第23話 Day 6 小さな共同体
翌朝。
Day 6。
蓮は午前七時過ぎに目を覚ました。昨夜から変わらず、部屋の中は二十二度に保たれており、暖炉では薪が乾いた音を立てながら静かに燃えている。
顔を洗い、いつものようにコーヒーを淹れてから窓へ近づき、カーテンを開けた。
「……ひどいな。」
昨日まで遠くに見えていた建物は、ほとんど姿を消していた。もちろん本当に消えたわけではなく、猛烈な吹雪によって視界が完全に覆われているだけだ。数十メートル先すらまともに見えず、道路に放置されていた車も完全に雪へ埋まり、あらかじめ場所を知らなければ、そこに何十台もの車があることすら分からない。
外気温計は-22.8℃を示していた。
もはや昨日との差など、人間の感覚では大した意味を持たない。マイナス二十度を下回る世界では、防寒具なしで外へ出るという選択肢そのものが消えている。
蓮はコーヒーを手にテレビをつけた。
今日も通常番組はほとんどなく、画面には大きく、
『寒波発生から六日 首都圏の生活インフラに深刻な影響』
と表示されていた。
『政府は本日午前、電力使用制限をさらに拡大すると発表しました。これまで二時間程度だった一部地域の供給停止時間を、最大四時間まで延長する方針です。』
画面が政府の会見場へ切り替わる。疲れ切った表情の担当者が資料を読み上げていた。
『電力需要が依然として供給能力を大幅に上回っています。医療機関、避難所、行政施設などへの供給を維持するため、一般家庭の皆様にはさらなるご協力をお願いいたします。』
続いて水道の状況が伝えられる。
『各地で凍結や管路破損が相次いでいます。首都圏では現時点で全面的な断水には至っていませんが、一部地域では水圧低下や断続的な供給停止が確認されています。』
さらに物流の映像へ切り替わったところで、蓮の手が止まった。
昨日、自分がスノーモービルで走ったような幹線道路が映っている。大型トラックは雪に埋まり、その前では自衛隊員や作業員たちが除雪作業を続けていたが、雪を退けたそばから新しい雪が積もり始めていた。
『政府は食料、飲料水、燃料などの緊急輸送を続けていますが、積雪による道路寸断のため、輸送能力は通常時の一割以下にまで低下しているとみられています。現在は病院、避難所、福祉施設などへの供給を最優先しており、一般の小売店への商品供給再開については見通しが立っていません。』
一割以下。
その数字は大きかった。
店が開いていないのではない。たとえ店を開けても、売る物が届かない。
次に映し出されたのは、営業を続けている数少ないスーパーだった。店内の棚はほとんど空になり、入口には百人を超える人間が列を作っている。全員が厚い防寒着を着込み、雪の中で身体を震わせながら開店を待っていた。
『こちらの店舗では本日、午前十時から二時間限定で営業する予定ですが、販売できる商品は一人十点までとなっています。』
レポーターが列に並ぶ男性へマイクを向けた。
「何時から並んでいますか?」
「朝の八時です。」
「二時間ですか?」
「子供がいるんで。家にもう食べる物があんまりないんですよ。」
男は笑おうとしたが、その表情には余裕がなかった。
「買えるか分かんないですけどね。」
蓮は静かにコーヒーを飲んだ。
まだ店は開く。まだ救援物資も動いている。まだ国も機能している。
だが、いつの間にか、すべての言葉の前に「まだ」が付くようになっていた。
◇
午前九時。
蓮は一階へ降りた。
昨夜、住民たちが集まっていたエントランスの掲示板を見ると、予想通り新しい紙が一枚貼られている。
『マンション住民連絡グループを作りました』
その下には、
『停電・断水・物資・安否等の情報共有を目的としています。非常時です。住民同士で協力しましょう。』
と書かれ、中央には大きなQRコードが印刷されていた。
蓮は少しだけその紙を眺めたあと、スマートフォンを取り出す。
「早かったな。」
QRコードを読み込むと、すでに参加者は四十人を超えていた。
蓮もそのまま参加する。
すぐに画面いっぱいのメッセージが表示された。
『十二階の山本です。よろしくお願いします。』
『八階です。夫婦二人です。何かあれば協力します。』
『十六階です。今朝から水がほとんど出ません。同じ方いますか?』
『十五階もかなり弱いです。』
『九階はまだ出ています。』
『情報ありがとうございます。』
昨夜まで廊下やエントランスで交わされていた会話が、一つの場所へ集まり始めていた。
蓮は書き込まず、そのまま画面を眺める。
しばらくすると、管理人から新しい投稿があった。
『管理会社より連絡がありました。給水設備に異常が出ている可能性があります。ただし現在、修理業者の到着時期は未定です。水が出るご家庭は浴槽や容器への確保をお願いします。』
その直後、メッセージが一気に増えた。
『今から貯めます!』
『ペットボトル空いてる人は捨てない方がいいですよ。』
『鍋でも何でも入れた方がいいです。』
『飲み水優先ですよね?』
『トイレ用の水も必要ですよ。』
蓮はそれを眺めながら、少し感心した。
「人間、追い込まれると考えるもんだな。」
誰か一人が情報を出し、別の誰かが補足し、さらに別の誰かが実際に試す。それが数分のうちに全員へ共有される。
少なくとも今の段階では、このグループはかなり有効に機能していた。
◇
昼前になると、今度は別の問題が持ち上がった。
『すみません。十五階なんですが、エレベーター止まってますか?』
『今日の電力制限が始まったので止まってます。』
『母が糖尿病で、下にある薬を取りに行きたいんですが、階段を降りられなくて……。』
数分後、一件の返信が届いた。
『何階まで取りに行けばいいですか?』
『一階です。』
『俺行きますよ。七階なので途中ですし。』
すると別の住民も反応した。
『一人だと大変なので私も行きます。』
『ありがとうございます。本当に助かります。』
蓮はソファに座ったまま、そのやり取りを眺めていた。
十分ほどすると、監視モニターに二人の男が映った。階段を降りていく。
十五階まで戻ることを考えれば、決して楽な仕事ではない。
それでも二人は行った。
今度は十階から書き込みが入る。
『赤ちゃん用のおむつ、Lサイズ余っている方いませんか? あと三枚しかなくて。』
少し間が空いたあと、
『うちはもう使わないので一袋あります。』
と返信が来た。
『え、本当ですか?』
『開封済みですけど、それでもよければ。』
『お願いします!』
さらに別の住民が尋ねる。
『粉ミルクは大丈夫ですか?』
『そっちはまだあります。ありがとうございます。』
少しすると、また別の階から新しい提案が出た。
『一人暮らしの高齢者の方で、スマホを使えない方もいると思います。一度各階で確認しませんか?』
『それいいですね。』
『じゃあ自分、六階見ます。』
『七階やります。』
『十二階確認します。』
蓮はそこで一度スマートフォンを置いた。
昨日までは、隣に誰が住んでいるのかさえ知らなかった人間たちだ。エレベーターで顔を合わせれば軽く頭を下げる程度で、名前も仕事も家族構成も知らなかった。
それが、たった六日で変わった。
人間は、社会が大きく機能している時には他人に無関心でいられる。スーパーがあり、病院があり、警察があり、行政があり、困った時には自分の代わりに誰かが助けてくれる。
だから、隣人を知らなくても生きていける。
しかし、その大きな社会が機能しなくなり始めた時、人は再び目の前にいる人間を見るようになる。
「面白いもんだ。」
蓮は小さく呟いた。
◇
午後。
電力制限は続いていた。
要塞の中は発電機と蓄電池のおかげで暖かいままだったが、マンションの他の部屋はそうはいかない。エレベーターは止まり、共用廊下の照明も非常灯だけになっていた。
それでも、昨日までとは一つだけ違うことがある。
住民たちが、自分たちで動き始めていた。
六階では、一人暮らしの老人の部屋を若い夫婦が訪ねている。
「食事、大丈夫ですか?」
「まだありますよ。」
「暖房は?」
「ガスストーブがあるから。」
「何かあったらグループに書いてくださいね。」
老人は苦笑した。
「私はそういうの分からないんだよ。」
「あ、そうか。」
若い男も笑った。
「じゃあ俺、毎日見に来ます。」
「そこまでしなくていいよ。」
「どうせ暇なんで。」
別の階では、子供たちが廊下へ出ようとして母親に止められていた。
「外出ちゃ駄目!」
「廊下だよ?」
「廊下も寒いの!」
「暇だもん。」
「部屋戻りなさい。」
学校はない。公園にも行けず、友達にも会えない。ゲーム機も電力制限中は使わせてもらえない。
子供にとっても、世界は突然狭くなっていた。
ある家庭では家族全員でトランプをしており、別の家庭では電池式のラジオを囲んでいる。さらに別の家庭では、昼間にもかかわらず全員が布団へ入っていた。
寝るためではない。
身体を冷やさないためだった。
日常は、まだ残っている。
ただし、昨日までの日常とはもう違う。
◇
午後四時。
ようやく電力供給が再開した。
マンションの照明が一斉に点き、止まっていたエレベーターが動き始める。それとほぼ同時に、各家庭から生活音が一気に増えた。
洗濯機が回り、炊飯器が動き、電子レンジやドライヤー、掃除機まで、住民たちは次に電気が止まる前に済ませられることを一斉に始めていた。
グループにも次々と書き込みが流れる。
『電気戻りました!』
『スマホ充電忘れずに!』
『モバイルバッテリーも!』
『炊飯器セットしました(笑)』
『うちもです(笑)』
笑顔のスタンプが並んだ。
電気が来ただけで喜ぶ。
六日前なら、誰もそんなことを考えもしなかっただろう。
◇
夕方になると、エントランスには再び住民たちが集まり始めた。
ただし、今度は昨日のように不安を口にするだけではない。
中央にはテーブルが一つ置かれ、その上には紙とペンが並んでいた。管理人と数人の住民が何かを書き込んでいる。
蓮は監視モニターの映像を拡大した。
紙には大きく、
『要支援世帯』
と書かれている。
その下には高齢者、乳幼児、持病のある住民、一人暮らしといった項目が並び、さらに隣には、
『協力可能』
と書かれていた。
階段移動、荷物運搬、簡単な修理、食料、燃料、医療知識。
住民たちは、自分たちに何ができるのかを少しずつ書き込み始めていた。
「できる人が、できることだけやればいいと思うんですよ。」
「そうですね。」
「全部管理人さん一人じゃ無理ですし。」
「若い人は荷物運びくらいできますから。」
「食料も、余裕がある人が少しずつなら。」
やがて誰かが言った。
「こういう時こそ、みんなで乗り切らないと。」
周囲の人々が頷いた。
反対する者はいなかった。
蓮はその光景を黙って見ていた。
小さな社会ができようとしている。
行政でもなく、会社でもなく、警察でもない。
ただ同じ建物に住んでいるというだけで集まった人間たちが、自分たちで役割を決め、失われ始めた秩序を作り直そうとしている。
「なるほどな。」
蓮は少しだけ笑った。
前世では、自分のことで精一杯だったため気づかなかった。
人間は、秩序が壊れた瞬間にすぐ無秩序になるわけではない。
むしろ最初は逆だった。
失われた秩序を、自分たちの手で作り直そうとする。
◇
夜。
蓮は暖炉の前で夕食を食べていた。
今日のメニューはステーキだった。焼いたばかりの肉から肉汁が流れ、その横には温野菜とスープが添えられている。ワインも一本開けていた。
テレビでは、救援活動についてのニュースが流れ続けている。
『政府は現在、首都圏各地の避難所へ順次物資を輸送しています。一般住宅への支援についても、各自治体を通じて準備を進めています。』
蓮が肉を一切れ口へ運んだところで、スマートフォンが震えた。
住民グループだった。
『今日、皆さんありがとうございました。』
十五階の、母親の薬を取りに行ってもらった住民だった。
『無事に薬を受け取れました。本当に助かりました。』
続いて、
『おむつ譲ってくださった方、ありがとうございました!』
『気にしないでください。また困ったら言ってください。』
『明日も頑張りましょう。』
『みんなで乗り切りましょう!』
『きっともう少しです。』
最後の言葉で、蓮の手が止まった。
きっともう少し。
その言葉には、いくつもの賛同が付いていた。
だが、まだ誰も知らない。
今日作った助け合いの仕組みが、数日後にはどんな意味を持ち始めるのか。
今日書き込んだ「誰が何を持っている」という情報が、余裕を失った時にどう見えるようになるのか。
今日作った「要支援世帯」と「協力可能者」の一覧が、別の価値を持ち始める可能性を。
それを知っているのは、前世で一度この世界を経験している蓮だけだった。
善意で作られた仕組みだからといって、最後まで善意のためだけに使われ続けるとは限らない。
蓮はワインを一口飲んだ。
グループへ書き込むつもりはない。
物資があるとも言わない。
何ができるとも言わない。
今はただ、見ているだけだった。
「頑張れよ。」
誰に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。
皮肉ではない。
今の住民たちは、本当に頑張っている。子供を守ろうとし、老人を助け、他人の薬を十五階まで運び、自分が持っている物を少しずつ分け合っている。
だからこそ、蓮はもう少しだけ、この光景を見ていたかった。
窓の外では今日も雪が降り続いている。
マンションの中では、小さな共同体が生まれた。
そして住民たちはまだ信じていた。
自分たちが力を合わせれば、この寒波もきっと乗り越えられると。
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Day 6
外気温 -22.8℃
積雪 227cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「皆、失った日常を自分たちの手で作り直そうとする。」
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