第32話 Day 15 現実
寒波が始まって十五日目。
朝七時。
テレビ各局は通常番組をほぼすべて取りやめ、画面上部には常に災害情報が流れ、端には停電地域、断水地域、避難所の開設状況が表示されていた。
そしてこの日の朝、これまでとは明らかに違う数字が初めて大きく表示された。
【寒波による死者 全国で確認相次ぐ】
キャスターは手元の資料を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
『政府は今朝、今回の寒波による死亡者について、これまでに確認された人数が急増していることを明らかにしました。ただし、この数字はあくまで警察、消防、医療機関などが確認できた人数に限られています』
画面が切り替わり、雪に埋まった住宅街が映る。救助隊員たちが二階部分まで雪を掘り、一軒の住宅へ入っていく。しばらくして運び出された担架は、ブルーシートで覆われていた。
『こちらの住宅では昨夜、家族三人が心肺停止の状態で発見され、その後死亡が確認されました。暖房設備が停止していたとみられています』
次に映ったのは、雪の中へ放置された車だった。運転席側のドアだけが掘り出されている。
『避難所へ向かう途中で動けなくなったとみられる車両からも、複数の死亡者が発見されています』
そしてキャスターが、これまでで最も重い言葉を口にした。
『現在も救助隊が到達できていない地域が多数存在しており、政府は、実際の被害規模について現時点では把握できていないとしています』
把握できていない。つまり何人死んでいるのか、国にも分からない。
◇
黒崎恒一も、そのニュースを見ていた。テレビの前には愛が座っており、二人とも朝食を食べる手が止まっている。
食卓にあるのは、小さなおにぎりが一人一個と味噌汁だけ。以前なら朝食とすら呼ばなかった量だった。
『続いて、避難所の状況です――』
画面が切り替わる。人で埋まった体育館。毛布。段ボール。泣いている子供。職員へ詰め寄る男。
『昨日から食事が一日一回になったんですよ!』
『子供がいるんです!』
『こっちは何時間待ってると思ってるんだ!』
職員が必死に説明している。
『皆さんの分がありません! 届いた物資から順番に――』
突然怒鳴り声が大きくなり、カメラが激しく揺れた。そのまま中継はスタジオへ戻される。
愛が箸を置いた。
「……恒一」
「ん?」
「私たち、大丈夫だよね?」
昨日までなら、黒崎はすぐに「大丈夫だよ」と答えただろう。
今日は言えなかった。
残り一ヶ月以上。それは昨日確認した。だが、一ヶ月後に救援が来る保証などどこにもない。
「節約すれば、まだまだ持つ」
答えはそれだけだった。
その時、廊下から声が聞こえた。
「斉藤さん!」
「はい!」
「これ、昨日言ってたやつ!」
ドアが開く音がして、黒崎が玄関の方を見る。
このマンションは小さい。二十数世帯しかなく、築年数も古い。エレベーターも一基しかなく、停電時間には当然止まる。設備だけなら蓮のマンションとは比べものにならないが、その代わり住民同士の顔が見える。
廊下では、年配の女性が隣人へ小さな袋を渡していた。中身は米だった。
「これだけで悪いけど」
「いやいや、助かります」
「うち一人だから」
「今度何かあったら絶対言ってください」
「お互い様よ」
まだこのマンションには残っている。誰かが困っていれば少しだけ分け、誰かの部屋の暖房が弱ければ隣の部屋へ呼び、高齢者がいれば一日に一度は声を掛ける。
愛もその光景を見ていた。
だが以前とは違うことを言った。
「……ああいうの、いつまでできるんだろうね」
黒崎は答えなかった。
善意がなくなったわけではない。ただ、善意を続けるための物が少しずつなくなっていた。
◇
一ノ瀬美咲も、同じニュースを見ていた。
住んでいるマンションは黒崎のところよりずっと新しい。オートロック、非常用電源、管理会社による備蓄、比較的高い断熱性能。共用部もまだ一定の管理が続いており、少なくとも建物だけを比べれば黒崎のマンションより遥かに恵まれていた。
しかし、空気は違った。
廊下は静かで、誰も出ない。以前なら顔を合わせれば挨拶くらいはした住民たちも、今ではドアを開ける前にドアスコープを確認する。エレベーターに乗り合わせても会話はなく、相手が何を持っているのかだけを見て、自分が何を持っているのかは見せない。
数日前、同じ階に住む女性がグループへ投稿した。
『子供用の食べ物が足りません。どなたか少し余っていませんか?』
『すみません、うちも余裕がありません』
『こちらも厳しいです』
『管理会社へ相談された方がいいと思います』
返信は三件だけだった。
誰も悪いことは言っていない。誰も怒鳴っていないし、誰も盗んでいない。ただ、誰も出さなかった。
黒崎のマンションより設備はいい。食料を備蓄していた家庭も、おそらくこちらの方が多い。それでも、隣人へ渡す人間は少なかった。
美咲はそんなマンションの一室で、テレビを眺めていた。画面には死者、避難所、暴動、泣いている人間が次々と映し出されている。
柴田剛が舌打ちした。
「クソみてえなことになってんな」
美咲は返事をしない。視線はテレビではなく、テーブルへ向いていた。
残っている食料はカップ麺が一つ、缶詰が二つ、菓子が少し。水はまだある。今日、明日、頑張ってもその程度だった。
美咲が静かに尋ねる。
「ねえ、剛」
「あ?」
「隣の人って……まだ食べ物あるのかな」
剛が美咲を見る。
「知らねえよ」
「この前、結構大きな段ボール運んでたよね」
「だから?」
「別に」
美咲はテレビへ視線を戻した。
『政府は各家庭に対し、救援のみを前提とせず、現在手元にある食料、飲料水、暖房用燃料を可能な限り節約するよう呼びかけています――』
美咲の表情が変わった。
救援を前提とするな。それはつまり、自分で何とかしろと聞こえた。
「……蓮くん」
小さな声だったため、剛には聞こえなかった。
だが美咲の頭の中では、すでに二つの選択肢が並び始めていた。
隣の部屋。そして、神崎蓮。
◇
午前八時半。
蓮も同じニュースを見ていた。
暖炉の前。熱いコーヒー。朝食にはベーコンエッグと焼きたてのパン。
蓮は死者数を伝えるニュースを見ても表情を変えなかった。こうなることを知っていたからだ。
むしろ、
「遅かったくらいだ」
テレビでは避難所の映像が続いている。救援物資へ殺到する人々、怒鳴る男、泣く女、物資の箱を抱えて走る人間。それを警察官が止めようとしている。
画面下に速報が流れた。
【避難所で物資を巡る混乱 警察出動】
蓮はコーヒーを飲む。
「始まったな」
その時、スマートフォンが震えた。マンションの住民グループだった。
『ニュース見ました?』
『救援だけを前提にするなってどういう意味ですか?』
『次の物資、本当に来るんですか?』
『管理人さん、自治体から連絡ないんですか?』
『うち今日までです』
『子供がいるんです。何とかしてください』
『予備物資まだありますよね?』
『どれくらい残ってるんですか?』
昨日までとは違う。
質問ではなく、要求だった。
◇
午前九時過ぎ。
管理人はグループへ返信した。
『現在確認しています。皆様、まずは落ち着いてください』
その言葉が逆効果だった。
『落ち着けって、食べる物がないんですよ!』
『ニュース見ましたよね?』
『死者出てるんですよ?』
『次の救援いつなんですか!』
『予備物資を出してください!』
そして、スマートフォンだけでは終わらなかった。
ピンポーン。
管理室のインターホンが鳴る。一人。また一人。
さらに今度は、直接ドアが叩かれた。
ドンドン。
「管理人さん!」
「すみません!」
「開けてもらえますか!」
管理人は顔を上げてモニターを見る。
住民が集まっている。十人、十五人。その後ろからさらに増えていた。
管理人は慌てて外へ出た。
「皆さん、どうしました?」
同時に声が飛ぶ。
「食料です!」
「予備あるんでしょう?」
「うち、もうないんです!」
「昨日1102には渡したんですよね?」
「だったらうちにもください!」
管理人が両手を上げる。
「待ってください! 一度に話されても――」
「待てないですよ!」
男の声が響き、ロビーが静かになった。
痩せた男だった。
「昨日から何も食ってないんですよ」
「それは……」
「いつまで待てばいいんですか?」
「……」
「今日ですか?」
管理人は答えられない。
「明日?」
「……」
「一週間後?」
男の声が震えた。
「死ぬまで待てってことですか?」
誰も、それを大袈裟だとは思わなかった。
今朝テレビで見たからだ。
食料を失った人間。暖房を失った人間。避難所へ辿り着けなかった人間。
本当に死んでいる。
昨日までなら「何とかなる」と思えた。
今日は、その言葉を誰も信じられない。
◇
管理人は結局、予備物資を一部出した。
パックご飯、缶詰、レトルト食品、水。
それを見た瞬間、住民たちが一歩前へ出る。
「順番に!」
管理人が叫んだ。
「全員には渡せません! 本当に食料がない家庭を優先します!」
その瞬間、別の男が言った。
「どうやって確認するんですか?」
管理人が止まる。
「昨日から言ってますよね。自己申告なんでしょう?」
別の女性も続いた。
「うちだって残り一日です」
「昨日三日って言ってませんでした?」
誰かが言う。
女性が振り返った。
「減ったんですよ!」
「一日で?」
「家族四人いるんです!」
「うちは五人ですよ!」
声が大きくなる。
「子供がいるんです!」
「こっちにもいる!」
「高齢の母がいるんですよ!」
「だから何だよ!」
その言葉で、空気が変わった。
「……今、何て言った?」
「だから、みんな事情あるだろって言ってんだよ」
「母が死んでもいいって言うのか?」
「そんなこと言ってねえだろ!」
二人が近づき、胸がぶつかる。
管理人が慌てて間へ入った。
「やめてください!」
周囲の住民も止める。
「落ち着け!」
「こんなところで喧嘩してどうするんだ!」
まだ殴らない。
だが、初めてこのマンションで住民同士が身体をぶつけた。
◇
少し離れた場所で、上の階の夫婦がその光景を見ていた。
妻が小さく言った。
「……帰ろう」
夫も頷き、二人は何も受け取らずエレベーターへ向かう。
その時、後ろから声がした。
「そういえば」
二人の足が止まる。
「十三階の田中さん、結構備蓄してませんでした?」
妻の顔が強張った。
夫が振り返る。
「何の話ですか?」
「前に水とか米の箱、結構ありましたよね」
「もうありません」
「本当に?」
夫の表情が変わった。
「……何が言いたいんですか?」
「いや、別に」
「なら言わないでください」
夫婦はそのままエレベーターへ向かった。
だが背中に、いくつもの視線を感じていた。
◇
自宅へ戻ると、夫は真っ先に備蓄を動かした。
米をクローゼットの奥へ、缶詰を衣装ケースへ、レトルト食品をベッドの下へ。妻も手伝う。
「ここなら分からないよね」
「ああ」
「でも……勝手に入ってきたりしないよね?」
夫の手が止まった。
数日前なら笑って「そんなわけない」と言っただろう。
今日は、言えなかった。
「鍵、ちゃんとかけとけ」
「うん」
◇
昼。
テレビで速報が入った。
【救援物資を巡り避難者らが衝突】
映像には大型トラックと、それを囲む人々、警察官、怒鳴り声が映っている。誰かが段ボールを抱えて走り、別の人間が転倒し、その横から物資へ手を伸ばす人々が押し寄せる。
『押さないでください!』
『下がって!』
『子供がいるんだよ!』
『一個くらい寄越せ!』
映像が激しく揺れ、そして中継が切れた。
マンションの多くの家庭が、同じ映像を見ていた。
朝、管理室へ集まった自分たちと、テレビの中の人間。
何が違うのか。
誰も口にはしなかった。
住民グループに、一件だけ投稿が入った。
『……ここも、そのうちこうなるんでしょうか』
返信はなかった。
蓮はその投稿を見た。
「そのうちじゃない」
コーヒーカップを置く。
「もう始まってる」
◇
午後。
管理人から正式な通知が出た。
『本日の状況を受け、共用備蓄制度を明日より開始します』
『食料に余裕のあるご家庭には、可能な範囲で食料、飲料水等の提供をお願いいたします。提供された物資は管理室で一元管理し、世帯人数、年齢、健康状態、現在の備蓄状況等を考慮して配布します』
『提供量についても記録し、今後の配給時に考慮します』
昨日までなら議論になった。
今日は、ほとんど返信がなかった。
皆、分かっている。
何かしなければ、本当に死ぬ人間が出る。
だが同時に、別のことも考えていた。
自分の食料を、どこまで出すのか。
◇
夜。
マンションは静かだった。
だが多くの部屋では、同じことが行われていた。
ある家庭では、父親が米をクローゼットの奥へ隠す。
「これは出さない」
妻が頷く。
「缶詰は?」
「二個だけ出そう」
別の家庭では、母親がベッドの下へレトルト食品を押し込んでいた。
「これ、誰にも言っちゃ駄目だからね」
子供が頷く。
別の部屋では、高齢の夫婦が残り少ない食料を前に話していた。
「うちは出せないね」
「ああ」
「悪いことなのかね……」
夫はしばらく黙った。
「生きたいだけだよ」
そして十三階。
夫婦は大量の備蓄を三ヶ所へ分散していた。
表に出すのは米一キロ、缶詰三個、水二本。それだけだった。
妻が尋ねる。
「これだけで大丈夫かな」
夫は答える。
「大丈夫じゃなくても、これ以上は出さない」
◇
蓮は監視モニターを消した。
全員が何をしているのかは知らない。だが明日、集まる食料を見れば分かる。
先週までは、食料を持っている人間が持っていない人間を助けていた。
今からは違う。
食料を持っていることそのものが、危険になり始めた。
蓮は冷蔵庫からビールを一本取り出した。
プシュッ。
静かな部屋に音が響く。
テレビでは、今日確認された死者について繰り返し報道していた。
外ではすでに人が死んでいる。このマンションの中では、まだ誰も死んでいない。
その差が、いつまで続くのか。
蓮はビールを一口飲んだ。
「二週間は持った」
そして小さく笑う。
「ここからは早いぞ」
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Day 15
外気温 -30℃前後
積雪 六メートル超
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「食料の残りが、寿命の残りになった」
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