第26話 Day 9 最初の一線
朝。
蓮が目を覚ますと、最初に耳へ入ってきたのは風の音だった。
ゴォォォ――。
分厚い窓ガラスの向こうで、吹雪が低く唸り続けている。
寒波が始まって九日目。最初の頃なら眠りを妨げていたはずのその音にも、蓮はもうすっかり慣れてしまっていた。
ベッドから起き上がり、外気温計へ目を向ける。
-30℃。
「……また更新したか。」
それだけ呟くと、蓮は特に驚くこともなくキッチンへ向かった。コーヒーを淹れ、暖炉へ薪を追加し、テレビをつける。
異常な世界の中にいながら、蓮にとってだけは、いつもの朝が続いていた。
テレビでは今日も寒波のニュースが流れている。
『全国的な気温低下は依然として続いています。首都圏では昨夜から今朝にかけて、観測史上最低となる気温を各地で記録しました。』
画面には日本列島を覆う寒気の図が表示され、その横には『死者・行方不明者 増加』という文字が大きく映し出されていた。
蓮は黙ってコーヒーを飲む。
次のニュースでは、政府が自衛隊、警察、消防、自治体と連携しながら孤立地域への救援活動を続けていることが報じられていた。映像には雪上車や大型除雪車、物資を積んだ車両が映り、昨日よりも台数そのものは増えているように見える。
しかし、状況が改善しているわけではなかった。
『一方で、降雪量が除雪能力を上回る地域も多く、物資輸送は依然として困難な状況です。一度除雪した道路が数時間で再び通行不能になるケースも相次いでいます。』
画面がスタジオへ戻ると、キャスターが各家庭に対して引き続き食料や水を節約するよう呼びかけた。
その時、蓮のスマートフォンが震えた。
住民グループだった。
管理人から新しい投稿が入っている。
『皆様、おはようございます。先ほど自治体より連絡があり、本日午後、当マンションへ救援物資が配送される予定です。』
送信されてから一瞬だけ静止した画面が、次の瞬間には一気に動き始めた。
『本当ですか!?』
『よかった!』
『ありがとうございます!!』
『助かった……』
『何時頃ですか?』
『食料もありますか?』
『水も来ますか?』
『赤ちゃん用品は?』
質問が次々と流れていく。
管理人もすぐに返信した。
『到着時刻は道路状況次第とのことです。物資の内容についても詳細はまだ分かりません。到着しましたら、世帯人数などを確認して公平に配布します。』
『混乱防止のため、到着してもすぐに一階へ集まらないようお願いします。こちらで仕分け後、グループと掲示板でお知らせします。』
『了解です!』
『管理人さんありがとうございます。』
『よろしくお願いします!』
蓮はしばらくそのやり取りを眺めたあと、画面を閉じた。
「来るか。」
◇
その日のマンションは、朝から少しだけ雰囲気が違っていた。
監視モニターを見ているだけでも、住民たちの表情が昨日までより明るいことが分かる。廊下ですれ違った者同士が、救援物資が来るらしいと話し合い、その情報を知らなかった住民へ次々と伝えていた。
「今日来るって。」
「何が?」
「救援物資。」
「本当に?」
「管理人さんが書いてた。」
子供のいる家庭では、母親が嬉しそうに伝える。
「今日ご飯来るって!」
子供は目を輝かせた。
「お菓子も?」
「お菓子は分かんない。」
「チョコあるかな。」
「どうだろうね。」
母親はそう答えながら笑った。
久しぶりに見せる、本当に嬉しそうな笑顔だった。
十一階では、ほとんど食料を残していない若い男がスマートフォンを何度も確認していた。テーブルの上に残っているのはカップ麺一つと、わずかな菓子だけだったが、そのカップ麺にも手を付けようとはしない。
「夜まで我慢すっか。」
救援物資が来ると分かれば、最後の一つを今食べずに残しておくこともできた。
十三階の比較的備蓄に余裕がある夫婦も、住民グループを見ながら話していた。
「うちも貰えるのかな。」
「全世帯に配るんじゃないか?」
「でも、食べ物ない家を優先するんじゃない?」
「まあ、それでもいいだろ。うちはまだ何日か持つ。」
夫が積まれた箱を見ながらそう答えると、妻も素直に頷いた。
「そうだね。」
まだ、そう言えるだけの余裕が残っていた。
◇
午後一時を過ぎても、救援物資は来なかった。
二時になっても姿は見えず、三時を回る頃になると、住民グループに少しずつ書き込みが増え始めた。
『まだですかね?』
『道路が大変なんだと思います。』
『今日中には来ますよね?』
『子供がお腹空いたって言ってて……。』
管理人から返信が入る。
『現在確認中です。少々お待ちください。』
午後四時になると外はすでに暗くなり始め、朝から明るかったマンションの空気にも、少しずつ不安が戻ってきた。
『本当に今日来るんですか?』
『延期になったとかじゃないですよね?』
『自治体には確認しました?』
『先ほど連絡が取れました。現在こちらへ向かっているとのことです。道路状況が非常に悪く、予定より大幅に遅れています。』
そして午後四時四十七分。
監視室にいた蓮が最初に気づいた。
モニターの端、雪の向こうに小さな光が見える。
「……来たな。」
一つ、二つ、三つと光がゆっくり近づき、その正体が大型雪上車だと分かるまでにそれほど時間は掛からなかった。さらに後ろには、物資を積んだ車両が何台か続いている。
車列がマンション前へ到着した瞬間、住民グループが一気に動いた。
『来た!!』
『窓から見えます!』
『本当に来た!』
『よかった!!!』
あちこちの部屋から歓声が上がった。
ある家庭では、一人の女性が窓の外を見ながら涙を流していた。
「来た……。」
夫が隣に立つ。
「来たな。」
「よかった……。」
寒波が始まって、たった九日。
それでも彼らにとっては、これまでの人生で最も長く感じた九日だったのかもしれない。
◇
一階のエントランスでは、管理人と数人の住民が救援物資を受け取っていた。
防寒装備に身を包んだ自治体職員たちが、保存食、パックご飯、レトルト食品、缶詰、飲料水、乳幼児用品、簡易トイレ、カイロ、医療用品、カセットボンベ、毛布などが入った段ボールを次々と運び込み、エントランスの一角へ積み上げていく。
その光景を見ていた住民たちの表情は、一気に明るくなった。
「こんなにある。」
「助かった……。」
「水もあるぞ。」
「子供用品もある。」
しかし、監視モニター越しに見ていた蓮は、積まれていく段ボールを冷静に数えていた。
見た目には多い。
段ボールが山のように積まれているからだ。
だが、このマンション全体の住民数を考えれば、決して十分な量ではない。
自治体職員も、そのことは理解しているらしかった。
「申し訳ありませんが、今回お渡しできるのはこちらで全てです。」
その言葉を聞いた瞬間、管理人の表情が変わる。
「これで……全部ですか?」
「はい。」
「次はいつ頃になりますか?」
職員は少し黙ってから答えた。
「分かりません。」
「分からない?」
「道路状況がさらに悪化しています。それに、他にも孤立している地域が多数ありますので。」
「……。」
「できるだけ節約して使ってください。」
管理人は、先ほどまで十分に見えていた段ボールの山へもう一度目を向けた。
今見ると、まるで違って見える。
「分かりました。それでも、本当にありがとうございます。」
管理人が頭を下げると、職員も短く頷いた。
「頑張ってください。」
その言葉を残し、自治体職員たちは再び雪の中へ戻っていった。
◇
救援物資の仕分けはすぐに始まった。
管理人一人では当然手が足りないため、昨日「協力可能」と名乗り出た住民たちも手伝い、段ボールを開けて中身を数え、世帯人数を確認しながら紙へ記録していく。
「四人家族ですよね?」
「はい。」
「では、こちらです。」
「ありがとうございます。」
「次、702号室。」
「二人です。」
「水二本と保存食四食分です。」
「ありがとうございます。」
配布は予想以上に順調に進んだ。
誰も奪おうとはせず、割り込みもなく、住民たちはきちんと順番を守っている。高齢者だけの世帯や赤ちゃんのいる家庭を先にしようという声まで自然に上がり、自分たちは後でも構わないと譲る住民もいた。
「高齢者の家、先でいいですよ。」
「赤ちゃんいるところも。」
「そうですね。」
「うちは後で大丈夫です。」
管理人も休むことなく動き続けた。
「次の方。部屋番号お願いします。」
「人数は?」
「はい、こちらです。」
同じ説明を何度繰り返しても、住民一人ひとりへ丁寧に対応している。
それでも、やはり足りないと訴える者はいた。
「すみません、もう少し貰えませんか?」
「申し訳ありません。全世帯へ配らないといけないので。」
「子供二人いるんです。」
「分かっています。次回届けば、また――」
そこで管理人は言葉に詰まった。
次回。
次がいつ来るのか、自分にも分からない。
「……今回は、これでお願いします。」
住民も不満そうではあったものの、最後には渋々頷いた。
「分かりました。」
◇
午後八時。
ようやく配布が終わった。
住民グループには、管理人や手伝った住民への感謝の言葉が次々と流れていた。
『管理人さん、本当にありがとうございました!』
『お手伝いされた皆さんもありがとうございます。』
『久しぶりにちゃんと食べられます。』
『子供が喜んでます!』
『みんなで頑張りましょう!』
その頃、管理人は一人で管理室の椅子へ腰を下ろしていた。
「……疲れた。」
朝からほとんど休んでいない。
自治体との連絡、住民への説明、物資の受け取り、仕分け、配布。その間にも何度となく同じ質問へ答え、足りないと訴える住民にはそのたびに頭を下げてきた。
しばらく椅子から動けずにいた管理人だったが、やがて机の上に置かれた配布記録へ目を向けた。その横には、まだ受け取りに来ていない住民の分や、緊急時に備えて残してある救援物資の段ボールがいくつか積まれている。
管理人は立ち上がると、残った物資を一つずつ確認し始めた。パックご飯、レトルト食品、缶詰、水、カセットボンベ。それぞれの数量を数えて紙へ書き込んでいく。
その途中、缶詰を一つ手に取ったところで手が止まった。
「……。」
しばらく缶詰を見つめたあと、一度は元の場所へ戻して数え直す。
だが、数個目で再び手が止まった。
今日、自分が何を食べたのかを思い出す。
朝はパン一枚だけで、昼は食べる暇すらなく、夕食もまだだった。自宅に残っている食料も決して多いわけではない。
管理人は再び缶詰へ目を向けた。
朝から誰よりも住民のために動いた。自治体との連絡も、物資の受け取りも、住民からの苦情も、ほとんどすべて自分が対応した。
たった缶詰一つ。
これくらいなら誰も困らない。
一日中働いた自分への報酬だと思えば、それほど不自然でもない。
管理人はゆっくりと周囲を見回した。
誰もいない。
そして、その缶詰を自分の鞄へ入れた。
「……一個だけだ。」
小さく呟くと、何事もなかったように残った物資を数え直し、最初からその缶詰など存在していなかったかのように紙へ数字を書き込んだ。
◇
同じ頃。
蓮は暖炉の前でビールを飲みながら、住民グループに流れている明るいメッセージを眺めていた。
『管理人さん、本当にありがとうございました!』
『これで数日は安心ですね。』
『次の救援も早く来るといいですね。』
管理人がよくやっていることは間違いない。この数日、住民からの問い合わせに対応し、管理会社や自治体へ何度も連絡し、今日も朝から救援物資の受け入れと分配に追われていた。
だからこそ、蓮には一つ思うことがあった。
「あの管理人……たぶん取るだろうな。」
別に悪く言うつもりはなかった。
自分が同じ立場だったとして、本当に何も取らずにいられるかと聞かれれば、蓮自身にも分からない。
数百人の住民から文句を言われ、何度も頭を下げ、自分や家族も腹を空かせている。その目の前には大量の食料が積まれ、自分の手一つで管理できる状態にある。
そんな状況で、たった一個の缶詰すら取らずにいられる人間が、どれほどいるのか。
「生きるためだ。」
蓮はビールを一口飲んだ。
一個くらいなら誰にも分からないし、その一個がなくなったところで、きっと誰も困らない。朝から働いた自分への報酬だと考えることもできる。
理由はいくらでも作れる。
そして、その理由の一つひとつは、たぶん完全に間違っているわけでもない。
蓮は暖炉の炎を見つめながら、静かに呟いた。
「でも、一個でも取ったら、もう後戻りできない。」
最初の一個が、一番難しい。
一度自分の中で理由をつけて一線を越えれば、二個目は一個目より簡単になり、三個目はさらに簡単になる。
やがて考えることそのものが変わる。
取っていいのかどうかではなく、どうすればバレずに取れるのか。
蓮はスマートフォンを伏せた。
自分の想像が本当に当たっているのかどうか、確認するつもりはなかった。
ただ、前世で人間が少しずつ壊れていく姿を嫌というほど見てきた蓮には、なんとなく分かっていた。
今日、このマンションのどこかで、誰かが最初の一線を越えていたとしても、何も不思議ではない。
その頃、誰もいない管理室では、管理人の鞄の中に一つの缶詰が入っていた。
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Day 9
外気温 -30.0℃
積雪 548cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「最初の一個が、一番重い。」
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