第24話 最後に残った者たち
「そんな……あなたを助けるために、所長が……」
長い話を聞き終えた朝霧が、沈んだ声で呟き、水城は少しだけ目を伏せた。
「ええ……正直に言えば、私なんかより所長が生き延びていた方が、もっと多くの人を生かせたんじゃないかと、今でも思うことがあります」
「そんな意味で言ったわけじゃ……」
「いいんです」
慌てて否定しようとした朝霧に、水城は静かに首を振った。
「私自身、それは分かっていますから。あの人は受刑者に対する偏見はありましたが、あの状況で決断を下し続ける力は、間違いなく私より持っていました」
水城はそこで一度言葉を切った。
「ただ……あの時は、そんなことも言っていられませんでした。所長が死んでも、寒波が終わったわけではありませんでしたから」
「今の人数を見る限り、あれからかなり減ったようだな」
それまで黙って聞いていた蓮が口を開いた。
「それと、二回目に解放された連中はどうなった」
「……はい」
水城は頷いた。
「暴動そのものは収まりましたが、それからも雪は止まりませんでした。それどころか、私たちにとっては、あそこからが本当の意味で生き残るための日々だったのかもしれません」
水城は当時を思い返すように、静かに話を続けた。
「暴動が収まった後――」
水城が最初に下した決断は、暴徒として最後まで抵抗した受刑者を施設から追放することだった。収容房へ戻すという選択肢もあったが、一度あれほど大きな暴動を起こした者たちを再び内部へ入れれば、次に何が起きるか分からない。
それに、この先も電力が安定して供給される保証はなく、電子錠や監視設備を含めた施設のシステムがいつまで正常に動き続けるのかも分からなかった。大庭を失い、動ける刑務官まで減った今、設備が機能していることを前提に彼らを収容し続けること自体が大きな危険になる。
水城は、これ以上施設内にそのリスクを残すことはできないと判断した。
暴徒として認定された者たちは一人残らず施設の外へ出された。食料はもちろん、防寒具も支給しなかった。外がどれほど危険な状態なのかは水城自身が誰より理解していたが、それでも判断を変えることはなかった。
自分たちにはもう、彼らを収容するために使える物資も、人員も、余裕も残されていなかった。
次に問題となったのは負傷者だった。
二度にわたる大規模な争いによって、施設内には数え切れないほどの怪我人が出ていた。骨折や裂傷程度で済んだ者ばかりではない。頭部を激しく殴られた者、刃物や割れた食器で深い傷を負った者、何人もの人間に踏まれて胸や腹を痛めた者もいた。
だが、この刑務所には彼ら全員を治療するだけの医療体制が残されていなかった。
本来勤務していた医師は寒波の初期に施設を離れており、その後一度も戻ってこれなかった。残っていたのは非常勤の医療職員が一人だけで、薬も消毒用品も日に日に減り続けていた。
全員を助けることはできない。
水城は、医療物資を職員の治療に優先して使用することを決めた。
受刑者の負傷者は暖房の残る一室へ集め、可能な範囲で傷の処置だけは行った。しかし抗菌薬をはじめとする限られた薬を本格的な治療に使うことはできなかった。
以前の水城なら、最後まで全員を助ける方法を探していたかもしれない。
だが、もう選ばなければならなかった。
その判断が何を意味するのかも分かっていた。
重傷を負っていた受刑者たちは、その後一人、また一人と息を引き取っていった。助かった職員も決して多くはなく、深い傷を負った者の中には傷口から感染を起こし、高熱を出した末に数日後に死亡した者もいた。
暴動が終わったからといって、死者が増えるのを止めることはできなかった。
五十日目を迎える頃には、寒波が始まった時に施設内にいた数百人のうち、生き残っていたのは職員と受刑者を合わせても六十七人まで減っていた。
皮肉なことに、人数がそこまで減ったことで、それまで最大の問題だった食料には僅かな余裕が生まれた。
暴動の際に食堂や厨房は酷く荒らされ、床へ撒き散らされたり持ち出されたりした食料も少なくなかった。それでも備蓄庫の中にはまだ相当量が残されており、食べる人間が数分の一まで減ったことで、一日あたりの消費量も大幅に少なくなった。
田所が計画的に配給量を管理し、状況に合わせて日々調整したことで、すぐに底をつく状態ではなくなっていた。
そして自ら収容房へ戻ることを選んだ受刑者たちは、食事を減らされても誰一人として不満を口にしなかった。
決められた時間に食事を受け取り、必要な時は、職員だけでは手が回らない作業や物資の運搬を手伝わせるようになった。
そうして同じ場所で生き延びるために働く日々が続くと、職員たちも次第に彼らを単なる監視対象としてではなく、共にこの状況を乗り越える人間として見るようになっていった。
暴動の傷跡を残しながらも、刑務所には久しぶりに静かな時間が戻っていた。
しかし、それも長くは続かなかった。
六十日目を迎える頃には、外部からの電力供給も不安定になり、何度か施設全体が停電するようになっていた。
そのたびに非常用の自家発電設備へ切り替えることで最低限の電力は確保できたが、備蓄している燃料にも限りがあり、これまでのように広い施設全体へ電力を回し続けることはできない。
そのまま職員と受刑者が別々の区画で生活を続ければ、それだけ維持しなければならない場所が増える。水城たちは話し合いの末、それまで分かれて生活していた職員と受刑者を一つの暖房区画へ集め、使用する電力と燃料を可能な限り抑えることを決めた。
かつて刑務官と受刑者として向き合っていた者たちが、同じ場所で眠り、同じ食事を分け合う生活が始まった。
もう制服も囚人服も、大した意味を持たなくなっていた。
生きるために必要なのは、誰が職員で誰が受刑者なのかではなく、その人間に何ができるのかだった。
植松は体力のある者をまとめ、雪や氷で塞がれた場所の確認や重い物資の運搬を率先して行った。寺川は生きている通信設備や端末を片っ端から調べ、外部から何か情報を得られないか試し続けた。火野は力仕事なら誰よりも動き、田所は残された食料を一日でも長く持たせるため、限られた材料から全員分の食事を作り続けた。
そして、施設の維持に最も大きく貢献した一人が久世だった。
寒さの影響で暖房設備や配管に異常が起きるたび、久世は工具を抱えて現場へ向かった。専門の業者など来るはずもない状況で、使えなくなった区画から部品を外し、別の設備へ流用し、何度も応急処置を繰り返した。
もし久世がいなければ、もっと早い段階で暖房を失っていたかもしれない。
それでも、人は減っていった。
寒さだけではない。長期間まともな栄養を取れなかったことで体力を失い、風邪のような症状から回復できずに死ぬ者もいた。持病の薬が尽きた者もいれば、暴動で負った傷が完全には治らず、徐々に衰弱していった者もいた。
そして、七十二日目。
朝、施設内にいた一人が異変に気づいた。
雪が完全に止まっていた。
窓の向こうに広がっていたのは、何十日ぶりかも分からない静かな景色だった。空から白いものが落ちてこない。ただそれだけのことが、最初は誰にも信じられなかった。
皆が窓際へ集まり、外を見つめた。
しかし、水城はすぐに外へ出ることを許可しなかった。
これまでにも雪が弱まることはあった。今回も一時的なものかもしれない。数時間待ち、それでも降らない。さらに時間を置いても、空から雪が落ちてくることはなかった。
そこで初めて、外の状況を確認することが決まった。
問題は外門だった。
長く使われていなかった門は、雪と氷で固まっていた。解錠することはできたが、僅かに動いただけで、それ以上開かなかった。
人力でどうにかできる状態ではない。
そこで動いたのが火野だった。
施設内に残されていた除雪や敷地管理に使う小型のホイールローダーを動かし、門の周囲に固着した雪と氷を崩していった。それでも最後まで開かなかった部分は、車体を押し当てながら強引に動かし、長い時間をかけてようやく車が通れるだけの空間を作った。
数人の職員が防寒具を身につけ、久しぶりに施設の外へ出た。
雪は止んでいたが、寒さが終わったわけではない。
積もった雪は見渡す限り残り、道路もほとんど埋まっている。それでも空から雪が降ってこないというだけで、誰もがようやく最悪の時期を越えたのではないかと思った。
しかし、その期待は、長くは続かなかった。
しばらくすると風が強くなり始めた。
最初は雪面を薄く撫でる程度だった風が、時間とともに積もった雪を巻き上げ、視界を奪っていく。降雪はないはずなのに、周囲は再び真っ白になり、数メートル先にいる人間の姿さえ見えなくなる。外へ出ていた職員たちは慌てて施設へ戻った。
「後から知りましたが、あれは地吹雪という現象だったそうです」
水城の説明に、蓮は小さく頷いた。
「ああ。積もった雪が強風で巻き上げられる。雪が止んだからって、すぐ安全になるわけじゃない」
「はい。あの時の私たちも、それを思い知らされました」
それからさらに数日、水城たちは外へ出ることを控え、やがて気温は僅かずつではあるが上昇し始め、風も以前ほど激しく吹かなくなった。
そこで今回は、水城が複数の職員を連れて山を下りることを決めた。
目的は外の状況を知ること。そして可能ならば、食料や医薬品を確保することだった。
除雪されていない道を進むのは容易ではなく、途中で何度も雪に足を取られた。それでも彼らは少しずつ山を下り、長い時間をかけて麓の町へ辿り着いた。
そこには人がいた。
建物の多くは雪に埋もれ、窓が割れた家や放棄された車も至るところに残されていたが、それでも町そのものは生きていた。
水城たちは助かったと思ったが、町の人々が刑務所から来たと知った瞬間、その空気は一変した。
原因は、以前解放した受刑者たちだった。
一回目の緊急解放で施設を出た者は、食料や防寒具を求めて住民と衝突し、略奪まで起こしていた。
二回目は大庭が事前に連絡を入れていたことで、町側も刑務所から受刑者が来る可能性を知っていた。最初の時ほど一方的に被害を受けることはなかったが、それでも衝突は避けられず、複数の住民が怪我をした。
そして町へ辿り着いた受刑者たちは、その日のうちに全員殺されていた。
「……全員……ですか?」
朝霧が思わず聞き返した。
「はい、そう聞いています」
水城の表情は変わらなかった。
「最初の解放でかなりの被害が出ていましたから。町の人たちも、二度目は最初から武器を用意していたそうです。もちろん、二回目に施設を出た全員が町まで辿り着いたわけではありません。その後どうなったのか、私たちにも分からない人が大勢います」
だからこそ、町の人間にとって刑務所から来る人間は歓迎できる存在ではなかった。
水城たちが職員であることを説明しても、最初は町へ入ることを拒まれたが、何度も話し合いを重ね、身分を確認し、刑務所内で何が起きていたのかを説明したことで、最終的に職員だけなら受け入れるという答えを得た。
町側にも事情があった。
寒波によって多くの住民を失い、生き残った人間だけで町を維持するには人手が足りなかった。比較的に物資の多い町ではあったが、雪を除け、壊れた建物を直し、使える物資を探すにも働ける人間が必要だった。
刑務所職員であれば受け入れるが、受刑者だけは最後まで認められることはなかった。
その話を刑務所へ持ち帰ると、多くの職員は町へ移ることを選んだ。
それを責める者はいなかった。
刑務所に残り続ける理由は、もうほとんどなく、電力は不安定で、暖房もいつ止まるか分からず、食料もいずれ尽きる。対して町には生存者がいて、まだ生活を立て直せる可能性がある。
水城自身も、町へ残ることが最も合理的な選択だと分かっていた。
それでも、彼は刑務所へ戻った。
そこには、暴動の際に自分の意思で房へ戻り、その後も食料を分け合い、設備を直し、職員と共に何十日も生き延びてきた受刑者たちが残っていた。
彼らを置いて自分だけ町へ移るという選択を、水城にはできなかった。
「所長の言葉を忘れたわけではありません」
水城が静かに言った。
「救えない人間がいる。それは今でも正しいと思っています。でも……受刑者だから救えない人間だとは、私はどうしても思えませんでした」
朝霧は何も言わなかった。
蓮も黙ったまま続きを待っている。
「私と一緒に戻ると言ってくれた職員も、三人いました。その一人が田所さんです」
水城の言葉に、田所が少し照れたように頭を掻いた。
「まあ……俺は水城さんに何度も助けてもらいましたから。それに、あいつらの飯を作ってたのも俺です。今さら俺だけ町で暮らしますってのも、なんか違う気がしたんですよ」
「田所さんには、いつも助けられました」
「それはお互い様でしょう」
田所はそう言って笑った。
最終的に刑務所へ戻った職員は、水城を含めて四人だった。
そこからの生活は、それまでとはまた違うものになった。
町と完全に関係が切れたわけではない。
刑務所には、町では手に入りにくい設備や工具、予備部品などが残されていた。もう使わない区画から外せる機材もあり、それらを町へ渡す代わりに、食料や生活に必要な物資を受け取る物々交換が始まった。
それで、しばらくは生き延びることができた。
しかし、刑務所にある物も無限ではない。
交換できる設備は一つずつ減り、食料と交換できていた機材も、次第に以前と同じ量では受け取ってもらえなくなった。
そして今、その生活も限界に近づいていた。
「寒波が始まった時、この施設には職員と受刑者を合わせて数百人がいました」
水城は静かに周囲を見回した。
そこには田所がいる。
少し離れた場所には植松、寺川、久世、火野たちもいる。
「今、ここに残っている職員は私と田所さんを含めて四人。そして受刑者だった人たちが十九人です」
二十三人。
数百人いた人間の中で、最後までこの場所に残った人数だった。
「これが……あの暴動の後、この刑務所で起きたことです」
長かった水城の話が、そこでようやく終わった。
誰もすぐには口を開かなかった。
朝霧は何かを言おうとして、それでも言葉が見つからないのか口を閉じる。田所たちにとってはすでに過ぎた出来事なのだろうが、その表情には当時の疲労と苦しさが今も残っているように見えた。
蓮は周囲にいる二十三人を改めて見た。
職員だった者。
受刑者だった者。
だが、百日近い極限状態を共に生き抜いた今、その境界はほとんど意味を失っているように見える。
「……なるほどな」
蓮がようやく口を開き、改めて彼らの顔を見渡した。
植松、寺川、久世、火野。
この四人については、水城の話を聞いてある程度評価していた。植松は元自衛官で、暴動の際には刑務官側に立って戦っている。寺川は情報機器に強く、久世は施設設備の維持に欠かせない。火野も多少気性に難はありそうだが、行動力と体力があり、重機まで扱える。
水城については、蓮にも評価が難しかった。
大庭が死んでから百日近く、残った者たちをまとめて生き延びてきたことを考えれば、決して無能ではない。だが、その一方で甘さが目立つ。暴動の時も、その甘さが判断を鈍らせ、結果として大庭が命を落とすことになった。
今の極限の世界では、一瞬の判断で命を危険に晒すこともある。
田所については、この人数の食事を限られた材料で管理してきた実績がある。少なくとも、任せられる仕事ははっきりしていた。
問題は、それ以外の人間だった。
「話はだいたい分かった」
水城が蓮を見る。
「それで、神崎さん。交換の件ですが――」
「その前に一つ確認したい」
「はい」
「もし、下の町じゃなく、ここから離れた別の町まで安全に行けるとしたら――」
そこで蓮は言葉を切り、その場にいる者たちを一人ずつ見回した。
「この刑務所を出たい奴はいるか?」
突然の問いに、水城だけでなく、その場にいた者たちの間にも僅かな戸惑いが広がった。




