第22話 Day5 やさしさ
夜。
要塞へ戻った蓮は、防寒服を脱いで暖炉の前へ腰を下ろした。室温は朝と変わらず二十二度に保たれており、照明も点いている。テレビも映り、蛇口を捻れば水が出る。コーヒーメーカーのスイッチを入れると、しばらくしていつもの香りが部屋に広がった。
出来上がったコーヒーを手に監視室へ向かい、大型モニターへマンション各階の映像を映す。
外から戻った時にも感じたことだったが、昨日までとは明らかに雰囲気が違っていた。
人が増えている。
外ではなく、廊下にだ。
五階では、一人の男が厚手のダウンジャケットを着たまま、自宅前で段ボールの中身を確認していた。部屋の中から妻らしき女性が顔を出す。
「あとどれくらい?」
「米はある。十キロくらい。」
「それなら大丈夫じゃない?」
「米だけじゃ食えないだろ。」
男が箱の中を確認すると、カップ麺が十二個、レトルトカレーが六袋、缶詰が八個、パスタが二袋、それに子供用の菓子がいくつか残っていた。
「冷蔵庫にも肉あるでしょ?」
「三、四日分くらいな。」
「じゃあ一週間くらいは大丈夫?」
男は答えなかった。
二人とも、これまで自宅の食料を日数に換算したことなどなかったのだろう。冷蔵庫の中身がなくなればスーパーへ行けばいい。米がなくなれば買えばいい。水が必要なら蛇口を捻ればいい。
それが当たり前だった。
だが今は、次にスーパーが開く日を誰も知らない。
六階では、一つの部屋から家族四人が出てきた。全員が家の中にもかかわらずコートを着込んでおり、父親が隣室のインターホンを押すと、しばらくして年配の女性が顔を出した。
「大丈夫ですか?」
「ええ。でも、ちょっと寒くて……。」
「暖房は?」
「電気が止まる時間があるでしょう。しかもうちのものは古くてねぇ。」
父親は持っていた紙袋からカセットボンベを一本取り出した。
「これ、よかったら。」
「あら、でも……。」
「うちはまだありますから。」
女性は何度も頭を下げる。
「ありがとう。本当にありがとう。」
父親は笑った。
「困った時はお互い様ですよ。」
蓮は無言でその光景を眺めていた。
まだ、そう言える。
七階では、廊下の窓が白く凍りついていた。建物の中にもかかわらず共用廊下までかなり冷え込んでいるらしく、二人の主婦がダウンジャケットを着込み、両手を擦りながら話している。
「うち、暖房ずっとつけてたら電気代とか言ってられないよね。」
「それより停電が怖いよ。今日二時間でしょ?」
「明日はもっと長くなるかもしれないって。」
「本当?」
「ネットで見た。三時間とか四時間とか……。」
「無理だよ。こんな寒いのに。」
「うちはリビングだけ暖房つけて、みんなそこで寝ることにした。」
「あ、うちも。」
寝室も子供部屋も使わず、家族全員でリビングへ布団を運び、暖める空間を一つに絞る。すでに住民たちは、自分たちなりの方法で寒さと電力不足へ対応し始めていた。
九階では、小さな子供が廊下で泣いていた。
「寒い……。」
母親がマフラーを巻き直しながら、優しく声を掛ける。
「すぐお部屋戻ろうね。」
その手には小さな買い物袋があり、中には食パンが一袋とカップ麺が三つだけ入っていた。どうやらマンション内の知人から分けてもらったものらしい。
「ママ、お菓子は?」
「今日はないよ。」
「昨日あったじゃん。」
「……明日に取っておこうね。」
子供は納得していない様子だったが、母親は笑顔を崩さず、その手を引いて部屋へ戻っていった。
十一階では、一人暮らしらしい若い男がスマートフォンを片手に廊下を歩きながら、何度もどこかへ電話を掛けていた。
「……繋がらねえ。」
スーパー、コンビニ、宅配。何度検索しても表示されるのは営業休止、配送停止、受付停止といった似たような文字ばかりだった。
男が自室へ戻るため扉を開けた一瞬、室内が監視カメラに映った。テーブルの上にはカップ麺が四つ、ペットボトルの水が数本、それに菓子が少し置かれているだけだった。
「……マジかよ。」
男は頭を掻いた。
昨日までは笑っていた。
二、三日くらいなら何とかなると思っていたのだろう。
だが今日になって、初めて気づいた。
二、三日後も店が開かなかったらどうするのか。
十三階は少し事情が違っていた。
玄関前には段ボールが積まれ、ミネラルウォーター、米、缶詰、レトルト食品、カセットボンベなどがまとまって置かれている。ある程度、災害に備えていた家庭なのだろう。
夫婦は一つずつ箱を確認しながら数えていた。
「二週間はいける。」
「本当に?」
「節約すればな。」
妻の表情が少しだけ緩んだ。
「よかった……。」
同じマンションに住み、同じ寒波に閉じ込められていても、すでに生活には明確な差が生まれていた。
何も準備していなかった者もいれば、数日分だけ持っている者もいる。数週間耐えられる家庭もあり、一人暮らし、子供のいる家庭、高齢者だけの世帯と、それぞれ置かれている条件も違う。
ただ、一つだけ共通していることがあった。
誰も、この生活が何か月も続くとは思っていない。
一階のエントランスには、十人近い住民が集まっていた。
管理人を囲み、次々と質問を投げかけている。
「電力制限って明日もあるんですか?」
「水道は大丈夫なんですか?」
「管理会社には連絡つきました?」
「除雪はいつ来るんですか?」
「ゴミはどうするんです?」
管理人も困り果てた表情を浮かべていた。
「こちらでも確認していますが、電話が非常に繋がりにくくなっていまして……。」
「でも何か分かったら知らせてもらえるんですよね?」
「もちろんです。」
すると別の男が口を挟んだ。
「住民同士でも情報共有した方がいいんじゃないですか?」
何人かがすぐに頷く。
「確かに。」
「高齢者だけの部屋もありますし。」
「何かあった時に連絡できた方がいいですよね。」
一人の若い男がスマートフォンを取り出した。
「だったら、マンションの連絡グループでも作りません?」
「いいですね。」
「掲示板に貼っておけば、入りたい人は入れるんじゃない?」
その言葉を聞いたところで、蓮の目が止まった。
「……始まったか。」
前世にも同じものがあった。
最初の目的は善意だった。
情報を共有し、困っている住民を助け、一人暮らしの高齢者の様子を確認する。不足している物があれば、余裕のある者が少しだけ分ける。
誰も悪いことなど考えていなかった。
むしろ、こんな時だからこそ助け合おうと、本気でそう思っていた。
蓮は椅子へ深く身体を預けながら、もう一度モニターへ視線を戻した。
六階ではカセットボンベを分ける家族がいて、九階では誰かから食パンを分けてもらった母親がいる。十三階には二週間分の備蓄を持つ家庭もある。
今はまだ、誰かが困っていれば手を差し伸べる人間がいる。
なぜなら、自分自身にも余裕があるからだ。
カセットボンベ一本くらいなら渡せる。カップ麺三つくらいなら分けても構わない。食パン一袋くらいなら惜しくない。
数日後には物流が戻り、スーパーも開き、救援物資も届く。
そう信じているからこそ、渡せる。
だが、自分の家族の食料が残り三日になった時、それでも隣人へ分けられるのか。
残り一日になった時。
自分の子供が腹を空かせて泣いている横で、それでも他人へ食料を渡せるのか。
蓮はその答えを知っている。
前世で見たからだ。
最初に消えるのは、食料ではない。
余裕だ。
余裕がなくなった時、善意は少しずつ姿を変える。
「まだ、始まったばかりだ。」
蓮はモニターを消し、リビングへ戻った。
暖炉では炎が静かに燃え続け、室温は二十二度に保たれている。冷蔵庫を開ければ、冷えたビール、チーズ、生ハム、果物が並び、収納空間にはそれとは比較にならないほどの食料が眠っている。
同じマンションの中で、すでにまったく違う世界が生まれ始めていた。
蓮はビールを一本取り出し、プシュッと缶を開ける。
一口飲んでソファへ身体を預けると、窓の外では今日も吹雪が続いていた。
そして明日の朝には、一階の掲示板に一枚の紙が貼られることになる。
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Day 5
外気温 -22.6℃
積雪 181cm
電力 ▲
ガス ○
水道 ▲
通信 ○
【今日のメモ】
「まだ人は、やさしい。」
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