第44話 再会
車両から降りた黒崎たちは、目の前に広がる光景を改めて見つめ、言葉を失っていた。
雪に覆われた広場には、数え切れないほどの人間が跪いていた。車内から見たときには祈りを捧げているようにしか見えなかったが、近づいてみれば、その異様さは一目瞭然だった。誰もが同じように膝を折り、両手を組み、あるいは天を仰いだ姿勢のまま、完全に動きを止めている。周囲には風の音だけが響き、人の声も、衣擦れの音も聞こえてこなかった。
「……なんだよ、これ……」
隊員の一人が呆然と呟いた。
相馬は慎重に近づくと、手前に跪いていた男性の傍らへしゃがみ込んだ。男は五十代ほどだろうか。両手を胸の前で合わせ、顔をわずかに上へ向けている。眉や睫毛には白い霜がこびりつき、唇は紫色に変色していた。
相馬は手袋を外して頸部に指を当てようとしたが、男の肌は氷のように冷たく、触れた瞬間にその身体が固く凍りついていることが分かった。
「……駄目だ。完全に凍っている」
その言葉を聞いた黒崎も、近くにいた別の人物へ駆け寄った。まだ若い女性だった。膝を折り、両手を合わせた姿勢のまま、顔を深く伏せている。黒崎が声をかけても反応はなく、肩に触れてみても、まるで石に触れているかのような硬さだった。
「こちらも……駄目です」
「こっちもだ!」
「隊長! この人も、もう……!」
あちこちから隊員たちの声が上がった。
確認した者は、誰もがすでに息絶えていた。しかも、不思議なことに、死者たちは皆、祈りを捧げるような姿勢を取っており、誰もが跪いたまま凍りついていた。
「……どうして、こんなことに……」
黒崎は周囲を見渡した。
これほどの人数が、なぜ極寒の屋外で跪いていたのか。何かの事故なのか、それとも誰かに命じられたのか。そもそも、この死者たちが今から向かう宗教団体と関係しているのかどうかさえ分からなかった。
ただ一つ確かなのは、彼らがこの場所で凍え死んでいったということだった。
「相馬隊長……これ、どういうことなんでしょうか」
「……分からん。だが、普通じゃないことだけは確かだ」
相馬も険しい表情を浮かべていた。これまで数多くの救助現場を経験してきた彼でさえ、こんな光景を目にしたことはなかった。
そのときだった。
ドサッ。
何かが雪の上へ倒れるような、鈍い音が響いた。
「……っ!?」
黒崎たちは一斉に振り返った。
少し離れた場所で、一人の女性が雪の上に倒れていた。
つい先ほどまで、ほかの人々と同じように跪いていたのだろう。両膝を折った姿勢が崩れ、身体が横向きに倒れている。女性の周囲には崩れた雪が散らばり、片腕が不自然な角度で伸びていた。
「人が倒れた! まだ生きてるかもしれん!」
「急げ!」
黒崎が真っ先に駆け出し、相馬たちもその後を追った。
「大丈夫ですか! 聞こえますか!?」
黒崎は女性の傍らに膝をつき、顔を覗き込んだ。
年齢は三十代から四十代ほどだろうか。頬は青白く、唇は紫色に変わっていた。睫毛には霜が付着し、髪の毛の一部も凍りついている。しかし、ほかの死者たちとは違い、その胸がかすかに上下していた。
「隊長! この人、まだ息があります!」
「衛生員! すぐに来い!」
相馬の指示で衛生員が駆け寄り、女性の状態を確認し始めた。黒崎は女性の傍らで、必死に声をかけた。
「大丈夫ですか! しっかりしてください! ここで一体何があったんですか!?」
女性の瞼が、わずかに動いた。
うつろな目がゆっくりと開き、焦点の合わない視線が黒崎の顔を捉えた。何かを伝えようとしているのか、ひび割れた唇が小さく震えている。
「き……奇跡を……」
「……え?」
黒崎は思わず顔を近づけた。
「奇跡? なんですか、それ? しっかりしてください! もう大丈夫ですから!」
女性は答えなかった。ただ、どこか遠くを見つめるような目で、何度も唇を動かしている。
「ど……どうか……私を……」
「はい! 聞こえています! 何ですか!?」
「お救い……くだ……さい……」
その声は、風の音にかき消されそうなほど弱々しかった。
「大丈夫です! 今、助けますから!」
しかし、女性の視線は黒崎を見ていなかった。
その目は、黒崎の肩越しに広がる灰色の空へと向けられていた。まるで、そこに誰かが立っているかのように。
「せい……さま……」
「……え?」
黒崎が聞き返した瞬間、女性の唇がわずかに動いた。
だが、そこから先の言葉が声になることはなかった。
女性の身体から、ふっと力が抜けた。
「……っ!? おい! しっかりしてください!」
黒崎が呼びかけても、女性はもう反応しなかった。衛生員がすぐに呼吸と脈を確認し、処置を試みたものの、やがて厳しい表情で相馬へ首を振った。
「……駄目です。心停止です」
「そんな……!」
黒崎は女性の顔を見つめたまま、動けなかった。
あと少し早く到着していれば、助けられたかもしれない。そう思うと、胸の奥に重いものが沈んでいく。
しかし、それ以上に理解できなかったのは、女性が最後に残した言葉だった。
「……救う?」
黒崎は小さく呟いた。
「……せい……さま? 何を言ってるんだ……」
女性は確かに、救いを求めていた。
だが、それは自分たちに助けを求める言葉だったのだろうか。
黒崎はもう一度、周囲を見渡した。
雪の上には、祈る姿勢のまま凍りついた人々が、どこまでも並んでいた。
「……一体、何が起きてるんだ……」
相馬は周囲に並ぶ遺体を見渡し、険しい表情を浮かべた。
「それに、いつからこんなことを……」
「隊長、少しよろしいですか」
そのとき、女性の死亡を確認した衛生員が声をかけてきた。
「どうした?」
「先ほどから何体か確認しているんですが……少し気になることがあります」
衛生員は近くに跪いていた男性の遺体へ目を向けた。
「正確な死亡時期までは分かりません。ただ、ここにある遺体は、ほとんどが比較的新しいもののように見えるんです」
「……新しい?」
「はい。もちろん、この気温では遺体の状態だけで判断するのは難しいんですが、遺体表面や周囲の状態を見る限り、長期間ここに放置されていたものばかりとは思えません。一部にはかなり以前からあるような遺体も見られますが、それほど多くはないんです」
相馬は眉をひそめた。
「……それがどうした?」
「これだけの人数がいるんです。もし、以前から同じようなことが行われていたのだとしたら……もっと古い遺体が残っていてもおかしくないと思うんです」
その言葉に、黒崎も周囲を見渡した。
「……つまり、以前にも同じように死んだ人がいた可能性があるってことですか?」
「まだ何とも言えません。ただ……」
衛生員はそこで言葉を止め、広場の奥へ視線を向けた。
「……あれは?」
その声につられ、黒崎たちも同じ方向を見た。
雪の上に、奇妙な跡が残っていた。
跪く遺体の列の間を縫うように、地面の雪が帯状に押し潰されている。人が歩いた足跡とは明らかに違う。何か大きく、重いものを引きずったような跡が、広場の奥へ向かって続いていた。
「……何かを引きずった跡か?」
相馬が呟いた。
黒崎はその跡を目で追った。途中にはいくつもの足跡が重なっており、何度も人が行き来したようにも見える。
「隊長……これ、もしかして……」
黒崎は言いかけて、口を閉じた。
そして、もう一度、周囲に並ぶ遺体を見渡した。
比較的新しい遺体ばかりが残されていること。古い遺体がほとんど見当たらないこと。そして、広場の奥へ続く、何かを引きずったような跡。
相馬も同じことを考えたのか、ゆっくりと顔を上げた。
「……以前の遺体は……運ばれている?」
誰も答えなかった。
ただ、雪の上に残されたその跡だけが、広場のさらに奥へと続いていた。
相馬はしばらく雪の上に残された跡を見つめていたが、やがて険しい表情のまま隊員たちへ振り返った。
「……どうやら、今回の救助任務は一筋縄ではいかないかもしれんな」
その声に、黒崎を含む隊員たちが一斉に相馬へ視線を向けた。
「これだけの遺体が放置されているうえに、何者かが運び出している可能性まである。今から向かう宗教団体が関係しているかどうかは分からんが、少なくとも、この一帯で異常なことが起きているのは間違いない」
相馬は一度、周囲に並ぶ遺体へ目を向けてから、再び隊員たちを見渡した。
「ここから先は警戒レベルを引き上げる。周囲の状況に十分注意し、不審な動きがあればすぐに報告しろ。ただし、相手は一般市民だということを忘れるな。こちらから不用意に刺激するような行動は慎め」
「了解!」
隊員たちは真剣な表情で頷いた。
「よし、車両に戻れ。目的地へ向かう」
相馬の指示を受け、隊員たちは再び二台の車両へと乗り込んだ。黒崎は最後にもう一度、雪の上に跪く人々を振り返った。
祈るような姿勢のまま凍りついた、数え切れないほどの人間たち。その光景は、何度見ても現実のものとは思えなかった。
やがてエンジンが始動し、二台の車両は再び走り出した。
目的の宗教施設は、もう間もなくだった。
◇
教会の食堂には、長い木製のテーブルがいくつも並べられていた。
テーブルの両側には大勢の信者たちが腰を下ろし、食事が運ばれてくるのを静かに待っていた。室内には暖房が入っていたものの、十分な暖かさがあるとは言い難く、誰もが厚手の衣服を着込んだままだった。
やがて、食堂の正面に天城聖玄が姿を現した。
「皆さん。本日もこうして食事をいただけることに、心から感謝しましょう」
その声を聞くと、信者たちは一斉に背筋を伸ばし、胸の前で両手を合わせた。
「今日も私たちに糧をお与えくださった神に、感謝を」
「神に感謝を」
天城が祈りの言葉を口にすると、信者たちも声を揃えて繰り返した。食堂には幾重にも重なった声が響き、やがて再び静寂が訪れた。
それを合図に、数名の信者が大きな鍋を載せた台車を押して現れた。各テーブルを回りながら、一人ひとりの前に椀を置き、鍋から温かなスープを注いでいく。
椀の中に入っていたのは、少し濁った薄茶色のスープだった。表面にはわずかな脂が浮かび、何の肉なのか判別できない細かな肉片が沈んでいる。具の量は決して多くなく、椀の底が透けて見えそうなものもあったが、信者たちは誰一人として不満を口にしなかった。
すべての椀が配られたところで、天城が再び口を開いた。
「それでは皆さん、本日の食事をいただきましょう。信仰を失わず、神を信じ続けていれば、このように神は私たちへ食事をお与えくださいます。どうか、その恵みを忘れず、一口一口を大切にしてください」
「ありがとうございます、聖玄様!」
「神に感謝を……!」
信者たちはそれぞれ感謝の言葉を口にすると、ようやく椀に手を伸ばした。
ここでは食事が与えられるのは一日に一度だけだった。朝から何も口にしていないからか、食堂のあちこちで、すでにスープをすする音が聞こえ始める。
ある者は熱いスープを冷ますことも忘れ、夢中になって口へ運んでいた。またある者は小さな肉片を見つけると、それを大切そうに匙ですくい、何度も噛みしめている。隣同士で会話を交わす者はほとんどおらず、誰もが目の前の椀に意識を集中させていた。
空腹を満たすには、あまりにも少ない食事だった。
それでも信者たちは、神から与えられた恵みを少しでも残すまいと、最後の一滴まで飲み干していく。
天城は信者たちが一斉に食事を始める様子を、穏やかな微笑みを浮かべながら見守っていた。そして、誰もが目の前のスープに夢中になっていることを確認すると、静かに踵を返し、ゆっくりと食堂を後にした。
天城は食堂を出ると、静まり返った廊下をゆっくりと歩いていった。やがて建物の奥へと進み、一般の信者たちが立ち入ることを許されていない区画へ入ると、突き当たりにある重厚な扉を開いた。
その先には、先ほどの食堂とはまるで異なる光景が広がっていた。
室内は暖房によって十分に暖められており、中央に置かれた大きなテーブルには、すでに天城と寒波前から一緒にいる教団幹部たちの食事が用意されていた。並んでいるのは肉の缶詰やレトルト食品、インスタント食品など、長期保存が可能なものばかりだったが、その量は十分にあり、一人ひとりに複数の品が用意されている。一般信者たちが一日に一度、わずかな具の入ったスープを分け合っていることを考えれば、それだけでも恵まれた食事だった。
ただし、そこには先ほど信者たちに配られていた、あの濁った肉入りのスープは一椀も置かれていなかった。
テーブルには真壁修司をはじめとする教団幹部たちが席についており、その中には、政府の救助隊が救出対象として探している動画配信者、澤田拓巳の姿もあった。
天城が部屋に入ると、一同は食事に手をつけることなく、静かに彼を迎えた。
「先生、本日もお疲れさまでございました。今日のお話も実に素晴らしかったですね。信者たちも皆、熱心に耳を傾けておりました」
天城が席に着くと、真壁が満足そうな笑みを浮かべながら声をかけた。しかし、天城はその言葉に応えるどころか、うんざりしたように顔をしかめ、深いため息をついた。
「ったく、いつになってもあのスープを見てると吐き気がする……」
「まあまあ、先生。そうおっしゃらずに……あの人数を養うためです。どうか我慢してください」
「分かっておるわ。で、新しい信者は今どうなっとる?」
天城は目の前に置かれた肉の缶詰を開けながら、何でもないことのように尋ねた。
「それなら、入信を希望する者は大勢おります。ただ、食料を持っている者は今日はあまりいませんね。ほとんどが身一つで救いを求めてくる者ばかりです」
「なら拒否しろ。今いる連中を養うだけでも大変なんだ。食料を持っている者だけ入教させろ」
「はい、もちろん承知しております。持参した物資についても、これまでどおり入信時にすべて預かるよう手配しております」
「それでいい」
天城は短く答えると、缶詰の肉を一切れ口へ運んだ。先ほどまで食堂で信者たちに説いていた慈悲や救済については、もはや一言も触れようとしなかった。
それから天城はふと思い出したように顔を上げ、今度は表情を柔らかくして、テーブルの一角に座っている澤田拓巳へと視線を向けた。
「さて、澤田さん。今日はどんなお話があるのかな? できれば、また過去に一度、世界が終末を迎えたとされるようなお話がいいんですが」
「ええっと……はい。それなら、過去の氷河期や異常寒波にまつわる話なんかはどうでしょうか」
「ほう、氷河期ですか。ぜひ聞かせてください」
「はい。以前、俺のチャンネルでも取り上げたことがあるんですけど――」
澤田は以前の配信で紹介した内容を思い出しながら、過去の氷河期や急激な気候変動、それらにまつわる都市伝説について説明を始めた。その間、天城は興味深そうに頷き、ときおり質問を挟みながら熱心にメモを取っていた。
「――以上ですが……どうでしょうか」
ひととおり話し終えた澤田が尋ねると、天城は満足そうに紙を置いた。
「うむ、さすがですね。今日はこの話でいきましょう」
「あのう……本当にこんな話ばかりで大丈夫なんですか? 俺も別に専門家ってわけじゃないですし……」
「いえいえ、十分ですよ。以前なら確かに、こうした話に真剣に耳を傾けてくれる人は少なかったかもしれませんが、今なら話は別です」
「……以前だって、俺、三百万人以上フォロワーがいたんです……」
澤田が小さく呟くと、天城は一瞬きょとんとした顔を見せ、それから愉快そうに笑った。
「おっと、これは失礼。そういう意味ではありませんよ。ただ、今の世界では、人々は何かしらの答えを求めています。なぜこんな災厄が起きたのか、なぜ自分たちが苦しまなければならないのか……その答えを示してあげることが大切なのです」
「……はあ」
「それに、別に完全な嘘とも限りませんしね。なんだって――」
そこで天城は言葉を区切り、テーブルの向かい側へと視線を移した。
そこには、一人の人物が座っていた。
先ほどから会話に加わることもなく、ただ黙々と目の前の食事を口に運んでいる。天城や真壁が話している間も、その人物だけは一度も顔を上げようとしなかった。
天城の視線につられるように、澤田もそちらへ顔を向けた。
「今日の説教が終わった後には、また皆さんに奇跡をお見せするんですからね」
ちょうどそのとき、向かい側の人物が食事の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
二人の視線が重なった。
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。怒りも、喜びも、興味さえも感じられない。何を考えているのかまったく読み取れない無感情な目と合った瞬間、澤田の表情が強張った。
背筋に冷たいものが走り、澤田は反射的に目を逸らした。
◇
しばらく車を走らせると、前方に教会らしき建物が見えてきた。
雪に覆われた敷地の奥には、尖った屋根を持つ大きな建物が建っており、その正面には数十人もの人々が集まっていた。最初は何かの集会でも開かれているのかと思ったが、近づくにつれて、どうやらそうではないことが分かってきた。
建物の入り口には白い衣服をまとった数人の男女が立っており、押し寄せる人々を制止していた。集まった者たちは皆、厚手の防寒着を着込み、中には大きな荷物を背負っている者や、幼い子供を連れた家族の姿も見られた。
「お願いします! どうか私たちも入れてください!」
「申し訳ありません。本日の入信受付はすでに終了しております。入信を希望される方は、また明日お越しください!」
「そんな! ここまで何時間もかけて歩いてきたんですよ!」
「どうかお願いします! 我々にも神の救いが必要なんです!」
入り口付近では、必死に訴える人々の声が飛び交っていた。しかし、白い服の信者たちは入り口を塞いだまま、誰一人として中へ通そうとはしなかった。
「こちらの信者の方から聞いたんです! ここではどんな人でも救っていただけると! 神の前では誰も見捨てられないと!」
「はい、そのとおりです。神はすべての人々に救いの道をお示しくださいます。ただし、本日の受付は終了しておりますので、どうかご理解ください」
「だったら、どうして入れてくれないんですか!?」
「ですから、また明日お越しください! 本日はこれから大切な礼拝がございますので、これ以上、新しい方をお迎えすることはできません!」
何度説明されても、集まった人々は簡単には引き下がらなかった。ある者は両手を合わせて懇願し、ある者は声を荒らげ、またある者はその場に膝をついて、どうか自分たちを受け入れてほしいと涙ながらに訴えていた。
少し離れた場所に停車した車両の中で、黒崎たちはその光景を黙って見つめていた。
「……ずいぶん人が集まっていますね」
「ああ。どうやら、全員が入信希望者らしいな」
相馬はフロントガラス越しに建物の入り口を見つめながら答えた。つい先ほど、祈るような姿勢で凍りついた大量の遺体を目にしたばかりだっただけに、目の前の光景をどう受け止めればよいのか、黒崎にも分からなかった。
やがて、白い服の信者たちが繰り返し説明を続けるうちに、集まっていた人々も少しずつ諦め始めた。肩を落として引き返す者、明日こそは受け入れてもらおうと家族に言い聞かせる者、何度も建物を振り返りながら立ち去る者。それぞれが名残惜しそうに教会を後にしていった。
黒崎たちはその間、車から降りることなく様子を見守っていた。
そして、入り口付近に集まっていた人々がようやく散り、周囲が落ち着きを取り戻すのを待った。
教会の前に集まっていた人々がほとんど立ち去ると、相馬は改めて建物の様子を観察した。
正面には大きな扉があり、その両脇には先ほど入信希望者たちを追い返していた白い服の信者が立っている。建物の周囲にも人の出入りがあるようで、正面から近づけばすぐに気づかれるだろう。
「……できれば、接触する前に中の様子を確認しておきたいところだな」
相馬はそう呟きながら建物を見上げた。
教会の屋根は高く、側面の壁にはほとんど窓がない。しかし、屋根に近い位置には採光用と思われる大きな窓が設けられており、そこからなら内部の様子を確認できるかもしれなかった。
「黒崎、あそこが見えるか?」
「はい。屋根のところにある窓ですよね?」
「ああ。あそこまで登れそうか?」
黒崎は改めて建物の構造を確認した。
壁はかなりの高さがあり、地上から屋根へ続く階段や梯子のようなものは見当たらない。途中には装飾用の出っ張りがいくつか設けられているものの、普通の人間が道具もなしに登るのは、まず不可能だろう。
しかし、今の黒崎にとっては話が別だった。
「……はい。多分、問題ありません。俺がまず中の様子を確認してきます」
「分かった。ただし、無理はするな。何かあればすぐに戻ってこい」
「了解です」
黒崎は車両から降りると、周囲に人がいないことを確認しながら、慎重に建物の側面へと移動した。
正面の入り口からは死角になる位置まで進むと、もう一度屋根を見上げる。目標となる出っ張りの位置を確認し、軽く膝を曲げた。
次の瞬間、黒崎の身体が勢いよく跳び上がった。
壁を蹴った反動を利用して一気に高度を稼ぎ、頭上に突き出していた装飾部分を片手で掴む。そのまま腕の力だけで身体を引き上げると、足を壁に押し当て、さらに上へと跳躍した。
普通の人間なら到底届かない高さだったが、強化された黒崎の身体は軽々とその距離を越えていく。二度目の跳躍で屋根の縁に手が届くと、そのまま身体を引き上げ、音を立てないよう慎重に屋根の上へと移動した。
「……よし」
黒崎は小さく息を吐くと、姿勢を低くしたまま採光窓へ近づいた。
窓からそっと内部を覗き込むと、眼下には広々とした礼拝堂が広がっていた。長椅子には大勢の信者たちが並んで座り、全員が正面の祭壇へと視線を向けている。
どうやら、ちょうど礼拝が行われている最中らしい。
黒崎はさらに顔を近づけた。
すると、窓の隙間からかすかに人の声が聞こえてきた。どうやら密閉が十分ではないらしく、今の黒崎の聴覚なら、内部で話されている内容まで聞き取ることができた。
「――ということが、過去にも実際に起きているのです!」
声の主は、祭壇の上に立っている一人の男だった。
五十代後半ほどだろうか。華やかな装飾が施された衣服を身にまとい、大勢の信者たちを前にして、身振り手振りを交えながら熱心に語りかけている。
男が話を終えると、礼拝堂のあちこちから感嘆の声が上がった。
「さあ、皆の者! 本日も、実際に奇跡をその目に焼き付けるがよい!」
男の声が一段と大きくなった。
それまで静かに話を聞いていた信者たちが、一斉に身を乗り出した。中には胸の前で両手を合わせ、涙を浮かべている者までいる。
「ご覧あれ! これこそが、救いの儀によって授かった力なのです!」
「……救いの儀?」
黒崎は思わず小さく呟いた。
聞き慣れない言葉だった。しかし、今はその意味を考えるよりも、目の前で何が行われようとしているのかを確認する方が先だった。
祭壇の男はゆっくりと身体の向きを変え、隣に向かって片手を差し出した。
「それでは、お願いいたします――」
男は大きく両手を広げ、声高らかに告げた。
「――聖女様よ!」
その言葉とともに、信者たちの視線が一斉に祭壇の脇へと集まった。
黒崎も男の手が示す方向へ目を向けた。
そこには、一人の女性が立っていた。
黒崎はその姿を見た瞬間、息を呑んだ。
「……え?」
思わず窓に顔を近づけ、もう一度、その女性の顔を確かめた。
最初は、見間違いかと思った。
こんな場所にいるはずがない。そう考えながらも、黒崎の目は祭壇の脇に立つ女性から離れなかった。
「……愛?」




