第33話 異常の痕跡
「俺の過去を……消してもらおうじゃないか」
「……過去を?」
朝霧が怪訝そうに眉を寄せる。その疑問には答えず、蓮は寺川に与えた部屋へ向かった。廊下を進んでいく時も背後からついてくる朝霧の視線を感じていたが、直接見せた方が説明するより早い。
寺川の部屋が近づくにつれ、扉の向こうから何かを引きずる音や、箱を床へ置くような物音が聞こえてきた。蓮が扉を開けると、数時間前とはすっかり様子の変わった室内が広がっている。
机の上には複数のモニターやパソコンが所狭しと並び、その周囲には開封された箱と、まだ手をつけられていない機材が積み上げられていた。床を這う何本ものケーブルの間では、寺川がしゃがみ込んだまま蓮の持ち込んだ機材を一つずつ確認している。本人なりに分類しているのだろうが、傍から見れば足の踏み場を探すのにも苦労する有様だった。
「お、神崎さん! ちょうどええとこに来たな!」
物音に気づいて振り返った寺川の頭には、昨日蓮が渡した犬耳のニット帽がしっかりと収まっている。どうやら相当気に入ったらしい。
「どうだ、機材は足りそうか?」
「足りる足りる! 足りすぎて迷っとんねん! もともとここも大したもんやったし、これらを足したらさらにすごい環境が整うで! あああああ、もうほんまに天国やで!」
寺川はしゃがんだまま周囲を見回し、目についた機材を次々と指差していく。床一面に散らばる機材やケーブルなど、蓮や朝霧には何がどこへ繋がるのかさえ分からないが、寺川の中では既に完成した形が見えているらしい。
「完成までどれぐらいかかる?」
「構成はもう頭ん中でできとるからな。電気さえちゃんと来たら、すぐにでもいけるで」
「そんなに早いのか?」
「ちゃうちゃう、うちやからできるんやで!」
自分の胸を指差しながら得意げに言い切った寺川は、そのまま何かを思い出したように顔を輝かせた。
「せやから、完成したらケーキ頼むで! 昨日のやつ!」
「完成したらな」
「よっしゃ!」
寺川は待ちきれないとばかりにその場で小さく跳ねた。小柄な身体に犬耳のニット帽を被り、好きな機材に囲まれて満面の笑みを浮かべている姿は、余計に幼く見える。
その様子を横から眺めていた朝霧も、思わず表情を緩めそうになった。こうして無邪気にはしゃいでいるところだけを見れば、誰が見ても可愛らしかった。
ただ、すぐ隣で蓮がそんな寺川と当たり前のように言葉を交わしているのを見ていると、胸の奥に小さな棘でも引っかかったような感覚も残った。気にするほどのものでもないはずなのに、なぜか視線だけが二人の間を行き来する。
朝霧自身、その感情が何なのかまではまだ分かっていなかった。
「電気なら今でも何とかなる。それと、先にやってもらいたいことがある」
「ん? なんや?」
蓮は部屋の隅に空いている場所を見つけると、《パンドラ》から大型のポータブル電源をいくつか取り出した。何もなかった床へ突然現れたそれを見て、寺川は先ほどまで以上に目を輝かせ、散らばったケーブルを跨ぎながら駆け寄ってくる。
「おおっ! これも持っとったんか!」
蓮に何かを尋ねるより先に本体の前へしゃがみ込み、側面や端子を確認していく。
「これなら直接コンセント取れるやん。容量も十分あるし、今ある機材動かすだけならいけるで」
「まず使えるか試してみてくれ」
「おっしゃあ! 任せとき!」
そこからの寺川は早かった。積み上げていた機材の中から必要なものだけを迷いなく引き抜き、床を這っていたケーブルを選り分けながら次々と接続していく。蓮と朝霧が見守る中、ポータブル電源を起動すると、暗かったモニターに一つ、また一つと光が戻っていった。
「おお……ええやん、ええやん!」
起動画面が表示されるたび、寺川の顔に笑みが広がっていく。
刑務所にはもともと外部へ繋がる固定回線が引かれていた。寒波によって社会の多くが停止した今も通信網そのものが完全に失われたわけではない。これまで問題だったのは、それを利用するための安定した電力がなかったことだ。
久しぶりに明かりの灯ったモニターを朝霧が興味深そうに覗き込む。
「これで……外のネットにも繋がるの?」
「回線はいきとるけど、このままじゃあかん。接続元のIPそのまま晒すことになるし、DNSリークも潰さなあかん。通信経路も一回外に逃がして、そこから何段か中継させて……あとはブラウザ側のフィンガープリントも――」
専門用語を次々と並べていた寺川の声が、不意に途切れた。何気なく顔を上げると、朝霧は理解した様子もないまま、わずかに眉を寄せて寺川を見ている。どうやら最初から置いていってしまったらしい。
「……朝霧さん、今の分かった?」
「ごめんなさい。最初の方からほとんど分からなかったわ」
「そりゃそうやな……」
寺川は苦笑しながら頭を掻くと、今度は専門用語を使わず、朝霧にも伝わる言葉を探しながら説明し直した。
「簡単に言うとな、このまま普通にネットへ繋いだら、うちらがどこから繋いどるか調べられる可能性があるんよ。せやから、ここから直接見に行くんやなくて、一回別の場所を経由して、さらにそこから別の場所へって感じで何個か間に挟むんや」
「なるほど……そうなんだ……」
「それだけやなくて、こっちが気づかんところで勝手に通信するやつもあるからな。そういう抜け道も全部塞いでからや。せっかく隠したのに、別のところから本当の場所が漏れたら意味ないやろ?」
「なんとなく分かったわ……」
ようやく話についていけた朝霧だったが、そこで先ほど蓮が口にした言葉を思い出したらしく、隣に立つ蓮へ顔を向けた。
「蓮、過去を消すって言ってたけど、どうするつもりなの?」
「へ? 過去を消す?」
その言葉に寺川も反応し、作業していた手を止める。
「神崎さんの個人情報でも全部消すんか? そりゃちょっと無理があるで……」
「いや、そうじゃない。俺が消したいのは寒波前に俺が準備のためにやった記録だ」
「準備? なんやそれ?」
「ああ、簡単に説明する」
寒波が来る前、蓮はあらゆる場所から大量の物資を買い集めた。農家や果樹園、牧場、食肉加工業者、養鶏場、乳製品業者、水産関係、米や調味料に至るまで、その種類も取引先も膨大な数に及ぶ。電話やインターネットを使って直接注文したものも多く、代金を事前に支払い、その大部分を一つの物流倉庫へ集めていた。
あの時は一日でも早く、一つでも多く物資を確保することしか考えていなかった。しかし政府が倉庫から消えた物資を追っていると分かった今、それらすべてが自分へ繋がる痕跡になる。
蓮から大まかな内容を聞き終えた寺川は、先ほどまで浮かべていた笑みを消し、腕を組んだまましばらく考え込んだ。
「……全部消すんはやめた方がええな」
「なぜだ?」
「神崎さんが物資買っとったこと自体は、周りの人間も知っとるんやろ? でも具体的な量までは知らん」
「ああ、そうだな」
「ほんなら記録だけ全部なくなったら、そっちの方がおかしいやん。証言では買っとるのに、どこ探しても注文した記録がない。そんなもん、誰かが消しましたって言っとるようなもんやで」
そう言いながら寺川は椅子を引き寄せて腰を下ろし、指先で机を何度か叩いた。完全に消すのではなく、何を残せば不自然にならないのか。しばらく考えを巡らせた末、何か決まったのか、その指が止まる。
「半年分ぐらいにしとこか」
蓮も朝霧のも一瞬寺川が何を言ってるのか理解できなかった。
「非常時に備えて半年分ぐらい食料とか生活用品を買い込んどった。それぐらいなら多いっちゃ多いけど、そういう人がおってもおかしくはないやろ。せやから全部消さんと、普通の備蓄に見える分は残す」
「残りは?」
「そこが面倒なんよ」
寺川は椅子の背にもたれ、目の前のモニターを眺めながら頭の中で作業を組み立てていく。
「注文だけ消しても、金払った記録が残っとったらおかしい。支払いまで消しても、今度は配送会社に荷物運んだ記録が残っとるかもしれへん。全部消せたつもりでも、どっか一個残っとったら逆に『なんでここだけ記録がないんや』ってなるやろ?」
「ああ」
「せやから、消せるもんは消す。消したら辻褄が合わんもんは散らす」
「散らす? どういうことだ」
「神崎さん一人に集中しとる大量の取引を、別々の取引に見えるように崩すんや。もともと取引のあった客に混ぜられるもんは混ぜる。そうできへんところは、当時ほかにも客がおったように見える形にする。全部を完璧に作り直す必要なんかない」
「そんなことができるのか?」
「寒波の前やったら無理やで」
その問いには考える間もなく答えが返ってきた。
「会社も動いとる。担当者もおる。帳簿も伝票も残っとる。電話一本入れられたら『そんな客知らん』で終わりや。でも今はちゃう」
寺川の言う通りだった。あの寒波によって、取引に関わった会社の多くはまともに機能していない。担当者や配送に携わった人間が今も生きている保証すらなく、残されたデータや書類も完全とは限らない。寒波以前なら簡単に照合できたはずの一件の取引でさえ、今となっては事実を確認するだけでも難しい。
だからこそ、すべてを消す必要はない。
「消したら穴が残る。せやったら、最初から穴なんかなかったように見せた方がええ」
寺川の説明を聞きながら考えていた蓮は、もう一つ残っている大きな痕跡へと思い至った。
「株の方もなんとかならないか」
「株って?」
「寒波前にかなり稼いでる。その記録も残ってるはずだ」
「ああ、そういうことか。それは触らん方がええな」
先ほどとは違い、寺川は即座に首を横へ振った。
「証券会社だけやない。銀行にも金の流れは残っとるし、税金関係もあるやろ。一個消すだけなら簡単でも、あっちこっちに残っとる記録まで全部合わせようとしたら一気に面倒になる。それでどっかに食い違いが出たら、わざと消したって疑われるで」
「だが、寒波の直前に大金を稼いでるのはまずくないか?」
「珍しくはあるけど、それだけや。株で大儲けする人間なんか毎日いくらでもおるやん、神崎さんはもともと金融関係で働いとったんやろ? それだけで寒波を知っとった証拠にはならん」
確かに、利益を得た事実だけなら説明はいくらでもつく。問題になるのは、その直後得た金を使って全国から大量の物資を買い集めことだった。
「なら俺が儲けた金はどこに消えたってなるだろ」
「ああ、なるやろうな。だから別に使ったように見せかける」
「どういうことだ」
「例えばギャンブルやな。海外のオンラインカジノとか」
寺川はそう言って、点灯しているモニターへ身体を向けた。
「金が出ていった記録そのものは残す。ただ、別のところで使ったように見えればええんや」
株で大金を得たことも、半年分ほどの備蓄をしていたことも、それぞれを切り離してしまえば少し異常ではあっても決定的な証拠にはならない。政府に見つけられて困るのは、その金と全国から買い集めた大量の物資、そして物資が消えた倉庫までが一本の線で繋がることだった。
「できるか?」
蓮が尋ねると、寺川は椅子ごと振り返った。そこには難題を突きつけられた人間の顔などなく、むしろ自分の出番が来たことを楽しんでいるような笑みが浮かんでいる。
「誰に言うとる思ってんねん。うちにできんことなんかあらへん。ただ、やることがちょい多いから時間はかかるで」
「……どれぐらいだ」
「せやなぁ……四日はほしいわ」
「……分かった。でも、なるべく早くやってくれ」
「了解や、うちに任せとき! ……あ、神崎さん」
話が終わったと思い蓮が扉へ向かいかけると、背後から寺川に呼び止められた。振り返った先では、先ほどまで自信満々だった天才ハッカーが椅子から立ち上がり、なぜか少し腰を落としている。
「……なんだ?」
寺川は先ほどまで政府の調査を欺く方法について話していた人物と同一人物とは思えないほど期待に満ちた顔で、蓮を見上げる。
「ケーキは忘れんといてや! ほんまに頼むで!」
「……うまくやれたら考えとこう」
「絶対やで! ほんまにお願いやで!」
最後まで念を押してくる声を背中で聞きながら、蓮は部屋を出た。朝霧もそれに続いたが、扉を閉める直前、一度だけ室内へ視線を戻す。
寺川はもう蓮のことなど忘れたように機材へ向き直っていた。
それを確認してから、朝霧も静かに扉を閉めた。
◇
机の上には黒崎恒一の測定結果が広げられ、総理は今もなお数字へ視線を落としている。
「以前も申し上げましたが、能力だけを見れば化け物です。ですが、その力を正しく使うことができれば――英雄にもなれる、と」
岩森の言葉を聞きながら、総理は資料に並んだ数字をもう一度目で追った。以前聞いた時にはまだ可能性の話にすぎなかったはずの「英雄」という言葉が、今ではまるで違った意味を持って聞こえる。
「彼の能力は異常よ……安全なの?」
「当然、これからも私を含め監視役はつけます。ですが、黒崎なら問題ないと今でもその評価は変わりません。そこだけは言い切れます」
迷いのない返答に、総理は資料から顔を上げた。
「ずいぶん自信があるわね……」
「ええ、最初に出会った時からあいつは変わってません。あいつの正義感も甘さも、今の力があればさらに活躍してくれると信じてます」
「そう……」
総理は短く答えると、手にしていた資料を机へ戻した。
岩森が黒崎という人間を信用していることは分かった。しかし、一人の人間に対する信用と、国家を預かる立場で下す判断は同じではない。
「でも監視はしっかりしてちょうだい。あれだけの力が万が一こっちに向けられたら、厄介でしかないわ。その時は迷わず消しなさい。これだけは約束して」
その言葉が落ちた途端、岩森の返答がわずかに遅れた。
「……はい、承知してます」
それ以上、総理が念を押すことはなかった。黒崎を最も評価している岩森自身に監視を任せる以上、その意味は彼にも十分理解できている。
「ならいいわ。それで? 彼をこれからどう使うつもり?」
「まずはしばらく彼の身体を調べます。体力測定はもちろんですが、血液や細胞の検査も行い、変化が起きた原因を調べます。それと、全部隊だけでなく保護地域にいる者まで含め、同じような変化が起きた者がいないかまず調査します」
黒崎だけに起きた変化なのか、それとも既に同じような人間がほかにも存在しているのか。それすら、今の彼らには分からない。
「それがいいわ。何か分かったら、すぐに報告するのよ」
「はい、承知しました。では、今日はこれで失礼します」
岩森は一礼し、そのまま出口へ向かった。総理は何も言わず、部屋を横切っていくその背中を目で追う。
やがて重い扉が開き、岩森の姿を呑み込むように再び閉じると、広い会議室には総理一人だけが残された。
静まり返った室内で、総理は机の上へ置いた資料をもう一度手に取った。
そこに記された数字は、何度見ても人間のものとは思えない。
岩森がそこまで信じる男が、この先その力を何のために使うのか。
総理は黒崎の名前が記された資料を見つめ、口元をわずかに緩めた。
「化け物か、英雄か……見せてもらおうじゃないの」




