第35話 前進
黒崎の身体に起きた異変が発覚してから、五日が経っていた。
最初に測られたのは基本的な身体能力だったが、それだけで終わるはずもなく、翌日から検査項目は一気に増えた。短距離走では加速力と最高速度を測られ、反応速度や動体視力、持久力、平衡感覚といったものまで、黒崎自身もこれまで一度として測ったことのない項目まで次々と追加されていった。
結果は、どれも似たようなものだった。
異常。
単純な筋力だけではない。目の前で不規則に変化する光への反応、動く対象を捉える能力、長時間身体を動かし続けた時の持久力まで、ほぼすべての項目で常人の水準を大きく上回った。
それと並行して、身体そのものの検査も続いていた。毎日のように血を採られ、尿を提出し、心臓や肺、筋肉、骨、神経に至るまで可能な範囲で調べられ、細胞や組織の一部まで採取された。それらはこの施設だけではなく、今も機能している複数の研究機関へ送られ、詳しい分析が続けられている。
ところが、奇妙なことに身体能力ほど分かりやすい異常は見つからなかった。
少なくとも、検査結果だけを並べれば、黒崎の身体は驚くほど普通の人間に近かった。
もちろん、何も見つからなかったわけではない。その中でも研究者たちが特に注目したのが、IGF-1と呼ばれる成長因子だった。筋肉や骨の成長、組織の修復などに関係するその数値が、黒崎の場合は明らかな異常値を示している。
それだけなら、まだ異常な身体能力との関連を疑うこともできた。
しかし、同時に研究者たちを困惑させたのがCKだった。
この五日間、黒崎は毎日のように身体へ強い負荷をかけ続けている。本来なら激しい運動によって筋肉が傷つけば、その程度に応じてCKの値にも変化が現れるはずだった。それにもかかわらず、黒崎の数値は負荷の大きさに見合った上昇をほとんど示していない。
異常な身体能力を持ちながら、その身体を構成するものの多くは普通の人間と大差がない。身体を酷使しても筋肉が損傷した痕跡はほとんど残らず、その一方で組織の成長や修復に関係する数値だけが異常に高い。
何かが起きていることだけは間違いない。
だが、それが何なのかは誰にも分からなかった。
連日行われている検査のことは、当然ながら同じ部隊の中にも広まっていた。
そもそも黒崎が任務中に見せた身体能力を知っている者は少なくない。食堂で机を叩き壊した件まで含めれば、噂を完全に止める方が難しかった。
反応は人によって違った。
黒崎を見るたびに以前より距離を取る者もいれば、反対に好奇心を隠そうともせず近づいてくる者もいる。どうやってそんな力を出しているのかと質問攻めにしてくる者もいれば、以前と何も変わらない態度で話しかけてくる者もいた。
最初の頃は、そんな一つ一つが気になった。
廊下ですれ違ったあとに声を潜められれば自分のことではないかと考え、食堂へ入った瞬間に視線を向けられれば、それだけで居心地が悪くなる。自分自身でさえ、この身体に何が起きているのか分からないのだから、周囲が警戒する気持ちも理解できないわけではなかった。
だが、それも数日続けば少しずつ慣れてくる。
どうでもよくなったわけではない。それでも、全員から以前と同じように見てもらうことなどできないのだと、黒崎自身の中でも少しずつ整理がつき始めていた。
変わったのは精神面だけではない。
この五日間、自分の限界を測るために嫌というほど身体を動かし続けたことで、黒崎自身も今の身体の扱い方を覚え始めている。どれだけ力を抜けば普通に物を掴めるのか、どの程度足に力を込めれば以前と同じ速度で歩けるのか。最初はいちいち意識しなければならなかったものが、今では少しずつ感覚として身につき始めていた。
少なくとも、コップやドアノブを壊すようなことは、もうなくなっている。
その日も一通りの検査を終え、黒崎が自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、向こうから同じ部隊の隊員がやってきた。すれ違うところで黒崎に気づいた男は、思い出したように足を止めた。
「あ、黒崎。ちょうどよかった。岩森副司令がお前を探してたぞ」
「え? 俺をですか?」
「ああ。検査が終わったら来るようにって。たぶん部屋にいると思うぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
何の用だろうと思いながらも、呼ばれているのなら後回しには当然できない。黒崎は隊員と別れると自室へ戻るのをやめ、そのまま岩森のいる部屋へ向かった。
扉をノックすると、中からすぐに返事が聞こえてきた。
「入れ」
「失礼します」
黒崎が扉を開けると、岩森は机の上に広げていた資料から顔を上げた。向かいの椅子を顎で示され、黒崎が腰を下ろすのを待ってから、岩森は手元の資料を閉じた。
「今日の検査は終わったか?」
「はい。今日の分は一通り」
「そうか。毎日悪いな」
「もう慣れましたよ。採血だけは何回やっても好きになれませんけど」
「好きになる奴がいたら、そっちの方が心配だ」
岩森はわずかに口元を緩めたものの、すぐに表情を戻した。
「自分でも分かってると思うが、お前の今の身体能力は常人の範囲を完全に外れてる。問題は、どうしてそうなったのかが全く分からないことだ」
「……はい」
「今も各所でお前の血液や採取した細胞を調べてもらってる。いくつか妙な数値は出てるらしいが、それで今のお前を説明できるわけじゃない。専門家から上がってくる報告を読んでも、結局のところ原因不明だ。……黒崎、お前、本当に何も心当たりはないのか?」
「ええ。ここ数日で何度も聞かれてますけど、自分でもさっぱりです」
答えが変わらないことを確認するように岩森はしばらく黒崎を見ていたが、やがて椅子の背へ身体を預けた。
「こっちでもいろいろ仮説は立ててる。瀕死状態から蘇生したことで身体に何らかの変化が起きた。臨死体験をきっかけに細胞が異常に活性化した。寒波そのものか、それに伴う環境の変化が影響した……まあ、他にもいろいろとな」
「どれか当たりそうなんですか?」
「それが分かれば苦労せん。どれも根拠が足りんのだ。特に瀕死状態が原因だと考えるには、どうにも引っかかる。こんな世界だぞ。死にかけた人間なんてお前だけじゃない。凍死寸前で救助された人間もいれば、一度心肺停止して蘇生した人間だっている。それなのに、今のところお前と同じような変化が確認された人間はまだいない」
「……俺だけってことですか?」
「少なくとも、今のところ把握している範囲ではな」
その言葉に黒崎は自分の両手へ視線を落とした。見た目だけなら以前とほとんど変わらない手が、今では自分でも信じられないほどの力を出せる。
なぜ自分なのか。
それは黒崎自身が、この五日間で何度も考えたことだった。
「まあ、分からんもんは分からん。寒波前なら、お前を研究施設に放り込んで、とことん調べてたかもしれんな」
「……物騒なこと言いますね」
「冗談じゃないぞ」
「余計怖いですよ」
思わず苦笑した黒崎に対し、岩森も小さく笑った。
「だが、世界がこうなってしまった以上、そんな悠長なことも言ってられん。原因が分かるまで何か月もお前を閉じ込めて調べ続けるより、その力を使った方がいい。上や関係各所とも話し合った結果、お前の力は最前線で活かすことになった」
「最前線……ですか?」
「ああ。だから、これからお前には輸送隊を外れてもらう」
「……え? そんな重要な任務に、俺が加わって大丈夫なんですか?」
「もちろん、最前線といっても最初から全部を任せるわけじゃない。まずは補佐的な役割からだ。それに、重要な任務だからこそ出し惜しみはしたくない。お前はまだ経験が足りん。それでも、今はそれ以上にその能力が必要だ。どっちの任務も危険を伴うからな」
「どっちの任務……ってなんですか?」
岩森は黒崎を見据えた。
「俺の重大課題任務は知ってるな?」
「はい。寒波の原因と、物資紛失事件の捜査ですよね」
「そうだ。これからは、お前にもそっちを手伝ってもらう」
黒崎の表情から先ほどまでの戸惑いが消えていった。自分を輸送隊から外してまでここへ加える意味を理解したのだろう。しばらく真剣な顔で岩森を見つめたあと、迷いなく頷いた。
「はい。覚悟はできています。ぜひ、やらせてください」
「どっちもやってもらいたいところだが、まずは寒波の原因調査だ」
「はい、それは問題ありませんが……なぜなんです?」
「ああ。この前、調査チームに特異事象調査室が加わったことは覚えてるな?」
「はい。超常現象なんかを調べてる部署ですよね」
「そうだ。もちろん連中は寒波についても調べてるが、お前のことも並行して調べてもらってる。そういう意味でも都合がいい」
「……俺もオカルト扱いなんですね」
黒崎が苦笑すると、岩森の眉間に皺が寄った。
「そういう言い方をするな、馬鹿もん。向こうは大真面目にやっとる」
「……すみません」
「それに、原因調査といっても、お前自身に何かを分析しろって話じゃない。お前にやってもらいたいのは、調査に必要な人材の救助と、物資や資料の回収だ。場所によってはここからかなり離れることになるし、現地に何が残ってるかも分からん。危険を伴う任務だ。しっかり気を引き締めろ」
「……はい」
黒崎は頷いたものの、そこで一つ気になっていたことを思い出した。
「物資紛失の方は、今は手伝わなくてもいいってことですか? そっちもかなり重要だと思うんですが」
「ああ。その通りだ」
岩森はすぐに答えたものの、その先はわずかに歯切れが悪くなった。
「お前も知ってる通り、今は保護地域でも物資がますます厳しくなってる。実際、収容できる人数も減らしてるくらいだ。その穴を埋めるために各地の倉庫から使える物資を回収してるし、あの大型倉庫群にあった物資なんて、政府からすれば喉から手が出るほど欲しい。……ただな」
「……ただ、なんですか?」
「妙なことに、手掛かりが一切掴めん」
「一切……ですか?」
「そうだ。あれだけの倉庫だぞ。中にあった物資の量まで考えれば、一人や二人でどうにかできる規模じゃない。普通に考えれば、大規模な組織が動いたと見るしかない。ところが、それだけの人間と車両を動かした痕跡がどこにもないんだ」
「……そうなんですか」
「政府部隊があの倉庫に向かったのは、寒波が始まって一か月ほど経った頃だ。その時にはもう、ほとんど何も残っていなかった。倉庫が放棄されてから、それほど時間があったわけでもない。それなのに、あれだけの物資を短期間で、しかも痕跡らしい痕跡も残さず持ち去っている。どうやったのか、その手段すら分かってない」
岩森は腕を組み、そこから先を口にするまで少し間を置いた。
「今のところ、相当手慣れたプロ組織の仕業か、海外勢力が計画的に動いた可能性まで考えてる。だが、どれも推測の域を出ん。そんな正体も手口も分からん相手に、いきなりお前をぶつけるわけにはいかん」
「どういうことですか……?」
「今のお前は、政府にとっても貴重な人材だからな。まあ、人材救助も寒波の原因を調べるうえでは非常に重要な任務だ。しっかり頼むぞ」
「はい!」
「いい返事だ。任務が決まったら伝える。ここんとこずっといろんな測定をしてきたんだ。今はしっかり休んどけ」
「ありがとうございます。では、そうさせてもらいます」
黒崎は岩森に一礼すると、静かに部屋をあとにした。
◇
黒崎が新たな任務を言い渡されていた頃、蓮たちが暮らす刑務所でも、大きな変化が起きていた。
その中でも最も大きかったのは、施設を維持していくうえで欠かすことのできない電力の問題に、ようやく目処がついたことだ。
体育館の屋上では、この数日間続けられていた太陽光パネルの設置作業がすべて完了していた。大量に並べられたパネルは久世によって施設側の電力系統へ接続され、蓄電池への充電から各区画への供給まで一通り確認したところ、問題なく稼働することができた。
それだけではない。
以前から故障していた外部電力を受け入れるための受変電設備も久世の手によって修理され、外部から電力が供給されている時にはそちらを利用し、供給が不安定になった時には太陽光と蓄電池へ切り替えられるようになった。
もちろん、刑務所全体で好き放題に電気を使えるほど余裕があるわけではない。現在使用している区画を中心に供給し、消費量を管理する必要はある。それでも、照明や給水設備をはじめ、今後必要になる栽培設備まで含めて計算しても、当面は自家発電機を動かさずに施設を維持できる見通しが立っていた。
蓮にとっては、それだけでも十分に大きな成果だった。
燃料は《パンドラ》の中に大量に残っている。だが、いくら持っているからといって無駄に消費していいものではない。今後どこで、何が必要になるか分からない以上、使わずに済むのであれば一滴でも多く残しておきたい。
これで自家発電機は非常時の予備に回せる。
電力問題に目処がつく一方で、昨日から動き始めた施設内での農業についても、山下を中心に具体的な作業計画が決まり始めていた。
最初に手をつけるのは、昨日確認した体育館だった。
内部に栽培棚や照明を設置し、温度を管理できる室内栽培区画へと改造する。そこで最初に育てるのは、レタスや小松菜をはじめとした比較的収穫までの期間が短い野菜を中心とし、体育館での栽培環境が整い次第、次は空いている倉庫を利用してジャガイモやサツマイモなどの芋類へ移る。
そして、その二つが軌道に乗ってから、最後に運動場の一部を壁と屋根で囲い、より広い栽培区画へと変えていく予定だった。
一度にすべてへ手をつけないのには理由がある。
今ここにいる人間は十人しかいない。施設の修繕も続いていれば、防衛設備の強化も必要で、それぞれが日々の生活を維持するための仕事もある。農業だけに人手を割ける状況ではない以上、最初から規模を広げすぎれば、どれも中途半端になりかねなかった。
だからこそ、まずは収穫までが早く、比較的管理しやすい野菜から始める。そこで安定した収穫が見込めるようになれば芋類へ、その先に米や麦、果樹など、より広い場所と長い時間を必要とする作物を育てるための環境を整えていく。
農業に関して二十年以上の経験を持つ山下が立てたその計画に、蓮も異論はなかった。
自分一人ですべてを決める必要などない。
設備に関しては久世がいるように、農業には山下がいる。必要な資材や種、肥料、農業機械を用意することなら蓮にもできるが、それらをどう使い、何をどこで育てるのが最も効率的なのかは山下の方が遥かに詳しい。
適材適所。
今後、農業に関する判断は基本的に山下へ一任することにした。
同じように、植松と辰巳へ頼んでいた施設の警備についても、一通りの確認が終わり、今後どこを強化していくべきかが見えてきていた。
二人が最初に挙げたのは、監視体制だった。
刑務所という施設の性質上、内部には元々かなりの数の監視カメラが設置されている。寒波と長期間の停止によって故障しているものもあったが、電力が戻ったことで一つずつ確認してみると、今でも使えるものの方が多かった。
壊れているものについても、大きな問題にはならない。
蓮の《パンドラ》には、以前回収しておいた監視カメラが大量に残っている。故障したものは順次新品へ交換し、死角が見つかれば必要に応じて追加するだけでいい。
それよりも植松と辰巳が問題視したのは、施設の外だった。
正門や外壁、運動場など、屋外にも元々監視カメラは設置されている。しかし、それらは受刑者の脱走を防ぎ、施設への出入りを確認することを主な目的として配置されたものだ。今の蓮たちが必要としている、外部から近づいてくる人間をできるだけ早い段階で発見するための監視網とは目的そのものが違う。
特に今後重要になるのが、山を上って刑務所へと続く一本道だった。
この施設へ車両で近づくのであれば、基本的にはそこを通ることになる。正門まで来られてから気づくのでは遅い以上、道の途中にも複数の監視カメラを設置し、人や車両がこちらへ向かっている段階で把握できるようにすることになった。
もう一つ、二人が警戒したのが外壁周辺に積もった大量の雪だった。
本来なら簡単には越えられない高さを持つ外壁も、その周囲に雪が積み上がれば意味が変わる。場所によっては雪そのものが足場となり、外から壁を越えることも不可能ではなくなっていた。
かといって、外壁沿いの雪をすべて綺麗に消してしまうわけにもいかない。
この刑務所の実態を外部に悟られないためにも、正面から見えない場所については蓮が《パンドラ》で雪を回収し、遠くからでも確認できる場所については、あくまで不自然に見えない範囲で除雪する方針となった。
当然、雪を残す以上は侵入に利用される危険も残る。
監視カメラを増やせば侵入者を早く見つけることはできても、それだけで壁を越えられなくなるわけではない。蓮は植松と辰巳に、監視網の強化を進める一方で、外壁を越えようとする人間そのものを防ぐ方法についても別の案を考えるよう頼んだ。
電力は安定し、水も使えるようになった。
食料についても、自分たちで生産するための準備が始まり、防衛面の問題も一つずつ洗い出されている。
ここへ来たばかりの頃は、寒さを凌ぎ、生き延びるためだけで精一杯だった。だが、この刑務所を一時的に身を隠す場所ではなく、長く暮らしていくための拠点にすると決めた以上、施設そのものを立て直すだけでは足りない。
そこで暮らす人間の生活も、そろそろ変える必要がある。
蓮は集まっていた面々へ視線を巡らせると、それまでとは少し違う話を切り出した。
「よし。そろそろお前らの生活面も改善するぞ」
「……え?」
突然話の方向が変わったことで、何人かが意味を掴めないまま顔を見合わせる。
そんな反応を気にすることなく、蓮は続けた。
「まずは寝床からだ」




