第42話 新たな命
三日後、黒崎は、岩森とともに再び特異事象調査室を訪れていた。
つい数時間前まで、黒崎は政府の救助部隊とともに、ある人物の保護任務に参加していた。寒波が到来する以前から、超常現象や終末に関する独自の説を唱えていた在野の研究家である。
その男は、世界中で報告される不可解な出来事には共通する法則が存在すると主張し、過去には地球規模の寒冷化によって文明が崩壊する可能性についても言及していた。もっとも、その研究には科学的な裏付けが乏しく、寒波以前は一部の愛好家を除いてまともに相手にされていなかったらしい。
しかし、実際に世界が異常な寒波に襲われた今、そのような人物の話であっても無視できなくなっていた。特異事象調査室の室長である御影は、男の主張に興味を示し、政府に保護を要請したのである。
幸い、男との連絡は取れていた。その時は地方都市の郊外にある自宅で暮らしており、政府からの保護の申し出も快く受け入れたという。そこで黒崎を含む救助部隊が派遣されることになったのだが、現地へ向かう道中で思わぬ問題が発生した。
目的地まであとわずかというところで、住宅地へ続く橋が崩落していたのである。
「……これは参ったな」
隊員の一人が車両から降り、橋の状態を確認した。
川に架かる橋は中央部分が大きく崩れ落ち、向こう岸まで五メートルほどの隙間ができていた。両端には路面が残っているものの、橋はかなりの高さがあり、下を流れていた川も今では完全に凍りついている。万が一落下すれば、命に関わる高さだった。
対岸には住宅が並び、目的の場所もそこから歩いてすぐの場所にある。しかし、別の橋を利用するとなれば、かなり遠くまで迂回しなければならない。道路の除雪も十分に進んでいないため、迂回路が通行可能かどうかさえ分からなかった。
「……どうしますか? 別の橋まで回りますか?」
「そうするしかないだろう。ここが渡れん以上は……」
隊員たちが地図を広げて相談していると、黒崎が崩落部分へ近づいた。
「……五メートルくらいか」
「黒崎? どうした?」
「多分……俺なら跳べると思います」
「……は? 何を言ってるんだ?」
その場にいた隊員たちが、一斉に黒崎を見た。
「いや、確かにお前の身体能力は知っているが……本気か? ろくに助走もできないんだぞ」
「はい。俺が向こう側へ渡ってロープを固定できれば、皆さんも渡れるはずです」
黒崎は橋の残っている部分を確認すると、縁から数歩下がった。路面には雪が残っていたが、比較的足場の安定した場所を選び、靴底の感触を確かめる。
「おい、無茶するなよ!」
「大丈夫です。いけます」
黒崎は短く答えると、わずか数歩の助走から地面を強く蹴った。
身体が崩落部分を飛び越え、対岸の路面へ着地する。黒崎は膝を曲げて衝撃を受け止めると、すぐに立ち上がり、こちらへ振り返った。
「……おいおい、嘘だろ」
「あいつ……たった数歩で五メートル以上も跳んだのか……?」
隊員たちは目を丸くした。走り幅跳びの選手なら届く距離とはいえ、十分な助走も取らず、しかも防寒装備を身につけたままである。普通の人間には到底真似のできない芸当だった。
黒崎は向こう岸から手を振り、無事を知らせた。
そこからは部隊の仕事だった。橋の残存部分を確認し、両岸の頑丈な構造物を利用して複数のロープを張り渡す。救助用の器具も併用し、身体を確保するための安全索と、移動時に体重を支えるためのロープを分けて、簡易的な渡橋設備を組み上げていった。
もちろん、橋が完成したからといって簡単に渡れるわけではない。隊員たちは安全帯を装着し、一人ずつ慎重に崩落部分を越えていった。途中で身体が揺れる場面もあったが、両岸からロープを管理し、全員が無事に対岸へ到達することができた。
「まさか……こんな方法で渡ることになるとはな」
「黒崎がいなかったら、今頃まだ迂回路を探していましたよ」
「はは……役に立てたならよかったです」
黒崎は少し照れたように答えた。
そこから先は徒歩での移動となった。住宅地には除雪されていない雪が残っていたものの、目的の家まではさほど時間がかからなかった。
やがて一軒の住宅へ到着すると、隊員の一人が玄関に向かって声を張り上げた。
「政府の救助部隊です! 連絡を受けて迎えに来ました!」
しばらくして、家の中から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「おお! 本当に来てくれたのか!」
玄関から姿を現したのは、厚着をした中年の男だった。顔色は悪く、頬もややこけていたが、救助部隊の姿を見るなり、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! 本当に助かりました! もう食料も燃料も残り少なくて、どうしたものかと……!」
「まずは体調を確認させてください。歩くことはできますか?」
「ええ、もちろんです! 早くここから連れ出してください!」
隊員たちは男の体調を確認し、温かい飲み物と携行食を渡した。男はそれをありがたそうに受け取ると、必要な荷物をまとめ、救助部隊とともに家を出た。
帰路では、当然ながら崩落した橋をもう一度渡らなければならなかった。救助された男は簡易的な渡橋設備を目にして青ざめたものの、隊員たちが安全帯を装着させ、両岸から補助することで、何とか渡りきることができた。
こうして男は無事に保護され、部隊は政府の保護地区へ帰還した。
しかし、苦労して連れ帰った人物から得られた情報は、黒崎たちの期待とは大きく異なるものだった。
医療担当者の診察を終えた男は、御影による聞き取りに応じた。ところが、詳しく話を聞いていくうちに、これまで発表していた数々の説が、実際の調査や研究に基づくものではなかったことが判明したのである。
世界各地の超常現象についても、過去の噂や都市伝説を適当に組み合わせたものだった。寒冷化による文明崩壊という話も、人々の関心を引くために取り上げただけで、何か特別な情報をつかんでいたわけではないという。
本人も、まさか現実にこのような寒波が起きるとは想像していなかったらしい。
「はあ……また外したか……」
救助した人物から話を聞き終えた御影は、椅子の背もたれに身体を預け、深いため息をついた。
「いやあ、参ったねえ。あれだけ大層なことを言っていたから、少しは期待していたんだが……まさか全部、世間の注目を集めるための作り話だったとはね」
「……こういうこともあるんですね」
黒崎がそう言うと、御影は顔を上げ、苦笑した。
「ははは! 黒崎君、むしろこれが普通なんだよ。世の中には不思議な話が山ほどあるが、その大半は勘違いや作り話さ。本当に説明のつかないものなんて、そう簡単には見つからない」
「それでも、調べ続けるんですか?」
「もちろんだとも! 九十九回外したところで、百回目に本物が見つかるかもしれないだろう? 調べる前から全部嘘だと決めつけてしまったら、それこそ何も見つからなくなってしまうよ」
御影はそう言って笑うと、机の上に積まれた資料から別の一枚を取り出した。
「さて、それじゃあ次だね。岩森副司令、今度はこちらの人物を保護していただきたいんですが」
御影が新たな資料を差し出すと、岩森はそれを受け取って目を通した。すると、横から覗き込んでいた黒崎が驚いたように声を上げた。
「えっ? この人って……」
「おや、気づいたかい? 黒崎君、君が教えてくれた、あの某Tuberだよ」
「ええっ!? あんな動画、作り話じゃないんですか?」
「ははは! 君が見せてくれたんじゃないか! なかなかに興味深い内容だったぞ? それにしても黒崎くんもこういうの好きだったとはね……気が合うじゃないか!」
「いや、俺はただ……なんだか今回の寒波と重なる部分があったんで、一応見せただけですよ。別に内容を信じているわけじゃ……」
もっとも、その動画を最初に教えてくれたのが蓮だったことは、二人には黙っていた。蓮との電話のあと、何気なく動画を確認してみたところ、偶然にも現在の寒波と重なる内容があったため、岩森にも紹介したのだ。それが御影の耳に入り、こうして次の救助候補にまで挙がるとは、黒崎自身も予想していなかった。
「いやいや、実にありがたかったよ。もちろん、彼らが投稿している動画の多くは、再生数を稼ぐために面白おかしく作られたものだろうね」
「俺には彼らが専門家に見えないですし、某Tuberですよ……?」
「専門的な知識という点では、その道の研究者に当然及ばない部分も多い。だがね、黒崎君。彼らには彼らの強みもあるんだよ」
「……強み、ですか?」
「そう、柔軟さだよ!」
御影は人差し指を立て、楽しそうに説明を続けた。
「専門家というのは、どうしても自分の研究分野を中心に物事を考えてしまうものなんだ。もちろん、それ自体は悪いことじゃない。長年積み重ねてきた知識があるからこそ、専門家と呼ばれるわけだからね。だが、彼らは違う。視聴者を楽しませるために、歴史や科学、神話、都市伝説といった、まったく異なる分野の話を自由に組み合わせているんだよ」
「……俺には、胡散臭い内容にしか思えませんでしたけど」
「ははは! その感覚は間違っていないよ。私だって、以前なら鼻で笑って終わらせていたかもしれないねえ」
御影は笑いながらも、机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「だが、今は違う。世界中が同時に異常な寒波に襲われ、君の身体にも科学では説明できない変化まで起きている。こんな状況になってしまった以上、以前なら馬鹿馬鹿しいと切り捨てていた話も、簡単には無視できなくなったんだよ」
「……なるほど」
「もちろん、彼らが何かを知っているとは当然思っていない。だがね、少しでも手がかりになる可能性があるのなら、どんな人材だって無駄にはできない。直接話をしてみれば、我々とは違う視点から、何か新しい気づきが得られるかもしれないだろう?」
黒崎はもう一度、岩森が手にしている資料へ目を向けた。数日前、蓮との電話をきっかけに何気なく見た動画が、まさか政府の救助対象を決めるきっかけになるとは思ってもいなかった。
岩森はしばらく考え込んでいたが、やがて資料を机に置いた。
「……分かった。手配を考えよう」
◇
岩森の指示を受けた捜索隊は、さっそく二組の動画投稿者との接触を試みた。しかし、調査は最初から順調というわけにはいかなかった。
二人組で活動していた投稿者については、何度連絡を試みても応答がなかった。彼らが以前使用していた電話番号の通信履歴を調べたところ、寒波到来から五十日を過ぎたあたりを境に、一切の記録が確認できなくなっていた。
通信機器が故障したのか、電源を確保できなくなったのか、それとも彼ら自身の身に何かが起きたのか。現時点では判断する材料がなく、捜索隊は利用可能な通信手段を一通り試したものの、結局、連絡を取ることはできなかった。
一方、もう一人の投稿者とは連絡がついた。政府が保護を検討している旨を伝えると、本人はぜひ受け入れたいと返答したという。
ところが、話を進めるうちに一つ問題が判明した。本人の意思とは裏腹に、現在いる場所から自由に移動できないというのだ。そのため、政府側から救助部隊を派遣する必要が生じた。
「身動きが取れない? どういうことですか?」
報告を聞いた黒崎が尋ねると、岩森は手元の資料を見ながら答えた。
「今、彼が身を寄せているコミュニティでは、住民同士が互いを監視し合っているらしい。勝手に外へ出ることも、そこから離れることも許されんそうだ」
「えっ? どういうコミュニティなんですか?」
岩森はわずかに眉を寄せ、資料の最後の部分へ目を落とした。
「……怪しい宗教団体らしい」
◇
刑務所の体育館では、山下正弘が孵卵器の前に腰を下ろし、一つずつ卵の状態を確認していた。蓮から預かった有精卵は、温度と湿度を管理された孵卵器の中で温められ続けている。
「山下、卵の方はどうだ?」
体育館を訪れた蓮と朝霧が声をかけると、山下は手にしていた卵を慎重に戻し、顔を上げた。
「ああ、神崎さん! ちょうど確認していたところです。孵卵を始めて三日目になりますが、今のところなかなか順調ですよ!」
「……もう何か変化があったのか?」
「ええ! まだ三日目ですから、はっきり判断できないものもありますが、血管が見え始めた卵がいくつもあります! ちょっと見てみますか?」
山下は一つの卵を取り出し、検卵用のライトを当てた。光に透かされた殻の内側には、細い赤い線が枝分かれするように広がっていた。
「……これは血管なのか?」
「そうですよ! ちゃんと発育が進んでいる証拠なんです! 今回確認した二十個のうち、十六個もこうして順調に変化が見られてるんです!」
「十六個も!? そんなに多いの!?」
予想以上の数字に、朝霧はぱっと表情を明るくした。嬉しそうに目を輝かせると、山下が手にしている卵をもう一度覗き込み、殻の内側に広がる小さな血管をじっと見つめた。
「すごい……! じゃあ、この子たちが本当に生まれてくるかもしれないのね」
朝霧は思わず両手を胸の前で合わせ、弾んだ声を上げた。その顔には、これから生まれてくる雛たちへの期待が浮かんでいた。
「そうですね。ただ、まだ安心はできませんよ。孵化までには二十一日ほどかかりますから、途中で発育が止まってしまうこともあります」
山下は別の卵を手に取り、続けて説明した。
「それから、二個は発育が始まった形跡があるんですが、血管の様子がほかと違っていて、発育が止まっている可能性があります。もう一個は、今のところ変化が確認できませんでした」
「なるほど……全部がうまくいくわけじゃないんだな」
「ええ。でも、まだ三日目ですからね。もう少し様子を見て判断しようと思っています」
そう言って山下は、最後に残っていた別の一つの卵へ目を向けた。
「それから、もう一個だけ、少し変わった卵がありまして……」
「変わった卵……?」
山下は孵卵器の隅に置かれていた卵を一つ取り出すと、再び検卵用のライトを当てた。先ほどの卵とは違い、殻の内側には血管だけでなく、中央付近に小さな黒い影のようなものが浮かんでいた。
「ええ。実は、孵卵を始める前から血管が広がっていて、胚の影まで確認ができたんです。ところが、この三日間、まったく変化が見られませんでした。おそらく、最初から発育が止まっていたんでしょうね……」
蓮はライトに照らされた卵をじっと見つめた。確かに先ほど見せてもらった卵よりも発育が進んでいるように見えるが、三日間も変化がないというのは気になる話だった。
「買った時点で、もう孵化が始まっていたのか? そんなこともあるのか?」
「ええ、珍しいですが、あり得ますよ。母鶏が卵を抱いて温めていた場合などですね。普通はそうなる前に採卵しますから、食用の卵では滅多にありませんが……」
山下は卵をゆっくりと回し、別の角度からも内部を確認した。しかし、やはり期待していたような変化は見られなかったらしく、小さく首を横に振った。
「なら、この卵はもう死んでるのか?」
「そうですね……この卵はもう孵化は難しいと思います」
「そうか……まあ、何個か孵化できるならそれでいい」
蓮はそう答えると、孵卵器の中に並んだ卵へ目を向けた。まだ雛が生まれるまでには時間がかかるが、少なくとも今のところ、最初の一歩は順調に進んでいるようだった。
「本当に楽しみだね……これって新しい命だもんね」
朝霧は孵卵器の前にしゃがみ込み、ガラス越しに並んだ卵を優しい眼差しで見つめた。その口元には自然と笑みが浮かんでおり、まだ姿も見えない雛たちが生まれてくる日を、今から待ち遠しく思っているようだった。
あと十八日。すべての卵が無事に孵るとは限らない。それでも、この場所に雛の鳴き声が響く日が来るのかもしれない。
そう考えると、一同も自然とその日が楽しみになっていた。




