第22話 Day 44 選択肢
「ここで受刑者を全員出したか……」
蓮がそう呟くと、隣で話を聞いていた朝霧が小さく息を吐いた。
「なんだか、マンションの最後を思い出すわね……」
「そうだな。まあ、ここまで来たら結末はもうそう変わらんだろうな」
蓮の言葉に、水城はしばらく黙っていた。あの時の光景を思い出しているのか、その表情はどこか重い。
「はい。きっとご想像の通りです。あの時は、私もとにかく皆を守ろうと必死で、まだ状況を甘く見ていたんだと思います」
「しゃあねえよ……別に水城さんのせいじゃねえ」
火野が腕を組んだまま、低い声で言った。
「人があんな風に壊れるなんて、誰も思わねえ……」
「そうですよ……それに水城さんは、俺のために……」
田所がそこまで口にしたところで、言葉を止めた。
それ以上続きを話す者はいなかった。寺川も、久世も、ただ黙っている。先ほどまでとは違う重い空気がその場を満たし、蓮はそんな彼らを一度見渡してから水城へ視線を戻した。
「で、その後どうなったんだ?」
水城はゆっくりと頷いた。
「……扉を開けたことで、私が想像していた以上に衝突がありました」
◇
房の電子錠が一斉に解除されてから、まだ十分も経っていなかった。
先ほどまで食べ物を見せつけていた男が殴り倒されると、房から解放された受刑者たちは一斉に動いた。
「食堂だ! 食い物は食堂にある!」
「急げ!」
誰かが叫んだ瞬間、大勢の受刑者が廊下を駆け出した。
四十日以上まともに腹を満たせていない者たちにとって、食料があるという言葉だけで十分だった。先ほどまで自分たちを閉じ込めたまま食料を独占し、あまつさえ目の前まで持ってきて見せつけていた連中への怒りも重なり、狭い廊下を埋め尽くすほどの人間が我先にと食堂へ殺到していく。
そして、その勢いのまま食堂へ雪崩れ込んだ。
「どけ!」
「食い物を寄越せ!」
「ふざけんな! これは俺らのだ!」
食堂を占拠していた受刑者たちも、押し寄せてきた人波を前に黙っているはずがなかった。食料を守ろうと前へ出た男が突き飛ばされ、すぐさま相手を殴り返す。その横では食料へ手を伸ばした男を別の受刑者が後ろから引き倒し、倒れた男が足を掴んで道連れにした。
そこから先は、もう誰が最初に手を出したのかなど関係なかった。
百人を超える人間が食堂へ押し寄せ、もともとそこを占拠していた受刑者たちと真正面からぶつかった。殴る、蹴る、突き飛ばす。倒れた机を乗り越えて食料へ向かう者がいれば、それを引きずり倒す者もいる。椅子が振り回され、食器が床へ落ちて砕け、積まれていた食料まで人の波に押されて散乱していった。
「俺たちにも食わせろ!」
「勝手に取りやがって!」
「うるせえ! 先に取ったもん勝ちだろうが!」
「ぶっ殺すぞ!」
もはや男も女も関係なかった。目の前にいる者が食料を奪おうとすれば殴り、殴られれば殴り返す。逃げようとした者まで人波に巻き込まれ、転倒した者の上を別の誰かが踏み越えていく。
この四十日以上、受刑者たちが耐えてきたものは寒さだけでも、飢えだけでもない。いつまで続くか分からない極寒への恐怖、日に日に減っていく食料、閉ざされた空間で積み重なった不安と苛立ち、刑務官への不信、仲間同士の疑念。そして、外へ出ても生きられる保証などどこにもないという絶望。
押し殺してきたその全てが、とうとう行き場を失った。彼らはもう何に怒っているのかさえ分からなくなり、ただ胸の内に溜まり続けたものを吐き出すように、目の前にいる人間へ拳を振るっていた。
所長室では、水城たちが監視画面に映し出された光景を言葉もなく見つめていた。
「……俺たちは、さっきあんな奴らとやり合おうとしてたのか……」
一人の刑務官が呆然と呟いた。
「もし水城副所長が止めていなかったら……俺たち、全員死んでたよな……」
誰も答えなかった。
数十人しか残っていない刑務官が、あの集団と正面からぶつかっていたらどうなっていたのか。今となっては考えるまでもなかった。
「くそっ……だからクズどもは救えんと言っとるんだ。結局、奴らは自分のことしか考えとらん」
大庭が吐き捨てるように言うと、水城は監視画面から目を離さないまま答えた。
「全ての受刑者が同じだとは思いません。こんな状況でなければ、ここまで大きな暴動にもなっていなかったはずです。でも……今はそれを言っても仕方がありません。暴動を抑えるためにも、まずは食料を取り戻さなければ」
「取り戻すもなにも、もう食堂めちゃくちゃになってるやん」
寺川の言葉に、水城は首を横に振った。
「いえ。食堂にあるのはまだ一部です。それ以外は備蓄庫に……」
そこまで口にした瞬間、水城の表情が変わった。
「……田所さん!」
突然の声に、全員が水城を見る。
「田所さんは、まだこっちに避難していませんよね!? 寺川さん、すぐに備蓄庫の映像を!」
「おいおい、まじかいな……ちょい待ってや」
寺川がすぐにパソコンを操作し、監視画面を切り替えていく。いくつもの映像が流れ、やがて備蓄庫内部のカメラが表示された。
「ほんまにおったで!」
薄暗い備蓄庫の奥、積み上げられた食料の陰に四人の人影があった。
田所と、厨房を担当していた三人の職員だった。四人とも床に身を低くし、怯えた様子で固まっている。
「くそっ! 逃げ遅れたか……」
大庭が顔を歪めた。
「あいつがいないと、今後の食料の管理も難しくなる」
「そうですね……」
水城は数秒ほど監視画面を見つめた後、何かを思いついたように大庭へ振り返った。
「所長、ここには施設内に放送できるスピーカーがありますよね?」
「ああ、あるにはあるが……どうするつもりだ?」
「すみません、説明する時間がありません。私に話させてください」
大庭は水城の顔をしばらく見つめていたが、何も聞かずに所長室の奥へ向かった。放送設備の電源を入れ、いくつかのスイッチを操作してからマイクを差し出す。
「……わかった。これで話せるぞ」
「ありがとうございます」
水城はマイクを受け取ると、一度息を整えてから口元へ近づけた。
『皆さん、水城です。一旦落ち着いてください。この放送もいつ切れるか分かりません。大事な話がありますので、よく聞いてください。繰り返します――』
水城は同じ内容をもう一度、ゆっくりと受刑者たちへ伝えた。
「なんだ? 今さら何を言うつもりだぁ?」
食堂のどこかから声が上がった。
だが、先ほどまであれほど激しく殴り合っていたにもかかわらず、天井のスピーカーから水城の声が流れ始めると、受刑者たちの動きは徐々に鈍っていった。誰かが命令したわけでも、突然冷静さを取り戻したわけでもない。この四十日以上にわたる極寒の生活で、彼らの身体は自分たちが思っている以上に限界へ近づいていた。満足な食事も取れず、まともに眠ることさえ難しい日々が続いたうえ、つい先ほどまで残った体力を吐き出すように殴り合っていたのだ。
興奮している間は感じなかった疲労が、動きを止めた途端に一気に押し寄せてくる。相手の胸倉を掴んでいた男が荒い息を吐きながらその手を離し、拳を振り上げていた女も腕を下ろした。立っていることさえ辛くなったのか、その場に腰を下ろす者もいる。
「……何の話だよ」
「黙れ。聞こえねえだろ」
ほんの少し前まで怒号と悲鳴、何かが壊れる音で満たされていた食堂が、今では驚くほど静かになっていた。
『皆さんの気持ちは分かります。発端となった刑務官についても、この後、必ず厳しく処罰します。この四十日以上にわたる緊急事態の中で、皆さんがどれだけ憔悴しているのかも理解しています。ですが――』
「なんだよ! 今さら言い訳か!?」
「ふざけんなよ! 何が緊急事態だ! てめえらは俺らより食ってたじゃねえか!」
「好き勝手やっておいて、謝って済むなら警察はいら……あれ?」
一瞬、周囲にいた受刑者たちまで男を見る。
「てめえは黙ってろ! バカが!」
『今さら綺麗事を言うつもりはありません。これまでの管理に問題があったことも否定しません。ですが、もうそんなことを言っている場合でもありません』
水城の声が再び響き、食堂にいた受刑者たちも次第に口を閉ざしていった。
『外の異常気候は今も収まっていません。外部からの支援も、今はもう期待できない状況です。ここに残されている食料や燃料、その他の資源だけで、これから先を生き延びなければなりません。このまま争い続け、残された物資まで失えば――我々は全員、死にます』
食堂に低いざわめきが広がった。
『刑務官も受刑者も関係ありません。望む望まないにかかわらず、今の我々は運命共同体でもあります』
「ふざけんな! 誰がお前らなんかと!」
「ちょっと黙れ! まずは聞け!」
別の受刑者に怒鳴られ、男は不満そうな顔をしながらも口を閉ざした。
『まず、今日起きた騒ぎについては不問とします。動ける者で、これまで通りこの施設に残ることを希望する人は、自ら房へ戻ってください。収容を確認した後、こちらで施錠します。食料が限られている以上、以前と同じ量を約束することはできません。それでも可能な限りの支給を続け、規則に則った安全を保障します』
「ふざけんじゃねえ! 今さら房に戻れるかよ!」
「またあんなところに戻るぐらいなら、死んだ方がましだ!」
あちこちから同意する声が上がったが、水城は遮らなかった。騒ぎが少し収まるまで待ってから、再び口を開く。
『房に戻りたくない人には、二つの選択肢があります。一つ目は、本日予定していた緊急解放をそのまま継続します。一階出口横の作業用倉庫を開放します。中には屋外作業用の防寒着や長靴、手袋などがあります。数にもサイズにも限りがありますが、外へ出る人は必要なものを各自で持っていってください。今日の雪はかなり弱くなっているので前回の解放時よりは移動しやすくなっているはずです』
今度のざわめきは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「おい……それなら出られるんじゃねえか?」
「防寒具がちゃんとあるなら、山を下りられるかもしれねえ……」
「騙されんな! 前回出ていった奴らは全員死んだって言ってただろ!」
「でも、一部は町まで行けたとも言ってたよな……」
「そんなこと信じられるかよ!」
「おい、お前らちょっと黙れ! 最後の選択肢はなんだ?」
受刑者たちは再び天井のスピーカーへ顔を向けた。
水城はマイクを握る手に力を込め、一度だけ大きく息を吸った。
『そして――房へ戻らず、緊急解放にも参加しない者は、今後この施設の秩序を乱す暴徒と認定します』
食堂が再びざわついた。
『暴徒と認定した者については、刑務官の安全と、この施設に残る人々の生命を守るため、全力で排除します。もう一度言います。房へ戻るか、施設を出るか、どちらかを選んでください。どちらも拒否し、これ以上暴動を続ける者とは一切の交渉も譲歩もしません。暴徒として排除します』
ざわついたのは、食堂にいる受刑者たちだけではなかった。
所長室に集まっていた職員たちも、驚いたように水城を見つめている。これまで水城は受刑者に対しても常に温厚で、できる限り話し合いで解決しようとしてきた。そんな水城が自ら「暴徒と認定する」「一切の交渉も譲歩もしない」「全力で排除する」と言い切ったのだ。長く一緒に働いてきた職員たちでさえ、水城がここまで重い言葉を口にするのを聞いた記憶はなかった。
『こちらからお伝えすることは以上です。房へ戻る人は、直ちに自分の房へ戻ってください。収容を確認した後、こちらで施錠しますので、そのまま中で待機してください』
水城は一度言葉を切った。
『緊急解放を希望する人は、一階出口横の作業用倉庫から必要な防寒具を持ち、出口へ向かってください。出口と外壁門はこちらで事前に開放します。ただし、今から一時間後には再び閉鎖します。それ以降の解放要求には応じません』
監視画面の向こうでは、受刑者たちが互いの顔を見ながら何かを話していた。
『自分で決めてください。残るのか、出ていくのか。ただし――ここに残って暴動を続けるという選択肢だけは、もうありません』
それを最後に、水城は放送設備の電源を切った。
「勝手に判断してしまい、申し訳ございません」
水城がそう言うと、大庭は監視画面に目を向けたまま首を横に振った。
「いや、暴動をあそこで止めるには、こうするしかなかっただろう。いい判断だ。奴らが食堂から移動すれば、田所たちの救助にも行ける」
そこで大庭は水城へ視線を向け、わずかに口元を緩めた。
「お前も、なかなか言うようになったじゃねえか」
「いえ……ありがとうございます。まずは受刑者たちの動きを見ましょう」
「ああ」
水城たちは再び監視画面へ視線を戻した。
放送を聞き終えた受刑者たちは、すぐには動かなかった。周囲と話し合う者、床に座り込んだまま考え込む者、離れた場所にいる仲間を呼び寄せる者。それぞれが、自分の命を左右する選択を前に迷っている。
やがて、一人の受刑者が食堂を出た。
それをきっかけに、少しずつ他の者たちも動き始める。
房へ戻ることを選んだ者は少なかった。一人、また一人と食堂を離れ始め、その数は男女合わせても三十人ほどにしかならない。一方で、外へ出ることを選んだ者はそれよりはるかに多かった。
外が今も危険なことは、誰もが分かっている。それでも、先ほどの暴動と、このまま刑務所に残ったところで食料がいつまで持つか分からない。それなら、防寒具を手に入れられる今のうちに外へ出た方が、まだ生き残れるかもしれない。そして四十日以上も閉ざされた場所で暮らしてきた彼らが、それでも外へ出ることを選んだもう一つの理由は――自由だったのかもしれない。
房へ戻ることを選んだ受刑者たちの収容が確認されると、再び房の電子錠を施錠した。その一方で、緊急解放を選んだ百人近い受刑者たちは作業用倉庫から使えそうな防寒具を持ち出し、次々と一階出口から外へ出ていった。
最後の一人が外壁門を抜けたことを監視カメラで確認すると、開放していた出口と門も再び閉ざされた。
「……これで、出ていく連中は全員出たか」
「はい」
水城は答えながら、監視画面を食堂へ切り替えた。
先ほどまで三百人以上の受刑者が入り乱れていた食堂は、見る影もなく荒れ果てていた。机や椅子は倒れ、床には食器や食料が散乱し、その間に大勢の受刑者が横たわっている。まったく動かない者もいれば、意識はあるものの起き上がることができず、床に倒れたまま傷口を押さえている者もいた。
監視映像だけでは死亡しているのか、重傷で動けないのかまでは判断できない。それでも、画面に映っている範囲だけで百人以上がまともに動けない状態になっていることは分かった。
そして、その中に混じることなく、まだ自分の足で立っている者たちがいた。
房へ戻ることも、外へ出ることも選ばなかった受刑者たちだった。
「まだ七十名前後いますね」
「ああ、そんなもんだな。まだ数はいるが、かなり減ってはいる」
「ここからどうするかですね」
水城の言葉に、大庭はすぐには答えなかった。監視画面には、食堂に残った受刑者たちが映っている。水城の最後通告を聞いたうえで房へ戻ることも、緊急解放に参加することも選ばなかった者たちだ。中には床に倒れている受刑者から食料を奪う者もいれば、食堂の奥に集まって何かを話している者もいる。
大庭はしばらくその様子を見つめていたが、やがて机の電話を手に取った。
「俺だ。今から食堂周辺に残っている連中の行動範囲を制限する。管理区画と職員区画、それから作業区画へ通じる扉を閉めろ。遠隔で施錠できるところは全部だ」
『了解しました。少々お待ちください』
返事があり、ほどなくして通路を隔てる扉が一つ、また一つと閉じ始めた。暴徒たちはまだその動きに気づいていないのか、食堂や周辺の廊下を行き来している。
しかし、しばらくすると電話の向こうから再び声が聞こえた。
『所長、一箇所閉鎖できません』
「どこだ?」
『収容房エリアへ戻る通路です。何度試しても施錠信号に反応しません。おそらく扉そのものが破損あるいは故障しているようです』
「そっちでどうにかならんか?」
『難しいと思います。おそらく物理的な原因なのでこちらからは……』
「……分かった。それ以外は全部閉めろ」
『了解しました』
大庭は電話を切ると、問題の二箇所を監視画面で確認した。
これで暴徒たちが自由に歩き回れる範囲はかなり狭くなった。食堂と厨房、その周辺の廊下やトイレなどに加え、扉が壊れている収容房エリアへは今まで通り出入りできる。
「……面倒なところが壊れやがったな」
大庭は小さく舌打ちすると、今度は田所たちがいる備蓄庫の映像へ目を向けた。四人ともまだ奥で身を寄せ合ったまま動いていない。
「……田所たちには悪いが、食堂と厨房周辺の暖房を切るぞ」
「え? 暖房を?」
「ああ。七十人相手にこっちから突っ込む必要はない。外はまだこの寒さだ。暖房を止めれば、あそこもすぐに冷えてくる」
大庭は収容房エリアへ続く通路へ視線を移した。
「本当なら一箇所に閉じ込めておきたいところだが、田所たちがいる上に収容房側の扉が壊れてる。この状況なら寒さに耐えられなくなれば、大半は暖房が生きてる収容房側へ戻るだろう。その間に田所たちを助け出すぞ」
一刻も早く田所たちを救出するため、話が決まれば後の行動は早かった。大庭はもう一度中央制御室へ連絡を入れ、食堂と厨房周辺の暖房を停止するよう指示する。
それから程なくして、監視画面の中に変化が現れ始めた。
最初は食堂に残っていた受刑者の何人かが腕を擦り、寒そうに身体を縮める程度だったが、やがて一人、また一人と食堂を離れ、収容房エリアへ続く通路へ向かい始めた。
暖房を切られたことに気づいたのだろう。
収容房側にはまだ暖房が生きている。誰かがそれに気づくと、後に続く者は急速に増えていった。食料を抱えた者、負傷した仲間に肩を貸す者、何度も監視カメラを振り返りながら去っていく者。食堂を占拠していた受刑者たちは、次々と収容房エリアへ移動していく。
水城たちはその様子を監視画面越しにじっと見守っり、静かに機会を待っていた。




