第28話 Day 11 誰かが嘘をついている
寒波が始まって十一日目。
蓮は朝食を取りながらテレビを見ていた。画面に映っているのは、昨日までとほとんど変わらない白い世界だった。除雪車がゆっくりと雪を押し分け、その後ろを自衛隊の雪上車が続いている。
ただ、ニュースの内容だけは少しずつ変わり始めていた。
『政府は本日、首都圏を含む複数地域で実施している計画停電について、時間帯をさらに拡大すると発表しました。発電施設そのものに大きな被害は確認されていませんが、送電設備の故障が相次ぎ、復旧作業も難航しています。』
画面が切り替わり、防寒装備を身につけた作業員たちが吹雪の中で送電設備の修理を続けている。すぐ近くでは別の作業員が凍りついた機器を確認していた。
『また、水道管の凍結や破裂も広い範囲で確認されています。一部地域では完全断水となっており、復旧時期は未定です。』
蓮はコーヒーを一口飲みながら画面を眺めた。
電気、水、物流、通信。どれもまだ完全に止まったわけではないが、確実に弱っている。
文明は突然消えるわけではない。昨日まで使えていたものが、ある日一つ使えなくなり、その次の日にはまた別のものが使えなくなる。そうやって少しずつ削られていく。
続いて流れたのは、救援物資を巡るトラブルについてのニュースだった。
『各地では救援物資を巡るトラブルも報告されています。昨日、都内の避難所では配布量を巡って住民同士が口論となり、警察官が仲裁に入る事態となりました。』
映像にはモザイクが掛けられ、何人もの人間が職員を囲みながら声を荒らげている。
『別の地域では、救援物資の保管場所から食料の一部がなくなっていたことも確認されています。警察は窃盗の可能性もあるとして――』
蓮はそこでテレビを消した。
「どこも同じか。」
食料が足りず、次がいつ届くのかも分からない。そうなれば、場所が違っても人間の動きは似てくる。
その時、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。
住民グループだった。
◇
昨夜から続いていた議論を受けて、管理人が新しい提案を書き込んでいた。
『皆様からいただいたご意見を踏まえ、次回の救援物資配布に備えて、各世帯の人数、乳幼児・高齢者・持病の有無、現在のおおよその備蓄状況を確認したいと思います。』
『備蓄量については正確な数量でなくても構いません。「一日以内」「三日程度」「一週間程度」「一週間以上」の四段階で申告してください。』
反応は、最初のうちは悪くなかった。
『いいと思います。』
『その方が本当に困ってる家庭を優先できますね。』
『高齢者だけの部屋もありますし、その方がいいですね。』
余裕のある家庭より、食料が尽きかけている家庭を優先する。善意から作られた、一見すれば合理的なルールだった。
しかし、しばらくして一人の住民が書き込んだ。
『これ、備蓄が多いって申告した家庭は救援物資が減るんですか?』
管理人から返信が入る。
『現時点では決定していません。あくまで次回の配布方法を検討するための参考情報です。』
『でも可能性はあるってことですよね?』
少し間を置いて、管理人が答える。
『限られた物資ですので、状況によっては緊急性の高い世帯を優先する可能性があります。』
その返答を境に、グループの空気が少し変わった。
『じゃあ正直に一週間分あるって言ったら、貰えなくなるかもしれないってこと?』
『でも食料ない人を優先するのは当然じゃないですか?』
『それは分かるけど、ちゃんと備蓄してた人が損するのは違うと思います。』
『損得の話じゃないでしょう。今は非常時ですよ。』
『でも自分で何も準備してなかった人と、準備してた人が同じ扱いなのもおかしくないですか?』
昨日まで抽象的だった「公平」という言葉が、今日は自分の取り分と直接結びつき始めていた。
◇
午前十時。
各家庭から申告が集まり始めた。
『803号室、二名。備蓄三日程度です。』
『1102号室、一名。一日以内です。』
『604号室、四名、子供二名。三日程度。』
『1305号室、二名。一週間程度です。』
一件ずつ情報が流れていく中、蓮は自分の番になっても何も書き込まなかった。
そもそも正直に答えるつもりなどない。
巨大物流センター数か所分の物資に、一万トンを超える水、燃料、薬、衣類、設備まで持っている。それを「一週間以上」という一言でまとめるのも馬鹿らしい。
蓮はスマートフォンを置いた。
その頃、マンションの別の階では、住民同士の会話が始まっていた。
八階では、廊下で二人の女性が声を潜めながら話している。
「801って三日分って書いてたよね?」
「そうだったと思う。」
「でも昨日、玄関前に水の箱あったよ。」
「水?」
「二箱くらい。」
もう一人の女性が少し考え込む。
「じゃあ結構あるんじゃない?」
「だよね。」
二人はそれ以上何も言わなかった。
しかし、さっきまで存在しなかった疑問だけは残った。
別の階では、男性二人が階段の踊り場で話している。
「1204、一日以内って書いてたよな?」
「そうだっけ?」
「この前、旦那が段ボール何箱か運んでたの見たんだよ。」
「食料とは限らないだろ。」
「でも今、通販なんて来ないじゃん。」
「ああ……。」
会話はそこで終わった。
昨日までなら、他人の玄関前に段ボールが積まれていても、水を何箱持っていても、誰も気にしなかった。
だが、備蓄量によって次の救援物資の量が変わるかもしれない。
そうなった瞬間、他人の持ち物に意味が生まれた。
◇
昼。
住民グループに一つの投稿が入った。
『こういうこと言うの良くないかもしれないんですが、備蓄量って自己申告だけで大丈夫なんでしょうか?』
数分の間、誰も反応しなかった。
やがて返信が付く。
『どういう意味ですか?』
『実際より少なく申告する人もいるんじゃないかってことです。』
昨日はまだ可能性としてしか口にされていなかった疑念が、今日はもう少し具体的な形になっている。
『でも確認しようがなくないですか?』
『各家庭を見に行くわけにもいかないですし。』
『そこまでする必要ないと思います。普通に信じればいいでしょう。』
『でも嘘ついた人が多く貰って、正直に申告した人が少なくなるなら不公平ですよね?』
また、公平という言葉が出てきた。
蓮はソファに座ったまま、そのやり取りを眺めていた。
信じるべきだという人間にも理由があり、確認するべきだという人間にも理由がある。自分だけ損したくないという感情も、今の状況では決して不自然ではない。
だからこそ、一度始まった議論は簡単には止まらない。
◇
午後。
管理室では、集まった申告を管理人が表にまとめていた。
部屋番号、人数、子供、高齢者、持病、備蓄日数。
一件ずつ入力していくうちに、「一日以内」と「三日程度」の家庭が思っていた以上に多いことへ気づく。
「……こんなに少ないのか?」
本当に全員がその程度しか持っていないのか。
それとも、少なく申告している人間がいるのか。
管理人にも分からないし、確認する方法もない。
ため息を吐きながら、横に置かれた救援物資の在庫表へ視線を移したところで、手が止まった。
昨日、自分が持ち帰った分。
レトルトカレー、パックご飯、カセットボンベ。
実際の在庫と、記録上の数字が合っていない。
昨日までは、物資を取っただけで記録には触れていなかった。しかしこのままでは、次に誰かが在庫を確認した時、数字が合わない可能性がある。
管理人はしばらく画面を見つめたあと、キーボードへ指を置いた。
レトルト食品を一つ減らし、パックご飯も一つ減らす。カセットボンベも同じように一つ減らし、最後に保存を押した。
画面上の数字と、実際の在庫が一致した。
管理人は椅子へ深く身体を預ける。
食料を持ち帰るだけなら、まだ「少し貰った」と自分に言い訳できた。
だが今日は違う。
初めて、記録そのものを変えた。
「……仕方ないだろ。」
誰もいない管理室で、小さく呟く。
何百個もの物資を配ったのだから、数え間違いがあってもおかしくない。記録漏れだってある。
たった三つ。
誰も困らない。
そう自分に言い聞かせる。
しかし、一度数字まで変えてしまえば、次からは食料を取った後に悩む必要すらなくなる。
数字を合わせればいい。
◇
夕方。
蓮は暖炉の前で本を読んでいた。
スマートフォンが何度も震えていたが、最初は無視していた。それでもあまりに通知が続くため、仕方なく画面を開く。
『すみません。さっきから気になってるんですけど、801号室って本当に三日分しかないんですか?』
蓮の目が止まった。
ついに、部屋番号が出た。
すぐに別の住民が反応する。
『個人を名指しするのはやめた方がいいと思います。』
『そうですよ。』
しかし、最初に投稿した住民は続けた。
『責めてるわけじゃないです。ただ昨日、水の箱が二箱くらい玄関前にあったのを見たので。』
801号室から返信が入る。
『あれは飲料水じゃありません。』
『じゃあ何ですか?』
『なんであなたに説明しないといけないんですか?』
そこから、空気が一気に変わった。
『いや、そういう意味じゃなくて。』
『十分そういう意味ですよね?』
『一旦落ち着きましょう。』
『管理人さんに任せればいいと思います。』
『でも自己申告なら確認できないですよね。』
『だからって他人の家の物を監視するのはおかしいでしょう。』
『監視なんてしてません。普通に見えただけです。』
『同じことでしょ。』
メッセージの速度が一気に上がっていく。
昨日までは制度について話していた。
今日は、人そのものについて話している。
蓮はしばらく画面を眺めたあと、小さく呟いた。
「早かったな。」
監視モニターへ目を向けると、廊下に出ている人間は昨日より少ない。その代わり、玄関前に置かれていた段ボールや水の箱が、少しずつ室内へ移されていた。
何が起きているのかは、会話を聞かなくても十分に想像できる。
「見られたくなくなったか。」
誰が何を持っているのか。
それを、他人に知られたくない。
その感覚が、すでにマンションの中へ広がり始めていた。
◇
しばらくして、管理人がグループへ書き込んだ。
『皆様、一度落ち着いてください。備蓄量については自己申告を基本とします。個別の世帯を名指しして確認したり、他の住民の生活状況を詮索したりすることは控えてください。』
少しして、最初に投稿した住民が謝る。
『すみませんでした。』
801号室からも返事があった。
『こちらも言い過ぎました。』
それで一応、話は終わった。
だが、本当に終わったわけではない。
誰かが見ているかもしれない。
誰かが嘘をついているかもしれない。
正直に言えば、自分だけ損をするかもしれない。
一度芽生えた考えは、謝罪一つで消えるものではなかった。
◇
夜。
蓮は収納空間から寿司を取り出した。
寒波前、有名店で握ってもらったものだ。
大トロ、雲丹、イクラ、赤貝、穴子。
時間の止まった収納空間から出したばかりなので、状態はあの日のままだ。
蓮は醤油を少し付け、大トロを口へ運ぶ。
「……うまい。」
スマートフォンを見ると、昼間の騒動以降、住民グループは妙に静かだった。
誰も食料の写真を載せず、何を食べたのかも話さない。監視モニターにも、昨日まで廊下に置かれていた水や食料の箱がほとんど映らなくなっている。
昨日までは、助け合うために自分が何を持っているのかを互いに伝えていた。
今日は逆だった。
持っていることを知られないように、隠し始めている。
「人間ってのは、変わるのが早いな。」
蓮はそう呟きながら、もう一貫口へ運んだ。
責めるつもりはない。
むしろ当然だと思う。
明日の食事が保証されていない世界で、自分は食料を持っていると他人へ教えることの方が危険なのだから。
蓮はスマートフォンを伏せた。
住民たちはまだ助け合っている。暴力もなく、盗みも少なくとも表には出ていない。
それでも、昨日までこのマンションにあったものが、一つずつ薄くなっている。
そして今日、最も大きく削れたのは、食料でも水でもなかった。
信頼だった。
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Day 11
外気温 -30.2℃
積雪 424cm
電力 ▲
ガス ▲
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「疑い始めれば、隣人の水一本まで多く見える。」
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