第27話 Day 10 公平
Day 10。
寒波が始まって十日目。蓮はいつもより少し遅い時間に目を覚ました。
時計を見ると、午前八時十二分を回っている。仕事も予定もなく、外へ出る必要さえない今の生活では、急いで起きる理由などどこにもなく、曜日の感覚すら少しずつ薄れ始めていた。
ベッドから起き上がってカーテンを開けると、窓の外は今日も一面の白だった。
昨日まで激しく吹き荒れていた風は少し弱まっているものの、雪そのものは変わらず降り続けている。積雪はすでに五メートルを超え、道路脇に立っていた標識や街灯の多くは姿を消し、低い建物では一階部分が完全に雪へ埋まっていた。
「二回目でもすごいな。」
驚きというより、呆れに近い声が漏れる。
一度この光景を経験している蓮でさえそう思うのだから、何も知らずに初めてこの世界を見ている住民たちが、どれほどの不安を感じているのかは想像するまでもなかった。
蓮はカーテンを閉めるとキッチンへ向かい、いつものようにコーヒーを淹れた。トーストを焼き、スクランブルエッグに厚切りのベーコンを添え、冷蔵庫からサラダを取り出す。
何の変哲もない、いつも通りの朝食だった。
席へ着こうとしたところで、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震える。
住民グループだった。
昨夜までは、ようやく届いた救援物資への安堵と、管理人や手伝った住民たちへの感謝で埋まっていたグループだ。
しかし、今朝は少し雰囲気が違っていた。
『おはようございます。昨日はありがとうございました。確認なんですが、次の救援物資について何か連絡ありますか?』
まだ管理人からの返信はない。
代わりに、別の住民が反応した。
『私も知りたいです。昨日いただいた分、家族四人だと二日くらいしか持たなくて。』
『うちもです。三人家族ですが、節約しても三日くらいだと思います。』
『次もすぐ来ると思ってたんですが……。』
蓮はコーヒーを一口飲みながら、静かに画面を眺めた。
昨日、エントランスへ大量の段ボールが運び込まれた時、住民たちは歓声を上げ、あれだけあればしばらく大丈夫だと思った人間も多かったはずだ。
だが、見た目の量と実際に一人へ渡る量はまるで違う。
数百人で分ければ、一世帯が受け取れる物資などたかが知れている。そもそも救援物資は腹いっぱい食べるために配られたものではなく、次の救援が届くまで生き延びるための最低限の物資に過ぎない。
問題なのは、その「次」がいつなのか、誰にも分からないことだった。
◇
午前九時を少し回った頃、ようやく管理人から投稿が入った。
『おはようございます。次回の救援物資について、今朝自治体へ確認しました。現在のところ配送日は未定とのことです。』
すぐに返信が並ぶ。
『未定……。』
『昨日来たばかりだから仕方ないですよ。』
『でも二日分しかない家庭もありますよね?』
『うちは元々の備蓄と合わせればまだ大丈夫です。』
『うちは元々ほとんどなかったので厳しいです。』
同じマンションに住んでいても、それぞれの家庭が置かれている状況はまったく違う。
昨日までは、その違いをわざわざ気にする者もほとんどいなかった。
だが、しばらくして一人の住民が質問した。
『昨日の配布について確認したいのですが、全世帯同じ量だったんでしょうか?』
それまで続いていた書き込みが、一瞬だけ止まった。
管理人から返信が入る。
『世帯人数、乳幼児、高齢者、持病の有無などを考慮して、配布量を一部調整しています。』
『ということは、同じではないんですね?』
『はい。基本的には世帯人数を基準にしていますが、必要性に応じて調整しました。』
そこへ別の住民も加わった。
『子供がいる家庭が多めってことですか?』
『乳幼児用品などは対象となる家庭へ優先して配布しています。食料については世帯人数を基本としています。』
『それならいいと思います。』
『私も賛成です。赤ちゃんとかお年寄り優先でいいでしょう。』
『そうですね。』
一度は落ち着きかけた空気の中に、もう一件だけ書き込みが入る。
『でも、その「必要性」って誰が決めるんですか?』
再びグループが静かになった。
管理人は少し時間を置いてから返信した。
『現在は自治体からの指示と、各世帯から申告いただいた情報を参考にしています。』
『分かりました。ありがとうございます。』
それで話は終わった。
誰も管理人を責めてはいないし、言い争いにもなっていない。それでも蓮は、画面を見ながら小さく呟いた。
「出てきたな。」
昨日までは、何かを貰えたという事実だけで嬉しかった。
それが一夜明ければ、今度は誰がどれだけ受け取ったのか、自分より多く貰った人間はいないのかが気になり始める。
「公平」という言葉が、少しずつ意味を持ち始めていた。
◇
昼前になると、マンションの廊下でも同じような会話が聞かれるようになった。
「そっち、昨日レトルト何個もらった?」
「六個。」
「あ、同じか。うちも六個。」
それだけ確認すると、どこか安心したように会話が終わる。
別の階では水の本数を比べていた。
「うち四本だったよ。」
「え、うち三本。」
「家族何人?」
「二人。」
「じゃあ人数じゃない?」
「ああ、そっか。」
さらに別の場所では、カセットボンベについて話している。
「そっち、ボンベ入ってた?」
「一本入ってたよ。」
「うち入ってなかったんだけど。」
「管理人さんに聞いてみたら?」
昨日は箱を受け取っただけで喜んでいた人間たちが、今日はその中身を他人と比べ始めている。
自分だけ損をしていないか。
誰かが自分より得をしていないか。
まだ疑っているわけではない。ただ、自分の受け取った量が正しかったのかを確認したいだけだった。
けれど蓮には、その小さな変化がよく分かった。
物が十分にある時、人は隣人が何個持っているかなど気にしない。自分の分が足りなくなり始めて、初めて他人の手元を見るようになる。
◇
管理室では、朝から電話が鳴り続けていた。
「はい、管理室です。」
『702号室です。昨日、うちにはカセットボンベが入ってなかったんですけど。』
「申し訳ありません。数が足りなかったため、全世帯にはお渡しできていません。」
『でも隣は貰ってますよ?』
「小さなお子さんがいらっしゃる家庭や、調理手段が限られている世帯を優先しています。」
『うちだって必要ですよ。』
「分かっています。」
『次は貰えるんですか?』
管理人は答えようとして、僅かに言葉を詰まらせた。
次。
昨日から何度、この言葉を口にしたのだろう。
「……次回物資が届きましたら、できる限り対応します。」
『お願いしますよ。』
電話が切れたと思った直後、また電話が鳴る。今度は水について、その次は食料、その後は乳幼児用品についてだった。
電話への対応がようやく終わったかと思えば、今度は管理室の扉を直接叩く住民まで現れる。
「管理人さん、昨日の食料、もう少しありませんか?」
「申し訳ありません。残っているのは予備分だけなんです。」
「一袋だけでも駄目ですか?」
「緊急時のために残している物なので……。」
住民は困り果てた表情で、管理人を見る。
「うちだって、もう緊急なんです。」
管理人は返す言葉を失った。
相手は怒鳴っているわけでも、脅しているわけでもない。本当に食料がなくて困り、頼みに来ているだけだった。
だからこそ、断るのが辛い。
「……申し訳ありません。」
管理人が頭を下げると、住民もしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。」
扉が閉まると、管理人は椅子へ座り、大きく息を吐いた。
「俺に言われてもな……。」
救援物資を作ったのは自分ではない。配送を止めているのも自分ではなく、次がいつ届くのかを決める権限だってない。
それでも、住民から見れば、今このマンションで食料を管理しているのは自分だった。
つまり彼らにとっては、食料を渡してくれるのも、渡してくれないのも、管理人なのだ。
◇
午後二時。
ようやく電話が途切れ、管理人は昼食を取ろうと、自宅から持ってきた小さな袋を机の上へ置いた。
中に入っていたのはクラッカーと水だけだった。
昨日まで残っていたカップ麺は、もうない。
管理人はクラッカーを一枚口へ入れた。口の中の水分を奪うような乾いた食感に顔をしかめ、水で流し込む。
二枚目へ手を伸ばしたところで、ふと管理室の隅へ視線が向いた。
昨日届いた救援物資が、まだいくつか残っている。
受け取りに来ていない住民の分と、緊急時に備えた予備だった。
管理人はクラッカーを持ったまま、しばらくその箱を見つめた。
昨日、自分は缶詰を一つだけ持ち帰った。
妻と二人で食べ、妻には「余った分を貰った」と説明した。
完全な嘘ではない。
少なくとも管理人自身は、そう思おうとしていた。
実際に最後まで残っていた物だったし、誰か個人の名前が書かれていたわけでもない。自分だってこのマンションの住民であり、この数日間は誰よりも住民のために働き続けている。
そこまで考えたところで、管理人は残っていたクラッカーを袋へ戻し、ゆっくりと立ち上がった。
救援物資の箱を開ける。
目に入ったのは、レトルトカレーだった。
昨日なら、きっとここから何度も迷っていただろう。手に取っては戻し、周囲を確認し、それでも罪悪感に耐えられず、最後の最後まで決断できなかったはずだ。
今日は違った。
管理人は一度だけ周囲を確認すると、レトルトカレーを手に取り、そのまま鞄へ入れた。
隣にはパックご飯がある。
「……カレーだけあっても仕方ないからな。」
自分でも納得できる理由を口にし、それも鞄へ入れた。
そこでやめるつもりだった。
だが、箱を閉じようとした時、奥にカセットボンベが一本残っているのが見えた。
自宅にあるボンベも、あと一本しかない。
次の救援がいつ来るかは分からない。
管理人は数秒だけその場に立っていたが、やがてボンベも手に取り、鞄へ入れた。
昨日は缶詰を一つ取るだけで、あれほど長い時間迷った。
今日は三つだった。
それでも管理人は、自分が泥棒になったとは思っていない。
ただ必要な物を少しだけ確保した。
自分の中では、まだその程度のことだった。
最初の一個より、二個目の方が軽かった。
◇
午後四時。
蓮は遅めの昼食を取っていた。
今日選んだのはラーメンだった。寒波が始まる前、評判の店を何軒か回り、出来上がったばかりのものをそのまま収納しておいた。
収納空間から取り出した瞬間に再び時間が動き始め、熱いスープからは湯気が立ち、麺も伸びていない。厚切りのチャーシューや煮卵まで、あの日の状態のままだった。
「うまい。」
麺を啜りながらスマートフォンを見ると、住民グループでは相変わらず救援物資についての話が続いていた。
『残っている予備って、どれくらいあるんでしょうか?』
『管理人さんが管理してるはずです。』
『予備はどういう場合に貰えるんですか?』
『本当に困ってる家庭じゃないですか?』
『でも、誰が「本当に困ってる」って判断するの?』
蓮は煮卵を口へ運びながら、流れていく文章を眺めていた。
昨日、管理人が食料に手を出すかもしれないと思った。
本当に取ったのかどうかは知らないし、今日何をしているのかも知らない。確かめるつもりもなかった。
ただ、もし昨日一つでも取っていたのなら。
「今日は昨日より楽だろうな。」
独り言のように呟いた。
人間は、やってはいけないと思っていることを初めて実行するまでには、何度も迷う。
だが一度やってしまい、それで何も起こらなければ、その行為は昨日よりほんの少しだけ日常へ近づいていく。
それは、その人間が最初から悪人だったからではない。
人間が、自分自身の行動に少しずつ慣れていく生き物だからだ。
蓮は残ったスープを一口飲んだ。
「まあ、俺が言えたことじゃないか。」
巨大な物流センターや工場から物資を丸ごと収納してきた人間が、救援物資から缶詰一個を抜いた人間へ説教できる立場でもない。
蓮は自嘲気味に笑い、箸を置いた。
◇
夕方。
住民グループに新しい提案が書き込まれた。
『今後の救援物資について、一度きちんと配布ルールを決めた方がよくないですか?』
『私もその方がいいと思います。』
『世帯人数で分ければ公平じゃないですか?』
『子供や高齢者はどうするんですか?』
『そこは優先した方がいいでしょう。』
『じゃあ一人暮らしは少なくなるってことですか?』
『そういう意味じゃないと思います。』
『でも一人と四人家族が同じ量なのもおかしいですよね。』
『持病がある人も優先してほしいです。』
『妊婦さんもですよね。』
『ペットがいる家庭は?』
『さすがに人間優先でしょう。』
メッセージの速度は徐々に上がっていったが、まだ喧嘩ではない。
誰かを責めているわけでもなく、全員がそれぞれ自分なりに「公平な分け方」を考えているだけだった。
問題は、その公平の形が人によって違うことだった。
四人家族にとっては、人数に応じて四倍の量を受け取れることが公平に見える。一人暮らしの人間なら、まず全世帯へ最低限の量を保証することが公平だと感じるだろう。小さな子供を持つ親なら子供を優先するべきだと考え、高齢者や持病のある人間にとっては、自分たちが優先されることに合理性がある。
そして、寒波が始まる前からきちんと備蓄していた家庭からすれば、何も準備していなかった家庭が多くの物資を受け取ること自体を、不公平だと感じるかもしれない。
そこへ管理人から投稿が入った。
『皆様、ご意見ありがとうございます。次回の救援物資到着までに、皆様の意見を参考に配布方法を整理したいと思います。』
『よろしくお願いします。』
『管理人さんも大変だと思いますが、お願いします。』
『ありがとうございます。』
議論はそこで一度落ち着いた。
蓮はスマートフォンを眺めながら、小さく息を吐く。
「大変だな、管理人。」
皮肉ではなく、本当にそう思った。
おそらく、どんなルールを作ったとしても全員が納得することはない。誰かを優先すれば、優先されなかった人間が必ず生まれ、全員を同じ量にすれば、今度は置かれている事情が違う人間から不公平だという声が出る。
食料そのものが足りない以上、全員が満足できる公平など、最初から存在しないのだ。
◇
夜。
管理人が自宅へ戻ると、妻が玄関まで迎えに来た。
「おかえり。」
「ただいま。」
管理人は疲れ切った顔で靴を脱ぎ、持っていた鞄を床へ置いた。
「今日も遅かったね。」
「ああ。朝からずっと問い合わせだよ。みんな次の物資がいつ来るのかって……俺に聞かれても分からないんだけどな。」
「大変ね。」
妻が何気なく鞄を持ち上げた時、中に入っていた物に気づいた。
「これ……。」
管理人の身体が一瞬だけ固まる。
妻が取り出したのは、レトルトカレーとパックご飯、それにカセットボンベだった。
「今日も貰えたの?」
管理人は妻の顔を見た。
昨日なら、少し迷ったかもしれない。
今日は違った。
「……ああ。余った分だ。」
言葉は驚くほど自然に出た。
妻の顔が明るくなる。
「よかった。ボンベもあと一本しかなかったから心配してたの。」
「そうだろ。」
「あなたが管理人でよかったわ。」
その言葉に、管理人は何も答えなかった。
妻は嬉しそうに食料を抱え、キッチンへ運んでいく。
管理人はその背中を黙って見つめていた。
昨日より、嘘が上手くなっていた。
そして何より、自分が持ち帰った物で家族が喜んだ。
その事実が、管理人の中にまだ残っていた罪悪感を、ほんの少しだけ軽くした。
◇
同じ頃。
住民グループでは、昼間に始まった公平についての議論が、まだ細々と続いていた。
『やっぱり次は全世帯に最低限同じ量を配って、そこから人数分追加するのがいいと思います。』
『それなら納得できます。』
『でも備蓄が十分ある家庭まで同じだけ貰う必要あります?』
『それ言ったら、ちゃんと準備してた人が損するじゃないですか。』
『でも今は非常時ですよ。』
『じゃあ備蓄量も確認したらどうですか?』
そこで少し間が空いた。
『各家庭に残ってる食料を自己申告してもらうってことですか?』
『そうです。それなら本当に困ってる家庭が分かりますよね。』
『でも、それって自己申告ですよね?』
さらに数秒後、もう一件書き込まれた。
『正直に言わない人も出てくるんじゃないですか?』
蓮の目が止まった。
これまでは、限られた物資をどう分ければ公平なのかという話しかしていなかった。
今日初めて、誰かが嘘をつくかもしれないという可能性が、言葉としてグループの中に現れた。
まだ誰も実際に嘘をついたとは言っていないし、特定の住民を名指しで疑っているわけでもない。
しかし、一度口にされた疑念は、それまでなかった考えを全員の頭の中へ残す。
あの家は、本当に食料がないのか。
あの人は、実際より少なく申告するのではないか。
自分だけ正直に言ったら、損をするのではないか。
蓮はしばらく画面を眺めたあと、スマートフォンを伏せた。
「次は、そこか。」
暖炉の薪が、パチッと小さく弾けた。
昨日、このマンションへ届いたのは救援物資だった。
そして今日、住民たちが求め始めたのは食料だけではない。
公平だった。
食料なら数えることができる。
米なら何キロ、水なら何リットル、缶詰なら何個と、数字にすれば誰にでも分かる。
だが、公平というものだけは、誰にも同じ数字で数えることができなかった。
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Day 10
外気温 -30.1℃
積雪 387cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「食料は数えられる。公平は数えられない。」
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