第33話 Day 16 強奪
寒波が始まって十六日目。
朝。
一ノ瀬美咲は、テーブルの上に残された食料をじっと見つめていた。
カップ麺が一つ、缶詰が一つ、それに開封済みのクラッカーが数枚。寒波が始まる前なら、家に何もない時に仕方なく食べる程度の物だったはずなのに、今はその一つ一つが、あと何回食事ができるのかという数字に見えた。
柴田剛はキッチンの棚を乱暴に開け、奥まで手を入れて何か残っていないか確かめると、苛立ったように扉を閉めた。続いて冷蔵庫を開けたが、中にあるのは水と調味料、それにビールが一本だけだった。
「……マジでこれだけかよ」
美咲はソファから動かずに答える。
「昨日も言ったじゃん」
「お前、菓子とかどっか隠してねえの?」
「ないよ。何それ、私が隠してるって言いたいの?」
「そういう意味じゃねえよ」
剛は舌打ちし、テーブルの上に残された最後のカップ麺を手に取った。そのまま包装を眺めていると、美咲がすぐに反応する。
「それ食べるの?」
「あ?」
「一個しかないじゃん。私の分は?」
剛の手が止まった。
「缶詰あるだろ」
「一個だけでしょ」
「じゃあ半分ずつ食えばいいだろ!」
狭い部屋に声が響き、美咲も口を閉じた。二週間前なら、こんなことで言い争うことなどなかった。食べ物がなければコンビニへ行けばいいし、外食をしてもいい。スマートフォン一つで料理を届けてもらうことだってできた。
だが今は、カップ麺一つをどちらが食べるのか、それだけで二人の間の空気が変わる。
剛はしばらく手の中のカップ麺を睨んでいたが、やがて乱暴にテーブルへ戻した。
「……昼まで我慢する」
美咲は何も言わなかった。腹が減っているのは自分も同じで、昨日からまともに食べていないせいか、胃の奥には空腹の鈍い痛みが残っている。このまま何も手に入らなければ、今夜には本当に食べる物がなくなる。
テレビをつけると、今日も寒波のニュースが流れていた。確認された死者、満員になった避難所、深刻化する食料不足、そして救援物資を巡る衝突。昨日までなら画面の向こう側の出来事だったはずのものが、自分たちの食料が尽きかけた今では、妙に現実味を持って見えた。
しばらくテレビを眺めていた美咲は、やがてゆっくり立ち上がって玄関へ向かった。ドアスコープを覗くと、廊下には誰もいない。
静かにドアを開けると、冷え切った共用廊下の空気が室内へ流れ込み、美咲はわずかに身体を縮めた。それでもすぐには閉めず、視線を右隣の部屋へ向ける。
数日前、この部屋の住人がドアを開けた時、偶然中が見えたことがあった。玄関脇には段ボールがいくつも積まれ、ミネラルウォーターや米、レトルト食品らしき箱まであった。正確な量までは分からないが、少なくとも自分たちよりは遥かに余裕があるはずだった。
「何してんだ?」
後ろから剛の声がして、美咲は振り返った。
「別に」
「寒いんだから閉めろよ」
美咲は素直にドアを閉めたあと、すぐには何も言わなかった。少し間を置いてから、できるだけ何気ない口調で話し始める。
「隣の人さ、まだ食べ物あると思う」
剛が美咲を見る。
「何で?」
「この前見えたから。結構大きい段ボール、何箱もあったし、お米もあったと思う」
剛は何も答えなかった。美咲もそこで口を閉じ、それ以上は勧めるようなことを言わない。
しばらくして、剛の方から口を開いた。
「だから何だよ」
「別に」
「分けてもらえってことか?」
美咲は少し困ったような表情を作った。
「そんなこと言ってないよ。ただ……このままだと今日でなくなるなって思っただけ」
そこまで言うと、美咲はテーブルの上に残された最後のカップ麺へ視線を落とした。
「ごめん。気にしないで」
その一言が、剛には一番効いた。
剛はしばらく黙ったまま美咲とカップ麺を交互に見ていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
美咲は止めなかった。
◇
ピンポーン。
隣室のインターホンを押してしばらく待つと、警戒するような男の声が返ってきた。
『はい』
「隣の柴田です」
『……何でしょう』
「ちょっと話したいんですけど」
少し間が空いたあと、ドアが開くことはなく、そのままインターホン越しに返事があった。
『ここでお願いします』
剛の眉がわずかに動いた。
「食い物、少し分けてもらえません?」
今度は長い沈黙が続いた。
『すみません。うちも余裕がないので』
「少しでいいんですよ」
『本当に余裕がないんです』
「米、あるでしょう?」
その言葉を境に、向こうからの返事が止まった。
剛はインターホンへ顔を近づけ、先ほどより低い声で続ける。
「前に見えたんですよ。米とか水とか」
『……あれも家族の分です』
「こっちは今日食う物もないんですよ」
『管理会社に相談してください』
「相談してどうにもならねえから頼んでんだろ」
『すみません』
その言葉を最後にインターホンが切れた。
剛はしばらくその場に立っていたが、もう一度ボタンを押した。反応がない。さらにもう一度押しても返事はなく、室内に人がいることは分かっているだけに、無視されているという感覚が余計に苛立ちを強くした。
「……ふざけんなよ」
剛は拳でドアを叩いた。
「おい!」
室内で何かが動く気配はある。それでもドアは開かず、返事もない。
「食い物あるくせに……」
何度かドアを叩いていると、ようやく扉がわずかに開いた。チェーンは掛かったままで、その隙間から中年の男が険しい顔を覗かせる。
「やめてもらえませんか」
「だったら少しくらい分けてくれよ」
「無理です」
「米一キロでいいんだよ」
「うちにも家族がいるんです」
「こっちだっているんだよ!」
「それは私には関係ないでしょう!」
口にした直後、男自身がまずいことを言ったと気づいたように顔を強張らせた。しかし、剛の表情はすでに変わっていた。
「……関係ねえ?」
「いや、そういう意味じゃ――」
「こっちは食うもんねえって言ってんだぞ」
「だから管理会社に――」
「そればっかじゃねえか!」
剛がドアの縁を掴むと、男は慌てて扉を閉めようとした。チェーンが限界まで張り、固定金具が軋む音が狭い廊下に響く。
「やめてください!」
「だったら開けろよ!」
「離せ!」
「お前が離せよ!」
男は室内側から必死に扉を引き、剛は廊下側から力任せに押し返した。わずか数十センチの隙間を挟んで二人の力がぶつかり合い、その怒鳴り声に反応するように周囲の部屋でも人の気配が動いた。
おそらく何人もの住民が、ドアスコープ越しにこちらの様子を窺っているのだろう。
それでも、誰一人として廊下へ出てくる者はいなかった。
何度目かの衝撃で固定金具が鈍い音を立てて外れ、ドアが一気に開いた。男は勢いに押されながらも剛を追い返そうと胸元へ手を伸ばしたが、剛はその腕を振り払い、反射的に相手の胸を突き飛ばした。
男の身体が玄関の床へ倒れ込んだ瞬間、剛の視線はその向こうに積まれていた段ボールへ吸い寄せられた。
米、水、缶詰、レトルト食品。
美咲の言っていた通りだった。
「……あるじゃねえか」
「やめろ!」
男が床から起き上がろうとする。
「それは家族の分だ!」
「こんだけあるじゃねえか!」
剛は米袋を一つ掴んだ。五キロもある。それだけでは足りないと考えたのか、近くの段ボールから缶詰をいくつか取り出し、さらに水の箱へ手を伸ばした。
「警察呼ぶぞ!」
男が叫ぶと、剛は手を止めて振り返った。
「呼べよ」
一瞬、男の表情が固まった。
「来るならな」
二人とも分かっていた。今の状況で、この程度の事件に警察がすぐ駆けつけてくる可能性は低い。テレビでは毎日のように救助要請が殺到していると報じられ、街のあちこちではそれより遥かに深刻な事件が起きている。
剛が水の箱を持ち上げると、男は最後の抵抗のように腕を掴んだ。しかし剛が乱暴に振り払うと、その身体は再び壁へぶつかった。
「これくらいいいだろ!」
剛は、自分を正当化するように怒鳴った。
「てめえらだけ食って、隣で俺たちに死ねって言うのかよ!」
その言葉を残し、剛は米と缶詰、水を抱えて部屋を出た。共用廊下には最後まで誰も姿を現さなかったが、閉ざされたドアの向こうにいくつもの視線があることだけは、剛にも分かっていた。
◇
剛が部屋へ戻り、玄関に五キロの米袋を置くと、美咲は目を見開いた。その横には缶詰と水まであり、どう見ても少し分けてもらったという量ではない。
「……どうしたの、それ」
「貰ってきた」
美咲は米袋から剛へ視線を移す。
「本当に?」
「うるせえな」
剛は靴を脱ぎながら吐き捨てる。
「あいつ、あんなに持ってるくせに一個も出さねえとか言いやがった」
美咲は何も言わず、もう一度食料を見る。
「ちょっと揉めたけどな」
「……大丈夫なの?」
「何が」
「警察とか」
剛は鼻で笑った。
「来るわけねえだろ」
美咲は再び米袋へ目を向けた。昨日までの自分なら、剛が隣人から無理やり食料を奪ったと知れば、少なくとも怖いとは思ったかもしれない。
だが今、最初に浮かんだ感情は違った。
これで食べられる。
それが何より先だった。
「剛」
「あ?」
美咲はわずかに目を潤ませ、安心したように笑った。
「ありがとう」
剛の表情が少し変わる。
「……別に」
「剛がいなかったら、私どうなってたんだろ」
「大袈裟なんだよ」
そう言いながら、剛は少し笑った。
自分は盗んだのではない。美咲を守っただけで、食料を大量に持っている人間から必要な分を分けてもらっただけだ。そう考えれば、先ほど男を突き飛ばしたことも、無理やり部屋へ入ったことも、少しずつ別の意味に置き換えることができた。
美咲も同じだった。米袋へ手を置きながら、隣人の家にはまだ食料が残っているのだから、この程度なら困らないだろうと自分に言い聞かせる。
そして、その瞬間にもう一人の男の顔が浮かんだ。
神崎蓮。
(蓮くんは……もっと持ってるよね)
◇
同じ頃、蓮のマンションでは共同備蓄の受付が始まっていた。
一階ロビーには長机が並べられ、その上には世帯番号、人数、提供物資、数量を書き込むための用紙が置かれている。管理人と住民代表二人が、持ち込まれた物資を一つずつ確認しながら記録していた。
最初にやってきた高齢の夫婦が差し出したのは、缶詰二つと乾麺一袋だった。
「これだけですが」
「ありがとうございます」
次の住民はカップ麺三個、その次は米一キロ、さらに別の家庭から水二本が持ち込まれた。少量ではあるものの途切れることなく物資が集まり、管理人も最初のうちは、これならある程度まとまった量になるかもしれないと期待していた。
しかし、一時間ほど経った頃には、その考えは完全に消えていた。
長机の後ろに集まったのは、米が十数キロ、カップ麺と缶詰がそれぞれ数十個、レトルト食品が少しと、水が数箱程度。百世帯を大きく超える住民が暮らしている建物から集められた量としては、あまりにも少なかった。
管理人は一覧と実際の物資を何度も見比べた。
「……これだけですか」
隣にいた住民代表も眉を寄せる。
まだ提出していない家庭も多かったが、住民グループには提供できないという連絡が次々と入っていた。
『うちは余裕がないので提供できません。申し訳ありません』
『残り二日分しかありません』
『子供がいるので今回は見送ります』
『高齢者がいるため難しいです』
昨日まで「一週間程度ある」と申告していた家庭まで、今日は「余裕がない」と言っている。
住民代表の男が一覧を眺めながら、納得できないように口を開いた。
「これ、おかしくないですか?」
管理人にも言いたいことは分かっていた。
「昨日の申告と合わない家庭がありますね」
「十三階の田中さんは?」
管理人が記録を確認すると、提供されたのは米一キロ、缶詰三個、水二本だけだった。
住民代表は眉間の皺を深くする。
「……絶対もっと持ってるでしょう」
「決めつけるのは良くないです」
「でも、前に見た人いるんですよね?」
「今はもうないのかもしれません」
住民代表はそれ以上何も言わなかったが、納得していないことは表情を見れば明らかだった。
◇
昼になると、共同備蓄として集まった物資の量が住民グループへ公開された。
『これだけ?』
『少なすぎません?』
『百世帯以上ありますよね?』
『みんな本当に食料ないんですか?』
『絶対隠してる人いるでしょ』
最後の一言をきっかけに、グループの空気が一気に変わった。
『私もそう思います』
『昨日、一週間以上あるって申告してた家ありましたよね?』
『そういう家は出してないんですか?』
『誰が出したか公開してください』
管理人は慌てて返信する。
『個別の提供状況については、プライバシーに関わるため公開しません』
しかし、今度はその対応自体への反発が始まった。
『なんで?』
『出してない人を守る必要あります?』
『出した人だけ損するんですか?』
『任意だったはずです。出さない人を責めるのは違うと思います』
『じゃあ食料ない人はどうするんですか?』
『それは各家庭の責任でしょう』
『子供にも同じこと言えるんですか?』
昨日までの議論は、出せる人が出せばいいというものだった。それが一日経っただけで、誰が出していないのかという犯人探しに近い空気へ変わり始めている。
◇
一階ロビーでは、管理人と住民代表が集まった物資を整理していた。そこへ昨日管理室前で声を荒らげていた男がやってきて、積み上げられた食料をしばらく眺めたあと、管理人へ声を掛けた。
「管理人さん」
「はい」
「やっぱり自己申告じゃ無理ですよ」
管理人の手が止まる。
「どういう意味ですか?」
「みんな隠してる」
男は長机の後ろに積まれた物資を指さした。
「だっておかしいでしょう。このマンションに何人住んでると思ってるんです? これだけしか残ってないわけない」
住民代表の一人も何も言わなかった。口には出さないものの、内心では同じ疑問を抱いている。
「昨日まで一週間あるって言ってた家が、今日になったら二日しかないって言ってる」
「食べたのかもしれません」
「一日で?」
管理人は答えられなかった。
男は少し距離を詰める。
「だったら確認すればいいじゃないですか」
「何を?」
「各部屋です」
管理人の表情が変わった。
「それはできません」
「なんで?」
「個人の住居ですよ」
「勝手に入れって言ってるんじゃない。本人に見せてもらえばいい」
「それを拒否されたら?」
男は少しだけ考えたあと、当然のことを言うように答えた。
「……隠してるってことでしょう」
管理人は男の顔を見つめた。
昨日、自分の頭にも同じ考えが浮かんでいた。しかし、さすがにそこまではできないと自分で否定したはずだった。
それを今日は、住民の側から言い始めている。
◇
午後になると「各家庭の備蓄確認」という話は住民グループにも広がり、当然のように激しい反発が起きた。
『絶対嫌です』
『家の中に入るってことですか?』
『そこまでやったら犯罪でしょう』
『でも嘘ついてる人がいるなら仕方ないんじゃない?』
『何が仕方ないんですか?』
『食べ物ない人が死んでもいいの?』
『じゃあうちの食料を全部出して、うちの子が死んだら責任取るんですか?』
『誰も全部出せなんて言ってない』
『家の中確認する時点で同じでしょう!』
議論は完全に二つへ割れ始めていた。食料を出してほしい側と、自分たちの備蓄を守りたい側。ただし、誰が本当に持っていて、誰が本当に持っていないのかは誰にも分からない。
だからこそ疑いだけが膨らみ、自分より多く持っている人間がどこかにいるはずだという考えが、少しずつ住民たちの中へ広がっていった。
◇
蓮は熱いカレーとサラダを食べながら、スマートフォンに流れ続ける住民グループのやり取りを眺めていた。
『確認くらい協力すべきです』
『拒否します』
『やましいことがないなら見せられるでしょう?』
最後の投稿を読んだところで、蓮のスプーンが止まった。
「出たな」
やましいことがないなら。
いつの時代も便利な言葉だった。
見せろ、証明しろ、拒否するなら怪しい。相手が拒絶する権利そのものを疑いの材料に変えられる。
もちろん蓮は、自分の部屋を見せるつもりなどなかった。この部屋には暖炉や発電設備、大量の燃料、要塞化された設備があり、それだけでも住民たちが見れば普通ではないと分かる。
もっとも、本当に重要な物資のほとんどは収納空間の中にあるため、部屋中を探されたところで見つかることはない。
蓮はもう一口カレーを食べ、再び画面へ目を落とした。
「まだ話し合ってるだけか」
だが、昨日より確実に一歩進んでいる。
昨日は、食料を分けてほしい。
今日は、食料を見せてほしい。
なら、その次に来る言葉も分かっていた。
持っているなら出せ。
◇
夜。
一ノ瀬の部屋では、久しぶりに炊飯器から白米の香りが漂っていた。美咲は炊き上がった米を茶碗によそい、剛が持ち帰った缶詰を開ける。
「やっぱ米だな」
剛が笑い、美咲も小さく頷いた。
「うん」
二人は温かい白米を口へ運んだ。二週間前なら何とも思わなかった味なのに、空腹が続いた今では、それだけでご馳走のように感じられる。
美咲は何口か食べたところで、ふと隣の壁へ視線を向けた。
その向こうには、今日食料を奪われた家族がいる。
ほんの一瞬だけ、箸が止まった。
しかし、すぐにまた白米を口へ運ぶ。
罪悪感より、空腹の方が強かった。
剛も同じだった。すでに自分が隣人から食料を奪ったという事実より、美咲を守るために必要な物を手に入れたという感覚の方が強くなっている。
一度、線を越えた。
そして、それで腹が満たされた。
その経験は二人の中から消えることなく、これまで存在しなかった一つの選択肢として残った。
次に食料がなくなった時。
二人はもう、「奪う」という方法を知らなかった頃には戻れない。
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Day 16
外気温 -30℃前後
積雪 六メートル超
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「一度奪って生き延びれば、次からそれは『方法』になる。」
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