第26話 ここに残るということ
山下の話を聞き終えた蓮は、わずかに緩めていた口元をすぐに元へ戻した。
「まあ、確かにこの環境じゃ農業どころじゃないな。でも、残りたいというなら今は好きにすればいい」
「は、はい」
山下が少し戸惑ったように頷く。
蓮はそこで山下との話を切り上げると、今度は少し離れた場所に集まっている者たちへ視線を向けた。
刑務所を離れることを選んだ者たちだった。
「話はさっき言ったとおりだ。お前らは出ていく。それでいいんだな?」
蓮が改めて確認すると、しばらく互いの顔を見合わせていた中から、一人の受刑者が一歩前へ出た。
「ああ、そうだ。ただ……本当に車と食料を用意してくれるのか……?」
「約束は守る」
蓮は迷うことなく答えた。
「ただ、一度ここを出たら、もう戻って来られないと思ってくれ。入り口も封鎖するかもしれない」
「……封鎖?」
男だけではない。周囲にいた何人かも不思議そうな表情を浮かべた。
この刑務所で百日近く生きてきた彼らは、ここが決して生活しやすい場所ではないことを誰よりもよく知っている。広すぎる施設は維持するだけでも手間がかかり、電力も燃料も限られている。何より、食料はもうほとんど残されていない。
そんな場所の出入り口をわざわざ封鎖する。
外へ物資を探しに行くことさえ難しくなれば、自分たちで逃げ道を塞ぐようなものだ。
疑問を抱いた者は一人ではなかっただろう。しかし、それを口にする者はいなかった。
彼らにとって重要なのは、この場所を出られることだった。
「ああ、構わない。俺たちもここじゃなくて外へ行きたい。新しい拠点を探して、そこで生活を始めるつもりだ。ここに戻ってくるつもりはそもそもない」
「そうか。他もそれでいいな?」
蓮が全員を見回す。
一人、また一人と頷き、最後には誰からも異論は出なかった。
「なら話は決まりだな。ちょっと待ってろ」
そう告げると、蓮は集団から少し離れた場所まで歩き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、今日下町で交換したばかりの連絡先を探す。
下町の代表を務める男、片岡だった。
蓮が通話ボタンを押すと、数回の呼び出し音の後、すぐに相手が出た。
『もしもし、もう連絡をくれるとは思わなかったな。どうかしたのか?』
「俺たちの目的地に到着した。それで頼みたいことがある」
『近いと言ってたのに、随分時間がかかったな。それで頼みってなんだ? あと、お前らが向かった場所って……車が向かった方向を見て、まさかと思うが……』
「ああ、刑務所だ。ちょっと長話をしてしまってな」
『お前らなあ、住む場所ぐらい提供するって言っただろ。なんでまたそんな場所に……それに……』
そこで片岡の声が一瞬止まった。
何を言おうとしたのかは、蓮にもだいたい察しがついた。
「話は大体聞いた。ここの受刑者といろいろトラブルがあったみたいだな。でも俺には関係ない話だ。それより頼みたいことがある。十数人乗れる小型のマイクロバスか輸送車を一台、提供してほしい。もちろん交換条件は聞くつもりだ」
『……そんなもの用意して、どうするつもりだ?』
片岡の声から、それまでの軽さが消えた。
『あんたらは歓迎するが、受刑者は受け入れられんぞ。そっちの副所長にもそう伝えているはずだ。商工会で決めたことだから、俺個人じゃどうにもならん』
「いや、そうじゃない。むしろ、その受刑者たちをよそに送るためだ」
『……は?』
「あんたらも、その方が安心だろ」
『どういうことだ? それならこっちとしてもありがてえが……なんだってお前らがそんなことしなきゃならないんだ?』
蓮はこれまでの経緯を簡単に説明した。
刑務所に残っていた者たちの多くが、ここを離れて別の場所で生活を始めることを希望していること。そのための移動手段がないこと。そして蓮自身は、この刑務所を今後使うつもりでいること。
「というわけだ。俺もここに暮らす以上、知らない奴は少ない方がいいからな」
『そういうことなら……小型の輸送車を一台提供するぐらいはできる。でも……』
そこで片岡の歯切れが悪くなった。
「なんだ? 何か問題でもあるのか?」
『いや、車自体はもうそこら中にあるんだが……問題はガソリンだ。今じゃ車よりそっちの方がよっぽど高いぞ。それを負担してまで、そこに拘るのか?』
「構わん。人見知りなんでな。人が少ないところが性に合ってる」
『……あんたが言うと冗談に聞こえねえな』
「ガソリンだが、酒と交換でどうだ? ちょうどここへ来る途中の倉庫で見つけてきた。少し余裕があるぞ」
『酒だって!?』
片岡の声が一気に大きくなった。
『そりゃ大歓迎だ。今じゃそういう嗜好品は欲しがる奴が多いからな。レートなんだが――』
そこから二人は簡単に交換条件を詰めていった。
燃料を入れた小型輸送車一台。それに対して、蓮がなんの酒を何本渡すか。
話はすぐにまとまった。
「そんな条件でいいのか?」
『ああ。酒は元々レートが高い。それに、この町はもともと車両とガソリンは多い、しかも、お前らは息子の恩人でもあるからな。これくらいはサービスさせてくれ。それで車はどうする? 酒を取りに行くついでに、そっちまで持っていってもいいぞ』
「それなら助かる。十五人乗れればいい」
『分かった。それなら問題ない。すぐそっちに向かおう』
「悪いな。頼む」
通話を終えた蓮はスマートフォンをしまい、待っていた者たちの元へ戻った。
「話はついた。今からこっちに輸送車を一台送ってきてくれる。後ろの荷室に乗る形になるが、車で移動できるんだ。文句はないな」
「ああ、もちろんだ。本当にすまない。助かる」
先ほど蓮に確認してきた男が深く頭を下げ、それを皮切りに、周囲からも次々と礼の言葉が上がった。
「礼はいい。それより、間違っても下町で変な気を起こすなよ。今は寒波の時より警備もしっかりしてる。お前らが行くことはもう伝えてあるから、向こうも警戒してるはずだ」
「そんなことはしませんよ。せっかくここから出られるんですから」
今度答えたのは受刑者ではなく、刑務所を離れることを希望した元職員の一人だった。
蓮はその男を見て受刑者より元職員が運転した方が、片岡たちも余計な警戒をせずに済むだろうと考えた
「車は運転できるか?」
「え? もともと刑務所でも輸送車を運転してましたから」
「なら、お前が運転していけ。その方が町も安心するはずだ」
「あ、なるほど。分かりました。私が責任を持ってやります」
男が真剣な表情で頷いた。
それを確認してから、蓮は朝霧を連れて刑務所の外へ向かい、停めてある車の後部ドアを開ける。
蓮は荷室の中へ身体を入れ、そこから荷物を取り出しているように見せながら、《パンドラ》から段ボール箱を次々と取り出していった。
中身は片岡との交換に使う酒。そして、ここを離れる十五人へ渡すためのレトルト食品や缶詰だった。
段ボールが雪の上へ積み上げられていくにつれ、後ろから声が上がった。
「おお……」
「本当に食料があるんだ……」
先ほどまで本当に用意してもらえるのか不安そうにしていた者たちの表情が、目に見えて変わっていく。
「これだけあれば数日は持つだろ。出る準備が必要なら、今のうちにしておくんだな」
「は、はい!」
元職員も受刑者も、雪の上に並んだ食料の詰まった段ボールを見つめていた。
ついにここから出られる。
しかも車がある。
そして少なくとも数日間は食いつなげるだけの食料もある。
その事実がようやく現実のものになったのだろう。
長く閉じ込められていた刑務所を離れ、新しい場所へ向かう。行き場すらなかった彼らの顔には、久しく見られなかった希望が浮かんでいた。
蓮はそんな彼らを一瞥すると、特に表情を変えることもなく水城の元へ向かった。
「とりあえず、これでいいだろう。あいつらがここを出たら、次はお前らの話だ」
「ええ。本当にありがとうございます。ここまでしていただいて、本当になんと言ったらいいか……」
水城の表情からは、心からの感謝が伝わってきた。
だが蓮は何も答えなかった。
それからしばらく、出発する者たちは防寒具やこれまで使っていた日用品など自分たちの荷物をまとめ、残る者たちもその準備を手早く済ませた。
やがて――。
刑務所の正門の向こうから、短くクラクションが鳴った。
「来たみたいだな」
蓮が立ち上がるのを見て、出ていく者も残る者も、全員が正門へ向かった。
蓮が用意した食料や交換に使う酒の段ボールも、受刑者たちが自分から抱えて運んでいく。
門の外へ出ると、道路には二台の車が停まっており、一台目のドアが開く。
「よお、さっきぶりだな」
降りてきたのは片岡だった。
その後ろには、十数人を乗せられる小型の輸送車が停まっている。
片岡は蓮のところまで歩いてくると、笑いながら右手を差し出し、蓮もその手を握り返した。
「いろいろあってな。助かった」
「いやいや、こっちだって酒が手に入るんだ。むしろ感謝したいぐらいだぜ」
片岡は楽しそうに笑い、約束していた酒を確認すると輸送車の鍵を蓮へ差し出す。
「ほら。燃料も入れてあるぞ」
「悪いな」
蓮が鍵を受け取り、酒の入った段ボールは片岡と一緒に来た若者によって車へ積み込まれていった。
それを確認した片岡は帰り際に、これから刑務所を離れようとしている者たちへ視線を向けた。
「うちの町はもう話をつけてあるから、そのまま素通りして問題はないが。でも、よそは……」
そこで片岡は口を閉じ、わずかに苦笑する。
「……いや、野暮だったな」
「ああ、そこまでは面倒を見切れん」
「そうだな。結局、どこへ行っても生きていけるかは自分次第だ」
今の世界で、目的地までの安全を誰かが保証してくれるわけではない。蓮が用意するのは、ここから出るための車と数日分の食料までであり、その先をどう生きるかは彼ら自身が決めることだった。
「それと、また何か必要なものがあるなら連絡してくれ」
帰ろうした片岡が思い出したように言った。
「こっちで用意できるものなら、条件次第で持ってきてやるぞ。毎回あんたらが町まで来る必要もないだろ」
「分かった。必要になったら連絡する」
「おう。じゃあ、今度こそまたな」
輸送車を運転してきた若者を自分の車へ乗せると、片岡は下町へ戻り、残された輸送車の前では、刑務所を去る者たちが最後の別れを始めていた。
「副所長……今まで、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。気をつけてください」
水城の前には何人もの人間が集まっていた。握手だけで終わる者もいれば、深く頭を下げる者もいる。中には何も言わず、水城を強く抱き締める者までいた。
職員と受刑者。
本来なら明確に線を引かれていたはずの関係だった。
だが、この百日近くを生き延びた彼らにとって、もはやそれだけでは語れないものがあったのだろう。
「お元気で。またどこかで会えたらいいですね」
「ええ、そうですね。副所長もお気をつけて」
やがて全員が輸送車へ乗り込み、運転席には、先ほど蓮に任された元職員が座る。
エンジンがかかり、低い音を響かせながら輸送車がゆっくりと動き始めた。窓越しに手を振る者たちに、残った者たちもそれぞれ手を上げて応える。
そのまま輸送車は刑務所を離れ、白い雪の残る山道をゆっくりと下っていった。
誰もすぐには戻ろうとしなかった。
水城も、田所も、植松も、寺川も、久世も、火野も、辰巳も、山下も。
残ることを選んだ者たちは、輸送車の姿が山道の向こうへ完全に見えなくなるまで、その場に立っていた。
やがて水城がゆっくりと息を吐き、蓮へ振り返った。
「神崎さん……本当に、ありがとうございました」
また同じ言葉だった。
それでも水城は、どうしても伝えておきたかったのだろう。
蓮はしばらく水城を見た後、淡々と答えた。
「それはもういい。俺もここで大勢と暮らすつもりがないと言ったはずだ」
そこで一度、言葉を切る。
「それに――」
蓮の声が、わずかに低くなった。
それまで別れの余韻を残していた水城の表情が変わり、その視線を受けながら、蓮は残った者たちへ目を向けた。
「――それはお前らも含めてだ」
「……え?」
予想していなかった言葉だったのだろう。水城だけでなく、その後ろにいた者たちの間にも小さな動揺が走った。
「それは……どういう意味でしょうか?」
「勘違いするな。今すぐお前らを追い出すと言ってるわけじゃない」
そう告げると、水城は何かを言いかけて口を閉じた。蓮がまだ話を終えていないと察したのか、そのまま次の言葉を待つ。
「俺と一緒にここにいたいなら、その分は働いてもらう」
「ええ、それはもちろん分かっています。それは他のみんなも同じ気持ちです」
水城が後ろを振り返ると、残ることを選んだ者たちは迷うことなく頷いた。ここにいれば誰かが自分たちを養ってくれるなどと考えている者はいない。
それでも、蓮はそこで話を終わらせなかった。
「食料も、その他の物資も無駄にするつもりはない。働かない奴や役に立たない奴を、いつまでも食わせ続けるつもりもない。必要なら切り捨てる。そういう意味だ」
先ほどまでとは明らかに違う言葉の重さに、その場が静かになる。
しかし、水城は目を逸らさなかった。
「神崎さん……私たちもここで百日以上過ごしてきています。今の世界がどれだけ残酷なのかは、分かっているつもりです」
水城はそこで一度言葉を切ると、刑務所の外に停められている蓮たちの車へ視線を向けた。
「それに、あなたの物資も全部あの車に積んであるわけじゃ……ないですよね。下町か、どこか別の倉庫に保管しているんじゃないですか?」
水城は蓮がどこか別の場所にも大量の物資を保管していると考えていた。でないと他人のために食料を用意することも、車と交換することも考えられなかったからだ。
蓮はそれを否定も肯定もしなかった。
「働かざる者食うべからず、ということですよね。それなら私たちも理解できます」
「俺がここにいる誰かを追い出すと言ったら、お前はどうする?」
「それは……」
水城が初めて言葉に詰まった。
先ほどまでの話とは少し意味が違う。自分自身が働くかどうかではなく、誰かを切り捨てるという蓮の判断を受け入れられるのかと問われている。
水城は少し考えてから、慎重に口を開いた。
「もちろん、まずはしっかり働くように伝えます。何か事情があるなら話も聞きますし、私に協力できることがあるなら協力もします。でも、それでも駄目なら……」
「俺の判断に従うか?」
水城はすぐには答えなかったが、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「……はい」
「他の奴らも、それでいいか?」
蓮が水城の後ろへ視線を向けると、最初に口を開いたのは火野だった。
「……あたしらもガキじゃねえよ。それぐらい全員分かってる」
火野は腕を組んだまま、真っ直ぐ蓮を見る。
「飯を食わせてくれるってんなら、働けって言われりゃ働くし、やることがあるならなんだって聞いてやる。けど、あたしらを騙したりしたら、ただじゃおかねえ」
脅しているというより、それが火野なりの条件なのだろう。
その言葉に何人かが頷く中、今度は寺川が軽く手を上げた。
「せやせや。今の世界で食いもんがどれだけ貴重か、うちらも嫌っちゅうほど理解しとるわ。もう命そのもんやからな」
そこまで言った寺川は、少し考えるように首を傾げた後、急に表情を崩した。
「神崎さんが甘いもんまでくれるんやったら、うちは犬にでもなんでもなったるで」
冗談のつもりなのだろう。
寺川はそう言うと、自分でおかしくなったのかおかしそうに笑った。
張り詰めていた空気が僅かに緩み、周囲からも小さな笑いが漏れる。
「寺川さん……今はそういう話をしているわけでは……」
「ええやん副所長、ちゃんと働く言うてるんやから」
水城が困ったような顔をする一方で、寺川はまるで気にしていなかった。
それでも、誰も蓮の条件そのものに反対することはなかった。
「恥ずかしながら、今の私たちだけでは、この先を生きていけるだけの力は残っていません」
再び水城が蓮へ向き直る。
「刑務所内の食料も、もう間もなく尽きます。ここまで生き延びることはできましたが、これからますます厳しくなるでしょう。だから……神崎さんがここへ来てくれたことは、私たちにとっても幸運だったと思っています」
その言葉を聞きながら、蓮は残った者たちの顔を一人ずつ見ていった。
水城、田所、植松、寺川、久世、火野、辰巳、山下。
誰も目を逸らさない。
少なくとも、自分たちが置かれている状況を理解していない者はいないようだった。
蓮はしばらく何も言わずに考えていたが、やがて一つの結論を出すと、ゆっくり口を開いた。
「……分かった」
その一言に、水城たちの視線が集まる。
「――それなら、お前らに一つ面白いものを見せてやろう」




