚。
確かにある。
だが、さっきまで自分が持っていた缶詰一個を、もう取り戻すことはできない。
「……クソッ!」
男は札束を掴み、テーブルへ叩きつけた。紙幣がばらばらに散り、床にも一枚落ちた。
しかし、いくら怒鳴っても、その十万円が腹を満たしてくれることはなかった。
◇
その後、住民グループへ再び投稿が入った。
『缶詰を売っていただける方、まだいませんか? 二十万円出します。現金で払います』
誰も答えない。
十分経っても、二十分経っても返信はなかった。
そして金額がさらに上がった。
『三十万円でも構いません。どなたかお願いします』
それでも、誰も売らなかった。
さっきまでなら、十万円という金額を見て食料を売ろうか迷った者もいただろう。だが、最初に売った男の話は、すでに同じ階の住民から少しずつ広まっていた。
金を受け取っても、その金で次の食料を買うことができない。
その単純な事実に、ようやく皆が気付き始めていた。
◇
蓮はグループに残された、
『三十万円でも構いません。どなたかお願いします』
という投稿を見ながら、呆れたように息を吐いた。
「まだ命を金で見てる奴がいるのか」
収納空間には、缶詰だけでも数え切れないほど眠っている。肉も米も水も酒もあり、そのどれも今の蓮にとっては現金より遥かに価値があった。
蓮はテーブルに置いてあった財布を手に取り、中に残っている一万円札を眺めた。
紙幣そのものは何も変わっていない。
日本銀行券。
一万円。
二週間前とまったく同じだ。
変わったのは、それを取り巻く世界だった。
「金ってのは、物に換えてくれる社会があっての価値だからな」
蓮は財布を閉じてテーブルへ戻すと、冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
プシュッ。
静かな部屋に小さな音が響く。
蓮は一口飲みながら、もう一度スマートフォンを見る。
三十万円。
その投稿に、最後まで返信はつかなかった。
二週間前なら、一万円札一枚で缶詰を何十個も買えた。
今日、三十万円を積んでも、缶詰一個すら買えない。
世界が壊れるということは、建物が壊れることでも道路がなくなることでもない。
昨日まで誰も疑わなかった「価値」が、ある日突然、何の意味も持たなくなることでもある。
────────────────
Day 17
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「値段が消えた時、残るのは価値だけだ」
────────────────




