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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第21話 Day44 蛇には蛇を

 大庭の怒声とともに響いた銃声が、コンクリートに囲まれた一階を鋭く駆け抜けた。


「いい加減に大人しくしろ! 暴れんじゃねえ!」


 拳銃を構えた大庭の姿に、それまで刑務官たちへ押し寄せていた受刑者たちの足が止まった。最前列の者は反射的に身体を引き、刑務官から奪った警棒を握っていた男でさえ、黒い銃口を前にして先ほどまでの勢いを失っている。


 だが、その場に集まっている受刑者は百五十人を超えている。対する刑務官は五十人にも満たず、すでに殴られて床に倒れている者までいた。銃を向けられた恐怖は確かにある。それでも背後を埋め尽くす仲間の数を見れば、本当に撃てるのか、全員を相手にできるのかという考えが生まれるのも早かった。


「……撃てるもんなら撃ってみろよ!」


「そうだ! こっちは何人いると思ってんだ!」


 後ろから次々と声が飛び、それに押されるように最前列の受刑者たちが再び動き始めた。止まりたい者がいても、興奮した後ろの者がその背中を押してくる。大庭は拳銃を向けたまま何度も下がれと警告したが、百五十人以上が密集した人の波は止まらず、刑務官たちとの距離が少しずつ縮まっていった。


「どうせ撃てねえだろ! 銃を下せボケ!」


 一人の受刑者が人混みから前へ出た。


「おい! 止まれ!」


「うっせえな! やれもんならやってみろよ!」


「それ以上近づくな!」


「ほら! 撃ってみ――」


 パンッ、と耳をつんざく音が響き、男の身体が大きく揺れた。何が起きたのか分からないように自分の身体へ視線を落としたあと、そのまま膝から床へ崩れ落ちる。


 それまで一階を埋め尽くしていた怒号が、一瞬にして消えた。撃った大庭自身も拳銃を構えたまま動かず、受刑者も刑務官も床へ倒れた男を見つめている。男の身体の下にはじわじわと血が広がり、ついさっきまで威勢よく叫んでいた者たちも、目の前で本当に人間が撃たれたという現実をすぐには飲み込めないようだった。


「……まじで撃ちやがった」


 掠れた声が静寂を破った。


 恐怖で退いてくれるかもしれない。水城は一瞬そう思ったが、受刑者たちの表情に浮かんだのは恐怖だけではなかった。


「ふざけんな!」


「おい! あいつ撃ちやがったぞ!」


「こっちの方が人が多いんだ! ぶっ殺せ!」


 同じ受刑者が撃たれた怒りが一気に広がり、一旦後方に下がった受刑者たちがまた少し前へ押し寄せる。刑務官たちも慌てて拳銃や警棒を構え、さらに数発の威嚇射撃を響かせたが、今度は誰一人として逃げようとしなかった。


 受刑者と刑務官がわずかな距離を挟んで睨み合う。受刑者たちは銃口を警戒して前へ出られずにいるだけで、怒りが収まったわけではない。後方では今も罵声が飛び交い、最前列の者たちも息を荒くしながらこちらを睨んでいる。誰か一人が勢いに任せて飛び出せば、再び全員が押し寄せてくることは明らかだった。


「近づいたら迷わず撃て!」


「駄目です!」


 水城が大庭の命令を遮った。


「撃ったところで焼け石に水です! 今は撤退してください」


「撤退だと!? ここを退けばここだけじゃなく、食堂まで乗っ取られるぞ!」


「……あなたはここで全員を死なせるつもりですか!」


「……なんだと?」


 大庭の表情が変わり、水城自身も言い過ぎたことにはすぐ気づいた。これまで何度意見が衝突しても、所長である大庭にここまで強い言葉をぶつけたことはない。それでも周囲には顔から血を流した刑務官や、仲間に肩を貸されなければ立っていられない者までいる。ここで言葉を引っ込めれば、また正面から衝突しかねない。


「……すみません。ですが、ここで争っても意味はありません。拳銃があったところで、この数は鎮圧できません」


 大庭は何も答えず、受刑者たちへ視線を戻した。向こうも銃口を恐れて足こそ止めているが、興奮が収まった様子はなく、今にも再び押し寄せてきそうな状態だった。


「ああ……すまん。頭に血がのぼってた。ならどうする」


「だれか催涙弾は持ってきましたか?」


「ある」


「なら、それを使いましょう。制圧する必要はありません。向こうが怯んだ隙に負傷者を回収して、一度全員で引きます」


 大庭はすぐに近くの刑務官へ指示を飛ばした。ほどなくして催涙弾が受刑者たちの前へ投げ込まれると、白い煙が一気に広がり、先頭にいた者たちが顔を覆って激しく咳き込む。後ろから押していた者は何が起きたのか分からないまま前の者へぶつかり、進もうとする者と煙から逃れようとする者が入り乱れた。


「今です! 急いで!」


 水城の声に刑務官たちが一斉に動き、倒れていた仲間を二人がかりで抱え起こして後退を始めた。まだ動ける者は最後尾で煙の向こうを警戒しながら下がり、負傷者を管理棟側の職員区画へ続く通路へ送り込んでいく。煙の中から何人かの受刑者が飛び出してきたが、視界もまともに利かない状態では追撃することもできず、水城たちはどうにか全員を保安扉の向こうまで退避させることができた。


「閉めてください!」


 重い保安扉が閉まり、直後に反対側から何人もの身体がぶつかった。金属製の扉が激しく揺れ、「開けろ」「逃げんじゃねえ」という怒声が職員区画にまで響いてくる。


 ようやく追撃を遮断できたものの、安堵している余裕などなかった。床へ座り込んで肩で息をする者、負傷者を奥へ運ぶ者、扉の向こうを警戒し続ける者が慌ただしく行き交っている。大庭はそんな職員たちを見回したあと、拳銃を下ろして水城へ向き直った。


「……ここまで引いたら食堂を取られる。食料まで全部押さえられたら、今度は俺たちが干上がる」


「分かっています」


「……なに?」


「今取り返そうとしても、こちらの被害が増えるだけです。今は職員を生かす方が先です」


「だからって、あのクズ共に食料を全部くれてやるのか!」


「いいえ、違います。今は引くだけです」


 水城は閉ざされた保安扉を一度見てから、大庭へ視線を戻した。


「態勢を立て直します。今のまま正面からぶつかっても勝てないなら、こちらが勝てる状況を作ってから取り返しましょう」


「……こんな状況で、作れるのか」


 すぐに答えられる根拠があるわけではなかった。それでも、この場でただ食料を奪われていくのを待つつもりもない。


「作るしかありません」


 ◇


 しばらくして、動ける職員たちと、これまで刑務所の維持に協力してきた受刑者四人が所長室へ集められた。負傷した刑務官は別室で手当てを受けているが、ここにいる者の中にも頬を腫らした者や腕に応急処置を施した者がおり、誰の顔にも疲労が色濃く浮かんでいる。


「向こうの状況が分からんのが一番まずいな。扉を開けて様子を見に行くわけにもいかん」


「せめて監視カメラの映像が見られれば・・・」


 大庭の言葉を受け、水城が考えながら呟いた。


「監視映像を見たいんか?」


 不意に声をかけられ、水城が振り返る。部屋の隅にいた寺川が所長机の上に置かれたパソコンを見ながら、何かを考えるように顎へ手を当てていた。


「ええ。今、受刑者たちがどこにいるのか分かれば、こちらも次の動きを考えられるんですが」


「ほな、そのパソコンちょい貸してえな」


「何をするつもりなんです?」


「できるか分からんけど、監視室のシステムにハッキングしてみるわ」


「……できるんですか!?」


「やってみな分からへんけどな」


 寺川は軽い調子で答えると、所長の椅子を引き寄せてパソコンの前に座った。近くにいた職員から所内ネットワークについていくつか確認すると、すぐにキーボードへ両手を置く。


 次の瞬間、凄まじい速さでキーを叩く音が所長室に響き始めた。


 画面には次々と新しいウィンドウが開き、見慣れない文字列が流れていく。寺川はほとんど手を止めることなく、時折画面を切り替えては別の操作を続けていた。


 その場には普段から所内システムの保守を担当している技術職員もいたが、最初こそ何を始めるつもりなのかと怪訝そうに見ていた男も、やがて寺川の手元と画面を交互に見ながら言葉を失っていく。


「……速い」


 思わず漏れた声に、寺川は画面から目を離さないまま口元だけで笑った。


「……そこから入れるんですか?」


「正面から入れへんのやったら、別の入り口探したらええだけやろ」


 寺川の指がさらに数度キーを叩く。しばらくして画面の表示が切り替わると、それまで流れていた文字列が消え、代わりにいくつもの映像が並んだ。


 寺川はそこでようやく手を止め、椅子の背もたれへ身体を預けた。


「ほい、入れたで」


「すごい……本当に成功したんですか!?」


「せやから、やってみな分からん言うたやろ」


 水城が画面へ近づくと、そこには一階や廊下、食堂をはじめ、所内各所に設置された監視カメラの映像が映し出されていた。


「寺川さん、食堂をお願いします」


「食堂やな。ちょい待ち」


 寺川が映像を切り替えた途端、大庭の顔が険しくなった。


 食堂はすでに受刑者たちに占拠されていた。


「……やっぱり取られたか」


 大庭が苦々しそうに呟く。


 水城も食堂の映像を見ていたが、ふと別のことが気になった。


「寺川さん。収容棟も見せてもらえますか?」


「ええで。ちょい待って……これやな」


 画面が切り替わると、第二次解放を選ばず房に残った百五十人以上の受刑者たちの房が映し出され、そして、その廊下の奥から、食べ物を手にした数人の受刑者が歩いてきた。


 ◇


「おい! 俺たちにも食わせろ!」


「ここを開けろ!」


「何でお前らめし食ってんだ!」


 房の中から怒号が飛ぶが、食べ物を持ってきた男たちは扉を開けようとはしなかった。


「ほれ、欲しいか?」


「当たり前だろ! 早く寄越せ!」


「ぎゃはは、嫌だね」


 男は笑いながら鉄格子の前に立つと、手にしていたパンをわざとゆっくり一口かじった。


「お前らまで出てきたら、俺らの分が減るだろうが」


「ふざけんな! こっちだってずっと腹減らしてんだぞ!」


「知るかよ。せっかく好きなだけ食えるようになったんだ。お前らにやる分なんかねえよ」


「ふざけんな! いいからよこせよ!」


 房の中にいる受刑者たちが房の扉を激しく叩く。だが、外側にいる受刑者の男たちは怯えるどころか、その反応を楽しむように手にした食べ物を見せつけた。


「そこで見てろよ。代わりに腹いっぱい食ってやっからよ」


「てめえ……! ぶっ殺すぞ!」


「出てこられたらな! ぎゃはは!」


 男たちは笑いながら踵を返し、怒号が響く先ほどの房を後にした。


 ◇


 監視カメラに音声はないため、所長室にいる水城たちには実際に何が話されているのかまでは分からなかった。それでも、食べ物を手にした受刑者たちが房の前で何かを口にしながら笑い、その後房内の受刑者たちが激しく扉を揺らしている様子を見れば、友好的なやり取りではないことくらい容易に想像できる。


「……あいつら、他の受刑者を挑発してる?」


「クズがやりそうなことだ」


 大庭は画面を睨みながら吐き捨てた。


「あいつら、自分たちだけで食料を独占する気だろうな。房に残ってる連中には一口も与えず、そのまま餓死させるつもりだ」


 水城は答えず、食堂と収容棟の映像を何度も見比べた。つい先ほどまでは刑務官と受刑者、その二つが対立していると考えていたが、今は明らかに状況が変わっている。食料を占拠した者たちは、房に残った者たちを出す気がなく、一方で閉じ込められている者たちも、外にいる連中へ怒りを向け始めていた。


 同じ受刑者だからといって、もう一つの集団ではない。


「……われわれだけでは、あの人数には対抗できません」


 水城が口を開くと、大庭が画面から視線を外した。


「拳銃があっても同じです。鎮圧できない以上、数の差は埋まりません」


「そんなことは分かっとる。ならどうする。さっきお前が言ったろ、勝てる状況を作るって」


「……はい」


 水城は収容棟の映像へ目を向けた。


 房には百五十人以上の受刑者が残されている。こちらにとって彼らも決して安全な存在ではないが、少なくとも今、彼らの怒りが刑務官だけに向いているわけではない。


「残りの受刑者を、全員解放します」


 所長室の空気が一瞬で変わった。


「……何だと? そんなバカなことができるか!」


 大庭が思わず聞き返す。


「お前、自分が何を言ってるか分かっとるのか? 今でも百五十人以上いるんだぞ。残りまで出したら三百人を超える!」


「三百人にはなりません」


「……何?」


「もう同じ集団じゃありません」


 水城は食堂と収容棟、それぞれの監視映像を示した。


「だからって全員を出したら、どうなるかわからんぞ」


「今、房の中にいる受刑者はもう餓死する未来まで見えているはずです。実際このまま房にいてもそうなるでしょう」


 大庭が黙る。


「それなら、もし房から出られるのであれば、死ぬ気で抵抗するはずです」


 水城自身、この策は賭けだった。解放された受刑者たちまでこちらへ襲いかかってくる可能性も当然ある。それでも、正面から百五十人以上を相手にし続けるよりは状況を動かせる可能性があった。


「リスクはありますが、今はこのできたばかりの対立を利用しましょう」


 大庭はしばらく何も言わなかった。やがて食堂の映像から収容棟へ視線を移し、もう一度水城を見る。


「……お前がこんな無茶な提案をするとはな」


「状況がそれだけ緊迫しているということです」


 水城が迷わず答えると、大庭は小さく息を吐いた。それ以上何も言わず所長机へ向かい、内線電話の受話器を取ると中央制御室の番号を押した。


『はい、中央制御室です』


「俺だ。今すぐ収容棟の房を全部開けろ」


『……はい?』


 電話の向こうで職員が聞き返した。


『全部、ですか?』


「ああ。第二次解放に参加せず残ってる連中だ。一斉に解錠しろ」


『しょ、所長、ですが今それをやったら――』


「命令だ。すぐ開けろ」


 大庭はそれだけ告げると受話器を置いた。


 ◇


 収容棟では、食料を持った受刑者たちが房の前を歩きながら、中にいる者たちを挑発し続けていた。


「おい、お前も腹減ってんのか?」


「てめえ! 開けろ! 俺たちにも食わせろ!」


「だから言ってんだろ。お前らまで出てきたら俺らの分が減るんだよ」


 男は笑いながら手にしていた食べ物を口へ運び、わざと見せつけるように咀嚼した。


「そこで大人しく見てろ。余ったら持ってきてやるよ」


「てめえ……絶対ぶっ殺すからな!」


「どうやって? そこから出られもしねえのに――」


 ガチャン。


 鈍い金属音が響いた。


「……あ?」


 その瞬間、男の笑みが消えた。


 続いて隣の房からも、その隣からも同じ音が聞こえてくる。一つや二つではない。廊下の奥まで連なる房から次々と電子錠の解除音が響き、それまで鉄格子を掴んでいた受刑者たちも、何が起きたのか分からないように扉を見つめていた。


 一人の受刑者がおそるおそる扉へ手をかける。


「……開いたぞ」


 その声を合図にしたように、各房の扉が次々と押し開けられた。


「おい! 開いた!」


「俺らも出られるぞ!」


 百五十人を超える受刑者たちが一斉に廊下へ溢れ出す。


 先ほどまで食べ物を見せつけていた男たちの顔から血の気が引いた。


「お、おい、待て! さっきのは――」


「さっきなんつった?」


「……いや、だからあれは……」


「俺らに食わせる物はねえって言ったよな?」


 房から出てきた男が拳を握った。


「ち、違う! あれは――」


 話の途中で拳が顔面に叩き込まれた。


 男の身体が床へ転がった瞬間、それまで房の中に押し込められていた怒りが一気に噴き出した。食料を持っていた受刑者たちへ何人もの男が襲いかかり、パンや保存食が床へ散乱する。それを拾おうとする者、すぐさま逃げようとする者、食堂へ向かって走り出す者まで現れ、収容棟は瞬く間に混乱へ呑み込まれていった。


 ◇


 所長室の監視画面には、そのすべてが映し出されていた。


 食堂を占拠していた受刑者たちも異変に気づき、次々と収容棟へ向かっている。しかし房から解放された者たちはすでに廊下を埋め尽くし、両者がぶつかった場所ではもう殴り合いが始まっていた。


「……本当にやりやがった」


 大庭が低く呟く。


 水城は答えなかった。


 これは解放ではない。助けたわけでもない。


 自分たちだけでは止められない百五十人の暴徒へ、同じだけの数の受刑者をぶつけたのだ。


 監視画面の中では、食料を巡って受刑者同士の乱闘がさらに広がっていた。

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