第24話 Day 7 それぞれの一週間
Day 7。
寒波が始まって、一週間。
黒崎恒一はリビングのカーテンを少しだけ開けて窓の外を覗いたが、すぐに閉めた。
「……今日も何も見えねえな。」
一週間前までなら、窓から道路も向かいの建物も当たり前のように見えていた。しかし今はそのすべてが白一色に覆われ、窓ガラスの外側には厚い氷が張り付き、その向こうでは猛烈な吹雪が街そのものを覆い隠している。暖房は今のところ問題なく動いているものの、窓際に立っているだけでも冷気が伝わってくるため、黒崎はカーテンの隙間が残らないようにもう一度しっかりと閉じた。
リビングには毛布やカセットコンロのほか、箱買いした水、米、缶詰、レトルト食品、カップ麺、保存の利く菓子などが積まれている。どれも寒波が来る前、蓮に言われて買い込んだ物だった。
最初は自分でも半信半疑だった。いや、正確にはかなり疑っていた。
『できるだけ食料と水を買っておけ。防寒用品もだ。』
突然そんなことを言われ、理由を尋ねても返ってきたのは『確かな情報だ』の一言だけで、情報源については何度聞いても教えようとしなかった。普通なら信じられるはずもない話だったが、黒崎は長い付き合いの中で神崎蓮という男を知っている。くだらない冗談を言うことはあっても、こういうことで本気の嘘をつくような人間ではない。
だから買った。
もともとある程度の備蓄はしていたが、蓮の忠告を受けてさらに買い足した結果、一週間が経った今でも、少なくとも食料と水に関しては心配せずに過ごせている。
「……ほんと、何なんだよ。」
「何が?」
ソファから声がして振り向くと、佐藤愛が毛布に包まりながらスマートフォンを触っていた。
「いや、蓮。」
「ああ。そういえば、最初の日も電話してたよね。」
「した。」
寒波が始まった翌日、朝起きると街が真っ白になっており、そのあまりの光景に黒崎は真っ先に蓮へ電話した。
――お前、本当に知ってたのか?
そう尋ねても、蓮は――だから言っただろ、としか答えず、情報源を聞いても――それは言えない、と繰り返すだけだった。
結局、それ以上のことは何も教えてもらえなかったが、最後には蓮の方から――そっちは大丈夫か、と聞いてきた。
――あぁ。お陰様でな。
――ならいい。食料は無駄遣いするな。
それだけの短い会話だった。
あの時の黒崎にはまだ笑う余裕があり、記録的な大雪か、少し異常な気象現象が起きている程度にしか考えていなかった。まさか一週間が経っても外へまともに出られない状態が続くとは、想像もしていなかった。
黒崎はテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。
「もう一回聞いてみるか。」
「何を?」
「これ、いつまで続くのか。」
愛の指が止まった。
「……それ分かるの?」
「知らねえよ。だから聞くんだろ。」
黒崎が蓮へ電話を掛けると、数回の呼び出し音のあと、すぐに繋がった。
『もしもし。』
「よう。」
『生きてるか。』
「お前、毎回それ聞くつもりか?」
『死んでたら電話出ないからな。』
「じゃあ聞く意味ねえだろ。」
電話の向こうで僅かに笑う気配がすると、黒崎もつられて笑い、それだけで少し肩の力が抜けた。
「まあ、こっちは大丈夫だ。お前に言われて買っといたからな。」
『食料は?』
「当分足りる。」
『どれくらいだ。』
黒崎は部屋の隅に積まれた食料へ視線を向けた。
「そうだな……二ヶ月くらいは余裕だな。」
『二人で?』
「ああ。」
『なら節約しろ。』
あまりにも早い即答に、黒崎の笑顔が消えた。
「なあ、蓮。」
『なんだ。』
「まだ続くのか?」
電話の向こうに短い沈黙が落ちたあと、蓮が答えた。
『続くと思っておけ。』
「……どれくらい?」
『分からない。』
「本当に?」
『本当に分からない。』
「じゃあ何で――」
そこまで言ったところで、黒崎は自分から口を閉じた。一週間前にも同じことを聞いたが、結局情報源は教えてもらえなかったのだ。
「やっぱり情報元は教えてくれないんだな。」
『悪いな。』
「まあいい。」
実際、蓮の言葉を信じたおかげで今の自分たちは助かっている。それ以上追及する気にもなれず、黒崎は話題を変えた。
「お前は大丈夫なのか?」
『問題ない。』
「食料は?」
『ある。』
「どれくらい?」
『心配するな。』
「それ答えになってねえぞ。」
『お前は自分の心配してろ。』
「はいはい。」
黒崎が苦笑したところで、横から愛が小さな声で呼んだ。
「ねえ。」
振り向くと、愛は声を出さずに口だけを動かした。
食料、どれくらいあるか聞いて。
黒崎は一瞬だけ動きを止めたものの、すぐに首を横へ振った。愛の眉が寄ったが、黒崎は見なかったことにして電話へ意識を戻す。
「とにかく、ありがとうな。」
『何がだ。』
「お前が言ってくれなかったら、俺たぶん一週間分くらいしか食料なかった。」
『なら大事に食え。』
「ああ。」
『水も貯めとけ。』
「分かった。」
『じゃあな。』
「おう。」
電話が切れ、黒崎がスマートフォンをテーブルへ置いた途端、愛が待っていたように口を開いた。
「なんで聞かなかったの?」
「何を?」
「食料。」
「あるって言ってただろ。」
「だから、どれくらいあるのか。」
黒崎は少し怪訝そうに愛を見る。
「そんなの聞いてどうすんだよ。」
「別に。」
愛は視線を逸らしながら、小さな声で続けた。
「もしこっちがなくなった時、分けてもらえるかなって思っただけ。」
黒崎は少しだけ黙ったものの、深刻に考える必要はないとでもいうように笑った。
「まだ二ヶ月以上の分はあるだろ。」
「しか、でしょ。」
その一言で、黒崎の笑みが僅かに薄くなった。
一週間前まで、愛は「こんなに買ってどうするの」「置く場所ないじゃん」「絶対余るって」と言っていた。それが今では、同じ食料を見ながら「二ヶ月しかない」と考えている。
人間の感覚は、たった一週間でここまで変わるらしい。
「なくなったら、その時考えようぜ。」
黒崎はそう言って立ち上がったが、愛は何も答えず、部屋の隅に積まれた食料をじっと見つめていた。
◇
同じ頃。
別のマンションでは、一ノ瀬美咲が冷蔵庫の扉を開けたまま、無言で中を見つめていた。
卵、半分使ったハム、少しの野菜、飲み物と調味料。冷凍庫にも数袋の冷凍食品が残っており、一週間前なら何の問題もない量だった。なくなれば買えばいいし、食べたいものがなければ外食すればいい。スマートフォン一つあれば、好きな料理を好きな時間に届けてもらえた。
だが今は、何も来ない。
「……これだけ?」
「さっきも見ただろ。」
後ろのソファから答えたのは柴田剛だった。大柄な身体をソファへ沈め、缶ビールを飲んでいる。
「だって、本当にこれしかないじゃん。」
「だから何だよ。」
「買いに行けないの?」
柴田が呆れたように美咲を見る。
「は?」
「コンビニとか。」
「ニュース見てねえのかよ。どこも閉まってんだろ。」
「でも探せばどこか――」
「だったらてめえが行ってこいよ。」
乱暴な声に美咲は一瞬黙ったものの、すぐに少し傷ついたような表情へ切り替えた。
「……そんな怒らなくてもいいじゃん。」
柴田は面倒そうに舌打ちした。
「悪かったよ。」
「私だって怖いだけなのに。」
「分かったって。」
美咲は小さく頷いて冷蔵庫を閉めると、そのまま柴田に背を向けた瞬間、顔から表情を消した。
(使えない。)
普段は偉そうなくせに、いざとなれば何もできない。食料も用意しておらず、店が閉まればそれで終わりだった。
(こんなに長引くなら、普通もっと準備するでしょ。)
もちろん、美咲自身も何も準備していなかったのだが、そのことについては考えない。自分を守るのは男の役目であり、美咲にとってはそれが当然だった。
ソファへ戻ってスマートフォンを開き、ニュースやSNS、営業している店の情報、救援物資について次々と検索してみるものの、どれも役に立ちそうにない。
その時、指が止まった。
ふと、一人の男の顔が浮かんだ。
神崎蓮。
「あ……。」
寒波直前、高級デパートで見かけた蓮を思い出した。ショーウインドウの向こうで高級時計を買い、その後は食品売り場で大量の高級食材を何の躊躇もなく買い込んでいた。
そして、最近引っ越したというあのマンション。
以前とは比較にならないほど立派な建物に住み、玄関も異様なほど頑丈だった。あの時はわざわざ荷物を運んでやったのに中へ入れてもらえず、玄関先で追い返されたことに腹を立てたが、今になって考えてみれば、あの時とは違う意味に見えてくる。
(あいつ、絶対何か持ってる。)
金があるうえ、高級食材を大量に買っていた。それも寒波が始まる直前で、さらにあのマンションに住んでいる。
本当に偶然なのか。
(まさか、あいつ何か知ってた?)
そこまでは分からないが、一つだけ確かなことがある。
蓮には利用価値がある。
美咲はメッセージアプリを開いて神崎蓮の名前を押すと、入力欄へ指を置いた。
『蓮くん、食料ある?』
そこまで打ってから、すぐに消した。
「……違う。」
そんな送り方では駄目だった。自分が困っていると先に教えれば、相手に主導権を握られる。
少し考えてから、美咲は文章を打ち直した。
『蓮くん、大丈夫?』
『ニュース見てたら心配になっちゃって。ちゃんと暖かくしてる?』
送信してスマートフォンをテーブルへ置くと、柴田が横から尋ねてきた。
「誰に送った?」
「友達。」
「男?」
「女の子だよ。」
美咲は一秒も迷わず笑って答えた。
「ふーん。」
柴田はそれだけで興味を失い、テレビへ視線を戻した。美咲もテレビを見ているふりをして待っていると、数分後にスマートフォンが震えた。
すぐには取らない。
十秒ほど待ってから何気ないふりをして画面を見ると、蓮から返信が来ていた。
『問題ない。』
それだけだった。
(……は?)
美咲の眉が僅かに動く。
普通なら「美咲は大丈夫?」くらい聞くだろうし、むしろ「何か困ってる?」くらい言うべきだと、美咲は一瞬画面を睨んだ。
(ほんっと気が利かない。)
しかし実際に送る文章は違う。
『よかった! 本当に心配してたんだよ』
『何かあったら私に言ってね。できることあったら手伝うから』
送信すると、美咲は満足そうに画面を眺めた。
これでいい。
まずは心配していることを伝え、自分から要求はしない。優しい女、気遣いのできる女だと思わせておけば、そのうち相手の方から「美咲は大丈夫?」と聞いてくる可能性が高くなる。
そこまでいけば、少しだけ困っていることを話せばいい。
それでも自分から「ちょうだい」とは言わず、相手に「持っていこうか?」と言わせる。
それが一番いい。
(焦っちゃ駄目。)
冷蔵庫にはまだ食料が残っているため、今すぐ困っているわけではないし、蓮がどこかへ逃げるわけでもない。それなら今のうちに少しずつ距離を縮めておけば、寒波が終わった後にも使えるかもしれない。
金持ちで、自分に好意があり、しかも今まで思っていた以上に多くの物を持っている可能性が高い。
(剛より使えるかも。)
美咲は横目で柴田を見た。
大柄で喧嘩も強く、多少乱暴ではあるものの、これまでは便利な男だった。男同士のトラブルがあれば使えるし、車も出してくれ、欲しい物を買わせることもできた。
しかし今の状況では、金を持っているだけでは足りない。
実際に物を持っている男の方が価値がある。
美咲の頭の中で、男たちの順位が静かに入れ替わり始めていた。
「何ニヤニヤしてんだよ。」
柴田に声を掛けられ、美咲はすぐに表情を戻した。
「してないよ。」
「してただろ。」
「気のせいじゃない?」
「……。」
「ねえ、それより今日何食べる?」
甘えるような声に戻った美咲に、柴田は冷蔵庫へ目を向けながら答えた。
「冷凍チャーハンでいいだろ。」
「また?」
「じゃあ食うな。」
「……分かった。」
美咲は笑った。
(やっぱり使えない。)
その笑顔の裏では、すでに別の男のことを考えていた。
◇
夜。
蓮はスマートフォンをテーブルへ置いた。
今日届いた黒崎からの電話と、一ノ瀬からのメッセージ。同じ日に来た二つの連絡だったが、片方は本当に自分の身を案じて電話してきたのに対し、もう片方は自分を心配しているように見える文章を送ってきただけだった。
蓮には、その違いがよく分かっていた。
「……相変わらずだな。」
美咲から届いた『何かあったら私に言ってね』という文章を見ていると、思わず笑いそうになる。
前世の自分なら、これだけで喜んでいただろう。
美咲が自分を心配してくれている。もしかしたら自分にも可能性があるのかもしれない。
そう都合よく受け取っていたはずだ。
だが、今なら分かる。
これは心配ではない。
確認だ。
自分がまだ利用できる状態なのか、それを確かめに来ただけだった。
蓮は返信せずにスマートフォンを伏せると、暖炉へ薪を一本放り込んだ。大きくなった炎を眺めながら、今日連絡してきた二人のことを思い返す。
黒崎と一ノ瀬。
同じ寒波の中で、同じ一週間を過ごしている。それでも、人間が考えていることはまるで違う。
寒波が始まって七日。
少しずつ形を変え始めているのは、街だけではなかった。
人間関係もまた、以前とは違うものへ変わり始めていた。
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Day 7
外気温 -22.9℃
積雪 263cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「追い詰められた時、人は誰を頼るかで本性が見える。」
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