第31話 秘密の告白
パキッ――。
手の中から聞こえた小さな音に、黒崎は視線を落とした。持っていたガラスのコップに細い亀裂が走り、みるみる枝分かれしていく。慌てて力を抜いた時にはもうコップは黒崎の手の中で砕け、破片と中に残っていた水が床へ落ちた。
「……またか」
黒崎はしばらく動けなかった。何かに腹を立てていたわけでも、強く握ったつもりもない。ただコップを持っていただけ、のつもりだった。それなのに、これで何度目になるのか分からない。
ゆっくり手を開いてみる。掌には細かなガラス片がいくつか残っていたが、不思議なことに傷らしい傷は見当たらない。指先で破片を払い落としながら、黒崎は昨日のことを思い出した。部屋を入ろうしてドアノブを回した時、鍵がかかっていることを忘れ、ほんの少し強く捻った。それだけのはずなのに、次の瞬間には金属製のドアノブそのものが手の中で折れていた。
最初は設備が古くなっていたのだと思おうとした。コップだって、寒さと温度差で脆くなっていたのかもしれない。そうやって理由を探してきたが、同じようなことが何度も続けば、さすがにおかしいと気づく。
黒崎は自分の手を見つめた。
思い返せば、先日の任務でも明らかにおかしかった。
倒れた仲間へ鉄パイプを振り下ろそうとしていた男を見た瞬間から、記憶はところどころ曖昧になっている。それでも、自分がどれほどの速さで走ったのかはぼんやりと覚えていた。何メートルもあったはずの距離が一瞬で消え、大の男が自分の身体にぶつかっただけで吹き飛んだ。殴れば人が浮き、蹴れば身体ごと弾かれた。あんなことは、以前の自分には絶対にできなかった。
今朝受けた身体能力の測定も同じだ。
岩森から詳しい結果は聞かされていない。黒崎自身も、人を撃ったことが頭から離れず、言われるまま走り、言われるまま器具を握り、言われるまま重りを持ち上げただけだった。しかし今になって振り返れば、どれも普通ではなかった気がする。全力で走り続けても身体は思ったほど疲れず、重量は気にしなかったがバーベルが拍子抜けするほど簡単に動いた。
床に散らばったガラス片へ視線を落としながら、黒崎はようやく認めざるを得なかった。
――自分の身体に、何かが起きている。
その後の訓練でも、黒崎は自分の身体を意識せずにはいられなかった。今までなら何でもなかった動作をするたび、どこまで力を入れていいのか分からない。自分ではいつも通りに動いているつもりなのに、その感覚と実際に出ている力が噛み合わなくなっている。
それでも訓練を終え、昼になる頃には、黒崎も他の隊員たちと一緒に食堂へ向かった。
周囲ではいつも通りの会話が飛び交っていた。食事を受け取り、席へ向かおうとしたところで、近くにいた男が黒崎に気づき、面白そうに口元を歪めた。
「おい新入り、この前、随分活躍したみてえじゃねえか」
黒崎が足を止める。男は周囲の視線など気にする様子もなく、そのまま笑いながら続けた。
「どうだ? 初めて人を撃った感覚はよ? イキそうになったか? ぎゃはははは!」
「おい、やめとけ……」
近くにいた隊員が慌てて止めたが、男の笑い声は黒崎の耳に残った。
その瞬間、何度洗っても消えなかった感触が蘇った。
引き金を引いた指。銃口から飛び出した弾丸。そして、その先にいた人間。
「なんで……なんでそんなことを言えるんですか!」
気づけば、声を荒らげていた。
「相手だって生きるのに必死だっただけかもしれないんですよ!」
込み上げた怒りのまま、黒崎は目の前のテーブルへ拳を叩きつけた。
ドンッ!!
ただ、それだけのつもりだった。
相手を殴ろうとしたわけでもない。ましてや本気で力を込めたつもりなどなかった。それでも拳が触れた瞬間、厚みのあるテーブルがまるでクッキーのように砕けた。亀裂が一気に走り、固定されていた脚まで耐えきれずに崩れ、載っていた食器が料理ごと床へ落ちて激しい音を立てた。
それまで騒がしかった食堂から、音が消えた。
黒崎自身も何が起きたのか理解できず、砕けたテーブルと自分の拳を交互に見つめた。痛みはない。拳には傷一つなく、自分だけが何事もなかったようにそこに立っている。
「な、なんだよこいつ……」
さっきまで笑っていた男が、一歩後ろへ下がった。その顔から笑みは完全に消え、黒崎を見る目には明らかな怯えが浮かんでいた。
「ば、化け物……」
「ち、違っ……!」
黒崎は反射的に否定した。しかし顔を上げた瞬間、それ以上の言葉が出てこなくなった。
周囲にいた者たちが、みな自分を見ていた。
ほんの少し前まで普通に同じ食堂で飯を食い、会話をしていた人間たちが、今は誰も近づこうとしない。砕けたテーブルを見たあと、恐る恐る黒崎へ視線を戻す。その目に浮かんでいるものが何なのか、説明されなくても分かった。
黒崎はその場にいられなかった。
何も言わないまま食堂を飛び出し、自分の部屋へ戻った。扉を閉めようとしてドアノブへ手を伸ばしたところで、指が止まる。昨日、自分が潰したドアノブの感触が頭をよぎったからだ。
今度は壊さないよう、必要以上に慎重に指を添え、ゆっくりと扉を閉めた。
それから逃げるようにベッドへ腰を下ろすと、両膝を抱えて身体を丸めた。
ただ怖かった。
自分の身体に何が起きているのか分からない。この先どうなってしまうのかも分からない。何より、自分が自分ではなくなっていくような感覚が怖かった。
思えば、寒波が始まってからずっと必死だった。
マンションにいた時には、いつの間にか住民たちの代表にさせられていた。皆を守らなければならない、そのために自分が動かなければならないと、目の前のことだけを考えて必死にやってきた。
保護地域へ向かった時も、そこを去った後も、入隊してからも、慣れないことについていくことに必死で、そしてこの前の暴動では、目の前で起きることに対処するだけで精一杯だった。
ずっと必死だった。
だから、怖いなんて言っている暇がなかった。
「……俺だって、怖いんだよ……」
誰もいない部屋に、自分の声だけが小さく響いた。
黒崎は抱えた膝へ顔を埋め、そのまましばらく動かなかった。
どれくらいそうしていたのかは分からない。
やがて黒崎はゆっくりと顔を上げると、ふと思い出したようにポケットへ手を伸ばし、スマートフォンを取り出した。
◇
一方、その頃、刑務所では朝からそれぞれの作業が続いていた。
久世を中心とした面々は体育館の屋根で太陽光発電パネルの設置を進め、寺川はシステム室で機材の選別と整理に取りかかっている。朝霧も医務室に残されていた器具と蓮が《パンドラ》から出した医療物資を確認しながら、必要なものを整えていた。
そんな中、蓮は一人、刑務所の敷地を歩き続けていた。
やっていることは除雪だったが、スコップも重機も使っていない。ただ敷地内を歩き、《パンドラ》の範囲に入った雪を片っ端から収納していくだけだ。
半径およそ十メートル。蓮が歩みを進めるたび、その周囲から七十二日間降り積もった雪が音もなく消え、長い間その下に埋もれていた地面や通路が次々と姿を現していく。
建物の陰を抜け、塀沿いを進み、運動場を横切る。正面から見える部分には偽装のため雪を残し、それ以外の場所を朝から歩き続けた。
七十二日間、降り積もり、圧縮され続けた雪。
それだけの量を人間の手で処理しようとすれば、どれほどの時間と人員が必要になるのか想像もつかない。しかし《パンドラ》を持つ蓮にとって必要なのは、ただ歩くことだけだった。
そして午前中も終わりに近づいた頃、蓮は刑務所の端まで辿り着いた。
目の前には、まだ手をつけていない最後の雪が残っている。
蓮がそのまま歩みを進めると、雪は《パンドラ》の範囲へ入った端から静かに消えていき、最後の一塊まで完全に収納された。
「これで……終わったか」
足を止めた蓮は、その場から刑務所の敷地を見渡した。
雪に覆われた廃墟のようだった刑務所は、今では、埋もれていた通路も運動場も姿を現し、複数の建物が並ぶ施設本来の輪郭がはっきりと見える。
これからここが、自分たちの新しい拠点になる。
そう思いながら眺めていると、蓮もほんの少しだけ感慨深いものを感じた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
蓮は視線を落とし、端末を取り出して画面を確認すると、そのまま通話を繋いで耳へ当てた。
『……もしもし』
「黒崎か。久しぶりだな。最後に電話したのは、お前の入隊訓練前だったか?」
『ああ……そうだな』
聞こえてきた声は黒崎のものだった。しばらく連絡を取っていなかったが、蓮は刑務所の敷地を眺めながらその場に立ち止まった。
「無事に訓練も終わったか。どうだ、うまくやってるか?」
『この前、初任務に行ってきた……』
「もう任務に参加したのか。どうやら政府も人手不足がひどいようだな」
『……どういう意味だよ、それ』
「冗談だ。電話してくるってことは、うまくいったようだな」
いつもなら何か言い返してくるところだったが、電話の向こうから返事はなかった。蓮が僅かに眉を寄せると、しばらくして黒崎は口を開いた。
『……俺』
そこでまた言葉が止まった。
蓮は急かさなかった。スマートフォンを耳に当てたまま黙って続きを待っていたが、聞こえてくるのは僅かな息遣いだけで、さっきまでとは明らかに様子が違う。
「……どうした。何かあったのか?」
『俺……初めて、人を撃った……殺した』
その言葉を聞いて、蓮は何も言わなかった。
黒崎が初任務に行ったと聞いた時には、そこまで深く考えていなかった。
そして黒崎がわざわざ自分へ電話をかけてきたのも、任務が無事に終わったことを報告するためではなかったのだろう。
「……そうか」
『……驚かないのか?』
黒崎の問いに、蓮は少しだけ視線を落とした。
「こんな世の中になったんだ。今さら人の死なんて、珍しいことでもなんでもない」
電話の向こうが静かになった。あまりにも淡々と答えすぎたかとも思ったが、今さら取り繕うような言葉を口にする気にもならない。
『お前も……人を殺してるのか?』
今度は蓮が僅かに間を置いた。
「さあな……人を撃ったことはないな」
『そっか……』
黒崎がその言葉をどう受け取ったのかは、蓮にも分からなかった。黒崎はそれ以上尋ねてこなかったし、蓮も自分から何かを付け加えることはしない。そのまま二人とも、もうこの話題には触れなかった。
しばらくして、再び黒崎が口を開いた。
『なあ、蓮。俺……なんか変になっちまったようだ』
「変? 何がだ?」
『いつからかは俺にも分からない。なんて言ったらいいか……普通じゃない力が目覚めたっていうか』
その言葉を聞いた瞬間、蓮の目が鋭くなった。
耳に当てていたスマートフォンを僅かに握り直し、それまでよりも声の調子を落とす。
「……どういうことだ。力ってなんだ?」
頭に浮かんだのは、自分自身に起きたことだった。
《パンドラ》。
この世界の常識では説明できない力が自分に存在している以上、同じようなことが他の人間に起きないと断言することはできない。ましてや、それが黒崎の口から出たとなれば聞き流せるはずもなかった。
『どんな力っていうか……筋力とかが以前より増した感じだ』
「筋力が増した? 力って、そのままの意味のパワーが上がったってことか?」
『ああ。走る速度や筋力が、以前とは比べ物にならないほど向上してるんだ』
それから黒崎は、自分の身に起きたことを順番に話した。
以前より身体の調子が良くなっていたこと。最近になって力加減が合わなくなり、普通に扱っているつもりの物まで壊してしまうようになったこと。そして先日の任務では、自分でも理解できないほどの速さで走り、考えられない力を出したこと。
蓮は途中で口を挟まず、その話を聞き続けた。
少なくとも、黒崎が話しているものは《パンドラ》のような力ではなく、自身の身体能力が異常なほど向上していると言う内容だった。
自分が最初に想像したものとは違うことが分かると、蓮は僅かに肩の力を抜いた。
「すごいなそれ。まるで、なぜか盾を持って戦うタイツ男みたいだな」
『タイツは蜘蛛男だろ……』
電話の向こうから、僅かに笑う声が聞こえた。
『はは……相変わらずだな、お前』
ほんの少しだけ、以前の黒崎に戻ったように聞こえた。しかし、その笑い声は長く続かなかった。
『お前は俺が……怖くないのか?』
蓮はその質問に、僅かに眉を動かした。
「お前はお前だ。いいじゃないか。こんな世界になったんだ、力があった方が安心だろ」
『簡単に言うな……お前もこうなったら、自分が怖くなるって』
「……かもな、それで、その力はいつからなんだ?」
『具体的にいつかは分からない。以前……死にかけた時あったろ。回復したあたりから体の調子が良くなった気がしたんだ。ここまで極端じゃなかったけど』
黒崎の声が一度途切れる。
『で、目覚めるっていうのか、覚醒っていうのか……この前の任務で完全に変わった、と思う』
「……そうか。その力って、お前だけなのか? 他にいないのか?」
『分からない。少なくとも俺の周りにはいないし、噂も聞いたことがないな』
「妙なこともあるもんだな」
『……そうだな』
短いやり取りのあと、再び沈黙が訪れた。
だが今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違う空気があった。
蓮には、電話の向こうで黒崎が言葉を選んでいるように感じられた。
『なあ、蓮……』
その呼びかけを聞いた時、蓮はなんとなく黒崎が次に何を言おうとしているのか分かった気がした。
以前にも一度、黒崎は何かを尋ねようとして、結局その言葉を飲み込んだことがある。
蓮は何も言わず、黒崎の言葉を待つ。
ただスマートフォンを耳に当てたまま、雪の消えた刑務所の敷地を静かに眺めていた。
やがて、黒崎が口を開いた。
『お前も……なんか力が……あるんじゃないか?』




