第29話 Day 12 最初の一線
寒波が始まって十二日目。
蓮が目を覚ました時、窓の外では今日も雪が降っていた。
もう珍しくもない光景だった。
十二日前なら、東京で雪が降っただけでニュースになり、数センチ積もれば交通機関が乱れ、駅には長蛇の列ができていた。それが今では、雪が降っていること自体を誰も話題にしなくなっている。
問題は、降っていることではない。
積もり続けていることだった。
蓮はカーテンを開けた。
街の形は、もうほとんど残っていない。道路は完全に消え、放置されていた車も見えなくなり、街路樹や標識の多くも雪の下へ沈んでいる。
積雪は、すでに四メートルを超えていた。
高層マンションに住む蓮から見れば、まだ街を見下ろすことができる。
だが、戸建て住宅に住む人間たちは違う。
蓮はコーヒーを淹れ、テレビをつけた。
朝から緊急特番が続いていた。
『続いて、各地の住宅地の状況です。記録的な積雪により、現在、戸建て住宅を中心に深刻な被害が広がっています。』
画面が切り替わる。
自衛隊のヘリコプターから撮影された映像だった。
蓮はカップを持ったまま、その画面を見つめた。
そこに住宅街はなかった。
見えるのは白い大地だけで、その中から赤い屋根や黒い屋根、太陽光パネルの付いた屋根が、まるで雪原に浮かぶ小さな島のように点々と突き出していた。
『こちらは都内西部で、今朝撮影された映像です。積雪が特に深い地域では平屋住宅の多くがほぼ雪に埋まり、二階建て住宅でも一階部分からの出入りが困難になっています。』
映像が拡大される。
一軒の住宅は一階部分が完全に見えなくなり、二階の窓だけが雪の上に残っていた。
その窓から、人が赤い布を振っている。
『現在、消防、自衛隊、自治体が救助活動を続けていますが、道路そのものが雪に埋まっている地域も多く、車両での接近が困難となっています。』
次の映像では、二階の窓から外へ出ようとしている男性が映り、その先には人一人が通れる程度の細い雪道が掘られていた。
さらに別の住宅では、屋根が中央から大きく沈み込んでいる。
『屋根の除雪ができない住宅では、雪の重みによる建物の損傷も相次いでいます。特に古い木造住宅やカーポートなどでは倒壊が多数確認されており――』
画面下に速報が流れる。
【住宅からの救助要請 全国で急増】
続けて、
【孤立世帯 正確な数を把握できず】
という文字が表示された。
スタジオへ戻ると、キャスターの表情は硬かった。
『また、玄関や窓が雪で塞がれた住宅では、外部への避難が困難となっています。消防は、暖房器具を使用している家庭に対して換気設備が雪で塞がれていないか十分注意するよう呼びかけています。』
別のキャスターが資料を読み上げる。
『政府は現在、戸建て住宅などから避難した住民について、学校、公共施設、大型商業施設などへの受け入れを進めています。しかし、避難所側でも食料や暖房設備が不足しており、新たな避難者の受け入れが困難となっている施設も出始めています。』
蓮の目が僅かに細くなった。
家にいられなくなった人間が、増え始めている。
今はまだ行政が受け皿になっている。
自衛隊も動いている。
避難所も残っている。
だが、そこがいっぱいになったらどうするのか。
食料が尽き、暖房まで止まったら、その次に人間はどこを探すのか。
病院、ホテル、商業施設。
そして、まだ人が暮らしていそうな大型マンション。
「……そのうち来るな。」
蓮は小さく呟いた。
前世を経験していなくても、その程度は予想できる。
自分の家で死ぬくらいなら、人がいる場所を探す。
それは当然の行動だった。
問題は、その時このマンションの住民たちに、外から来た人間を受け入れる余裕が残っているかどうかだった。
テレビでは、次のニュースが始まっていた。
『また、各地で救援物資を巡るトラブルも相次いでいます――』
◇
午前九時。
住民グループも、朝から住宅地のニュースで持ちきりだった。
『さっきのニュース見ました?』
『平屋、完全に埋まってましたね……。』
『実家が戸建てなんですけど、電話が繋がらなくて心配です。』
『うちの両親もです。昨日までは連絡取れたんですが。』
『マンションでまだ良かったと思ってしまった。』
『でも停電がもっと長くなったら、ここもどうなるか分からないですよね。』
そこへ別の住民が書き込んだ。
『避難所いっぱいになってるって言ってましたよね。戸建ての人たちはこれからどうするんでしょう?』
しばらく返信が止まった。
『別の避難所へ行くんじゃないですか?』
『でも道路ないですよ。』
『自衛隊が運ぶんじゃない?』
『全員は無理でしょう。』
その先を書く者はいなかった。
ただ、考えた人間はいたかもしれない。
もし避難所へ行けなければ、彼らはどこへ行くのか。
蓮は画面を眺めたあと、スマートフォンを置いた。
まだ、その問題を考えるには少し早い。
今の住民たちには、もっと身近な問題があった。
◇
昨夜から集められていた各家庭の備蓄状況について、管理人から集計結果が投稿された。
『皆様、ご協力ありがとうございます。現在までの回答を集計したところ、回答世帯の半数以上が「三日程度以下」となっています。次回の救援物資については依然として配送日が決まっていません。食料、水ともに可能な限り節約してください。』
反応は少なかった。
半数以上が三日程度以下。
その数字が重かった。
三日後に救援が来る保証はない。
一週間後ですら分からない。
そこへ政府が発表した救援活動の遅れが重なり、昨日までは「届いた物資をどう公平に分けるか」で揉めていた住民たちも、今日はもう、そもそも次の食料が本当に来るのかという段階から疑い始めていた。
◇
十三階。
比較的多くの備蓄をしていた夫婦が、リビングでグループの集計結果を見ていた。
寒波が始まった頃、二人は「二週間はいける」と話していた。
節約を続けているため、今でも米や缶詰、レトルト食品、飲料水はかなり残っている。
夫がスマートフォンをテーブルへ置いた。
「半分以上が三日以下だって。」
妻は部屋の隅に積まれた段ボールへ目を向けた。
「……うち、まだ一週間以上あるよね?」
「ある。」
「昨日、何て申告したの?」
夫が少し黙った。
「三日程度。」
妻が顔を上げる。
「え?」
「正直に一週間以上って書いたら、次の救援が減らされるかもしれないだろ。」
「でも、それって……。」
夫は声を荒らげず、むしろ静かな口調で続けた。
「俺たちは寒波が来る前から多少は備蓄してた。食料だって無駄にしてない。だから残ってるんだ。それで、何も準備してなかった家に全部回して、最後に俺たちが食えなくなったら誰が助けてくれる?」
妻は答えられなかった。
夫は少し間を置いてから言う。
「誰も助けてくれないよ。」
長い沈黙のあと、妻は小さく頷いた。
「……そうだね。」
それで終わった。
二人とも、自分たちが悪いことをしたとは思っていない。
家族を守るため。
それだけだった。
そして同じことは、十三階だけで起きていたわけではない。
◇
「一週間以上って書いた?」
別の家庭で妻が尋ねると、夫は首を振った。
「書くわけないだろ。三日にした。」
「でも、うち五日くらいあるよ。」
「三日も五日も大して変わらない。それに正直に書いて俺たちの分を減らされたらどうするんだよ。」
さらに別の部屋では、母親が娘へ言い聞かせていた。
「お水、まだ箱で二つあること、外では言っちゃ駄目だからね。」
「なんで?」
「いいから。誰にも言わないで。」
「友達にも?」
母親は少し迷ったあと、静かに答えた。
「……うん。誰にも。」
昨日までなら、余裕があることは助け合うための情報だった。
今は違う。
持っていると知られれば、自分の取り分が減るかもしれない。
だから隠す。
それは悪意というより、恐怖から生まれた嘘だった。
◇
昼。
蓮のスマートフォンに、管理人から個別メッセージが届いた。
『神崎様、まだ備蓄状況の回答をいただいていません。お手数ですが、「一日以内」「三日程度」「一週間程度」「一週間以上」のいずれかで回答をお願いします。』
蓮は画面をしばらく眺めた。
無視しても構わない。
だが、回答していない人間として目立つ必要もなかった。
指を動かす。
『一週間程度です。』
送信。
完全な嘘だった。
蓮は収納空間へ意識を向ける。
巨大物流センターから回収した食料や飲料、一万トンを超える水、燃料、医薬品、衣類、生活用品、設備。
一人で使うなら、もはや何年分なのか計算する意味すらない。
それを「一週間程度」で済ませた。
蓮は自分の送った文章を見て、小さく笑った。
「俺も同じか。」
住民たちが嘘をついていたとしても、それを責める資格はない。
むしろ蓮の嘘の方が、比べものにならないほど大きい。
それでも罪悪感はなかった。
自分の物資を公開する理由など一つもなく、知られた先に何が起こるのかを、蓮は前世で知っている。
◇
その頃。
管理室では、管理人が住民から届いた申告を表へ入力していた。
部屋番号、人数、乳幼児、高齢者、持病、備蓄日数。
「一日以内」と「三日程度」の家庭が、想像以上に多い。
管理人は画面を見ながら眉を寄せた。
「……本当かよ。」
全員が本当にそれしか持っていないのか。
昨日の騒ぎを思い出せば、少なく申告している人間もいるのではないかという考えが自然と浮かぶ。
証拠はない。
確認する方法もない。
それでも、管理人自身がすでに住民たちを疑い始めていた。
そしてふと、管理室の隅に残された予備物資へ目を向ける。
自分も同じだった。
昨日、レトルトカレーとパックご飯、カセットボンベを自宅へ持ち帰り、その分だけ在庫表の数字まで書き換えた。
管理人はしばらく予備物資を眺めたあと、小さく息を吐いた。
以前なら、他人が嘘をついているかもしれないと思えば腹を立てただろう。
今は違う。
「……まあ、そうなるよな。」
自分だって家族を守りたい。
他の住民だって同じだ。
そう考えれば、自分だけ正直でいる必要があるのかという疑問も、昨日よりずっと自然に頭へ浮かぶようになっていた。
◇
午後三時。
九階。
一人の女性が知人から水を分けてもらっていた。
二リットルのペットボトルが六本入った箱。
水道はまだ完全には止まっていないが、水圧は以前より明らかに弱く、いつ断水してもおかしくない状況では、水はいくらあっても困らない。
「本当にありがとう。」
「いいの。うちはまだ少しあるから。」
「次、何かあったら絶対返すから。」
「そんなのいいって。」
まだ、こんな会話も残っていた。
女性は水の箱を玄関まで運び、いったん廊下へ置いた。
その時、部屋の中から子供の泣き声が聞こえる。
「どうしたの?」
慌てて中へ入った。
ほんの十分ほどだった。
再び玄関を開けた女性は、箱を持ち上げようとした瞬間、妙な違和感を覚えた。
軽い。
「……あれ?」
箱を見る。
開いている。
女性は中のペットボトルを数えた。
一、二、三、四。
そこで終わった。
もう一度数えても、四本しかない。
「……嘘。」
部屋の中から夫が顔を出した。
「どうした?」
「水……。」
「水?」
「二本ない。」
夫が廊下へ出てくる。
「は?」
「さっき六本あったの。なのに四本しかない。」
「誰かに渡したんじゃなくて?」
「あげてないよ。」
「本当に六本だった?」
「六本だったって!」
女性の声が思わず強くなる。
夫は黙った。
二人で廊下を見ても、そこには誰もいない。
寒波が始まって十二日。
助け合いもあった。
口論もあった。
疑いも生まれた。
だが、誰かの物が実際になくなったのは初めてだった。
◇
数分後。
住民グループに投稿が入った。
『すみません。九階なんですが、玄関前に置いていた水が二本なくなりました。』
それまで動いていたグループが一瞬止まり、すぐに返信が始まった。
『え?』
『どういうことですか?』
『盗まれたってこと?』
『誰かに渡したとかじゃなくて?』
女性がすぐに返す。
『違います。六本あったのを確認しています。ほんの十分くらい部屋に入って、戻ったら四本になっていました。』
『勘違いじゃないですか?』
『勘違いじゃありません。』
『誰か間違えて持っていった可能性は?』
『水の箱から二本だけ間違えて持っていきますか?』
そこで空気が変わった。
『監視カメラ確認できないんですか?』
『管理人さん、お願いします。』
『九階って映ってますよね?』
管理人から返信が入る。
『確認します。少々お待ちください。』
蓮もスマートフォンを見ながら、監視室へ向かった。
九階の録画映像を遡る。
女性が水の箱を置き、部屋へ入る。
数分後、廊下の奥から一人の人物が現れた。
厚手のダウンジャケットに帽子、マスク。この寒さでは珍しくもない格好だった。
人物は水の前で立ち止まり、周囲を確認すると、しゃがみ込んで箱からペットボトルを二本抜き取った。
そのまま歩き去り、カメラの死角へ消える。
顔は分からない。
どの部屋へ戻ったのかも分からなかった。
蓮は映像を止めた。
「……出たか。」
犯人を探すつもりはない。
水二本。
蓮にとっては何の価値もない。
だが、このマンションにとっては、とてつもなく大きな二本になる。
◇
しばらくして、管理人から報告が入った。
『監視カメラを確認しました。水を持ち去る人物が映っています。ただし、防寒具で顔が隠れており、現時点では人物を特定できません。』
グループが一気に騒がしくなった。
『本当に盗まれたってこと?』
『最悪……。』
『同じマンションの人ですよね?』
『外から入ってきた可能性は?』
『この雪で?』
『エントランスも閉まってるでしょ。』
そして、誰かが書いた。
『じゃあ住民じゃん。』
その一言のあと、しばらく誰も返信しなかった。
同じマンションの中に、他人の水を盗む人間がいる。
昨日までは「誰かが嘘をついているかもしれない」だった。
今日は違う。
誰かが本当に、一線を越えた。
『犯人見つけた方がいいんじゃないですか?』
『各階確認した方がいいと思います。』
『水二本くらいでそこまでしなくても……。』
『二本だからいいって問題じゃないでしょう。』
『そうですよ。今日二本なら、次は食料かもしれない。』
『自分の家の前に物置かない方がいいですね。』
『鍵ちゃんとかけた方がいいですよ。』
『怖い……。』
昨日までのグループでは「助け合いましょう」という言葉が何度も使われていた。
今日は違う。
気をつけて。
隠して。
鍵をかけて。
使われる言葉そのものが変わり始めていた。
◇
夕方になる頃には、廊下から物がほとんど消えていた。
昨日まで玄関前に置かれていた水の箱も、段ボールも、カセットボンベもない。
監視モニターを眺めていた蓮にも、その変化はすぐに分かった。
人の姿そのものも減っている。
部屋から出る者が少なくなり、出てきても周囲を確認してから、用事を済ませるとすぐに戻っていく。
会話までは聞こえなくても、何が起きているのかは十分に分かった。
「今度は、隠すだけじゃなくなったか。」
昨日は、持っていることを知られたくないから物を隠した。
今日は、持っている物を盗られたくないから、人そのものを避け始めている。
同じマンション。
同じ廊下。
同じエレベーター。
それでも住民たちの間には、見えない壁が作られ始めていた。
◇
夜。
蓮は暖炉の前でしゃぶしゃぶを食べていた。
薄く切られた霜降り肉を熱い出汁へくぐらせ、色が変わったところでポン酢へつける。
「……うまい。」
テレビでは昼間と同じように救援活動のニュースが流れ、画面には雪に埋まった住宅地が映っている。
スマートフォンには住民グループ。
監視モニターには、静まり返ったマンションの廊下。
蓮は肉をもう一枚、鍋へ入れた。
水を盗んだ人物が誰なのか。
興味がないわけではない。
だが、探すつもりはなかった。
重要なのは犯人ではない。
ペットボトル二本が消えたことで、このマンションに住む全員が一つの事実を知った。
ここには、盗む人間がいる。
昨日までは、誰かが嘘をつくかもしれない。
今日は、誰かが盗むかもしれない。
なら、明日はどうなるのか。
蓮は湯気の向こうへ視線を向けた。
前世でもそうだった。
社会が崩れる時、最初から殺し合いが始まるわけではない。
最初は誰かが少しだけ嘘をつき、次に誰かが少しだけ隠し、やがて誰かが他人の物を少しだけ持っていく。
たった水二本。
だが、越えた一線は二本分ではない。
その時、住民グループに管理人から最後の投稿が入った。
『皆様、本日の件を受け、食料や飲料水などは必ず室内で保管し、戸締まりを徹底してください。不審な人物や行動を見かけた場合は、すぐに管理室へご連絡ください。』
すぐに、いくつもの「了解」が付いた。
蓮はその文章を読み、箸を止めた。
数日前まで、管理人は困っている人がいたら助け合いましょうと言っていた。
今日は違う。
不審な人物を見たら知らせてください。
助け合うために互いを見ていた住民たちが、今度は疑うために互いを見るようになった。
そして窓の外、四メートルを超える雪の下では、家を失い始めた人間たちがいる。
マンションの中では、住民同士の壁ができ始めている。
マンションの外では、生きる場所を失った人間が増え始めている。
蓮は静かに肉を口へ運んだ。
内側からも、外側からも。
少しずつ、世界は狭くなっていた。
────────────────
Day 12
外気温 -30℃前後
積雪 412cm
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「家を失う者と、隣人を信じられなくなる者。どちらも帰る場所を失い始める。」
────────────────




