第27話 神の降臨
神が降臨された。
俺はようやくそのことを理解した。
なぜ、このふざけた寒波が到来したのか。
なぜ、世界がこれほどまでに変わってしまったのか。
すべては俺たち人間に課せられた試練だったのかもしれない。
そう――神を、救世主を、この世界へ降臨させるために。
冷たい雪の上に膝をつき、両手を合わせたまま、久世はつい先ほど自分の目の前で起きた奇跡の光景を思い返していた。
始まりは、ほんの一言からだった。
「――それなら、お前らに一つ面白いものを見せてやろう」
蓮は建物から少し離れた開けた場所まで歩いていくと、そこで足を止め、後ろについてきた八人へ振り返った。
「少し離れてろ」
何をするつもりなのか分からないまま、水城たちは言われた通りに距離を取った。朝霧だけは蓮がこれから何をするつもりなのか察していたが、それでも具体的に何をするのかまでは知らされていない。
全員が見守る中、蓮が右手を前へ出した。
その手の中に突然、小さなプラスチックの物体が現れた。
「……おもちゃ?」
最初に声を上げたのは寺川だった。
蓮の手のひらに乗っていたのは、小さなおもちゃの車だった。子供が遊ぶような何の変哲もない玩具を見せられ、水城たちは揃って困惑した表情を浮かべる。先ほどまであれほど意味深なことを言っていた男が何を始めるのかと思えば、出てきたのがおもちゃなのだから無理もなかった。
「なんや、それ。手品でもやるんかいな?」
寺川が半ば拍子抜けしたように尋ねたが、蓮は答えず、そのおもちゃを雪の上へ放り投げた。
そして何気なく数歩下がった次の瞬間、凄まじい衝突音が響いた。
ガシャンッ――!!
「うわっ!?」
水城たちの身体が一斉に跳ねた。
つい先ほどまで何もなかったおもちゃの真上に、一台の乗用車が出現していた。数メートルほどの高さから落下した車体は、そのまま雪面へ激突し、おもちゃの車を一瞬で押し潰しただけではなく、自らも激しく跳ねながら車体を歪ませた。窓ガラスが砕けて周囲へ飛び散り、足元には衝撃が微かな振動となって伝わってくる。
「……は?」
寺川の口から間の抜けた声が漏れた。
誰も状況を理解できない中、蓮は何事もなかったように再び右手を動かした。
今度は、先ほどとは比べものにならない巨大な影が乗用車の真上に現れた。
ドォンッ――!!
数トンはあるロードローラーが落下し、その圧倒的な重量をまともに受けた乗用車の屋根が一瞬で潰れた。ボンネットもドアも原形を失い、残っていたガラスが弾け飛ぶ。車体を構成していた鉄板が耐え切れずにひしゃげ、押し出され、甲高い金属音を上げながら雪の中へ沈み込んでいった。
「お、おい……何が起きてんだよ……」
火野が思わず一歩後ろへ下がった。
重機を扱ってきた彼女だからこそ、今落ちてきた物の重量が嫌というほど分かる。あれが人間の頭上に落ちればどうなるかなど、想像する必要すらなかった。
しかし蓮はまだ終わらせるつもりがないらしく、潰れた乗用車とその上に乗ったロードローラーを一瞥すると、水城たちへ視線を向けた。
「もう少し離れてろ」
今度は誰一人として理由を尋ねなかった。先ほどより明らかに速い動きで全員が後ろへ下がり、十分な距離を取ったところで蓮が再び右手を上げる。
直後、空から鉄が降った。
ドドドドドドドドッ――ン!!
最初の一本が轟音とともにロードローラーの脇へ突き刺さり、雪と土を大きく跳ね上げた。続けて二本目、三本目と巨大な建築用の鋼材が何もない空間から出現し、ほとんど間隔を置かずに地面へ叩きつけられていく。
鋼材同士が激突する甲高い音と、何トンもの重量が地面を穿つ鈍い衝撃音が入り交じり、刑務所の敷地全体が震えているのではないかと思うほどの振動が足元から伝わってきた。
あるものはロードローラーへ激突して車体を歪ませ、別のものはすでに原形を失った乗用車へ叩きつけられ、その残骸をさらに押し潰していく。斜めに落ちた鋼材同士が激しく擦れ合うたびに火花が散り、周囲には雪と土が容赦なく飛び散った。
誰も声を発することができなかった。
水城は目を見開いたまま立ち尽くし、田所は唇を僅かに開いたまま動かない。普段なら真っ先に何かを口にしそうな寺川でさえ冗談の一つも出てこず、植松は鋭い目で目の前の光景を見つめながら、その力が人間へ向けられた場合に何が起きるのかを理解していた。火野も、辰巳も、山下も、そして久世も、それぞれ違う表情を浮かべながら、ただ蓮が引き起こした光景を見つめている。
やがて、最後の鋼材が地面へ激突した。
耳に残る金属音が次第に遠ざかり、辺りには無惨に潰れた乗用車とロードローラー、その上や周囲へ折り重なる大量の鋼材が残された。ほんの数十秒前まで平坦な雪原だった場所が、まるで大規模な工事現場で事故でも起きたかのような惨状へ変わっている。
それでも、蓮は右手を下ろさなかった。
ふと空を見上げ、その手をさらに高く掲げる。
その動きを見た辰巳が、僅かに表情を変えた。
「まだ何か――」
言葉の続きを、轟音が呑み込んだ。
ドォォォォォォォォォン――!!
それまでとは比較にならない衝撃だった。
空から落ちてきたのは、もはや一つの物体などと呼べる量ではなかった。膨大な雪と氷が何もない上空から突如として出現し、そのまま巨大な塊となって地上へ襲いかかった。
最初の一撃だけで地面が大きく揺れ、積もっていた雪が衝撃波に押されるように周囲へ広がった。さらにその上へ次々と雪と氷が落下し、先ほどまで剥き出しになっていた大量の鋼材を呑み込み、ロードローラーを埋め、潰れた乗用車さえも完全に覆い隠していた。
「くっ……!」
水城が反射的に腕で顔を庇った。
巻き上げられた雪が猛烈な勢いで押し寄せ、視界が一瞬で白く染まる。寺川が悲鳴を上げながら身を屈め、他の者は吹きつける雪に押されて何歩も後ろへよろめいた。皆は足を踏ん張り、咄嗟に周囲の人間を確認しながら身構えたが、そんな彼らの反応など意にも介さないように、雪と氷は轟音を立てながら積み重なり続けた。
もはや何が起きているのか分からない。
耳を支配するのは、巨大な質量が地面へ叩きつけられる音と、氷同士が砕けながらぶつかり合う音だけだった。足元からは絶えず振動が伝わり、視界を埋め尽くした白い雪煙の向こうでは、さらに巨大な何かが形作られている。
やがて轟音が止んだ。
舞い上がった雪が少しずつ落ち、白く閉ざされていた視界がゆっくりと開けていく。
「……なんや、これ……」
寺川の震えた声が聞こえた。
先ほどまで何もなかった場所に、山ができていた。
人の背丈など比較にもならない巨大な雪と氷の塊が刑務所の敷地にそびえ立ち、その下には乗用車もロードローラーも、あれほど大量に降り注いだ鋼材さえも完全に呑み込まれている。つい先ほどまで自分たちが立って話をしていた場所に突然現れたそれは、雪山というより、小さな氷山がそのまま空から落ちてきたとでも表現した方が近かった。
誰も動けなかった。
目の前にあるものが現実だと頭では理解していても、感覚がそれを受け入れることを拒んでいる。
その中で、蓮だけが平然としていた。
自分が作り出した氷山をしばらく眺めたあと、再び右手を前へ伸ばす。
そして、軽く腕を振った。
その瞬間、巨大な氷山が何もなかったかのように消えた。
あまりにも呆気なかった。
轟音もなければ、崩れる音さえない。何百トンあるのかも分からない雪と氷も、その下に埋まっていた鋼材もロードローラーも乗用車も、蓮が腕を振った瞬間、すべてが跡形もなく消失した。
あとに残ったのは、度重なる落下の衝撃によって大きく抉れた地面だけだった。
先ほどまでの轟音が嘘のような静寂が訪れた。
水城たちは誰一人として口を開けなかった。目の前に残された巨大な窪みが、今起きたことが幻でも手品でもないことを否応なく証明している。あれほどの質量を何もない場所から出現させ、そして一瞬で消す。それが何を意味するのか理解しようとすればするほど、言葉が出てこなかった。
そんな八人へ振り返った蓮は、まるで大したことでもないように告げた。
「これが俺の力の一部だ」
最初に動いたのは久世だった。
何かを言おうとしたのか僅かに唇を震わせたものの、声は出なかった。そのまま数歩前へ進み、蓮の正面まで来ると、久世はゆっくりと雪の上へ膝をついた。
そして両手を合わせ、蓮へ向かって祈り始めた。
「……何してる?」
「神よ……どうか我々をお許しください。そして、どうか我々をお導きください」
今度は蓮が言葉を失った。
数秒ほど本気で何を言われているのか分からない顔をしたあと、眉間に皺を寄せる。
「……何言ってんだ、お前?」
「私には……分かります」
久世は真剣だった。恐怖で錯乱している様子もなければ、冗談を言っている様子もない。祈るように蓮を見上げ、その目に揺るぎない確信を宿したまま言った。
「あなたは神――救世主なんですね」
それを聞いた蓮はしばらく久世を見つめたあと、僅かに困ったような顔をして朝霧へ視線を向けた。
「……ちょっとやりすぎたか?」
「当たり前よ! 私にやった程度でも十分驚くわよ!」
「な!? 神に向かってなんたる態度を!」
「……え?」
突然久世に叱責され、今度は朝霧が呆気に取られた。
しかし久世はそんな彼女には構わず、すぐに水城たちへ振り返った。百日近く一緒に生き延びてきた仲間たちへ向けるものとは思えないほど厳しい声が、雪の残る敷地に響いた。
「何してるんですか! あなたたちも早く跪きなさい!」
一瞬、水城たちは呆気に取られた。
本来なら、何を言っているのかと疑問を抱いて当然だった。ところが、つい先ほど目の前で見せつけられた光景があまりにも人間の常識から外れていたせいか、誰一人として久世の言葉を笑うことができなかった。
乗用車を落とし、ロードローラーでそれを潰し、大量の鋼材を雨のように降らせた。その直後には巨大な雪と氷の塊を出現させ、氷山を作り上げたかと思えば、今度は腕を一度振っただけでそのすべてを消してしまった。
そんな男が目の前に立っている。
最初に一人が雪の上へ膝をつくと、それにつられるようにもう一人も身体を沈めた。そこからは早かった。誰かに強制されたわけでもないのに、一人、また一人と膝をつき、僅か数秒後には、残ることを選んだ八人全員が蓮の前で跪いていた。
蓮は少しだけ気まずそうな表情を浮かべ、目の前に並んだ八人を見渡した。
「おい、そういうのはいい。俺は神でもなんでもない……早く立て」
最初は誰も反応しなかったが、やがて水城が恐る恐る顔を上げる。
「で、ですが……」
「いいから早く立て」
「……はい」
その言葉で水城がようやく立ち上がると、他の者たちも雪を払いながら一人ずつ立ち上がっていった。
しかし久世だけは最後まで動こうとしなかった。
「おい、お前も早く立て」
「いえ、そんな恐れ多いことは……」
「しつこいぞ。立たないと話が進まん」
「……分かりました」
久世は明らかに納得していない様子だったが、それでも蓮の言葉に逆らう方が恐れ多いと思ったのか、ようやく渋々と立ち上がった。ただし、その表情に浮かんでいる蓮への敬意が消えることはなかった。
それを見た蓮は、やれやれと僅かに疲れたような息を吐いた。
「さっきも言ったが、これが俺の力の一部だ。全部話すと長くなるから、手短に話すぞ」
それから蓮は、自分が一度この寒波を経験していることを話した。
一度目の世界で命を落とし、次に目を覚ました時には寒波が始まる一か月前まで時間が戻っていたこと。そして、その時には《パンドラ》の能力に目覚めていたこと。二度目の寒波を生き抜くため、その一か月を使って食料、燃料、薬品、機械、建築資材をはじめ、生き残るために必要だと考えたあらゆるものを収納してきたことを、必要な部分だけ簡潔に説明した。
「そんなことが……ありえるんでしょうか……いや、実際にこの目で見てしまうと……」
水城は信じられないという顔をしていたが、先ほどの光景を見せられた以上、否定する言葉も続かなかった。
「私はもう、神崎さんが神だと言われても信じますけどね……」
田所が半ば呆然としたまま言うと、火野は大きく抉れた地面を見ながら腕を組んだ。
「すげえな……パワーショベルで向かっていっても、勝てる気がしねえ……」
「そんな次元じゃない。戦車だったとしても、あんな攻撃には耐えられん」
元自衛官である植松が真顔でそう答えると、辰巳も低く笑いながら蓮を見た。
「……まるで鬼神か闘神だな」
皆がそれぞれに感想を口にする中、寺川だけは何かを考えるように黙り込んでいた。しかし、やがて何かを閃いたらしく、突然大きく目を見開いた。
「分かったで! 神崎さん、あんた異世界から転移してきたんちゃう!? さっきの魔法やろ!? 召喚魔法……いや、最後のは氷魔法か! なあ、うちにもできるんかな!?」
「そんなわけないでしょう」
久世が呆れたように寺川を否定する。
「一度死に、そして蘇った。このお方は……やっぱり神なんですよ」
久世は大真面目だった。
一方で、その横では朝霧が口元を押さえ、必死に笑いを堪えている。
蓮は神だの鬼神だの異世界人だのと好き勝手なことを言い始めた面々に呆れていたが、そこで一人だけ先ほどから会話に加わっていないことに気づいた。
「……どうした?」
「あ、いえ……すみません」
声をかけられた山下は、ひどく気まずそうに視線を逸らした。
「私、ちょっと漏らしてしまったようで……着替えてきてもよろしいでしょうか……」
「……早く行け」
「は、はい、すみません……」
山下は申し訳なさそうに頭を下げると、一足先に、最初に蓮たちと出会ったあの部屋へ戻っていった。
しばらくして山下が戻ってきても、皆の興奮はまだ完全には収まっていなかった。
外はすでに暗くなり始めており、蓮は時間を確認すると、いつまでもここで話していても仕方がないと一同を見渡した。
「もうこんな時間だ。飯食いながら、これからのことを話そう」
「あ、それなら私が食事の用意をしましょう!」
すぐに田所が申し出たが、蓮は首を横に振った。
「いや、今日はいい。せっかくだ、馳走してやる。食事ができる場所に案内してくれ」
「……え? いいんですか?」
「ああ」
水城たちは顔を見合わせたが、今は誰も蓮の言うことに逆らおうとはしなかった。
水城が案内したのは、これまで皆が使っていた広い共用食堂ではなく、庁舎棟の一角にある小さな会議室だった。以前は来客への対応や打ち合わせなどにも使われていた部屋で、十人ほどなら十分に食事ができる大きさの机と椅子が残されている。
全員が席についたところで、蓮は何も置かれていないテーブルを見ながら尋ねた。
「何か食いたいものはあるか?」
しかし、誰もすぐには答えなかった。水城も田所も「何でも構いません」と遠慮し、他の者たちも似たような返事をするばかりだった。
それを聞いた蓮は少し面倒そうな表情を浮かべると、テーブルの上で右手を振った。
次の瞬間、先ほどまで何もなかったテーブルが様々な料理で埋め尽くされた。
蓮が選んだのは和食だった。寿司や刺身を中心に、焼き魚、唐揚げ、焼き鳥、卵焼き、煮物など、居酒屋のテーブルに並んでいそうな料理が所狭しと並んでいる。
それを見た瞬間、全員の表情が変わった。
寒波が始まってから、まともな食事などほとんど口にしていない。特にここ一か月ほどは食料の残量が目に見えて減り、何を食べるかを選ぶどころか、今日何かを口にできるだけでもありがたいと思うような生活が続いていた。
そんな彼らの目の前に、新鮮な刺身や寿司、湯気まで立っている温かな料理が並んでいる。
まるで夢でも見ているようだった。
「これも俺の力だ。一旦収納すると、その状態まで保存される。鮮度も落ちてないから、安心して食っていいぞ」
「ほ、本当に食べても……よろしいんですか?」
水城が料理と蓮を交互に見ながら尋ねる。
「ああ。そのために出したんだ」
「うち……もう死んでも悔いはあらへん……ほんまやで……」
それを合図にしたように、皆が料理へ手を伸ばし始めた。
最初こそ遠慮がちだったものの、一口食べた瞬間から箸を動かす速度が変わった。寿司を頬張り、刺身を口に運び、温かな料理を噛み締めるうちに、会話さえ次第になくなっていく。誰もが目の前の食事を味わうことだけに夢中になり、中には俯いたまま目元を拭っている者までいた。
蓮と朝霧もしばらく一緒に食事を取り、皆の勢いがようやく少し落ち着いたところで、蓮が箸を置いた。
「そろそろいいか。話を聞いてくれ」
その一言で、全員の動きが止まった。
寺川だけは名残惜しそうに目の前の料理へ視線を残していたが、それでもすぐに蓮へ顔を向けた。
「これで俺の力が少し分かったと思う。本来なら、初対面のお前らにこの力を見せるべきじゃないことも分かってる。だが、俺は時間が惜しい」
その言葉に、水城たちが僅かに不思議そうな表情を浮かべた。
「さっき外でも言ったが、雪が止んだからって、外の世界が元通りになったわけじゃない。今はまだ各地に残っている物資で生きられる奴も多いだろうが、それがなくなれば結局また奪い合いになる。ここだって、いつ誰に襲われるか分からない」
蓮はそこで一度言葉を切り、全員の顔を見渡した。
「だから俺は、最短でこの刑務所を強化したい。そのためには俺の能力を使うのが一番早い。お前らに力を見せたのもそのためだ。しっかり働くなら、お前らの命と衣食住は俺が保証してやる。その代わり、働かない、あるいは俺の決めたことに従えないなら、ここから追放する。それだけだ」
その言葉の意味を理解できない者はいなかった。
実際に《パンドラ》の力を見た今、その有用性がどれほど異常なものなのかは説明されるまでもない。何トンもある重機や大量の建築資材、さらにはあれほどの雪と氷まで一瞬で出し入れできるのなら、通常なら何週間、何ヶ月とかかる作業さえ、蓮が加わるだけで常識では考えられない速度で進められる。
それ以上に、水城たちには《パンドラ》の中に何が、どれほど収納されているのか見当すらつかなかった。
「これだけのものを見せつけられて、さらにこんな食事まで出されたんじゃ……ここを出たいと思うどころか、余計に離れられなくなりますね」
水城が苦笑すると、寺川も何度も頷いた。
「あんたに逆らうなんて、死んでも嫌や、ちゃうな、命がいくつあっても足らんわ」
「また、こんな飯を食わせてくれるのか……?」
火野が妙に真剣な顔で尋ねる。
「毎日は無理だが、たまには出してやる。最初のうちはこっちで食材を提供するから、そっちで調理してもらう」
「それならお任せください。この人数ならまったく問題ありません。頂いた食料の量と内容に合わせて、私が作りましょう」
田所が即座に答えると、朝霧も笑顔で手を挙げた。
「あ、それなら私も手伝えます。料理なら私も少しできますので」
その瞬間、蓮の動きが僅かに止まったが、特に何も言わなかった。
「……とにかく、時間が惜しい。明日はまず刑務所全体を見て回る。それから、それぞれにできることを確認し、すぐに動いてもらうつもりだ」
「分かりました。では明日は私が案内しましょう。それに、幸いここにいる人員ならできることはかなり多いと思います。それについても、明日皆で話し合いましょう」
「ああ、それでいい」
水城の言葉に蓮は頷くと、まだ料理の残っているテーブルを見渡した。
「明日からしっかり働いてもらうが、今日は好きなものを食え。他に何か食いたいものはあるか?」
蓮は、食事を始める前と同じ質問をもう一度皆に投げかけた。
今度は申し訳なさそうではあったが、しっかり回答が返ってきた。
水城と田所は少し迷ったあと寿司のおかわりを希望し、火野と植松は肉料理を頼んだ。山下と辰巳は野菜をほとんど食べてこなかったからとサラダがあるか尋ねた。
そして、寺川は待ってましたとばかりに身を乗り出した。
「なあ神崎さん、スイーツはなんかあらへんか? うち、めっちゃ甘党やねん。ケーキかなんかない?」
「ケーキか……」
蓮は少し考えたあと、テーブルの空いている場所へ手を伸ばし、そこへ色とりどりのケーキが数種類現れた。
「うわぁ……やばいやばいやばい……」
寺川の目が、露骨に輝いた。
苺のショートケーキやチョコレートケーキなどを、まるで宝石でも見るかのようにしばらく眺めていた寺川だったが、我慢できなくなったのか、すぐに一つを取って口へ運び始めた。
「めっちゃうまい……もう、うちの人生に一片の悔いもないで……」
「そんなにおいしいの?」
あまりにも幸せそうに食べる寺川を見ていた朝霧も興味を引かれたらしく、自分も食べたいと言って席を移動した。すぐに二人はケーキを前に話し始め、先ほどまでの緊張が嘘だったかのような空気がその一角だけに生まれていく。
蓮はそれを眺めてから、まだ何も頼んでいない久世へ視線を向けた。
「おい、お前も今日は遠慮しなくていいぞ。何か食いたいものがあれば言え」
「い、いえ。私はもう十分です」
「いいから、言ってみろ」
「あ、ありがとうございます! そうですね……それでは、カレーをお願いしてもよろしいですか?」
「そんなものでいいのか? もっと他にもいろいろあるぞ」
「いえ。以前はよく食べていましたので」
「そうか、それなら出してやろう」
蓮は特に深く考えることもなく、《パンドラ》から一皿をテーブルへ取り出した。
しかし、そのカレーを見た瞬間、蓮の表情が変わった。
「すまん、間違えた。これはあいつが作ったものだ。すぐに別のを用意しよう」
蓮が皿を戻そうとした瞬間、久世が慌てて身を乗り出した。
「神――あ、いえ、これは神崎さんが普段食べているものですか?」
「いや。この前、たまたまカレーを食べることになって、それで――」
「それがいいです! ぜひそれでお願いします!」
「……これをか?」
「はい! ぜひ!」
久世は蓮が普段食べているものだと勘違いしたらしく、先ほどまでの遠慮が嘘のような勢いで皿を自分の前へ引き寄せた。
「本当に……いいんだな?」
「もちろんです! 神崎さんが普段食べているものを、私も食べてみたいです!」
「いや、別にいつもこれを食べてるわけじゃ……」
「それでもいいんです!」
そこまで言われれば、蓮も止める理由はなかった。
久世は嬉しそうにスプーンを握り、茶色いルーをたっぷりと掬って口へ運んだ。
「……ぐふっ!」
「おい、大丈夫か……?」
久世の動きが完全に止まった。
目を見開き、口元を僅かに震わせながら、どうにか最初の一口を飲み込む。
「は、はい……さすがですね……」
「……何がだ?」
「普段から、このような試練をご自身に課しておられるんですね……」
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
しかし久世はそれ以上蓮の言葉を聞こうとはしなかった。
覚悟を決めたように二口目を掬い、続けて三口目を口へ運ぶ。額に汗を浮かべながら、それでも一度たりともスプーンを置かず、まるで苦行に耐える修行僧のように食べ続けた。
そしてついに……、一皿すべてを平らげた。
ちょうどその時、寺川とケーキを食べていた朝霧が蓮の隣へ戻ってきた。
「あれ? それって私が作ったシチューだよね?」
「……ああ、そうだ」
「わ! 全部食べてくれてる! ねえ、どう!? おいしい?」
満面の笑みを向けられた久世は、空になった皿を前に、少し虚ろな目で朝霧を見上げた。
「神の……味でした……ごちそうさまでした」
「まあ! 嬉しいこと言ってくれるわね! 聞いた蓮? 神の味だって! もう、大袈裟ね」
そう言いながらも、朝霧の表情には隠しきれない嬉しさが溢れていた。
それを見て、蓮は何も言わなかった。
皆が十分に腹を満たした頃には、外はすっかり暗くなっていた。
蓮は残った料理を確認してから水城へ向き直る。
「具体的な作業や住居区なんかは明日決める。今日は各自、いつも通り休んでくれ」
「はい、もちろんそれで構いませんが……神崎さんはどうされますか? 今はもう暖房が使えませんので、我々と一緒に休みますか?」
「いや、俺はいい。今日は外を使わせてもらう」
そこで蓮の声が僅かに低くなった。
「いいか、俺たちが出たら、今夜は誰も外へ出るな」
それまでの食事で緩んでいた空気が、一瞬で変わった。
水城は反射的に何をするつもりなのか尋ねそうになったが、今日外で見せられた光景が脳裏をよぎり、その言葉を飲み込んだ。
「……分かりました。皆にも伝えておきます」
「ああ、そうしてくれ」
食事を終えると、蓮はテーブルの上に残っていた食器や残骸までまとめて《パンドラ》へ収納した。
その後、水城たちは蓮と朝霧に別れを告げ、八人揃って部屋へ戻った。
しかし、すぐに眠れる者などいるはずがなかった。
今日一日だけで、あまりにも多くのことが起きた。
突然現れた神崎蓮という男が、この刑務所を自分の拠点にすると告げた。外へ出ることを望んだ十五人には車と食料まで用意し、自分たちには残ることを認めた。そして人間の常識では説明できない力を見せつけられ、一度死んだあと寒波が始まる一か月前へ戻ってきたという信じ難い過去まで明かした。
それだけではない。
百日近く忘れていたような食事まで、惜しげもなく振る舞われた。
「いや、でもあれ絶対魔法やって。うち、こういうのめっちゃ詳しいねん。絶対異世界転移やで、ほんま神やで」
「だから神の御業だと言っているでしょう」
「どっちも違うと思うんですが……」
寺川と久世のやり取りに水城が疲れたように口を挟み、火野や植松もそれぞれ自分が感じたことを話していく。
あまりにも規格外な一日にそれぞれがことなる感想をあげた。
ただ、一つだけ全員の認識が一致していた。
もう、何があっても神崎蓮という男には逆らわない。
そこにある感情は一つではなかった。純粋な恐怖を感じている者もいれば、あれほどの力と物資があれば生き残れるという期待を抱いている者もいる。久世のようにすでに崇拝に近い感情を向けている者もいた。
それでも、誰一人としてその状況を悪いものだとは思っていなかった。
少なくとも、あの男についていけば明日食べるものに怯える必要はない。
働く限り、命と衣食住を保証する。
この百日余り、そんな言葉を本当に実現できる人間などどこにもいなかった。
しかし蓮なら、それができる。
全員がそんなことを思っていた、その時だった。
ドォン――!
「っ!?」
突然響いた轟音に、部屋にいた全員が身体を震わせた。
「な、なんや!?」
寺川が椅子から立ち上がり、水城たちも反射的に窓の方へ顔を向けた。
そして次の瞬間、外ではもう一度。
ドォォォォン――!!
先ほどよりも腹の底へ響くような重い音が、夜の刑務所に轟き、今度は全員が窓際へ集まり、暗闇の向こうへ目を凝らした。
そして、言葉を失った。
つい先ほどまで何もなかったはずの敷地に、巨大な何かが圧倒的な重圧感を放ちながら鎮座していた。
さらに出口門の方角へ目を向ければ、その出口を塞ぐように巨大な雪と氷の塊がそびえ立っている。
「……なんや、あれは……」
寺川が小さく呟いた。
誰も返事をしなかった。
本来なら、何が起きたのか確かめるために外へ出ていたはずだった。昨日までの彼らなら、間違いなくそうしていただろう。
しかし今夜は、窓越しにその異様な光景を見つめるだけで、誰一人として扉へ向かおうとはしなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
本来二話の内容でしたが、これまでフラストレーションが溜まっていた読者の方も多いと思うので、少し長いですが一話にまとめてみました。(今2時前です!笑)
蓮はパンドラを見せつけるリスクを当然理解はしていますが、それ以上に彼は時間を重視しましたね。
みなさんならこの極限世界の中、あんな能力と食事を見せられたら、どうしますか?
ぜひコメント欄で一緒に語りましょう!




