第19話 Day44 第二次避難解放
「そして――ついに事件が起きてしまったんです」
そこまで話した水城は、一度言葉を止めると、少し離れた場所に立っていた一人の男へ視線を向けた。
「事件が発生したきっかけは、また食料でした。あ、すみません。そういえば、まだ紹介していませんでしたね。彼が当時、この刑務所で調理責任者をしていた田所です」
突然話を振られた男はわずかに戸惑った様子を見せたものの、蓮と朝霧へ向き直ると軽く頭を下げた。
「どうも……田所正雄です」
蓮が小さく会釈を返すと、水城は田所を見ながら話を続けた。
「彼が毎日、残っている食料を厳しく管理してくれていたからこそ、あれだけの人数を抱えながらも食料を長く持たせることができました。配給量を調整し、少しでも無駄が出ないように管理して……あの状況で、よくあそこまで持たせてくれたと思います」
「いや……副所長が一緒に計算してくれたからですよ。俺はあるもので飯を作っていただけですから」
田所は少し居心地が悪そうに答えたが、水城は静かに首を横に振った。
「それが、あの時は何より重要だったんですよ」
そう答えた水城の表情が、再び曇る。
「ですが……新たな物資も届かなくなり、どれだけ切り詰めても、やがて限界は近づいてきました」
◇
備蓄庫の棚には、以前なら隙間なく積まれていたはずの段ボールが、今ではまばらな部分も目立つようになっていた。田所は手元の在庫表へ視線を落としながら、何度目かになる計算を確認していた。数字が変わるはずもない。それでも間違いであってほしいと願うように電卓を叩き直し、やがて諦めたように小さく息を吐く。
「……副所長。やっぱり厳しいです」
「あと、どのくらいですか?」
「今の配給量を維持した場合、一週間程度です。前回の支援物資があったからここまで持ちましたが、この人数を食わせ続けられる量じゃありません」
水城は棚に残された食料へ目を向けた。以前と比べれば受刑者の数は大幅に減っているとはいえ、職員を含めれば今なお相当な人数がこの刑務所で生活している。毎日の食事を用意すれば備蓄は確実に減っていく。
「……もう少し配給量を減らすことはできますか?」
「できないことはありません。ただ……正直、おすすめはできません」
田所は在庫表を作業台へ置くと、難しい表情で水城を見た。
「今でも十分とは言えない量です。ここからさらに減らしたら、今度は健康を維持できません。特にこの寒さですから、身体を温めるだけでも相当なエネルギーを使います。それに、もうかなり体調を崩す人間が増えてるじゃないですか……」
「……ええ」
受刑者だけではない。職員の中にも体調を崩す者が増え始めていた。長引く寒さに加え、睡眠不足と長時間勤務、そして職員側の食事も以前より減らされている。医務室を訪れる者は日に日に増え、その中には回復しないまま衰弱していく者もいた。すでに受刑者と職員、そのどちらからも一人、また一人と命を落とす者が出始めている。
「……分かりました。所長には私から報告します」
水城はそう答えると備蓄庫を後にし、そのまま大庭のいる所長室へ向かった。
◇
「一週間か……」
田所から聞いた内容をすべて報告すると、大庭は椅子に深く腰を掛けたまま腕を組んだ。しばらく何も言わずに考えていたが、やがて机の上に置かれた書類から顔を上げる。
「なら、受刑者の食事をさらに半分にしろ」
「……所長!?」
水城は思わず聞き返した。
「それじゃもう体力を維持できませんよ。今でも必要な量には足りていないんです。田所も、これ以上減らせば健康を維持すること自体が難しくなると言っています」
「分かっとる」
「でしたら――」
「もう一度、避難解放を行う」
大庭の言葉に、水城は一瞬言葉を失った。
「……ですが、前回はあのような事件を起こしているんですよ!」
「分かっとると言っとるだろうが!」
大庭は苛立ったように声を上げたが、すぐに感情を抑えるように息を吐いた。
「だから今回は前と同じようにはせん。まず受刑者への食事を減らす。外へ出た直後から好き勝手に動き回れるような状態にはさせん」
「……体力を落としてから、外へ出すつもりですか?」
「ああ。それに今度は事前に町にも連絡する。前回のようなことが起きないよう、万が一にも備える」
「待ってください。それじゃあ……解放された人たちは、どうすればいいんですか」
「そんなことまで知らん」
あまりにも簡単に返された言葉に、水城は大庭を見つめた。町には入れない。まともな食事を取れていない、防寒装備も十分ではない。窓の向こうでは今も雪が降り続き、気温は人間が長時間活動できるようなものではなかった。
「それは……殺すのと何が違うんですか!」
「違う! 飯は減らしても食わせてはいる。解放についても規則に基づいて本人たちに選択させる。残るか、出るか、それを決めるのはあいつら自身だ」
「そんなの詭弁ですよ! 選んだように見せているだけじゃないですか!」
水城が声を荒らげると、大庭はしばらく黙ったままその顔を見ていた。やがて椅子の背もたれへ身体を預けると、低い声で口を開く。
「……こんな状態だ。とっととクズどもを追放したい気持ちがないとは言わん。俺はあいつらをそもそも信用しちゃいない。俺の若い頃の話は知ってるか?」
「ええ……噂で聞いています。当時の先輩が……その……受刑者に暴行を受け、亡くなられたと」
「ああ、そうだ。あいつも正義感が強くてな。受刑者を少しでも改心させようと、毎日毎日あいつらと向き合って話をしていた。だが、日頃から特に気にかけていた受刑者とその仲間が脱走を企て、それを発見したというだけで、その場でなぶり殺された」
「そ、それは……」
「クズはクズなんだよ。理由はどうあれな」
吐き捨てるように言った大庭に対し、水城は何も返せなかった。
「俺も今はここの所長だ。個人的な感情だけで受刑者を直接どうこうするつもりはない。だが、こういう緊急事態なら迷わず職員の安全を最優先する。受刑者の身の安全まで今は知ったこっちゃないが、それでもあくまで規則に則って処理しとる」
「……はい」
水城には、それ以上何も言えなかった。食事を減らし、弱らせたうえで再び解放を選ばせることが正しいとは思えなかったが、では自分ならどうするのかと問われれば、答えは出てこない。
残り少ない食料を今まで通り分配し続ければ、やがて受刑者だけではなく職員まで飢える。結果的に、今よりさらに多くの人間が命を落とす未来しかなかった。
それに、すでに自分たちは一度、同じような選択をしている。
形式上、無理やり追い出したわけではない。出たいと望んだ者たちを、規則に基づいて解放した。
もしかしたら、助かる者もいるかもしれない。あの時の水城は、心のどこかでそう思っていた。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
外がどれほど危険なのかは分かっていた。異常な寒さの中、外へ出れば、命を落とす可能性が極めて高いことも理解していた。それでも水城は解放に同意し、三百人近い人間が門の向こうへ消えていくのを見送った。
そして人が減った刑務所では、結果として職員たちも、そして刑務所に残ることを選んだ受刑者たちも、今日まで生き延びることができている。
その事実も、水城は否定できなかった。
前回は仕方がなかった。あの時は他に方法がなかった。本人たちが自分で選んだことだった。そんな言葉なら、いくらでも並べることができる。
だが、いま大庭が口にした言葉と、どれほど違うのだろう。
今さら大庭を責めたところで、それは正義なのか。それとも、ただの偽善なのか、水城にも分からなくなっていた。
この刑務所に残された食料は、すべての命を救えるほど残ってはいない。誰かを生かすということが、別の誰かに与えられるはずだった食料を奪うことになり始めている。そして何より、自分自身もすでに、その選択によって生かされていた。
もうこれ以上、水城に大庭を責める言葉が見つからなかった。
◇
再び備蓄庫を訪れると、田所は先ほどと同じ場所で在庫表と向き合っていた。水城が入ってきたことに気づいて顔を上げると、その表情から何かを察したようだった。
「……所長は、なんと?」
「今日から、受刑者への食事をさらに減らすことになりました」
「どれくらいです?」
大庭から命じられたことをそのまま伝えればいい。それだけのことなのに、先ほど自分が何を言ったのかを思い出すと、水城はすぐには答えられなかった。
「……今の半分です」
「半分ですか!?」
田所の表情が変わった。
「ちょっと待ってください。ただでさえ減らしてるんですよ? そこからさらに半分ってことですか?」
「はい」
「言いましたよね。これ以上減らしたら健康を維持するのが難しくなるって。今だって必要な量には足りてないんです。それすら半分にしたら、腹が減るとか、そういう話じゃ済みませんよ。この寒さじゃ、何もしなくても身体は体温を維持するためにエネルギーを使うんです」
「……分かっています」
水城が静かに答えると、田所は何か言い返そうとして口を開いたものの、その表情を見て言葉を止めた。
「……所長と、何かあったんですか?」
「もう一度、避難解放を行う予定です。前回のことがありますから、今回は……」
田所はしばらく何も言わず、作業台に置かれた在庫表へ視線を落とした。
「……そうですか」
「田所さん」
「分かってます。ただ……本当に半分でいいんですか?」
本当に、それでいいのか。
数百人の人間へ配られる食事を、自分の口から半分にすると告げる。それが何を意味するのか、水城自身が誰より分かっていた。
「……お願いします」
「……分かりました」
田所はしばらく在庫表を見つめていたが、やがてその横に置かれていた献立表を手に取り、今日の夕食に書かれていた数字をゆっくりと消すと、その半分の数字を書き込んだ。
◇
その日の夕食から、受刑者へ配られる食事は実際に半分近くまで減らされた。
水城は事務仕事を他の職員に任せ、自ら収容区画へ足を運んでいた。食事量をこれほど急激に減らせば強い反発が出ることは覚悟していたし、以前にも配給量を減らした際には、各房から怒鳴り声や抗議が相次いだことがある。
だからこそ今回は、何か問題が起きればすぐに対応できるよう、自分の目で配給の様子を確認しておきたかった。
看守たちが食事を配り始めると、受刑者たちはすぐに異変へ気づいた。
容器の中に入っている食事は、昨日までと比べても明らかに少ない。ただでさえ以前から配給量を減らされていたというのに、そこからさらに半分近くまで削られているのだから、気づかないはずがなかった。
水城は少し離れた場所から、その様子を注意深く見守り、誰かが怒鳴ると思っていたし、場合によっては複数の房で同時に騒ぎが起きる可能性もあると考えていた。
だが、何も起こらなかった。
食事を受け取った男は、一瞬だけ何かを言いかけたが、刑務官と目が合った瞬間、何も言わずにそれを抱えて戻っていく。その次の男も同じだった。女性受刑者たちの中にも明らかに動揺した表情を浮かべる者はいたが、声を上げる者はいなかった。
次の受刑者も似たような反応だった。そして、その次も。
ただ、中には違う目をしている者もいた。食事を受け取る瞬間だけ看守の顔を見上げ、すぐに視線を逸らす。その目に浮かんでいたものが何なのか、水城にははっきりとは分からなかった。
怯えているようにも見えたが、押し殺した怒りとも、憎しみとも取れる何かが、その奥に滲んでいるように感じられた。
以前から感じていた違和感が、再び胸の中に浮かんだ。
受刑者たちは確かに大人しくなった。職員の指示にも従い、以前のように大声で不満を訴えることもほとんどなくなっている。
だが、本当に状況を理解して協力するようになっただけなのだろうか。
胸の奥に残る違和感を拭えないまま、それでも水城は何事もなく配給が終わったことに安堵していた。
翌日も状況は変わらなかった。半分近くまで減らされた食事を、受刑者たちは黙って受け取り、怒鳴る者も抗議する者も現れない。
そして食事が減らされてから二日目の夜、その日の夕食も何事もなく終わった後、刑務所内に大庭所長の名で新たな通知が出された。
――翌日、第二次避難解放を実施する。
前回と同様、希望する受刑者については所定の手続きを行ったうえで刑務所から解放する。希望者は翌日の朝食後、それぞれ指定された場所へ集合するようにとの内容だった。
その通知が読み上げられても、以前のような大きなざわめきは起こらなかった。ただ、いくつかの房では、それまで俯いていた受刑者たちがゆっくりと顔を上げ、看守たちが立ち去った後、静まり返っていた収容区画のあちこちで小さな声が交わされ始めていた。
◇
翌朝。
朝食を終えた受刑者たちが各収容区画で解放の手続きを待っている頃、水城は所長室で大庭と向かい合っていた。
「今回は、前回より希望者がかなり少ないでしょうね。体力が以前よりも下がっている上に外の状況も前回より分かっているはずです」
「だろうな。だが何人でも構わん。一人減れば一人分、十人減れば十人分の食料が浮く。それだけ残った人間が長く生きられる」
「……そうですね」
今の水城には、大庭の言葉を否定するだけの答えがなかった。
そして朝食が終わり、各収容区画で避難解放の希望者が確認されると、しばらくして一枚の報告書が所長室へ届けられた。
「……こんなに?」
水城はそこに記された人数を見て、思わず顔を上げた。外では異常な寒さが続き、食料を手に入れることすら困難な状況にある。それにもかかわらず、今回の希望者数は水城の予想を大きく上回っていた。
「まさか、こんなに希望者がいるとは……」
「俺も予想外だったが、まあ人数が減る分、こっちは助かる。希望している者は全員出せ」
「……分かりました」
妙だとは思った。
これほど多くの人間が、なぜ今になって外へ出ることを希望するのか。
食事をさらに半分まで減らされたことで、このまま刑務所に残って飢え続けるくらいなら、危険を承知で外へ出る方を選んだのだろうか。
無理やり自分を納得させたが、違和感は最後まで消えなかった。
希望者たちは順番に房から出され、前回と同じように解放に必要な手続きが進められていった。
本人の意思確認、氏名や受刑者番号の照合、所持品の返却、解放後の注意事項の説明、限られた職員で処理しなければならないため時間はかかったものの、大きな混乱もなく進んでいく。
そして出発の準備がほぼ整った頃、一人の刑務官が所長室へ報告に訪れた。
「失礼します。解放予定者の手続きが完了しました。こちらが最終確認の資料です」
「分かった。そこへ置け」
大庭が受け取った資料を、水城も隣から確認する。二人は一枚ずつ氏名と必要事項に目を通し、問題がなければ大庭が所長として必要な箇所へ署名していった。紙をめくる音とペン先が走る音だけが室内に続き、やがて最後の一枚にも署名が入る。
「……これで全部だな」
「はい。あとは一階へ行って、解放前の最終確認ですね」
「ああ。行くぞ」
大庭が椅子から立ち上がり、水城も資料をまとめて後に続こうとした、その時だった。
所長室の扉が激しい音を立てて開き、一人の刑務官が転がり込むような勢いで飛び込んできた。
「所長!」
「何事だ! ノックぐらいせんか!」
大庭が怒鳴ったが、水城は刑務官の様子を見た瞬間、ただ事ではないと気づいた。
顔から血の気が完全に失せ、唇まで青ざめている。肩を激しく上下させながら何かを伝えようとしているものの、ここまで全力で走ってきたのか息が続かず、この寒さにもかかわらず額には細かな汗が浮かんでいた。
「た、大変です!」
「落ち着いてください! 一体どうしたんですか?」
水城に促された刑務官は一度だけ大きく息を吸い込み、乱れた呼吸を無理やり整えると、震える声を絞り出した。
「一階の……解放予定の受刑者たちが――」
そこまで聞いた瞬間、水城の胸の奥を嫌な予感が駆け抜けた。これまで感じていた違和感が、徐々に頭の中で一つにつながりかける。
「――暴れ出しました!」




