第23話 Day 44 受け継いだもの
水城たちは受刑者が移動する様子を監視画面越しにじっと見守り、静かに機会を待っていた。
暖房を止められたことに気づいた受刑者たちは、最初こそ監視カメラに向かって怒鳴り、閉ざされた扉を蹴りつけていたが、そんなことをしても暖房が戻ることはない。やがて一人が収容房エリアへ続く通路へ向かうと、それを追うように二人、三人と後に続き、その流れは急速に大きくなっていった。
外では今も異常な寒さが続いている。四十日以上も冷やされ続けた建物の中で、暖房を失った食堂に意地だけで居座り続けられる者はいなかった。食料を抱えた者、負傷した仲間に肩を貸す者、監視カメラを睨みつけながら去っていく者。最後まで残っていた数人もやがて諦め、収容房側へ姿を消していった。
それからさらに十分ほど待っても、誰かが戻ってくる様子はなかった。
「……戻ってきませんね」
「ああ。行くなら今だな。田所たちを助けるぞ」
大庭が立ち上がると、待機していた刑務官たちも一斉に動き始めた。暴動や負傷者への対応、施設内の警戒も維持しなければならないため、救出に回せる人数は決して多くはない。大庭は動ける刑務官を選び、拳銃や盾、警棒など必要な装備を準備するよう命じていった。
「あのう・・・」
その時、少し離れた場所から声が上がった。
振り返った水城の視線の先にいたのは植松だった。
「俺も行かせてください」
周囲にいた刑務官たちの表情が変わった。
「おい、何言ってる。お前は受刑者だぞ」
「まさか受刑者まで武装させるつもりじゃないでしょうね」
警戒する声が上がったが、植松は怯むことなく首を横に振った。
「銃を持たせてほしいとは言ってません。ただ、まだ向こうには何十人も残ってる。それに対して刑務官の数は少なすぎます。戦力は一人でも多い方がいいと思います」
「彼なら私が保証します」
さらに反論しようとした刑務官を、水城が遮った。
「植松さんは寒波が始まる以前から収容態度に一切問題がありません。規則違反もなく、職員の指示にも常に従ってきた模範的な受刑者です。それに、植松さんは元自衛官です。今の状況なら必ず力になってくれます」
大庭はしばらく植松を見つめていた。植松も視線を逸らさず、その場で返事を待っている。
「……水城。お前がそこまで言うなら連れていこう」
「ありがとうございます」
「ただし、銃は持たさんぞ」
「はい、それはわかっています。その代わり防具はしっかり持たせましょう」
迷いのない返事だった。大庭は植松に盾を持たせるよう指示すると、再び集まった刑務官たちへ視線を巡らせ、その目が輪の端にいた一人の男で止まった。
和田だった。
先ほどから一度も大庭と目を合わせようとせず、救出隊の人選が進む間も俯きがちに立っている。
「……和田。お前も行け」
「え? ……私ですか?」
思わず聞き返した和田に、大庭の目が鋭くなった。
「今回の暴動はてめえが原因だろうが。自分でケジメつけろ」
「ですが、所長……」
「返事は?」
逃げ道を塞ぐような大庭の声に、和田は口を閉ざした。
「……はい」
「お前に拳銃は持たせん。盾を持て」
「はい……」
大庭はそれ以上和田を見ることもなく、全員を見回した。
「目的は田所たち四人の救出と備蓄庫の確保だ。今は収容房側に移動した連中をわざわざ刺激する必要はねえ。こっちから喧嘩を売るな。ただし、向こうから来た場合は別だ。田所たちと自分の命を最優先にしろ」
刑務官たちが頷き、水城も腰の拳銃を確認してから大庭の隣へ並んだ。
「所長、皆の準備が完了しました」
「ああ、行くぞ! 気を締めてけ!」
「はい!」
救出隊は管理区画を出た。
先ほどまで怒号と悲鳴が響いていた施設内は、不気味なほど静まり返っていた。しかし暴動の痕跡は至るところに残され、床には誰のものか分からない靴まで転がっている。食堂へ近づくにつれて血の跡は増え、壁には何かを引きずったような赤黒い筋が長く伸びていた。
やがて食堂へ入った瞬間、先頭を歩いていた刑務官の足が止まりかけた。
「……ひでえな」
誰かが声を漏らした。
少し前まで大人数が入り乱れて殴り合っていた場所は、もはや元の食堂とは思えない有様だった。テーブルは横倒しになり、椅子は脚を折られ、床には踏み潰された食料と食器の破片が血に混じって散乱している。その中に何人もの受刑者が倒れ、頭部から流れた血が床に広がっている者もいれば、腕や脚が不自然な方向へ曲がったまま動かない者もいた。
まだ息のある者もいた。腹を抱えて身体を丸め、喉の奥から掠れた呻き声を漏らしている男のすぐ横で、別の受刑者が仰向けになったまま瞬きだけを繰り返している。割れた皿の破片を握ったまま倒れている女もいたが、その手からはすでに力が抜けていた。
四十日以上、同じ場所で寒さと飢えに耐えてきた人間同士が殺し合った結果が、そこに残されていた。
「立ち止まるな。田所たちが先だ」
大庭の声で刑務官たちは我に返り、倒れている受刑者を避けながら食堂を横切った。今は一人一人の生死を確認している余裕はない。厨房へ入り、その奥にある備蓄庫へ向かうと、扉はまだ閉ざされたままだった。
「田所! 無事か!」
大庭が扉を強く叩いた。
「俺だ! 大庭だ! いるなら返事しろ!」
一瞬の沈黙の後、中で何かが動く音がした。
「……しょ、所長?」
掠れた田所の声だった。
「そうだ! みな無事か!」
「は、はい! 四人とも大丈夫です!」
その返事を聞いた瞬間、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
田所が中から扉を開けると、薄暗い備蓄庫の奥で三人の職員が震えながら身体を寄せ合っていた。全員疲れ切った顔をしていたが、目立った怪我はない。
「所長……」
「話は後だ。歩けるな?」
「……はい」
「ならすぐ出ろ。ここから離れるぞ」
田所たちが救出隊の中へ入り、刑務官たちも彼らを囲むように位置を変えた。
その時だった。
「……誰か来ます」
参加していた植松が低い声で告げた。
全員が一斉に食堂側へ振り返る。収容房エリアへ続く通路の奥から、複数の足音と男たちの声が近づいてきていた。
「盾、前! 田所たちは後ろへ!」
大庭の指示で刑務官たちが素早く動き、盾を持った者が前へ出る。その後ろで拳銃を携帯した刑務官たちが身構え、植松も盾を握って田所たちを庇う位置へ移動した。
やがて通路の奥から、十数人の受刑者が姿を現した。
その集団の先頭を歩いていた男を見た瞬間、水城の表情が強張った。大柄な身体に鉄パイプを握り、こちらを睨みながらゆっくりと食堂へ入ってくる男。
――荒木玄吾だった。
暴動が始まった時から受刑者たちの中心に立ち、混乱の中でも周囲の人間を動かしていた男が、再び水城たちの前に現れた。
「……荒木」
水城がその名を呼ぶが、荒木は何も答えなかった。
その後ろからも受刑者たちが次々と食堂へ入ってくる。折れた椅子の脚や鉄パイプ、厨房から持ち出したらしい調理器具まで手にしており、誰もが疲れ切った顔をしているにもかかわらず、その目にはまだ殺気が残っていた。
彼らの視線が救出隊の姿を捉えた途端に険しくなる。
そして、その中にいた一人の女が、刑務官たちの間に立つ男を見つけた。
「……和田」
小さな声だった。
だが、その名前を聞いた瞬間、周囲にいた何人もの受刑者が一斉に同じ方向を見た。
荒木もゆっくりと視線を動かし、その先に和田がいた。
和田の顔から血の気が引いていく。
「和田……てめえ」
「よくもやってくれたなあ! こらあ!」
「女にまで手ぇ出しやがったクズが!」
怒声が次々と上がる中、荒木だけはすぐには動かなかった。鉄パイプを握ったまま和田を睨み、その顔から徐々に表情が消えていく。
和田は反射的に一歩下がった。手にしているのは盾だけで、武器は持っていない。
「ま、待て……話を……」
「下がれ!」
和田が言葉を言い終える前に大庭の怒声が食堂に響いた。
「これ以上近づくな! 警告はもうしたはずだ! 下がれ!」
それを聞いて、最初は誰も動かなかったが、荒木だけが一歩、前へ出た。
「……そいつを渡せ」
低い声だった。
「和田をこっちに渡せ」
「こいつの処分はこっちでする! お前らが決めることじゃねえ!」
「ああん? 今さら処分だと? ふざけんな!」
荒木が吐き捨てるように叫ぶと、その後ろにいた男が床を蹴った。
「止まれ!」
警告を無視して突っ込んできた男を盾が受け止め、鈍い衝突音が響く。それを合図にしたかのように、後ろにいた受刑者たちまで一斉に走り出した。
十数人の身体が救出隊へぶつかり、静まり返っていた食堂に再び怒号と悲鳴が炸裂した。
刑務官たちは盾を並べて押し返そうとしたが、受刑者たちは鉄パイプや椅子の脚を盾へ叩きつけ、僅かに開いた隙間から腕を伸ばして刑務官の制服を掴む。警棒が振り下ろされ、肩を打たれた男が床へ膝をついたかと思えば、別の男がその背中を踏み越えて前へ飛び出した。
「和田だ! あいつだけは絶対逃がすな!」
受刑者たちの狙いは明確だった。
「来るな! おい、止めろ!」
和田は盾を構えたが、三人の受刑者がほとんど同時に体当たりしてきた。衝撃で盾が傾き、和田の身体が後方へ弾き飛ばされる。背中から床へ落ちた瞬間、一人が盾を蹴り飛ばし、別の男が和田の胸ぐらを掴んだ。
「や、やめろ! 俺は――」
拳が顔面にめり込んだ。
和田の頭が床へ叩きつけられ、その口から血が飛んだ。それでも受刑者たちは止まらない。腹を蹴られ、顔を踏みつけられ、身体を丸めようとしたところへ鉄パイプが振り下ろされた。
「助けろ! おい、助け――」
叫びは途中で途切れた。
さらに何人もの受刑者が和田へ群がり、拳と靴が何度も振り下ろされる。和田は最初こそ両腕で頭を庇っていたが、やがてその腕も床へ落ちた。それでも殴打は続き、男たちは動かなくなった身体を蹴り続けた。
「おい! やめろ!」
刑務官の一人が助けに向かおうとしたが、その横から別の受刑者に組みつかれた。二人はもつれ合ってテーブルへ倒れ込み、周囲の食器を撒き散らしながら床へ転がる。
そこから先は、隊列も何もなかった。
刑務官と受刑者が入り乱れ、盾を失った者が素手で相手を押し返し、警棒を奪おうとする手を別の刑務官が蹴り飛ばす。植松は田所たちの前に立ち、飛び込んできた男の腕を盾で受けると、身体を捻って勢いを逸らし、そのまま床へ転がした。
「ここは危険です! 下がって!」
「はい!」
「ゆっくり下がれ! 一旦引くぞ!」
大庭が怒鳴る。
水城が田所たちを出口側へ誘導しようとした、そのすぐ横で一人の刑務官が受刑者ともつれ合いながら床へ倒れた。馬乗りになった受刑者が何度も拳を振り下ろし、刑務官は腕で顔を庇いながら必死に身体を捻っている。
「離れろ!」
別の刑務官が駆け寄ろうとした瞬間、荒木が横からその身体へぶつかった。刑務官がよろめき、その隙に荒木の視線が床でもみ合っている刑務官の腰へ向く。
そこには拳銃がある。
「よせ! 荒木!」
水城が気づいた時には、荒木の手がホルスターへ伸びていた。
拳銃が引き抜かれる。
「おい! 銃だぞ!」
誰かが叫んだ。
その声で周囲にいた刑務官たちが一斉に荒木へ拳銃を向けたが、荒木は慌てなかった。奪った拳銃を両手で握ると、銃口を刑務官たちへ向けながらゆっくりと後退する。
「動くな」
低い声だった。
「一人でも動いたら撃つ」
「荒木さん、やめてください」
水城も拳銃を構えたまま呼びかけ、荒木の視線が水城へ向いた。
「銃を下ろしてください。これ以上続けても誰も得をしません。あなたも分かっているはずです」
「……なめんじゃねえぞ」
「落ち着いてください。今ならまだ間に合います。銃をゆっくり下ろしてください」
「水城!」
大庭が怒鳴った。
「そいつと話してる場合じゃねえ! 撃て!」
「ま、待ってください!」
水城は大庭を制し、表情を変えない荒木の目をまっすぐ見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「荒木さん。もう十分です。和田ももうあの状態です。これ以上続ければ、本当に取り返しがつかなくなる。銃をこちらへ置いて、今ならまだ――」
「副所長よお」
荒木が言葉を遮った。
「お前、本当に甘えな」
水城の表情が僅かに強張った次の瞬間、荒木の銃口が水城へ向いた。
「水城!」
大庭が水城の身体を横から突き飛ばした。
パァンッ!
食堂に銃声が響いた。
水城は肩から床へ倒れ、何が起きたのか理解できないまま顔を上げた。
目の前に、大庭の背中があった。
「……所長?」
大庭の身体がぐらりと揺れた。
胸元に小さな穴が開き、その周囲から赤い染みが急速に広がっていく。大庭は何かを言おうとしたが声にならず、そのまま膝から崩れ落ちた。
「所長!」
水城が駆け寄るのと、植松が動くのはほとんど同時だった。
植松は拳銃を持った荒木へ一気に距離を詰めた。荒木が銃口を向け直すより早く、その手首を外側へ逸らしながら腕を掴み、身体ごと懐へ入る。次の瞬間には荒木の足が床から浮き、背中から叩きつけられていた。
「ぐはっ!」
拳銃が手から離れて床を滑る。
植松は荒木が起き上がる隙を与えず、腕を背中側へ捻り上げて床へ押さえつけた。荒木は呻きながら抵抗したが、体勢を変えることすらできない。植松がさらに身体を沈めると、やがて荒木の力が抜けた。
「大丈夫ですか!」
植松が振り返った。
「わ、私は大丈夫です! それより所長が!」
水城は大庭の上半身を抱き起こした。胸から溢れる血は止まらず、制服を濡らした赤が水城の手にまで広がっていく。
「所長! しっかりしてください! 今、誰かを呼びます!」
植松も二人のもとへ駆け寄ろうとしたが、水城は首を横に振った。
「植松さん……ありがとうございます。今は他の刑務官の力になってください……」
植松は一瞬だけ大庭を見た。まだ周囲では怒号が飛び交い、刑務官たちは受刑者を押し返している。
「……はい」
植松は盾を拾い上げると、再び戦っている刑務官たちのもとへ走っていった。
「所長、大丈夫です。すぐに手当てを――」
「だから……クズは嫌いなんだよ……」
大庭が掠れた声を漏らした。
「今そんな話をしてる場合じゃありません!」
「水城……」
呼ばれ、水城は言葉を止めた。
大庭の呼吸は浅く、苦しそうに途切れている。それでもその目は水城を見ていた。
「お前が……優秀なのも……誠実なのも……優しい奴なのも……全部知っとる」
「……所長」
「お前の……その甘さも……本当に最後までむかつくが、嫌いじゃない」
大庭の口元がほんの僅かに緩んだ。
「でもな……どうやっても……救えんクズはいる……」
血に濡れた指が僅かに動き、水城の腕に触れた。
「それだけは……覚え……とけ……」
そこで、大庭の手から力が抜けた。
「……所長?」
返事はない。
「……所長!」
水城は大庭を抱いたまま動けなかった。すぐ近くではまだ人が殴り合い、怒号や悲鳴が飛び交っているはずなのに、その全てが遠くへ離れてしまったように感じられた。
ほんの僅かな時間だった。
床を擦る音が水城を現実へ引き戻した。顔を上げると、先ほど植松に叩きつけられた荒木が意識を取り戻し、片腕を押さえながらゆっくりと身体を起こしていた。
荒木は水城を一度だけ見ると、すぐに床へ視線を落とした。
少し離れた場所に、先ほどの拳銃が転がっていた。
荒木の視線がそこへ向いた瞬間、水城もその意味に気づいた。荒木は痛みに顔を歪めながら身体を引きずり、床へ片手をつくと、もう片方の手を拳銃へ向かって伸ばしていく。
ほんの数分前にも、同じ男が同じ銃を握っていた。
あの時、水城は撃てなかった。
大庭に撃てと言われても、まだ話せると思った。ただ暴れたいだけの人間ではない。言葉を尽くせば、きっと銃を下ろしてくれる。そう信じて大庭を止め、最後まで説得しようとした。
その結果が、今、自分の腕の中にある。
水城は腕の中の大庭へ一度だけ視線を落とした。先ほどまで自分に言葉を残していたその顔はすでに動かず、血に濡れた胸も二度と上下することはなかった。
荒木の指先が、床を這うように拳銃へ近づいていく。
水城は大庭の身体を静かに床へ横たえると、その場で立ち上がりながら拳銃を持ち上げた。
拳銃まであと僅かというところで、荒木がふいに顔を上げた。
その目が水城を捉える。
先ほど、水城は同じ男に銃を向けながら、それでも撃つことができなかった。名前を呼び、言葉を尽くせばまだ引き返せると信じ、大庭に撃てと言われても説得する道を選んだ。
だが今、水城の口から荒木の名が出ることはなかった。
荒木も何かを感じ取ったのか、拳銃へ伸ばしていた手を止めたまま水城を見つめる。その視線の先にいる男が、もう先ほどまでの水城ではないことに気づいたのかもしれない。
僅かな沈黙の中で、二人は互いに動かなかった。
それでも荒木は諦めなかった。
水城から目を逸らすと、床に転がる拳銃を掴もうと再び腕を伸ばしたその瞬間。
パァンッ!
食堂に一発の銃声が響いた。
至近距離から響いた銃声に荒木の身体が大きく揺れ、そのまま床へ崩れ落ちた。拳銃まであと僅かだった手も力なく落ち、二度と動くことはなかった。
水城は銃口を下ろさず、倒れた荒木を見つめていた。
警告はしなかった。説得もしなかった。
自分はまだ話せると思っていた。その結果、大庭は自分を庇って死んだ。
同じ間違いを、二度繰り返すつもりはなかった。
水城は倒れた荒木から視線を外し、大庭へ振り返った。
「……所長」
返事はない。
「私は最後まで、あなたのやり方が全て正しいとは思えませんでした……」
水城は大庭の顔を見つめた。
「でも……あなたが何を守ろうとしていたのかは、今なら分かります」
一度だけ唇を噛み、それでも涙を拭うことはしなかった。
「あなたの生き様と、最後の言葉は……一生忘れません、そこで見届けてください」
水城は床に落ちていた拳銃を拾い上げると、自分の腰へ差した。そして自分の拳銃を握り直し、立ち上がる。
まだ終わっていない。
視線の先では、植松と刑務官たちが残った受刑者たちと戦っていた。盾へ鉄パイプが叩きつけられ、一人の刑務官が額から血を流しながら相手を押し返している。別の場所では受刑者に馬乗りにされた刑務官を植松が引き剥がし、その男を床へ組み伏せていた。
水城はもう一度だけ大庭を見た。
そして、戦っている者たちのもとへ走った。
「副所長!」
水城は足を止めず、状況を見た。
暴徒の数はもう多くない。それでも興奮と恐怖で理性を失った者たちは、仲間が倒れてもなお鉄パイプや警棒を握り、刑務官たちへ襲いかかっている。対する刑務官側も負傷者が増え、最初に作っていた隊列は完全に崩れていた。
「全員、聞いてください!」
水城が声を張り上げた。
「武器を持って向かってくる者はもう躊躇する必要はありません! 自分と仲間の命を最優先にしてください!」
その声に、何人もの刑務官が振り返った。
今までの水城なら、まず受刑者を落ち着かせようとしたかもしれない。まだ話せるはずだと考え、できる限り傷つけずに終わらせる方法を探したかもしれない。
だが、その迷いはもうなかった。
鉄パイプを振り上げた男が、倒れている刑務官へ走った。
「やめろ!」
警告にも止まらない。
銃声が響き、男の身体が崩れた。
それを見た別の受刑者が足を止めた。手にしていた警棒を見下ろし、周囲を見回す。荒木と数人の仲間がすでに倒れ、刑務官たちは拳銃を構えている。
「くそ……もう無理だ」
男の手から警棒が落ちた。
「俺は……もうやらねえ」
両手を上げる。
その男へ拳銃を向けていた刑務官が一歩前へ出ようとした。
「注意してください!」
水城が制した。
「武器を捨てた者は速やかに拘束してください!」
その言葉が聞こえたのか、別の受刑者も手にしていた鉄パイプを床へ落とした。
「俺もだ……」
「俺も、もういい……」
一人が武器を捨てると、張り詰めていた糸が切れたように次々と後へ続いた。最後まで抵抗しようとした数人も、周囲に戦う仲間がいなくなったことに気づくと、その場で立ち尽くした。
「武器を捨ててください!」
水城が叫ぶと、しばらくの沈黙の後、床へ金属の落ちる音がした。
そして、もう一つ。
最後まで鉄パイプを握っていた男も、やがてそれを手放した。
長かった怒号が、ようやく止み、残ったのは、苦しそうな呻き声と荒い呼吸だけだった。
「……終わったのか」
血のついた盾を持った刑務官が呟いた。
水城は答えなかった。
食堂を見回す。
床には受刑者だけでなく、何人もの刑務官が倒れている。壁際では田所たちが身を寄せ合い、その前に立つ植松も額から血を流していた。少し離れた場所には、何人もの受刑者に殴られた和田が倒れており、すでに動いてはいない。
そして、そのさらに奥には大庭がいた。
水城は拳銃を下ろした。
「……まず負傷者の手当てを始めてください」
「副所長?」
「まだ助けられる刑務官がいるかもしれません。早く! 運んでください!」
刑務官が一瞬だけ水城を見た後、頷いた。
「……分かりました!」
「拘束した人たちは一箇所に集めて監視を。田所さんたちは管理区画へ戻してください。寺川さんにも連絡を。残りの暴徒の位置を事前に確認してください」
次々と指示を出す水城に、もう迷いはなかった。
そこへ植松が近づいてくる。
「水城さん」
「植松さんも怪我をしています。手当てを受けてください」
「これくらいなら大丈夫です。それより……」
植松の視線が大庭へ向いた。
水城もその視線を追った。
「……はい」
それ以上は何も言わず、水城はその場に立ったまま、ゆっくりと食堂を見渡した。
暴動の爪痕はあまりにも大きかった。
床には血が広がり、壊れた椅子やテーブルの間には今も何人もの人間が倒れている。その中には受刑者だけでなく、四十日以上この施設を守ってきた刑務官たちの姿もあった。
水城はその姿をしばらく見つめた後、静かに目を閉じた。
失ったものを数えている時間は、今はまだない。大庭がいなくなった以上、残されたものをこの先どう生かしていくのか、その判断を下す者も必要になる。食料も、電力も、医薬品も限られている中で、これからは誰かに答えを求めるのではなく、自分自身が選び、その結果を背負わなければならない。
水城は再び目を開けると、大庭から視線を外し、負傷者の救助に動く者たちのもとへ歩き始めた。
そして、こうして、四十四日目に起きた暴動は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
ついに刑務所回想編がクライマックスを迎えました。
楽しんでいただいた方も、早く先の展開を見たいと思っていた方も、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
未来を知らない者たちは、この極限状態の中、手探りで前へ前へ進んでいかなければなりません。
時には判断を間違えることもあります。
選んだ道が、本当に正しかったのか分からなくなることもあります。それでも自分の信念を持ち、前へ進み続けるのであれば、その選択もまた、その人が生き抜いた証になるのではないかと思っています。
そして、いよいよ物語は本編へ戻ります。
蓮たちが刑務所で生き残った者たちとどのように関わっていくのか。そして、この世界がこれからどこへ向かっていくのか。
ぜひ、この先も見届けていただけたら幸いです。
最後になりますが、本作を「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、作品フォローや★で応援していただけると、とても励みになります。
それでは、次話でまたお会いしましょう!




