第29話 力の使い道
引き金を引いた右手の感触が、まだ消えない。
黒崎恒一は洗面台の前に立ち、蛇口から流れる水に両手を差し入れていた。石鹸を泡立て、指の間から爪の際まで何度も擦る。もちろん、血などついていない。それでも右手の人差し指だけは、いくら洗ってもあの時の感触がまだ残っているような気がした。
はじめて人を撃った。
あれから二日が経っている。戦闘を終えて基地へ戻ったのは昨日のことだが、時間が経てば薄れると思っていた記憶は、むしろ鮮明になっていた。
引き金を引いた瞬間、世界が異様なほどゆっくりになった。銃口から飛び出した弾丸が空間を進み、男の額へ吸い込まれ、そのまま頭部を貫いて爆ぜる後頭部。その一連の光景を、黒崎はまるで一枚ずつコマ送りの映像を見るように覚えている。
必要だったことは分かっている。あの状況で撃たなければ、こちら側に犠牲者が出ていた。それでも、必要だったという事実と、自分が人を殺したという事実は別のものだった。
黒崎は水を止めると、濡れた右手をしばらく見つめた。今日だけで何度ここへ来たのか、もう覚えていない。手を洗っている間だけは、引き金に触れているような指先の感覚が少し薄れる。それだけの理由で、気がつけばまた蛇口を捻っていた。
「おい、黒崎」
背後から声をかけられ、黒崎は顔を上げた。同じ部隊の隊員が洗面所の入口に立っている。
「岩森副司令が呼んでるぞ。すぐ執務室へ来るようにとのことだ」
「あ、はい……分かりました」
黒崎はタオルで手を拭き、そのまま岩森の執務室へ向かった。
扉をノックすると、中から短く返事が聞こえた。
「おう、入れ」
「……失礼します」
黒崎が入ると、岩森は机の上に広げていた書類から顔を上げた。普段と変わらない表情だったが、すぐに椅子の背へ体を預け、黒崎を正面から見た。
「話は聞いた。初めて人を撃ったんだってな」
「……はい」
「気分はどうだ?」
何を聞かれているのかは分かった。しかし、黒崎はすぐには答えられなかった。
「正直……まだ、よく分かりません」
「そうか。まあ、誰もが通る道だ」
岩森はそれ以上答えを求めることなく、黒崎の右手へ視線を落とした。
「何度洗った?」
「……え?」
「手だよ」
黒崎もつられるように自分の手を見た。
「分かりません。今日だけでも何度も」
「……俺もやってた」
意外な言葉に黒崎が顔を上げると、岩森は僅かに笑った。
「初めて人を撃った後だ。何度洗っても手に何かが残ってる気がしてな。意味がないと分かっていても、気がつけば洗っていた」
「副司令も……?」
「ああ。人を撃って気分がいい奴なんて、そうはいない。もし何も感じないなら、その方がどこか壊れてる」
岩森はそこで一度言葉を切った。
「俺は昔、一瞬判断が遅れたせいで仲間を失ったことがある。だからといって、全く迷うなとは言わん。迷わなくなったら、それはそれで危険だ。ただ、守らなきゃならないものがある時には、引き金を引かなきゃならないこともある」
黒崎は黙って聞いていた。
「正しいかどうかじゃない。自分がどれだけ自分の正義を信じられるかだ」
「……自分の正義、ですか」
「ああ、そうだ」
その言葉は、黒崎を励ますためだけに口にしたものには聞こえなかった。だが岩森はそれ以上何も言わず、やがて僅かに表情を変えた。
「さて……話を変えよう」
岩森は机の上の書類へ軽く手を置いた。
「お前んとこの班長から聞いた。あの後、随分活躍したそうじゃないか」
「あの後……ですか?」
「倒れていた仲間を助けた時だ。何があった?」
黒崎は眉を寄せた。
「ああ……それが……あまり覚えてないんです」
「覚えてない?」
「はい。倒れた仲間に、男が鉄パイプを振り下ろそうとしているのが見えました。それで……助けないと、と思ったところまでは覚えています」
そこから先の記憶は途切れ途切れだった。走った。誰かにぶつかった。殴ったような気もする。蹴ったような記憶もある。しかし、それがどの順番だったのか、どれほどの時間が経っていたのかさえ曖昧だった。
「夢の中みたいな感じで……自分でも、何をしたのかよく分からないんです」
「そうか」
岩森は追及しなかった。少し考えた後、椅子から立ち上がる。
「……よし、久しぶりに体力測定してみるか」
「体力測定ですか……?」
「ああ。身体を動かした方が、いろいろ考えなくて済むだろ。訓練中はよくやっただろ。あれを一通りやるぞ」
「……はい」
それから黒崎は、訓練施設へ移動して一通りの測定を受けた。
百メートル走から始まり、全力に近い速度をどこまで維持できるかを調べる持久走、握力、ベンチプレス、そして反応速度。訓練期間中にも何度も経験した内容だったため、黒崎は岩森に言われるまま淡々とこなしていった。
すべての測定を終えても、額に僅かな汗が浮かんでいる程度だった。呼吸もほとんど乱れていない。
「あれ、もう終わりですか?」
「……ああ。今日はもういい。戻っていいぞ」
「そうですか……分かりました。失礼します」
黒崎は軽く頭を下げ、そのまま測定室を出ていった。
一人残った岩森は、しばらく何も言えなかった。
手元には、訓練期間中に記録された黒崎の測定結果がある。そして、その横には今日測定したばかりの数字が並んでいる。
岩森は無言で二つの記録を何度も見比べた。
「まさか……ここまでとは」
◇
「まずは電気を取り戻すぞ」
刑務所の下見を終えた蓮は、先ほど確認した設備室へ戻ると、久世に必要なものを確認させた。
外から送られてくる電力そのものが完全に失われたわけではない。問題は、それを刑務所内へ引き込むための設備の一部が故障していることだった。久世が内部を確認し、交換が必要な箇所を特定すると、蓮は《パンドラ》の中に収納してある電気設備や部品を思い返した。
「具体的にどれが使えるか分からん。とりあえず、それっぽいものを出すぞ」
設備室の空いている場所へ、蓮は保管していた電気関連の部品や機器を次々と取り出していった。久世は驚きながらもすぐに確認を始め、箱を開けて規格や型式を一つずつ調べていく。
やがて、その手が止まった。
「あ、これです! ありがとうございます。これなら使えます」
「直せそうか?」
「はい! これだけ揃っていれば問題ありません。ただ、交換した後に一通り試験はさせてください」
「分かった。そこは任せる」
外部からの電力を再び利用できるようになれば、それだけでも状況は大きく改善する。しかし、それだけに頼るつもりは蓮にもなかった。電力供給そのものが不安定な今では、いつ供給がまた止まるかわからない。
蓮は設備室を出ると、今度は少し離れた場所に十分な空間を確保させた。
「次はこれだ」
何もなかった場所へ巨大な機械が現れ、久世が思わず一歩下がった。
「……発電機ですか?」
「ああ、そうだ」
刑務所にも非常用の発電機は残っている。しかし燃料は現在尽きており、今後この場所を本格的な拠点として使うなら、予備の電源はいくらあっても困らない。
久世は巨大な発電機を見上げた。
「すごい……どこでこんなものを……」
「ここに来る途中の施設に残されていたものだ。そのまま放棄されてたものをついでに回収しただけだ」
「施設……ですか。いえ、これだけのものが動けば、かなり状況が変わります。しかし燃料も相当必要ですね」
「燃料も当然ある。だが――」
蓮はそう答えたものの、発電機だけで電力問題を解決するつもりはなかった。
燃料は有限だ。
《パンドラ》の中には相当量の燃料を保管しているが、それでも使い続ければいつかはなくなる。簡単に補給できない以上、日常的に消費し続けるのは得策ではない。
「――普段はこっちを使えばいい」
蓮が再び手を動かすと、今度は大量のパレットが並び始めた。
一つや二つではない。梱包された荷物が次々と現れ、あっという間に周囲を埋めていく。
久世がその一つへ近づき、梱包に印刷された文字を見た。
「……中国語?」
「ああ。多分、輸出用に工場で保管されてたんだろうな」
「これ、何なの?」
朝霧も興味を持ったのか、横から荷物を覗き込む。
「開ければ分かる」
久世が梱包の一部を外すと、その中から黒い板状のものが姿を現した。
「太陽光パネル……じゃないですか!」
「ああ、そうだな」
久世が興奮気味に周囲に並ぶパレットを見回す。
「一体、どれだけ持ってるんですか……?」
「正確な数は分からんが、多分五千枚くらいはあるはずだ。工場にあったものをまるごと持ってきたからな。設置用の架台やケーブルなんかも一緒にあるぞ」
「な、五千枚……」
久世はしばらく言葉を失ったまま、目の前に積み上がったパレットを見つめていた。
「……それだけあれば、電力事情が一気に変わりますよ」
久世はすぐに必要な電力を計算し始めた。
「居室や共同スペースの照明、厨房、冷蔵庫や冷凍庫、監視設備、給排水、それに暖房や給湯設備を動かすための電力まで含めても、三百枚あれば十分だと思います。暖房と給湯の熱そのものは既存のボイラーを使いますから、全部を電気で作るわけじゃありません」
「だから全部設置する必要はありません。まず三百枚くらいで様子を見ましょう」
「三百で足りるのか? 数ならかなりあるぞ」
「はい。一枚四百五十ワット前後なら、三百枚で定格出力は百三十五キロワットです。もちろん一日中その出力が出るわけではありませんが、今使うのはこの一棟が中心ですから。それに、今の環境なら太陽光発電に有利です」
「寒い方がいいのか?」
「はい。発電効率だけを見るなら、寒い方がいいです」
久世の説明によれば、太陽光パネルは冷えるほど発電効率が上がるという性質を持っており、真夏に比べれば、マイナス10度の環境での発電効率は約二十%も向上するという。
久世は頭の中で必要な設備を確認しながら説明を続ける。
「三百枚ならある程度余裕を持たせられます。暖房や給湯そのものまで全部電気だけで賄うわけじゃありませんし、昼間に余った分は大型蓄電池へ回せます」
「夜はその蓄電池から使うわけか」
「そうです。昼間は太陽光を使って、余った分は蓄電池に貯めます。夜はそこから使い、外部電力も使える時は利用して、発電機はそのどれも使えない時の予備に回しましょう」
「分かった。なら、それでいこう」
「……ただ、問題は設置ですね」
久世は体育館の方角へ目を向けた。
「体育館の屋上なら設置できると思います。周囲に日光を遮るものもほとんどありません。ただ、今は屋上にもかなり雪が積もっています。除雪してから架台を固定して、パネルを運び上げて配線までとなると、かなり時間はかかると思います」
「いや、除雪は俺の方でやる。それに屋上だけじゃない。刑務所の正面から見えるところ以外は、全部片付けるつもりだ」
「全部……ですか?」
「ああ。正面は今のままでいい。外から来た奴へのカモフラージュだ」
久世は一瞬、刑務所全体を覆っている膨大な雪を思い浮かべたが、すぐに昨日の光景を思い出したのか、それ以上は何も言わなかった。蓮が一度に消した氷山の量を考えれば、自分の常識を当てはめる意味がない。
「工具もある。電動のものを一通り出すから、使いやすそうなのを選んでくれ。パネルも架台も必要な分は俺が屋上に出す」
「それなら、かなり時間を短縮できます」
もちろん、架台の固定、配線や接続といった作業まで消えるわけではない。そこから先は久世の知識と、残った者たちの手が必要になる。
「なら、始めるぞ」
方針が決まった。
蓮がまず雪を収納し、体育館の屋上へ三百枚の太陽光パネルと架台、必要なケーブルや電動工具をまとめて出す。その後は久世が設置位置や作業手順を決め、全員で取り付けを進めていく予定だった。
「おっしゃー! うちもやったるでえ!」
寺川も誰より張り切った声を上げて腕まくりをしたが、蓮はそんな彼女を見てすぐに止めた。
「待て、お前は別だ」
「……へ?」
「そんな体じゃ大した力仕事はできんだろ」
寺川は自分の細い腕を見下ろし、それから蓮を見る。
「……え? なら、うちに何させるんや? そ、そっち系はうちもあんま経験ないで……」
「馬鹿かお前……でも、ハッカーとしては天才なんだろ?」
「え?」
一瞬きょとんとしていた寺川だったが、何を言われたのか理解すると一気に表情を変えた。
「そっちかいな! それやったら誰にも負けへんで! 国防システムすら楽勝や!」
胸を張る寺川を見ながら、蓮は僅かに呆れた顔をした。
「それを得意げに言うな」
「だって事実やもん」
「なら、お前は外から情報を集めるための環境を整えろ。できるだけいいものをな」
「……ええんか?」
寺川の目が僅かに見開かれた。
「ほんまにええねんな!?」
「ああ。俺が持ってるもので使えるものは全部使え」
「まじかいな……」
「ああ」
その一言を聞いた瞬間、寺川の目が露骨に輝いた。蓮が言った全部という意味は、寺川にも十分理解できる。
「持ってるものをまとめて出すから、そこからお前が使えるものを選べ」
「……好きなん選んでええの?」
「ああ」
「……天国やん」
「ただし、遊びじゃないぞ」
蓮がそう言うと、寺川もすぐに表情を戻した。
「これから先、外で何が起きているのか分からないまま動くのは危険だ。周辺や政府が何をしているのか、取れる情報はできるだけ集めろ」
それは今までの蓮に欠けていたものでもある。
食料も武器もある。そして今、新しい拠点まで手に入れようとしている。だが、どれだけ物資を抱えていても、外で何が起きているのか知らなければ、知らないところから危険が迫ってくる。
寺川はしばらく蓮を見つめていたが、やがて大きく頷いた。
「分かった。うちに任せて。生きてる回線が一本でもあるんなら、拾えるもんは全部拾ったる」
「ああ、頼む」
蓮は短く答え、寺川を真っ直ぐ見た。
「お前はこれから、ここの目と耳になれ」




