第25話 Day 8 減っていく余裕
Day 8。
午前六時四十分。
蓮は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。暖炉の火は夜の間に少し弱くなっていたが、室温は二十二度を保っており、床暖房も正常に動いている。電力も水も暖房も問題なく、外の世界が日に日に壊れていることなど、この部屋の中にいる限りほとんど感じられなかった。
ベッドから出ると、いつものようにカーテンを開ける。
「……ひどいな。」
窓の外は白かった。いや、もはや白いという表現すら正しいのか分からないほど、雪と風が窓ガラスを絶え間なく叩き、外の景色そのものを消している。昨日まで辛うじて見えていた街灯も今朝は完全に雪の中へ埋もれ、どこに道路があり、どこから歩道なのかさえ判別できない。
外気温計には、-22.9℃と表示されていた。
「……二十三が見えてきたな。」
前世でも経験しているため、今さら驚きはしない。それでも実際に数字として目にすると、この寒波が普通ではないことを改めて実感させられる。
蓮は窓際から離れてキッチンへ向かうと、コーヒーを淹れ、朝食を用意した。焼きたてのトーストにベーコンと目玉焼き、サラダ、ヨーグルト、そしてオレンジジュース。寒波が来る前ならどこの家庭にでもありそうな、ごく普通の朝食だった。
だが今、このマンションの中でこれだけの朝食を何の不安もなく食べられる人間が何人いるのだろう。
そんなことを考えながら、蓮はテレビをつけた。
◇
『寒波発生から八日目となりました。』
画面に映るキャスターの顔には、隠し切れない疲労が浮かんでいた。数日前までは何度も耳にした「異常寒波」という言葉も、今ではほとんど使われなくなっている。異常であることなど、もはや誰もが知っていた。
『政府は昨夜、首都圏の電力供給制限を当面継続すると発表しました。また、水道管の凍結、破損が急増しており、一部地域では復旧の見通しが立っていません。』
画面が切り替わると、雪に覆われた道路を除雪車がゆっくりと進み、その後ろを自衛隊の大型雪上車、さらに物資を積んだ車両が続いていた。
『現在、避難所への物資輸送に加え、孤立した住宅地や大規模集合住宅への救援物資配布も順次開始されています。』
その言葉を聞いた瞬間、蓮の手が止まった。
「来たか。」
続いて画面に映った自治体職員は、人口の多い集合住宅を中心に飲料水、保存食、乳幼児用品、医薬品などを配送していくと説明したものの、すべての地域へ十分な量を届けることは現状では難しいとも付け加えた。
キャスターが尋ねる。
『一度配布を受けた地域には、次回いつ届くのでしょうか?』
職員は僅かに言葉を詰まらせた。
『……現時点では、お約束できません。』
蓮はその一言を聞き逃さなかった。
物資は来る。しかし、次がある保証はない。
さらに、各集合住宅では管理組合や管理人、自治会などを通じて物資を受け取り、世帯人数や必要性に応じて配布するよう説明が続く。
「管理人が管理するのか。」
蓮は小さく笑った。
今の管理人なら、おそらく真面目にやるだろう。昨日も住民の苦情を聞き、管理会社へ何度も電話を掛け、高齢者の状況を確認しながら、住民グループにも情報を流していた。少なくとも現時点では、彼を疑う理由は何一つない。
「……今のところはな。」
◇
午前九時。
蓮が住民グループを開くと、参加者はすでに百人を超えていた。マンション内のほとんどの世帯から、少なくとも一人は参加するようになったらしい。
そして今朝は、昨日までより明らかにメッセージの流れが速かった。
『十四階です。水が完全に止まりました。』
『十五階も出ません。』
『十三階は細いですがまだ出ます。』
『九階です。こちらも水圧かなり下がってます。』
『水分けてもらえる方いませんか? 飲料水がほとんどありません。』
その最後の書き込みから、少し間が空いた。
『500ml二本なら出せます。』
昨日までなら、「ありますよ」「持っていきます」といった返信がもっと早く付いていた。それが今日は、誰かが手を挙げるまでに僅かな躊躇が生まれている。
しばらくすると、別の投稿が流れた。
『すみません。カセットボンベ余っている方いませんか?』
一分が過ぎ、二分が過ぎても返信はなかった。
三分ほど経った頃、ようやく一件だけ返事が来る。
『一本だけなら。』
『ありがとうございます!』
蓮はそのやり取りを黙って眺めていた。
誰も冷たくなったわけではないし、突然性格が悪くなったわけでもない。ただ、昨日一本渡した人間は今日一本減っており、水を二本分けた家庭には昨日より二本少ない水しか残っていない。
誰かを助けるたびに、助ける側の余裕も確実に削られていた。
◇
十時過ぎ、グループに管理人から新しい投稿が入った。
『皆様へ。自治体より連絡がありました。当マンションも救援物資配送対象に登録されています。具体的な配送日時はまだ未定ですが、到着した場合は管理室で一括して受け取り、各世帯へ公平に配布します。』
送信されてから数秒で、画面が一気に動いた。
『よかった!』
『ありがとうございます!』
『助かった……。』
『子供がいるので本当にありがたいです。』
『管理人さん毎日ありがとうございます。』
『これで少し安心できますね。』
笑顔や拍手、ハートのリアクションが次々と付き、その中に一つの質問が混じった。
『食料も来ますか?』
『保存食、飲料水、生活用品などが予定されているそうですが、数量は分かりません。』
『いつ頃ですか?』
『未定です。』
『今日来る可能性あります?』
『分かりません。』
『明日は?』
『申し訳ありません。こちらにも詳しい情報が来ていません。』
期待が大きくなれば、それだけ質問も増える。管理人は同じような内容にも一件ずつ丁寧に答えており、そのやり取りを見ながら、蓮は今このマンションで最も多くの期待を背負わされている人間は管理人なのかもしれないと思った。
◇
昼になると電力制限が始まり、共用部分の照明が落ち、エレベーターも停止した。
昨日までなら住民たちはその時間をそれぞれの部屋で静かに耐えていたが、今日は階段を行き来する人間が増えている。下層階ではまだ水道が使える一方、上層階ではほとんど水が出なくなったため、住民同士で水を運び始めていたのだ。
十階の踊り場では、若い男が二リットルのペットボトルを何本も抱えて階段を上っていた。
「あと何階?」
後ろから同じように水を抱えた男が尋ねる。
「十四階。」
「まだ四階かよ……休む?」
「いや、行こう。」
暖房のない廊下では二人の吐く息が白く、重い水を持って階段を上り続けているせいで呼吸も荒い。それでも二人は足を止めなかった。十四階には、小さな子供のいる家庭が待っている。
別の場所では、高齢の女性が鍋を持って階段を降りようとしていた。昨日、薬を運ぶのを手伝った男がそれを見つけると、すぐに声を掛ける。
「何してるんです?」
「お水を少し……。」
「俺行きますよ。」
「昨日もやってもらったでしょう。」
「いいって。」
男は半ば強引に鍋を受け取り、申し訳なさそうに何度も頭を下げる女性へ「大丈夫ですよ」と笑ってみせた。
しかし女性が部屋へ戻り、一人になった途端、男は階段の途中で立ち止まった。手すりへ身体を預け、大きく息を吐く。
「……きっつ。」
誰にも聞こえない小さな声だった。
善意はまだ残っている。
しかし、善意にも疲労は溜まる。
◇
午後。
蓮は収納空間の中を確認していた。
食料、水、燃料、薬、衣類、生活用品、設備。巨大な物流センターから回収した物資は、改めて確認しても桁がおかしく、その一角に保存されている水だけでも一万トンを超えている。
蓮一人なら、何百年生きても使い切れないだろう。
その時、スマートフォンが震えた。
住民グループだった。
『飲料水を少し分けていただける方いませんか?』
蓮は収納空間に眠る膨大な水を見たあと、スマートフォンの画面へ視線を戻した。
それでも指は動かなかった。
前世の自分なら、きっと渡していただろう。水くらいいくらでもあるし、自分一人では使い切れないのだから、困っている人間へ渡すのが正しいと考えていた。
だが、その先に何が起こるのかを、今の蓮は知っている。
「一度渡せば、次も来る。」
一人に渡せば、それを見た別の人間が来る。二人になり、十人になり、やがて百人になれば、最後には持っていることそのものが責められる理由になる。
前世で学んだ。
人間は、持っていない者よりも、持っているのに渡さない者を憎むことがある。
蓮は画面を閉じた。
「悪いな。」
今は、誰も助けない。
◇
夕方。
マンションのエントランスでは、小さな言い争いが起きていた。怒鳴り合いでも暴力でもないが、昨日までにはなかった種類の会話だった。
「すみません、うちもそんなに余裕ないんです。」
一人の女性が困った表情で答えると、向かいに立つ別の女性が食い下がった。
「一本だけでいいんです。」
「昨日も一本お渡ししましたよね?」
「昨日は昨日で使ったんです。」
「うちだって使います。」
「でも、まだあるんですよね?」
その一言で、二人の間の空気が僅かに変わった。
「……ありますけど。」
「だったら一本くらい。」
「だから、うちもいつまで持つか分からないんです。」
短い沈黙のあと、頼んでいた女性が視線を落とした。
「……そうですよね。」
「ごめんなさい。」
「いえ。こちらこそ。」
結局、喧嘩にはならなかった。最後には互いに頭まで下げている。
それでも、監視モニター越しにその様子を見ていた蓮には分かっていた。
昨日まではなかった感情が、確実に生まれ始めている。
まだ持っているなら分けてほしい。
持っていても、もう渡したくない。
どちらも間違ってはいない。
だからこそ、厄介だった。
◇
夜になっても、救援物資は届かなかった。
住民グループには、時間が経つにつれて同じような質問が繰り返し書き込まれるようになっていた。
『今日はもう来ないんでしょうか?』
『管理人さん、何か連絡ありませんか?』
『子供の食料が明日までしかありません。』
『うちもかなり厳しいです。』
『救援物資、本当に来るんですよね?』
『先ほど自治体へ再度確認しました。配送対象には入っています。ただし道路状況により遅れているとのことです。もうしばらくお待ちください。』
『ありがとうございます。』
『管理人さんも大変なのにすみません。』
『よろしくお願いします。』
まだ誰も管理人を責めてはいない。むしろ、何度も自治体へ連絡を取り続ける彼に感謝している者の方が多かった。
蓮は暖炉の前で夕食を食べながら、そのやり取りを眺めていた。
今夜は鰻だった。炊きたての白米に肝吸いと漬物、そしてよく冷えたビール。箸で鰻を一切れ取り、口へ運べば、柔らかな身と甘辛いタレの味が広がる。
美味い。
当然だった。
寒波が始まる前、評判の店で買ったばかりの状態のまま収納していたものだ。時間の止まった収納空間から取り出せば、あの日の味がそのまま戻ってくる。
その同じ時間、数階下では残り二つしかないカップ麺のうち一つを今夜食べるべきか迷っている人間がいる。水を一本他人へ渡すかどうかで悩んでいる家庭があり、明日来るかもしれない救援物資だけを頼りに眠ろうとしている住民もいる。
蓮はビールを一口飲み、再びスマートフォンへ目を向けた。
『きっと明日には届きますよ。』
誰かがそう書いていた。
その投稿には、いくつものリアクションが付いている。
食料が減っても、水が少なくなっても、人間はまだ希望が残っているうちは耐えられる。
明日には来る。
その言葉が、今夜のマンションを支えていた。
蓮はスマートフォンを伏せた。
「明日、か。」
暖炉の炎が静かに揺れている。
もし明日、本当に救援物資が届けば、人々は喜ぶだろう。そして、その物資は誰かの手によって管理され、限られた量を住民たちへ配ることになる。
蓮はワイングラスを傾けながら、監視モニターの一角へ目を向けた。
管理室では、管理人が一人で机に座り、住民の世帯数を確認している。目の前の紙には部屋番号と人数だけでなく、高齢者、乳幼児、持病の有無、必要な物資まで細かく書き込まれていた。
真面目だった。
今はまだ、本当に住民全員へ公平に届けようとしている。
蓮はしばらくその姿を眺めたあと、静かに視線を外した。
人間が変わるのに、最初から悪意なんて必要ない。
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Day 8
外気温 -22.9℃
積雪 301cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「善意が消えたんじゃない。分けられる余裕が減っただけだ。」
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