第39話 同じ空の下で
雪がやんでから、すでに一ヶ月以上が経過している。
気温は依然として氷点下十度前後を推移していたが、三か月近く続いた異常な寒波に比べれば、外を歩くことも随分と楽になっていた。とはいえ、街の様子は以前とは大きく変わっている。道路には放置された車が並び、住宅街には人の気配がほとんどなく、電気や水道といった生活に欠かせない設備も復旧の見通しすら立っていなかった。
そんな中、各地に点在する物流倉庫や配送センターの一部には、生き残った市民たちが集まり、独自の共同体を築いている場所があった。
郊外にある中規模の食品物流倉庫も、その一つだった。
かつてはスーパーや飲食店へ食品を配送していた施設で、内部には保存の利く食品や飲料水、調味料などが大量に保管されていた。雪が止んで間もない頃、近隣住民たちが避難してきたことをきっかけに共同生活が始まり、現在では百人を超える人々が身を寄せ合って暮らしている。
もちろん、ここも決して楽園ではなかった。
倉庫に残されていた食料は日々減り続けており、十分な暖房設備もない。広い建物全体を暖めることなど不可能なため、人々は事務所や休憩室を中心に寝床を設け、限られた燃料を使って寒さをしのいでいた。
それでも、ほかの地域と比べれば、彼らは恵まれていた。
「おい、今日もこれだけかよ。もう少し増やしてくれたっていいだろ……」
昼食の配給を受け取った若い男が、器の中を見つめながら不満を漏らした。中に入っているのは、米と乾燥野菜を煮込んだ粥だった。量は決して多くないが、少なくとも温かい食事を毎日口にすることができている。
「贅沢言うな。これでもよそと比べたら、かなりましなんだぞ」
配給を担当していた中年男性が呆れたように答えた。
「わかってるけどよ……毎日同じものじゃ、さすがに飽きるだろ」
「だったら明日はお前が料理当番をやれ。何かうまいものを作ってくれるんだろ?」
「いや、そういう話じゃなくて……」
「それに、昨日来た連中の話を聞いただろ。向こうじゃ三日に一度しか食えない奴もいるらしいぞ。ここはまだ毎日食えるだけありがたいと思え」
若い男はそれ以上何も言わず、器を持って奥へ歩いていった。
その様子を見ていた女性が、小さく笑った。
「まあ、文句を言う元気があるだけいいじゃない」
「そうだな。あいつも最初の頃は、食い物を見るだけで泣いてたからな」
二人は顔を見合わせ、苦笑した。
倉庫の一角では、数人の女性が子供たちの面倒を見ていた。毛布を敷いた床の上で、小さな子供たちが積み木や古い玩具を使って遊んでいる。以前のように走り回ることはできなかったが、それでも時折、楽しそうな笑い声が響いていた。
別の場所では、男たちが壊れた台車を修理し、倉庫の出入口を補強するための木材を加工していた。元電気工事士の男性は小型発電機の整備を続け、元看護師の女性は体調の悪い住民を見回っている。
ここには、まだ共同体としての秩序が残っていた。
食料は全員で管理し、働ける者はそれぞれ役割を持つ。高齢者や子供には無理をさせず、病人が出れば可能な範囲で看病する。意見が対立することもあったが、話し合いで解決しようとする者が多かった。
彼らは、そうやってここ一ヶ月近くを生き延びてきたのだった。
「なあ、雪もやんだし、そろそろ外の畑を使えないかな」
食事を終えた男性が、隣に座る老人へ話しかけた。
「まだ地面が凍っとる。もう少し暖かくならんと難しいだろうな……」
「そうか……でも、これから春になれば何か育てられるかもしれないな」
「ああ……それまで食料が持てばいいんだが」
「きっと大丈夫だ……少しずつ節約してるし、ほかにも探せばまだ何かあるさ」
男性はそう言って笑い、老人も小さく頷いた。
誰もが不安を抱えていたが、それでも未来の話をすることができた。春になれば畑を作り、近くの川から水を引き、いつか電気も戻るかもしれない。そんな希望を口にすることが、彼らにとって何よりの支えになっていた。
その日の午後、倉庫の外で見張りをしていた男が、突然大きな声を上げた。
「おい! 車が来るぞ!」
その声に、近くにいた住民たちが一斉に顔を上げた。
「え? 車?」
「ああ! しかも一台じゃない! 見てみろよ!」
男たちが出入口へ駆け寄ると、敷地の向こうから数台の大型車両が近づいてくるのが見えた。先頭を走るのは軍用車両で、その後ろには兵員輸送車や大型トラックが続いている。
「なんだ……? あれって自衛隊……なのか?」
「おお……本物だ……」
誰かがそう呟き、住民たちの間にざわめきが広がった。
「もしかして……助けが来たのか?」
「そうだよ! ようやく政府が動いたんじゃないか?」
「だったら食料とか、燃料を持ってきてくれたのかな」
期待に満ちた声が上がり、建物の奥からも次々と人々が集まってきた。子供を抱いた母親や杖をついた老人まで、何が起きたのか確かめようと出入口へ向かっている。
やがて車列が倉庫の前で停止した。
軍用車両から武装した隊員たちが降り、整然と横一列に並んだ。その後ろから、指揮官らしい男が一人進み出てくる。
「この施設の代表者は誰だ!」
大きな声が響いた。
住民たちは顔を見合わせた後、一人の男性を前へ押し出した。五十代半ばの元倉庫管理責任者で、共同体ができた当初から中心となって人々をまとめてきた人物だった。
「あのう……私です。ここでは百二十六人が共同生活をしています」
「そうか。では、これより政府の命令を伝える」
指揮官は手元の書類へ目を落とした。
「本施設は、国家非常時における物資管理計画に基づき、政府の管理下へ移行することが決定した。施設内に保管されている食料、飲料水、燃料、その他の物資はすべて接収する。住民は速やかに建物から退去し、我々へ施設を引き渡してもらいたい」
その言葉を聞いた瞬間、周囲が静まり返った。
「……え?」
代表の男性は、思わず聞き返した。
「あのう……今、何と……?」
「この施設を政府が接収する。中にいる者は全員退去しろと言っている」
「ちょ、ちょっと待ってください! ここには百人以上の人間が暮らしているんですよ!」
「承知している」
「だったら、私たちはどうすればいいんですか! 外には食料もないし、住む場所だって……!」
「退去後の生活については、各自で対応してもらう」
指揮官は淡々と答え、代表の男性は言葉を失った。
「……そんな」
後ろにいた住民たちも、ようやく事態を理解し始めた。
「ふ、ふざけんな! 俺たちに死ねって言うのか!」
「政府が助けに来たんじゃないのかよ!」
「ここを追い出されたら、子供たちはどうなるんですか!」
怒号が次々と上がり、指揮官は表情を変えず、慣れた様子で住民たちを見渡した。
「これは正式な政府命令だ。従ってもらう」
「従えるわけないだろ!」
若い男が前へ飛び出した。
「ここは俺たちが守ってきた場所だぞ! 寒波が始まってからずっと、誰も助けに来なかったじゃねえか! それなのに今さら現れて、全部よこせだと!?」
「下がりなさい」
「下がるのはそっちだろ! 帰れよ!」
男の叫びに、周囲の住民たちも声を上げた。
「そうだ! 帰れ! 帰れ!」
「ここは絶対に渡さんぞ!」
「帰れ! 俺たちの食料を奪うな!」
指揮官はしばらく黙っていたが、やがて一歩前へ出た。
「もう一度だけ警告する。施設の引き渡しを拒否する場合、武力を行使することになる」
その言葉に、住民たちの表情が変わった。
「……は? 武力?」
「そうだ。これは国家非常時における正式な命令だ。抵抗は認められない」
「そんなことが許されるわけないだろ!」
代表の男性が声を荒らげた。
「私たちは犯罪者じゃない! ただ、ここで生きているだけなんだぞ!」
「命令に従え」
「こ、断る!」
代表の男性は、はっきりと言い切った。
「ここは渡せない。どうしてもと言うなら、私たち全員を追い出してみろ!」
その言葉をきっかけに、住民たちが次々と前へ出た。
男たちは倉庫から鉄パイプや角材を持ち出し、出入口の前に並んだ。女性たちも後ろに立ち、子供を抱えた母親まで声を上げている。
「そうだ! 絶対に渡すな!」
「ここはもう俺たちの家だ! 手放してたまるか!」
「政府だからって、何をしてもいいと思うな! もう帰れよ!」
指揮官は目の前の光景を見つめていた。
鉄パイプを握る男たちの手は震えている。中には明らかに戦うことなどできそうにない老人もいた。それでも、誰一人としてその場を離れようとはしなかった。
彼らにとって、この倉庫は最後に残された居場所だった。
食料を失えば、家族が飢える。
建物を失えば、寒さの中で眠る場所すらなくなる。
だからこそ、退くことはできなかった。
「……最終警告だ。武器を捨て、施設から退去しろ」
「だから断ると言ってるだろ!」
代表の男性が叫んだ。
「俺たちはここを離れない! 絶対にだ!」
指揮官は静かに右手を上げた。
次の瞬間、隊員たちが一斉に小銃を構えた。
「……え?」
住民の一人が、間の抜けた声を漏らした。
それまで怒鳴っていた男たちも、思わず口を閉じた。目の前に並んだ銃口が、自分たちへ向けられている。
誰かが冗談だと言いかけた。
誰かが、政府が国民を撃つはずがないと呟いた。
しかし、その言葉が最後まで発せられることはなかった。
「撃て」
ダダダダダダダダッ――!
激しい銃声が、静まり返っていた辺り一体に響き渡った。
ほんの数秒だった。
銃声が途切れた時、倉庫の前に立っていた住民たちは、すでに一人残らず地面に倒れていた。
鉄パイプを握っていた男も、代表として交渉していた男性も、食料を守ろうと声を上げていた女性たちも。
誰一人、立っている者はいなかった。
開け放たれた倉庫の入口には、先ほどまで人々の笑い声が響いていた。中にはまだ、食事を終えたばかりの器が並び、修理途中の台車や、子供たちが遊んでいた玩具が残されている。
しかし、そこにいた人々はもう動かなかった。
銃声を聞いて奥から飛び出してきた者も、逃げようとした者も、容赦なく撃たれた。大人も老人も、まだ言葉を覚えたばかりの幼い子供も、等しく床へ倒れていた。
しばらくして、指揮官が口を開いた。
「……施設内を確認しろ」
隊員たちは無言で動き出した。
倉庫の中へ入り、棚の間や事務所、休憩室を順番に確認していく。そこには、先ほどまで人々が暮らしていた痕跡が残されていた。毛布を敷いた寝床、壁に貼られた当番表、手書きの食料管理表。
そして、机の上には子供が描いた絵が置かれていた。
青い空の下に、大きな家と何人もの人間が描かれている。その上には、まだ覚えたばかりの文字で、こう書かれていた。
『はるになったら、みんなでおそとであそびたい』
隊員の一人が、その紙へ一瞬だけ視線を向けたが、すぐに目を逸らし、次の部屋へ向かった。
やがて無線から報告が入った。
『施設内の確認完了。抵抗勢力はすべて排除しました』
「了解した。物資の搬出を開始しろ」
指揮官は短く答えた。
ほどなくして、大型トラックが倉庫の搬入口へと移動を始めた。
積み込まれるのは、そこに暮らしていた人々が一ヶ月近く守り続けてきた食料だった。
彼らが毎日少しずつ分け合い、いつか来る春まで持たせようとしていた、最後の希望だった。
◇
翌朝、刑務所の食堂には、久しぶりに賑やかな声が響いていた。
テーブルには炊きたての白米に焼き鮭、卵焼き、味噌汁、それに野菜の小鉢まで並んでいる。食材は蓮が用意し、田所が朝早くから調理したものだった。
「いやあ、朝からこんなに豪華な食事をいただけるとは……」
水城が感心したように料理を眺めると、田所が穏やかに微笑んだ。
「せっかく良い食材をいただきましたからね。皆さん、温かいうちに召し上がってください。おかわりもありますよ」
「ほんまか!? うわぁ! 夢みたいやわ!」
目にクマができていた寺川が嬉しそうに箸を手に取ると、周囲からも笑い声が上がった。
昨日は全員が大浴場で久しぶりに身体を洗い、蓮が用意した新しい衣服にも着替えていた。髪も整え、清潔な服を着て食卓を囲む姿は、百日以上もの寒波を生き延びてきた人々とは到底思えない。
「昨日のお風呂も最高でしたし、なんだか寒波が始まる前に戻ったみたいです。本当にありがとうございます。しゅ……神崎さん」
久世の言葉に、皆が頷いた。
「ほんまやわ……もううち、昨日までの生活には戻れへんかもしれへん……」
蓮も朝霧と並んで朝食を取っていた。朝霧は味噌汁を一口飲むと、満足そうに微笑んだ。
「これ、おいしいわね、蓮、私が作るとなかなかこの味がでないんだよね……」
「ああ……そうだな」
「ありがとうございます! そう言っていただけると嬉しいです」
田所が照れくさそうに頭を下げると、再び食堂に笑い声が広がった。
ほんの数日前まで、ろくに食事すらできていなかった人々が、今では温かい食事を囲み、他愛もない会話を楽しんでいる。外の世界では今も多くの人々が生きるために必死になっているというのに、この刑務所には、まるで寒波などなかったかのような穏やかな朝が訪れていた。
食事が終わりに近づいた頃、蓮が箸を置いて皆を見渡した。
「生活面はこれでしばらく不自由ないだろう」
その言葉に、皆が頷いた。食料も水も電気も確保され、風呂まで使えるようになり、文句など誰にも言えるはずがなかった。
「次は本格的に農業と防衛に取り掛かってくれ」
「はい、こちらは問題ありません。育てる順番と区画の計画もできています。必要なものもリストにまとめてあります」
山下がすぐに答えた。
「ああ、なら食後に持ってきてくれ」
「はい、わかりました」
蓮は頷くと、今度は植松と辰巳に目を向けた。
「外の監視カメラの設置を今日から始める。必要なものはあとで出しておくから、接続なんかは久世と相談してくれ」
「はい、問題ありません。それから、正門の修理はどうされますか?」
「あれは変形もしてるし、さすがに自分たちではどうにもならんだろ。下町に頼むつもりだ」
その言葉に、火野が申し訳なさそうに口を開いた。
「わりい……あの時は開けることしか考えてなかったから、潰しちまった」
「気にしなくていい。下町はもともと町工場なんだろ? ならそういう修理は得意なはずだ」
「はい。以前も正門の修理や部品交換は下町に依頼していました。連絡先も残っていますので、あとで私から連絡してみます」
水城がそう申し出ると、蓮は頷いた。
「ああ、頼む。それなら、ついでに以前朝霧が必要としていた手術用の設備も一緒に持ってきてもらおう。修理と合わせて交換条件も聞いておいてくれ」
「手術……?」
水城は一瞬驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「いえ、わかりました。実際に必要なものは朝霧さんにも確認してから連絡します」
「ええ、わかったわ。あとでリストを書いておくわね」
「ありがとうございます。助かります」
こうして農業と防衛、正門の修理について一通り指示を終えると、蓮は最後に寺川へ視線を向けた。
「寺川、お前は今日から政府側の情報を集められるだけ集めてくれ。特にこの寒波についてと、政府の今の動きだ。それと――」
「それは問題ないで。うちに任せといて。……で、それと、なんや?」
寺川が首を傾げ、蓮は少しだけ間を置いてから、静かに告げた。
「黒崎恒一についても調べてくれ」




