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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第45話 聖女の奇跡

 佐藤愛が黒崎恒一のもとを去ってから、どれほどの日々が過ぎただろうか。


 あの日から、愛は自分の居場所を求めて各地を転々としていた。避難者たちが集まる建物に身を寄せたこともあれば、わずかな食料と引き換えに仕事を引き受けたこともあった。しかし、どこへ行っても安住できる場所はなく、ようやく落ち着けると思った矢先に、またそこを離れなければならなくなった。


 そんな生活を続けるうちに、愛は何度も黒崎のことを思い出した。暖かい部屋、十分な食事、そして何より、自分を大切にしてくれた彼の優しさ。あのとき、どうして自分はすでに手にしていた幸せを捨ててしまったのだろう。


 もう一度だけ会って、謝りたかった。


 けれど、それが叶わない願いであることは、愛自身が誰よりも分かっていた。


 それでも生きていくために行く先々で人々に助けを求め、ときには危険な目に遭いながらも、彼女は何とか今日まで命をつないできた。


 しかし、世界は日を追うごとに荒れていった。食料を巡る争いは絶えず、見知らぬ人間を信用することは難しくなっていた。


 そして、ある日のことだった。


 わずかに残っていた食料を抱えて雪道を歩いていた愛は、突然、数人の男たちに取り囲まれ、抵抗する間もなく襲われた。男たちは彼女の持ち物を奪うと、そのまま立ち去っていった。


 愛は雪の上に倒れたまま、しばらく動くことができなかった。


 もうこんなことは何度目だろうか。


 いつしか彼女は、そんな仕打ちさえ何も感じなくなっていた。


 身体は傷つき、立ち上がる力も残っていない中、愛は灰色の空をぼんやりと見つめながら、ただ静かに横たわっていた。


 どれほど時間が経っただろうか。


 雪を踏みしめる足音が近づいてきた。


「おや? こんなところに人が倒れている」


 声のした方へかすかに目を向けると、そこには白い衣服をまとった二人の男が立っていた。


「どうやら襲われてしまったようですね」


 男の一人が愛の傍らへしゃがみ込み、穏やかな声で話しかけた。


「でも、もう大丈夫です。神はあなたを見捨ててなどいません。神が救ってくれます」


 愛はその言葉を聞いても、何も答えなかった。


 ただ、差し伸べられた手を見つめていた。


 ◇


 こうして愛は、天城聖玄が率いる宗教団体へ身を寄せることになった。


 当時の信者は、まだ二十人足らずしかおらず、教会を拠点にしていたものの、食料は不足しており、信者たちは毎日のように周辺の建物へ物資を探しに出かけていた。


 愛もその一員となった。


 朝になるとほかの信者たちと外へ出て、使われなくなった住宅や店舗を調べ、食料が見つかれば教会へ持ち帰り、何も見つからなければ別の建物を探す。ときには同じように物資を求める集団と鉢合わせになり、争いになることもあった。


 そのようなとき、愛も鉄パイプを手にして戦った。


 最初は人を殴ることに抵抗があったはずだった。しかし、生きるためにはそうするしかなかった。誰かに奪われれば、今度こそ自分が死ぬ。そう考えれば、目の前の相手に鉄パイプを振り下ろすこともできた。


 一方、天城や教団の幹部たちは、ほとんど外へ出ようとしなかった。


 彼らは信者たちの安全を祈ることが自分たちの役目だと説明し、教会に残って祈りを捧げていた。


 愛はそれについても、特に何も言わなかった。


 食事が与えられ、眠る場所がある。それだけで十分だった。


 ある日のことだった。


 愛を含む数人の信者たちは、物資を探して周辺の倉庫を調べていた。ほとんどの建物はすでに荒らされ、使えそうなものは残っていなかったが、最後に訪れた小さな倉庫だけは様子が違っていた。


「……ここ、暖かくないか?」


 入り口に近づいた一人が、不思議そうに呟いた。


 確かに、扉の隙間からわずかに暖かな空気が漏れていた。周囲の建物はどこも凍りつくような寒さなのに、この倉庫の中だけは何かが燃えているようだった。


 信者たちは顔を見合わせ、慎重に扉を開いた。


 中に入った瞬間、異様な臭いが鼻をついた。


「うっ……なんだ、この臭い……!」


 倉庫の中では、いくつかのドラム缶に火が焚かれていた。木材を燃やして暖を取っているらしく、天井付近には薄い煙が漂っている。


 そして、その奥には三人の男がいた。


 男たちは作業台のような場所を囲み、何かを切り分けていた。台の上には肉のようなものがいくつも置かれていたが、その形はひどく不自然で、何の肉なのかすぐには分からなかった。


「……おい、あれ……」


 一人の信者が顔を青ざめさせ、隣にいた別の信者は口元を押さえてその場で吐き始めた。


 その物音に気づいた三人の男たちが、一斉にこちらを振り返った。


「だ、誰だ、お前ら!」


 男の一人が怒鳴り、作業台に置いてあった刃物を掴んだ。


「勝手に入りやがって! ここへ何しに来た!」


「ま、待ってください! 俺たちは食料を探しているだけで……!」


 信者の一人が慌てて説明しようとしたが、男たちは聞く耳を持たなかった。


 刃物を手に、一斉に襲いかかってきた。


「う、うわっ!」


「いきなり襲ってきたぞ! 気をつけろ! こいつらはやばい!」


 倉庫の中は瞬く間に混乱に包まれた。怒鳴り声が響き、何かが倒れる音がした。信者たちは持っていた鉄パイプや工具で応戦し、狭い倉庫の中で激しく争った。


 人数では愛たちの方が勝っていた。


 それでも相手は刃物を持っており、数人の信者が傷を負った。床には血が飛び散り、悲鳴と怒号が入り交じったが、やがて三人の男たちは動かなくなった。


「はあ……はあ……」


「……終わった、のか?」


 誰かが荒い息を吐きながら呟いた。


 床に倒れた男たちは、誰一人として起き上がろうとしなかった。生きているのか死んでいるのか、確認しようとする者もいなかった。


「……もう行こう。ここにはいたくない」


 信者たちは必要なものだけを手早く集め、倉庫を出ようとした。


 そのときだった。


「おい、佐藤さん……その腕……」


 一人の信者が愛を見て、ぎょっとした表情を浮かべた。


「……え?」


 愛は自分の腕へ目を向けた。


 袖が真っ赤に染まっていた。


 よく見ると、腕には大きな傷ができていた。皮膚が深く切り裂かれ、そこから血が流れ続けている。どうやら先ほどの争いで、男の持っていた刃物が当たったらしかった。


 しかし、愛はまったく気づいていなかった。


「……大丈夫です」


「大丈夫なわけないだろ! すごい血じゃないか!」


 信者の一人が慌てて布を取り出し、傷口を押さえた。別の者も駆け寄り、愛の腕を確認して顔をしかめた。


「これはまずいぞ……すぐ教会へ戻ろう!」


 愛は小さく頷き、それから教会までの道のりを、皆と一緒に歩いた。


 途中、何度か足元がふらついた。視界が暗くなり、周囲の声が遠くなることもあったが、それでも愛は何も言わずに歩き続けた。


 腕からは、まだ血が流れていた。


 教会へ戻ったころには、愛の顔からほとんど血の気が失われていた。


「おい! 着いたぞ! しっかりしろ!」


「誰か、手を貸してくれ!」


 仲間たちの声が聞こえた。


 しかし、愛はもう返事をすることができなかった。


 教会の入り口を前にしたところで、足から力が抜け、そのまま雪の上へ倒れ込んだ。


「佐藤さん!?」


「おい! しっかりしろ!」


 誰かが身体を抱き起こしてくれたようだった。だが、愛には何が起きているのか、よく分からなかった。


 ただ、周囲で交わされる声だけが、かすかに耳へ届いていた。


「出血がひどすぎる……」


「薬は? 消毒液は残ってないのか?」


「そんなもの、とっくになくなってるよ……」


「とにかく傷口を縛って、休ませるしかないだろ……」


 愛は薄れゆく意識の中で、その言葉を聞いていた。


(……どうして……)


 どうして、自分はこんな目に遭っているのだろう。


(私……一生懸命やったよ……?)


 言われた仕事は何でもした。食べるものを探し、重い荷物を運び、危険な場所にも出かけた。傷が増えていくことも、もはや躊躇わなかった。


 それなのに、どうして。


(……それでも、私の罪は消えないっていうの……?)


 その時、愛の脳裏に久々に黒崎の顔が浮かんだ。


 あの暖かい部屋が、何も心配せずに眠ることのできた日々が、遠い昔のことのように思えた。


(私……今は、ただ生きたかった……だけなのに……)


 それが、愛の最後の思考だった。


 周囲の声が次第に遠ざかり、目の前がゆっくりと暗くなっていく。誰かが自分の名前を呼んでいたような気もしたが、もう聞き取ることはできなかった。


 そして、わずかに残っていた意識も、完全な闇の中へと沈んでいった。


 ◇


 次に愛が目を開けたとき、最初に見えたのは薄暗い天井だった。


 しばらくそのまま横たわっていたが、やがて自分が床の上に寝かされていることに気づいた。身体には一枚の白い布が被せられており、周囲には棚や使われなくなったもの、いくつもの箱が雑然と置かれている。


 どうやら、物置のような部屋らしかった。


 愛はゆっくりと顔を横へ向けた。


 すぐ隣に、白い布で包まれた細長い塊があった。その向こうにも、さらに二つ、三つ。同じような塊が床の上に並べられている。


 布を取り払わなくても、中に何が入っているのかは分かった。


 愛はしばらくそれらを眺めていたが、やがて自分の身体に被せられていた布を取り払った。そして、何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がると、部屋の扉へ向かった。


 扉を開け、愛はそのまま廊下へと出ていった。


 ◇


 教会の礼拝堂には、大勢の信者たちが集まっていた。


 祭壇の上では、天城聖玄が両手を広げ、興奮した様子で声を張り上げている。その隣には、一人の女性が静かに立っていた。


 佐藤愛。


 かつて黒崎恒一とともに暮らし、そして彼のもとを去った女性だった。


 屋根の採光窓から礼拝堂を覗き込んでいた黒崎は、今も信じられない思いでその姿を見つめていた。


「……本当に、愛なのか……?」


 何度見直しても、見間違いではなかった。顔立ちも、髪も、間違いなく自分の知っている愛だった。


 しかし、彼女の様子は以前とは明らかに違っていた。


 愛は薄い白いレースを幾重にも重ねた、ローブのような衣服をまとっていた。身体の線がうっすらと透けるほど薄い生地で、今の気温を考えれば、とても防寒着と呼べるものではない。しかし、愛は寒がる素振りを見せることもなく、ただ静かに前を向いていた。


「皆さん! それでは、本日も聖女様による奇跡をご覧いただきましょう!」


 天城の声に応えるように、礼拝堂のあちこちから歓声が上がった。


「ああ……聖女様!」


「どうか、我々に奇跡をお示しください!」


 信者たちが一斉に祈り始める中、愛はゆっくりと顔を上げた。


「それでは、あれを持ってきなさい」


 天城が横に控えていた信者へ声をかけると、男は深々と頭を下げ、祭壇の脇へと姿を消した。ほどなくして、八人の男たちが何かを運びながら現れた。


 それは数メートルもの長さがある、細長い鉄製の台だった。幅は大人が一人、まっすぐ歩ける程度しかなく、八人の男たちは両側から支えるようにして、慎重に運んでいる。


 その上では、赤く光る何かが煙を立てていた。


「……なんだ、あれ?」


 屋根の窓から覗いていた黒崎は、思わず目を細めた。距離があるため最初はよく分からなかったが、男たちが祭壇の中央へ運び込むにつれ、その正体がはっきりしてきた。


「……炭、なのか?」


 赤々と燃えているのは、大量の炭だった。鉄製の台の上に敷き詰められた炭はところどころ白い灰をまとい、その隙間からは赤い光が覗いている。熱によって揺らぐ空気が、窓越しにも見て取れた。


 男たちはそれを愛の目の前へ置くと、素早く左右へ下がった。


 すると愛は、何も言われないうちにゆっくりと屈み込み、履いていた靴を脱ぎ始めた。


「……お、おい……まさか……」


 黒崎は思わず声を上げそうになり、慌てて口を閉じた。


 愛は靴を揃えて脇へ置くと、裸足のまま立ち上がった。その白く小さな足が、赤く燃える炭のすぐ手前に置かれている。


「さあ、皆の者! 奇跡をご覧なさい!」


 天城の声が礼拝堂に響き渡った次の瞬間、愛が一歩を踏み出した。


 白い足の裏が、赤く燃える炭の上へと下ろされる。


 ジュウゥゥ……。


 何かが焼けるような音が、静まり返った礼拝堂に響いた。


「……っ!」


 黒崎は反射的に身体を乗り出した。今すぐ止めなければならない。そんな衝動に駆られたが、愛は悲鳴を上げるどころか、顔色一つ変えなかった。


 そのまま、もう一歩。


 ジュウゥ……。


 そして、さらに一歩。


 愛はまるで普通の床を歩いているかのように、燃える炭の上をゆっくりと進んでいった。足を急いで引き上げることも、熱を避けようとすることもない。何の感情も浮かべないまま、一定の歩調で歩き続けている。


 礼拝堂に集まった信者たちは、誰一人として声を発しなかった。ただ目の前で起きている光景を、息を呑んで見守っていた。


 やがて愛は鉄製の台の端まで歩き切ると、そこで静かに向きを変え、再び燃える炭の上を歩いて元の位置へと戻ってきた。


 最後の一歩を踏み終えると、何事もなかったかのように信者たちへ向き直った。


「おぉ……奇跡だ……」


 誰かが震える声で呟いた。


「聖女様……!」


「本当に……神の奇跡だ……!」


 その声をきっかけに、礼拝堂のあちこちから感嘆の声が上がった。両手を合わせて涙を流す者もいれば、その場に跪き、何度も頭を下げる者もいる。


 しかし、愛はその反応にも一切表情を変えなかった。


 ただゆっくりと片足を上げ、足の裏に付着した灰を手で軽く払うと、そのまま信者たちへ向けて足裏を見せた。


 わずかに赤みを帯びてはいるものの、そこには火傷らしい痕跡が見当たらなかった。


 続いて反対の足も持ち上げ、同じように見せる。


 こちらも同じだった。


「そんな……本当に傷一つないぞ……!」


「なんて奇跡なんだ……聖女様……!」


 再び礼拝堂が感嘆の声に包まれた。


 黒崎は窓の向こうで、その光景を信じられない思いで見つめていた。


「……どう、なってるんだ……?」


 確かに、愛は燃える炭の上を歩いていた。焼けるような音まで聞こえていたのに、なぜあの足には火傷が残っていないのか。


 黒崎には理解できなかった。


「では、次に移りましょう」


 天城が満足そうに微笑みながら告げると、今度は別の信者が大きなバケツを持って現れた。中には水がたっぷりと入っており、運ぶたびに表面が揺れている。


 天城はそのバケツを受け取ると、愛の隣へ立った。


「皆さん、ご存じのとおり、今の気温は氷点下です。このような寒さの中で身体を濡らせば、普通の人間ならどうなるでしょうか?」


 信者たちは黙って天城の言葉に耳を傾けていた。


「しかし、神の救いを授かった者には、もはやそのような苦しみなど存在しないのです!」


 そう言うと、天城はバケツを持ち上げた。


 そして、中に入っていた水を愛の頭上から一気に浴びせかけた。


 バシャアッ!


 大量の水が愛の頭から肩、胸元を伝い、白いレースの衣服を濡らして床へ流れ落ちた。濡れた髪が頬や首筋に張りつき、薄い衣服はたちまち水を含んで重くなる。


 見ていた信者たちの中には、思わず肩をすくめる者もいた。自分があの冷たい水を浴びせられたらどうなるか、想像しただけでも身体が震えるようだった。


 しかし、愛は微動だにしなかった。


 身体を震わせることも、両腕で自分を抱き締めることもない。濡れた髪を払おうとさえせず、ただ無表情のまま前を向いている。


「どうですか、皆の者!」


 天城は両手を広げ、誇らしげに声を張り上げた。


「これこそが神の救いなのです! その証拠に、愛様はすでに熱さも寒さも超越されている! 人が苦しむあらゆる感覚から解き放たれ、神に選ばれた聖女となられたのです!」


「おおお……!」


「聖女様……! 愛様……!」


 礼拝堂には再び感嘆と祈りの声が広がっていった。


「そして皆さん! 愛様がこのような奇跡の力を授かったのも、救いの儀を経た後のことなのです!」


 天城は興奮した信者たちを見渡しながら、さらに声を張り上げた。


「皆さんも日々の信仰を深め、神への感謝を忘れずに過ごしてください。そして、いずれその時が訪れたならば、この私が責任を持って救いの儀を執り行いましょう!」


「ありがとうございます、聖玄様!」


「私たちも、いつか救いの儀を……!」


 礼拝堂のあちこちから声が上がり、信者たちは期待に満ちた表情で天城を見つめていた。その反応を確かめた天城は、満足そうに頷くと、ふと隣に立つ愛へと顔を向けた。


 そして、何かに気づいたかのように大きく目を見開いた。


「な、なんと……!」


 突然の声に、礼拝堂が静まり返った。


「皆の者! 本日も神からのお告げがあります! 私には分かります! 今まさに、神が我々へ新たなお言葉を授けようとしておられるのです!」


 天城はそう叫ぶと、愛がまとっていた白いレースのローブに手をかけ、片手で一気に取り払った。


 薄い布が床へ落ち、愛の身体が大勢の信者たちの前にさらされる。


「……っ!?」


 屋根の窓からその様子を見ていた黒崎は、思わず息を呑んだ。


 しかし、愛自身は何の反応も示さなかった。大勢の人々に身体を見られているというのに、隠そうとも、恥ずかしがろうともしない。ただ先ほどと同じように、何の感情も浮かべない表情で前を向いている。


 天城はそんな愛の背後へ回ると、その背中をじっと見つめた。


「おお……これは……!」


 驚きに満ちた声を漏らした天城は、突然、愛の肩を乱暴に掴んだ。そして身体の向きを変えさせると、彼女の背中を信者たちの方へ突き出すようにして見せた。


「皆さん! ご覧ください! これは……聖痕です! 神が我々にお示しくださった、紛れもない聖痕なのです!」


 愛の背中には、文字が刻まれていた。


『皆を導きなさい 聖玄』


 まるで鋭い刃物で皮膚を傷つけたかのように、一文字ずつ刻み込まれたその言葉。文字を形作る傷口からは、わずかな血が滲み出し、細い筋となって背中を伝っていた。


 それほどの傷を負っているにもかかわらず、愛は身じろぎ一つしなかった。


「……なんだよ……あれ……」


 黒崎は拳を強く握り締め、窓の向こうに見える愛の背中を凝視した。


 そのとき、さらに信じられないことが起きた。


 文字を形作っていた傷が、少しずつ塞がり始めたのだ。皮膚に刻まれた溝がみるみる浅くなり、滲んでいた血も止まっていく。やがて一文字、また一文字と輪郭が失われ、先ほどまではっきりと読めていた言葉が、その背中から消えていった。


「……え?」


 黒崎は思わず目を見開いた。


 ほんのわずかな時間のうちに、愛の背中からすべての文字が消え去っていた。聖玄が濡れた布で一拭きすると、傷跡も、赤みも残っていない。そこには、最初から何も刻まれていなかったかのような、白く滑らかな背中があるだけだった。


「き、消えた……!?」


「聖痕が……消えたぞ……!」


「傷跡すら残っていない……なんて奇跡だ……!」


 信者たちの間にも驚きの声が広がり、礼拝堂が大きくざわめいた。


 そのとき、天城が両手を震わせながら天井を仰いだ。


「神よ……! 私に……私にそのような大役が務まるのでしょうか……!」


 天城の声は感極まったように震えていた。


「このような未熟な私に、皆を導けとおっしゃるのですか……!」


 そして、ゆっくりとその場に膝をついた。


「……いえ! 神がお望みになるのであれば、この聖玄、決して逃げることはいたしません! 必ずや皆を導き、救いの道へとお連れしてみせます!」


 天城は深々と頭を垂れた。


 その姿を見た信者たちも、一人、また一人と膝をつき始めた。やがて礼拝堂に集まった全員が跪き、祈るように両手を合わせていく。


「聖玄様……」


「神よ……ありがとうございます……!」


「救世主様だ……!」


「聖玄様こそ、神に選ばれたお方なのだ……!」


 すすり泣く声と祈りの言葉が、礼拝堂のあちこちから聞こえてきた。


 誰もが天城を見つめ、その姿に救いを見いだしていた。


 ただ一人、佐藤愛だけは違っていた。


 濡れた髪を頬に張りつかせ、傷一つない白い背中をさらしたまま、愛は何の感情も浮かべず、その場に立ち続けていた。


 屋根の窓から一部始終を見ていた黒崎は、目の前で起きた出来事が信じられなかった。


 燃える炭の上を裸足で歩き、冷水を浴びせられても平然としている。それだけでも異常だったが、今度は背中に刻まれていた傷が、目の前で跡形もなく消えてしまったのだ。


 黒崎は自分の目を疑い、もう一度、祭壇の上に立つ愛を見つめた。だが、そこには先ほどと変わらず、何の感情も浮かべない彼女の姿があるだけだった。


「なんだよ、あれ……まさか、本当に奇跡だって言うのか……?」

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― 新着の感想 ―
゜ ゜(´ д `) まさかの黒崎くんの彼女www
 自動回復及び自動蘇生?  回数制限有るか無しかで評価はわかれそう。
三人目?それとも?
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