第30話 人の限界
久世との話を終えると、蓮たちはそのまま体育館の屋上へ向かった。
気温はまだ零下十度前後。目の前には長い寒波の名残が、白い塊となって分厚く積み上がっている。
「じゃあ、先に片付けるか」
蓮はそう言うと、そのまま雪の中へ歩き出し、数歩進んだところで《パンドラ》を発動する。
次の瞬間、蓮を中心とした周囲の雪が消えた。
雪が崩れたわけでも、溶けたわけでもない。つい先ほどまで確かにそこにあった大量の雪が、初めから存在しなかったかのように消失し、その下に隠れていた屋根が露出する。
蓮は止まらず、そのままゆっくりと屋上を歩いていく。
十メートルほどの範囲に入った雪が次々と《パンドラ》へ収納され、蓮が通った場所だけが綺麗に屋根へ戻っていく。巨大な除雪車を使うより遥かに速く、雪をどこへ運ぶか考える必要さえない。
「ああ、まさに神の所業……なんという奇跡……」
後ろから久世の声が聞こえたが、蓮は振り返らず、体育館の屋上を端から端まで歩く。
ただそれだけだった。
ものの数分で大量の雪が消え、白一色だった屋上のほぼ全体が姿を現した。
「……こんなもんか」
蓮は振り返る。
久世はしばらく奇跡を目の当たりにした者のような熱が宿っていたが、我に返ったように表情を収めると、露出した屋根へ視線を戻した。
「これなら十分です。まず屋根の状態を確認します。長い間あれだけの雪が載っていたので、問題がないか見てから設置した方がいいです」
「分かった。必要なものは出しておく」
事前に久世から聞いていたものを《パンドラ》から取り出していく。
久世が最初に設置すると決めた太陽光パネル三百枚を、蓮は屋上の空いている場所へ置いた。
続いて設置用の架台、ケーブル、接続に必要な機器、電動工具。久世が使えそうだと判断したものを一通り出し終える頃には、広かった屋上の一角が資材で埋まっていた。
久世はすぐにそれらの中身を確認し始める。
「足りないものがあったら言え」
「はい。ただ、設置には時間がかかります。三百枚ありますからね」
「構わん。急いで雑にやる必要もない」
「はい、分かりました。あとの作業はお任せください」
久世は頷くと、すぐに他の者たちを呼び始め、早速仕事を始めるつもりらしい。
その様子を確認してから、蓮は少し離れた場所にいた寺川へ目を向けた。
「寺川」
「おっしゃあ! 次はうちやな? 最強PCを作るんやな!」
待っていたと言わんばかりに寺川がやってくる。
「それはお前次第だ。いくぞ」
「了解や!」
そして蓮は朝霧も連れ、三人は体育館をあとにした。
◇
次に向かったのは、刑務所にもともと設けられていたシステム室だった。
扉を開けると、壁際にはいくつもの機器を収めたラックが並び、その向かいには複数のモニターと端末が設置されている。監視カメラや電子錠をはじめ、施設内の各種システムを管理するための設備らしい。
もっとも、今は電気が来ていない。
モニターはすべて黒く沈み、ラックに並んだ機器からも作動音一つ聞こえなかった。
寺川は部屋へ入るなり、蓮たちを置いて奥へ進んだ。
「へえ……」
ラックの前で足を止め、上から下まで眺める。次に端末へ移り、その周囲を確認すると、感心したように何度か頷いた。
「さすが、この規模の刑務所やったらそれなりに機材は揃っとんなあ。思ってたよりちゃんとしとるわ」
「使えそうか?」
「電気ないから、今は何とも言えへんな。見た感じ綺麗でも、中が死んどるかもしれへんし」
寺川はそう言いながらも楽しそうに室内を見て回り、やがてラックの一つを覗き込んだところで顎に手を当てた。
「これをそのまま生かせるんやったら……もうちょい弄りたいなあ。もっと容量あるサーバーとストレージがあったら強化できそうやねんけど……」
「これか?」
蓮が《パンドラ》から一台の機器を取り出した。
寺川の目が止まった。
「……神崎さん、それ持っとったん?」
「ああ、これで合ってるか?」
「合っとる合っとる! ちょい見せて!」
さっきまでとは明らかに違う勢いで寺川が近づき、取り出された機器を確認する。
そして、すぐに蓮を振り返った。
「ほな、ネットワークスイッチとかUPSもない? あとNASでもええし、ルーターとか予備の端末も欲しいな。できれば業務用のやつ――」
「待て。何が何だか分からん」
「……ほえ?」
「名前を言われても、どれのことか俺にはよく分からん」
蓮は少し考えてから、部屋の中央にある空間へ目を向けた。
「それっぽいものなら大量にある。まとめて出すぞ」
「え、ちょ――」
寺川が何か言い終えるより先に、《パンドラ》から機材が現れ始めた。
デスクトップPCやノートPC、大小さまざまなモニター。サーバーやストレージ、ルーター、スイッチ、UPSをはじめ、蓮自身には用途の分からない通信機器や周辺機器、箱に入ったままのケーブル類まで次々と床へ並んでいく。
「ちょ、ちょい待って!」
寺川が慌てて声を上げた。
「なんだ?」
「な、なんだやない! これ……これは……」
寺川は床へしゃがみ込むと、すぐそばにあった機器を手に取った。型番を確かめた途端、目が輝く。
「お宝やんけえええええ!」
今度は別の箱を開ける。
「これもや! うわ、こっち業務用やん! こんなんまであるで!」
完全に蓮たちの存在を忘れたように、次から次へと機材を確認していく。
「うわあ……ほんま夢のようやで。神崎さん、ようこれだけ集めたな!」
「まあ、いろんなところでな」
「まあええわ、神崎さんのやることにいちいち驚いてられん……」
そう言いながらも、寺川の手は止まらない。
使いたいものを見つけるたびに横へ寄せ、次の箱を開け、また何かを発見しては顔を輝かせる。いつの間にか寺川の周囲には、本人が選び出した機材が次々と積み上がっていった。
朝霧がその様子を眺めながら、小さく笑った。
「ふふ、ずいぶん楽しそうね」
「あたりまえや! そら楽しいに決まっとるやん!」
寺川は振り返りもせずに答えた。
「今あるシステムがどこまで生きとるか確認して、使えるもんは残す。そこにこれ組み込んで、足りんところ交換して……これだけあったら、かなり遊べるで!」
「遊ぶなよ」
「言い方や、言い方。ちゃんと仕事はする言うとるやん」
そう返しながらも、寺川の顔から笑みは消えていなかった。
◇
その後体育館へ戻ると、すでに屋上では作業が始まっていた。
久世が屋根の状態を確認しながら設置位置を決め、植松や辰巳がその指示に従って架台を運んでいる。火野は工具を手に固定方法を確かめ、田所や山下も自分たちにできる作業へ加わっていた。
蓮がいないからといって、止まっている者は一人もいない。
「すごい……もう始めてるのね」
「ああ、いいことだ」
朝霧の言葉に答えながら、蓮はしばらく屋上を見上げた。
大量の資材を集めることも、それを屋上まで一瞬で運ぶこともできる。邪魔な雪を消すこともできる。だが、蓮一人では太陽光発電設備にはならない。久世たちが動いて、初めて使えるものになる。
そして、蓮はその中に水城を見つけた。
「水城、ちょっといいか」
呼ばれた水城が久世に一声かけてから下りてきた。
「はい! どうしました?」
「ここで使う水について聞きたいことがある」
「水……ですか?」
「ああ。俺もかなりの量は持ってはいる。この人数ぐらいの飲み水や生活用水程度ならどうにでもなるが、それに依存されても困る」
飲むだけではない。料理にも使うし、身体を洗い、服を洗い、トイレにも使う。
十人とはいえ、それが毎日続けば結構な量になる。
「元々ここはどうしてた? 山の上まで水道を引いてるのか?」
「水道ももちろん来ています。ただ、主に使っていたのはそちらではありません」
「じゃあ?」
「地下水ですよ。敷地内に深井戸があります」
「……井戸?」
思わず聞き返した。
こんな山の上にある刑務所で、井戸という言葉が出てくるとは思っていなかった。
その反応が分かったのか、水城が僅かに笑う。
「私も赴任したばかりの頃は同じように驚きました。建設時に地下水脈を調べて、かなり深いところまで掘ったそうで、そこからポンプで汲み上げていました」
「それをそのまま飲んでたのか?」
「ここの水源はかなり水質がいいんです。定期検査でも、そのまま飲用できるくらいだったと聞いています」
水城はそこで一度言葉を切った。
「ただ、何百人も生活する施設ですから、実際には汲み上げた水を濾過して、消毒してから各建物へ送っていました」
「なるほどな」
そこまで聞いて、蓮は別のことが気になった。
「でも、これだけ寒波がありゃ井戸は凍ってないのか?」
「地下の水源自体は、おそらく大丈夫です。かなり深いですから。ただ……地上側は分かりません」
水城の視線が施設の奥へ向いた。
「ポンプも処理設備も、電気が使えなくなってからずっと止まっています。配管やバルブも含めて、一度確認しないと何とも言えません」
「結局、ここでも電気か」
蓮一度顔を上げ、体育館屋上で作業している久世たちを見つめた。
「分かった。井戸が使えるようになるまでは俺が水を出す」
「助かります」
「電気が戻ったら久世の手が空いた時に見てもらってくれ。二ヶ月以上止まってたんだ。動いたからって、そのまま飲めるとは限らん。一応水質も確認しとけ」
「ええ。最初はしばらく水を流して、状態を確認した方がいいでしょうね。水質も改めて調べます」
「ああ。それで問題なければ井戸に切り替える」
そして蓮は水城を作業へ戻すと、隣にいる朝霧を見た。
「朝霧。次はお前だ」
「……もしかして、医務室?」
朝霧はすぐに察したらしい。
「ああ、頭が回るじゃないか」
「私も見ておきたかったところよ」
二人は体育館を離れ、刑務所の医務室へ向かった。
◇
扉を開けると、朝霧が真っ先に中へ入った。
「よかった。思ってたよりちゃんとしてる」
数百人を収容する刑務所だけあって、そこは救急箱を置いただけの部屋ではなかった。
診察台や処置台、医療用ベッド。血圧計や体温計、聴診器、パルスオキシメーターのほか、酸素ボンベや吸引器、AEDも残っている。壁際には薬品棚や器具棚が並び、奥には医薬品用の冷蔵庫や洗浄用の設備もあった。
朝霧は入った時からほとんど蓮を見ていなかった。
棚を開け、残っている物を確認し、次に処置台へ移り、器具の状態を確かめる。
先ほどまでとは動きが違う。
ここは完全に朝霧の領分だった。
「で、どうなんだ?」
「設備そのものは悪くないわ。基本的な診察や応急処置なら十分できると思う。ただ、薬自体はもうほとんど使われてる」
朝霧が棚の一つを開いた。
ガーゼや包帯、消毒用品などは少量残っているものの、それ以外はほぼ空だった。
「暴動の時も怪我人が大勢出たって言ってたし、その前からずっとここだけでなんとか対処してたんでしょうね」
さらに奥へ進み、医薬品用の冷蔵庫を開ける。
そこで朝霧の手が止まった。
「これらは……使わない方がいいわね」
「駄目なのか?」
「長い間電気が止まってたからね。温度管理が必要な薬は、見た目が平気でも保存状態を信用できないわ」
朝霧は中を確認したあと、静かに扉を閉じた。
「患者に使ってから駄目でした、じゃ済まないもの」
「そうか、なら処分しよう」
蓮は部屋の中央に空間を作った。
「これはどうする?」
《パンドラ》から医療機器を取り出す。
朝霧が振り返り、その目が僅かに大きくなった。
「あ……」
麓の町にある病院へ行った際、朝霧自身が選んだものだった。
患者の状態を確認するためのモニター、心電計、輸液ポンプ、シリンジポンプ、ポータブルの超音波診断装置、追加の酸素関連機器に処置器具。
あの時は車に積める量に限界があり、朝霧が必要性の高いものから選んでいた。
「もう車から収納していたのね。気づかなかったわ」
「ああ、降りる時ついでにな」
朝霧はしゃがみ込み、一つずつ確認していく。
「これがあれば随分違うわ。こっちも使えるし……これはここに設置すればいいわね」
「まだあるぞ」
「……え?」
今度は消耗品だった。
ガーゼ、包帯、消毒用品、医療用手袋、マスク、注射器、点滴用品、縫合用品。
さらに備蓄していた医薬品を出そうとしたところで、朝霧が手を上げた。
「わわわ、ちょっと待って、蓮」
「なんだ?」
「別に全部出さなくていいわ」
「使わないのか?」
「使うわよ。でも、必要な分だけここに置きましょう」
朝霧は蓮が取り出した箱を見ながら続ける。
「あなたの中に入れておけば状態が変わらないんでしょう? だったら予備まで全部ここに出す必要はないわ」
「なるほど」
「当面使う分だけ私が選ぶ。それ以外は蓮が持ってて」
「分かった。任せる」
朝霧は再び医務室を見回した。
元々あった設備に、病院から持ち出した機器が加わった。さらに蓮が備蓄していた薬品や消耗品もある。
完全な病院にはほど遠い。
大きな手術ができるわけでもない。
それでも、ここで十人が生活していくための医療環境としては、かなりのものが揃いつつあった。
「……これなら、かなりのことができるわ」
「足りないものは?」
「まだあるわ。病院へ行った時は、車に積める量しか持ってこられなかったし。実際にここを使うなら、もう少し充実させる必要があるわね」
「ここが落ち着いたら補充しよう。それまでに必要なものをまとめておいてくれ」
「ええ、そうするわ」
朝霧はそう答えると、何を残し、何を捨て、何を補充するのか、早速棚の中身を確認し始めた。
もう蓮が横にいる必要はなく、蓮は何も言わず、静かに医務室を出た。
まだやることが残っている。
蓮は外へ出ると、刑務所の正面へ目を向けた。門の外から見える場所には手をつけるつもりはなかった。
蓮は建物の裏手へ回ると、そのまま敷地内を歩き始めた。同時に《パンドラ》を発動させ、積もっていた雪が音もなく消え、その下に埋もれていた地面や通路が次々と姿を現していく。
一度に消せる範囲には限界があるが、蓮はゆっくりと刑務所の敷地内を歩いていった。
それだけで、七十二日間降り積もった雪が、その周囲から静かに消えていった。
◇
机の上には、夥しい数の資料が積み上げられていた。
一つ処理しても、次がある。
各地の被害状況、食料と燃料の残量、避難者の移送、インフラの損壊、治安悪化の報告。
総理は一枚ずつ内容を確認し、必要なものには指示を書き込み、時折こめかみを押さえながら次の資料へ手を伸ばしていた。
岩森が部屋へ入ってからも、その手は止まらない。
以前よりさらに頬が痩せている。
目元に浮かぶ疲労も、隠し切れるものではなかった。
「総理、またやつれましたね。少し休まれたらどうですか」
「……そんなことも言ってられないわ」
総理は書類から顔を上げることなく答えた。
「雪が止んだら止んだで、問題が山積みよ」
「確かにそうですね。最初は、ようやくこれから復旧作業に入れると思っていたのに……」
そこで初めて、総理の手が止まった。
「復旧なんて、そんな甘いわけないでしょ」
一枚の資料を机へ置き、ようやく岩森を見る。
「雪が止んでもインフラも生産も復帰したわけじゃない。秩序もない。ここだって、これ以上人を受け入れられないどころか、さらに人を減らしてる。問題が起こらない方がおかしいわ」
「確かに。秩序といえば、各地のコミュニティがそれぞれ自衛しています」
「そんな生やさしいものばかりじゃないわ」
総理は机の端に積まれた別の資料へ手を伸ばした。
数枚めくり、そのうち一枚を岩森の方へ滑らせる。
「略奪に強盗。武装した集団同士の衝突も増えてる。自衛のために集まったのか、最初から奪うつもりで集まったのか、もう区別できないところまであるわ。かえって混乱を招いてる」
岩森は資料へ視線を落とした。
知らない報告ではない。
むしろ、その一部は自分のところを通ってきたものだ。
「……すみません。なるべく対処します」
「いいえ」
総理はすぐに否定した。
「責めてるわけじゃないわ」
岩森の顔を見れば、そんなことはできなかった。
彼らが何もしていないわけではない。
限られた人員と燃料、物資の中で動き続けている。それでも、救えない場所の方が圧倒的に多いだけだ。
「今まで通り、見せつけの鎮圧と政府の重要施設周辺だけをやってちょうだい」
「……」
岩森の唇が僅かに動き、何かを言おうとしたのだろう。
だが、机の上に積み上げられた資料へ視線を落とし、その言葉を飲み込んだ。
「……承知しました」
短く答え、総理もそれ以上は何も言わず、手元の資料を脇へ寄せた。
「ところで、今日はどうしたの?」
「ああ、そうでした」
岩森は持っていたファイルへ目を落とした。
「今日は、この前お話しした黒崎についてです」
「あら、もう帰ってきたの?」
総理の表情が少し変わる。
「暴動があったようだけど、彼は無事だったの?」
「はい。本人は無事です。こちらにも死傷者は出ましたが……黒崎のおかげで助かった隊員もいます」
「そう」
総理の表情が僅かに緩んだ。
「それはよかったわね」
しかし、岩森はそこで話を終えなかった。
手にしたファイルを見たまま立っている。
総理はその様子をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「でも、それを言いに来たわけじゃないんでしょ?」
「……はい」
岩森はファイルを開いた。
「前回お話しした、彼の身体能力についてです」
総理の指が止まった。
「……また何か分かったことがあったの?」
「ええ。この前、彼の身体能力が劇的に上がっていると申し上げましたが、実際の現場でも大活躍しました。それこそ、英雄話のような結果を出したそうです」
「そこまですごいの?」
「私も最初に報告を聞いた時は、大袈裟ではないかと疑いました」
岩森は苦笑するでもなく、淡々と続ける。
「なので今朝、彼にもう一度、以前と同じ身体測定を受けてもらいました」
総理の目が岩森から、その手にあるファイルへ移った。
「……どうだったの?」
少し間を置く。
「また成長してた?」
岩森は答えなかった。
代わりに、ファイルから数枚の資料を抜き取り、総理の前へ置いた。
「成長なんて生やさしいものではありません。まず、こちらを見ていただければ」
「何よ、それ……」
総理は訝しみながら資料を手に取った。
最初に目に入ったのは、過去の測定記録だった。
訓練を始めた頃の黒崎は、ごく普通の青年に過ぎない。
それが短期間のうちに急激な伸びを見せ、以前岩森が報告した時点では、一般人だったとは思えない身体能力へ達していた。
あの時点でも十分に異常だった。
だが、その横に並べられた今日の記録を見た瞬間、総理の眉が寄った。
「え?……私の目がおかしいのかしら?」
「いえ、間違いではありません……五秒台です」
百メートル走。
一度だけではない。
測定ミスを疑い、条件を確認して何度か走らせても、大きく結果が変わることはなかった。
総理の視線が次の項目へ移る。
全力疾走による持久力測定。
三十分。
「これ……三十分で止めたってこと?」
「はい」
「限界が来たから?」
「いいえ。こちらが止めました」
総理が顔を上げる。
岩森は表情を変えなかった。
「三十分走り続けても、呼吸はほとんど乱れていませんでした。汗も僅かです。次の測定もあったので、今回はそこで止めました」
「…………」
総理は再び資料へ目を落とした。
握力。
そこには数値が書かれていない。
「……測定不能?」
「用意した握力計の上限を振り切りました」
次の項目。
ベンチプレス。
三百キロ。
一瞬、総理の目が止まる。
その横には、測定終了と記載されていた。
「三百キロ……?」
「その場で用意できた最大重量が三百キロでした」
「これを……持ち上げたの?」
「はい」
「どんな状態で……きつそう?」
岩森は首を横に振った。
「いえ、かなり余裕がありました。それ以上をすぐに用意できなかったので、そこで測定を終了しています」
総理の手が完全に止まった。
百メートルを五秒台。
三十分の全力疾走でも、ほとんど呼吸は乱れない。
握力は測定不能。
三百キロを軽々と持ち上げ、それでも限界には届いていない。
どれか一つなら、測定機器の故障を疑えたかもしれない。
あるいは測定方法を間違えたのだと考えることもできた。
だが、そのすべてが同じ一人の人間から出た結果だった。
もはや、それらの数値を人間の身体能力として説明することの方が難しい。
「ちょ……ちょっと待ちなさい」
総理がようやく顔を上げた。
先ほどまで浮かんでいた疲労は消え、岩森を見つめる目が大きく開かれている。
「これ、何かの悪い冗談じゃないわよね?」
「はい。今朝測定した内容です」
岩森は静かに答えた。
「私もその場にいました。正真正銘、彼自身が出した数値です」
「…………」
沈黙が落ちた。
総理はもう一度資料を見るが、もちろん数字は変わらない。
何度見ても、そこには同じ結果が記されている。
しばらくして、ようやく口が開いた。
「……ば、化け物じゃない……」
すみません、ログインができず、更新が遅くなりました。




