第25話 去る者と残る者
蓮の言葉に、その場にいた者たちが一斉にざわついた。
誰もすぐには口を開かなかった。突然そんなことを言われても、どう受け取ればいいのか分からないのだろう。互いに顔を見合わせる者もいれば、蓮の真意を探るようにじっとこちらを見つめている者もいる。
やがて、その中から水城が一歩前へ出た。
「それは、どういうことですか?」
「そのままの意味だ。ここを出ていきたいなら、車と食料を用意してやる。下の町の代表には少し貸しがあるから、車はこっちで用意できる」
再び周囲がざわめいた。
今度は先ほどよりも大きい。ここを出るという選択肢そのものを考えていなかった者もいるのだろう。蓮はそんな彼らを見渡しながら続けた。
「俺はここを拠点にしたい」
その一言で、ざわめきが僅かに収まった。
「構造的にも悪くないし、今後のことを考えて俺にとって都合がいい。ただ、これだけの人数と一緒に暮らすつもりもない。だから出ていきたい奴がいるなら協力する。逆に誰も出ていかないなら、俺は別の場所を探す」
「……ちょっと待ってください」
水城がすぐに声を上げた。
「一度、皆と相談してもいいですか?」
「ああ、構わない。なるべく早くしてくれ。お前の長話を聞いたせいで、こっちは早く休みたいんだ」
「すみません……では、少々お待ちください」
水城は申し訳なさそうに頭を下げると、他の者たちを連れて少し離れた場所へ移動した。
すぐに二十人以上が集まり、小さな輪ができる。
声を抑えているため、何を話しているのかまでは聞こえない。しかし、時折誰かが刑務所の外へ目を向けたり、別の誰かが水城へ何かを尋ねたりしているところを見ると、かなり真剣に話し合っているようだった。
その様子を眺めていた朝霧が、蓮の隣へ近づいた。
「そんなにここがいいわけ?」
「ああ。構造的にも防御面から見ても、ここは優秀だ。それに立地がいい」
「立地? どういう意味よそれ……」
「ここまで上がってくる道を見ただろ」
朝霧が来た道を思い出すように視線を動かす。
「あの森の中の除雪されていた道?」
「ああ。車が通れる程度には雪が退けられているが、何台も横に並んで走れるような道じゃない。周りは森だからそれ以上の広さもない」
「それがなんでいいの?」
「もし攻められた場合、守りやすいだろ」
朝霧が怪訝そうに蓮を見た。
「……物騒ね。まるで誰かが攻めてくるみたいな言い方じゃない」
「例えばの話だ。ただ、あり得ないとは思ってない」
「……まあ、それは……否定できないわね」
朝霧もすぐには否定しなかった。
雪が止み、人が動けるようになったことで、世界は以前よりも少しだけ正常に近づいたように見える。
だが、以前蓮が言ったように、それは物資が増えたという意味ではない。
むしろ人が動ける範囲が広がれば、これまで手をつけられていなかった店や倉庫、民家に残された物資も次々と消費されていくことになる。新しく何かを作り出すことができなければ、残された物資が減っていくことに変わりはなかった。
そして、物資が減れば当然奪い合いが起こる。
今はまだそこまで切迫していなくても、この状態が長く続けばどうなるかは分からない。
それに、蓮にはもう一つ懸念があった。
政府は、倉庫から大量の物資が消えた件を調べている。
すぐに自分へ辿り着くとは思っていない。それでも、いつか何かのきっかけで存在を知られる可能性まで否定するつもりはなかった。
「物騒だけど、確かにあり得ない話ではないわね」
「怖くなったか?」
「今さらそれを言うの?」
朝霧は呆れたように肩をすくめた。
「あいにく私は専属医だから。雇い主についていくしかないわ」
「……そうか」
「ちょっと……そこは少しくらい感情を見せてもいいんじゃない?」
蓮はそれには答えず、周囲を見渡した。
高い塀に囲まれた広大な敷地。その向こうには山が広がり、ここへ続く道も限られている。
「しかも、それだけじゃない」
「まだ何かあるの?」
「ああ。俺は最初にあのマンションを出ると決めた時から、できれば山の上にある広い土地が欲しかった」
「……わからないわね。どうしてなの?」
朝霧が今度こそ分からないという顔をした。
「お前、本当にあの雪が自然現象だったと思うか?」
「……え?」
「七十二日間、世界中で雪が降り続けた。そんな現象が自然に起きると思うか?」
朝霧の表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
「それに俺の《パンドラ》もそうだ。こんな能力が突然使えるようになった時点で、もう何が起きても不思議じゃない」
「まさか……また雪が降るとでもいうの?」
「それは分からない」
蓮は即答した。
「また同じことが起きるかもしれないし、まったく別のことが起きるかもしれない。何も起きない可能性だってある。だが、今の世界で『もう大丈夫だ』と呑気なことを思うつもりはない」
朝霧は黙って蓮の言葉を聞いていた。
「仮にまた雪が降ったとしても、俺なら周囲に積もった雪を《パンドラ》に収納できる。だったら物資がある分、街中より周囲が開けた山上の方が安全だ。広い平地があれば能力も使いやすいしな」
「それでこんなところを……」
「ああ。防御しやすく、設備が揃っていて、ある程度能力を自由に使える。しかも山の上でこれだけ広い土地がある。条件をここまで満たす場所はそう多くない」
朝霧が改めて刑務所を見渡した。
「……なるほどね。なんだか蓮といると刑務所もリゾートみたいに聞こえるわね」
「まあ、あいつら次第だな。別にここしかないわけじゃないから、争ってまで拘るつもりもない」
それからしばらくして、水城が蓮の元へ戻ってきた。
「お待たせしました。皆と話し合いました」
「結論は出たか?」
「……はい」
水城は一度、後ろにいる者たちを振り返った。
「もし本当に別の町へ移動できるのであれば、皆、ここを出ていきたいと言っています」
「……そんなに簡単にここを捨てるのか?」
「彼らも別に、好き好んでここにいるわけではありませんよ」
水城は少し困ったように笑った。
「それに……あまりにも多くのことが起きましたからね」
その言葉だけで、蓮にも十分だった。
この刑務所で何があったのかは、つい先ほどまで聞かされていた。ここで百日近くを過ごしてきた彼らにとって、この場所は単なる避難所ではない。
「じゃあ、全員出ていくのか?」
「いえ。私は……もし残ることが許されるのであれば、ここに残りたいと思っています」
「……お前が? 何でだ?」
「はい。別に、ここの責任者だったからというわけではないんですが……その、なんと言えばいいのか」
水城は珍しく言葉に迷った。
「ここでは本当に多くのことがありました。亡くなった人も大勢います。だからなのか、自分でもうまく説明できませんが……今はまだ、ここを離れたくないんです。最後まで見届けたい、と言えばいいんでしょうか」
蓮は水城の答えを聞いて、それ以上理由を追及しなかった。
「それで? 他にもいるか?」
「はい。私が残りたいと伝えたところ、田所さんと、先ほどお話しした植松さん、久世さん、寺川さん、火野さん。それから、もう二人の受刑者と職員が一緒に残りたいと言っています」
「もう二人?」
「はい、一人目は、辰巳丈二さんです。暴動の時、自分から房へ戻った受刑者の一人です」
「さっきの話には出てこなかったな。どういう奴だ?」
「普段から自分から誰かと関わろうとする人ではありません」
「どんなやつだ?」
「そうですね……収監されてから大きな問題を起こしたことはありません。指示されたことには従いますし、暴動が終わってからも文句を言わずに仕事をしてくれました。悪い人ではないと言うと、少し変な言い方になってしまいますが……」
「何をしてここに入った?」
「それは……暴行と器物損壊です」
それだけを聞けば、特別珍しい罪状でもない。
だが、水城が僅かに言葉を濁したことを蓮は見逃さなかった。
「それだけか?」
「いえ。彼は、もともと――」
水城は一度言葉を切った。
「……極道でした」
「極道?」
「はい。あまり大きな組織ではありませんでしたが、その地区ではそれなりに知られていた組の組長です」
「組長? そんなやつが、どうしてここに?」
「きっかけは、自分の組員が別の暴力団の人間から暴行を受けたことでした。その報復で、辰巳さん自身が相手の事務所へ乗り込みました」
「本人が……?」
「はい。一人だけで向かい、そこで複数人に暴行を加え、事務所の中もかなり壊しています。警察が到着した時は逃げようともせず、その場で逮捕されました。取り調べでも自分がやったことをすべて認めています」
「ずいぶん潔いな」
「以前、本人に聞いたことがあります」
水城は少し離れた場所にいる辰巳へ目を向けた。
「自分の若いのがやられたから、落とし前をつけただけだ。自分でやったことから逃げるつもりはない。と」
蓮も水城の視線を追った。
そこに立っている男は、確かに第一印象だけなら近づきやすい人間には見えなかった。しかし、今の蓮にとって重要なのはそんなことではない。
「まあ、今はこんなご時世だ。暴力団だろうが元受刑者だろうが、そんな肩書きに興味はない」
「そうですね。私も長い間、辰巳さんを見てきました。決して褒められる経歴ではありませんが、少なくとも根から悪い人間だとは思っていません」
「そいつがなんでお前と残りたがるんだ?」
「彼とはそれなりに長い付き合いです。あんな見た目なので収容中はほぼ誰も彼と接触しようとしていませんでしたが、私が彼の唯一の話し相手でもありましたから」
「そうか」
蓮がそれ以上聞かずに頷くと、水城は続けた。
「それから二人目の職員なんですが」
「どんな奴だ」
「刑務官ではなく、施設管理の補助をしていた一般職員です。口数の少ない人ですが、本当に真面目な人ですよ。この百日近くも文句一つ言わず、ずっと皆と協力してくれました」
「刑務所ではどんな仕事をしていたんだ?」
「普段は敷地の清掃や草刈り、荷物の運搬、それから簡単な修繕や備品の管理ですね。人手が足りない時には、他の部署の仕事を手伝うこともありました」
「何か特別な技能や、専門職の経験はないか?」
「そうですね……どちらかと言えば、誰かを支える側の仕事が多かったので」
「要は雑用か」
「いや、雑用という言い方は……」
水城は咄嗟に否定しかけたものの、その先に続く言葉が見つからなかったらしい。実際、今聞いた仕事内容だけなら、蓮の言い方もそれほど間違ってはいなかった。
そんな水城の反応を見て、蓮もその職員への興味を失った。
「分かった。なら、一度全員を集めてくれ。俺から話す」
「分かりました」
水城は頷くと、少し離れた場所で成り行きを見守っていた者たちのもとへ向かった。
ほどなくして、刑務所に残っていた二十三人全員が蓮たちの前へ集められた。
先ほどまで水城を囲んで話し合っていたこともあり、誰もが蓮を意識していたが、その表情は一様ではなかった。ここを離れられるかもしれないという期待を隠せない者もいれば、本当にそんなことが可能なのかと疑うような目を向ける者もいる。
蓮は集まった全員を見渡してから口を開いた。
「さっきも話したが、ここを出たい奴には協力する。今なら外の世界も以前よりはマシになっている。下の町は受け入れなくても、他の町なら誰が来ようとそこまで気にしない。そこで新しい拠点を見つけるなり、どこかのコミュニティに加わるなりして生きていけばいい。幸い、数日程度の食料なら俺から渡せる」
そこまで告げると、集まった者たちの間から小さな歓声が上がった。
声を上げたのは一人や二人ではない。隣にいる者と顔を見合わせて笑う者もいれば、安堵したように息を吐く者もいる。先ほどまで彼らの顔に残っていた警戒や不安が、それだけで目に見えて薄れていった。
その反応を見れば、蓮にも分かった。
水城のように、自分の意思でこの刑務所に残りたいと思っている者は、ほとんどいなかったのだ。
考えてみれば当然だった。ここにいる元受刑者たちは、この場所に愛着があって残っていたわけではない。食料も移動手段もなく、外へ出ても行く当てがない。だから壁と屋根があり、僅かでも食料が残っているこの刑務所に留まるしかなかったにすぎない。
だが今は、移動するための車があり、当面を凌げる食料もある。以前のように外へ出た瞬間、猛烈な吹雪と寒さに命を奪われる状況でもない。
ここに留まる理由がなくなれば、外へ出たいと思うのは当然だった。
蓮はしばらく彼らの反応を眺めていたが、ふと、その中にいる一人の男へ目を止めた。
先ほど水城から話を聞いた、ここに残ることを希望している元職員だった。
「山下だったか? お前は一緒に出ていかないのか?」
突然名前を呼ばれた山下は少し驚いた様子を見せたが、すぐに小さく頭を下げた。
「もし可能であれば、水城さんと一緒にここへ残りたいと思っています」
「理由は?」
「私は以前から、あまり周りから相手にされるような人間ではなかったんです。口数も少ないですし、人付き合いも得意ではありませんから。でも、水城さんだけはずっと気にかけてくれました。寒波が始まってからも面倒を見てくれましたし、私のような者にも他の人と同じように接してくれたんです」
山下は隣にいる水城を一度見てから、少し気恥ずかしそうに視線を落とした。
「ですから、水城さんがここに残るのであれば、私も残りたいです。大したことはできませんが、少しでもお力になれればと思っています」
蓮は先ほど水城から聞いた話を思い返した。
清掃、草刈り、荷物の運搬、簡単な修繕に備品管理。
真面目であることに疑いはなさそうだが、今の世界で特別役に立ちそうな技能を持っているようには思えなかった。
それでも念のため、蓮は尋ねた。
「刑務所に来る前は、何か別の仕事をしていたのか?」
「えっと……仕事と言いますか、もともと実家が農家だったので、そこで畑仕事をしていました」
「……農家?」
それまで何気なく話を聞いていた蓮の視線が、山下へ向いた。
「はい。土地は兄が相続したんですが、その後に全部売ってしまいまして。それをきっかけに私も田舎を出て、ここで働くようになりました」
「お前、農業には詳しいのか?」
「ええ。二十年以上やっていましたので、穀物も野菜もそれなりには育てられます」
「農機具も扱えるのか?」
「え? はい、そりゃあ農家ですから。一通りは扱えますよ」
山下は頷いたあと、困ったように小さく笑った。
「でも、こんな世の中になってしまいましたから、今さら役に立つような経験でもありませんけど……」
その言葉を聞いた蓮は、山下を見つめたまま、わずかに口元を緩めた。




