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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第14話 Day 20 避難解放

 水城に制されても、火野は不満そうな顔を隠そうとはしなかった。


「なんでだよ。こいつが何者かも分かんねえのに、こっちだけ全部話せってのか?」


「ここは彼の言う通りにしましょう……」


 水城はそう言って四人を見回した。


 植松と久世は特に反対する様子を見せず、寺川も少し迷ったあとで小さく頷いた。最後まで納得していなかった火野も、三人の反応を見て諦めたのか、舌打ちをして焚き火へ視線を戻した。


「……勝手にしろ」


「ありがとうございます」


 水城は蓮へ向き直った。


「では、順番に説明します。まずは植松さんからでいいですか?」


「ああ」


 蓮が見ると、植松も静かに頷いた。


「構いません」


「植松征司さん。元陸上自衛官です。十年以上勤務していました」


「……自衛官?」


 蓮は改めて植松を見る。


 四十歳前後だろうか。座っていても分かるほど身体は大きく、厚い上着の上からでも肩や腕にかなり筋肉がついているのが分かる。


「なんで自衛官が刑務所に入った?」


「人を殺めました」


 答えたのは植松本人だった。その声には迷いがなく、あまりにも淡々とした答えに、蓮はわずかに目を細めた。


「誰を?」


「妹を殺した男です」


 焚き火の向こうで、植松の表情がわずかに変わった。


「妹が行方不明になったのは、俺がまだ自衛隊にいた頃です。警察の捜査で一人の男が容疑者として浮かびました。妹が消えたあと、そいつが妹の携帯電話を持っていたことも分かった。防犯カメラにも妹と接触している姿が残っていました。他にも証言はいくつかあったと聞いています」


「なら、そいつが捕まったのか?」


「……一度は」


 植松は短く答えた。


「そいつは逮捕されました。その後、起訴もされた。ですが――裁判が始まってしばらくして、保釈が認められました」


「保釈?」


「はい。妹を殺した男が、また普通に外を歩くようになったんです」


 植松の声は静かだったが、握った拳にはわずかに力が入っていた。


「それだけじゃありません。捜査の段階では、妹と一緒にいるところを見たと証言していた人間が、裁判では『よく覚えていない』と言い始めた。他にも、最初に聞いていた話と変わったことがいくつかありました」


「……誰かが裏で動いた?」


「分かりません。俺は警察でも検察でもない。捜査資料を全部見たわけでもありませんから、何があったのか断言はできません」


 植松はそこで一度言葉を切った。


「ただ、そいつの親族には政治家がいました」


「それで圧力があったと思ったのか?」


「可能性は高いと思います。ですが、証拠はありません」


「それでも、そいつが妹を殺したことだけは疑わなかった?」


「はい」


 植松は迷わず頷いた。


「妹がいなくなったあと、あいつが妹の携帯電話を持っていた。それだけじゃない。最後に妹と一緒にいたことも分かっていた。それでも証言が変わり、証拠が弱くなっていった」


「それで、保釈されたそいつを殺した?」


「……最初から殺すつもりだったわけじゃありません」


 植松は静かに首を横に振った。


「保釈されたあと、一度だけ直接会いに行きました。妹に何をしたのか、それだけでも聞きたかった」


「本人に?」


「はい。最初は何も知らないと言っていました。警察にも同じことを話した、俺には関係ないと」


 そこで植松の表情が僅かに強張った。


「ですが、俺が妹の携帯のことを出したら、笑ったんです」


「笑った?」


「ええ。それから、俺にだけ聞こえる声で言いました」


 植松は一度目を伏せた。


『だから何だよ。証明できないだろ』と。


 蓮の目が細くなる。


「……認めたのか?」


「はっきり『俺が殺した』とは言いませんでした。ですが、そのあとも笑いながら、『どうせ俺は捕まらない』『お前の妹も運が悪かったな』と」


 植松の拳がゆっくりと握られた。


「気づいた時には、殴っていました」


 何度殴ったのか、植松自身も覚えていない。ただ、周囲の人間に引き剥がされた時には、男はすでに動かなくなっていたという。


「逃げなかったのか?」


「はい。そのつもりはありませんでした」


 その答えはあまりにも早かった。


「人を殺したことを正しいと言うつもりはありません。俺がやったことも犯罪です。法律で裁かれることにも異論はありません」


 植松は静かに続けた。


「ですが――後悔はしていません」


 蓮はそれ以上、妹のことについては聞かなかった。


 代わりに別のことを尋ねる。


「元自衛官って言ったな」


「はい」


「銃は扱えるのか?」


 唐突な質問に、植松がわずかに眉を寄せた。


「……扱えますが、なぜそんなことを?」


「いや、ちょっと気になっただけだ」


 植松はしばらく蓮を見ていたが、それ以上は追及しなかった。


「自衛隊に十年以上いましたから、基本的な銃器なら一通り扱えます。特に訓練していたのは狙撃です」


「……狙撃?」


「はい」


 蓮はそれだけ聞くと、それ以上は何も尋ねなかった。


「次」


「はい。こちら久世さんです」


 水城が隣へ視線を移す。


 久世は植松より細身で、見た目だけなら刑務所より研究室や工場にいる方が似合いそうな男だった。


「久世和也《くがかずや》さん。もともとはエンジニアです。機械設計や電気、制御関係の仕事をしていました」


「こいつも人を殺したのか?」


「いえ。久世さんの場合、実際に死者は出ていません」


「実際には、か」


 その時、久世が自嘲するように笑った。


「実行する前に捕まりましたので」


「何をした」


 蓮が尋ねる。


 久世は少し黙ったあと、答えた。


「宗教団体の本部を爆破するつもりでした」


「爆破って、爆弾か?」


「はい」


「よくそんなもん作れたな」


「もともとエンジニアですので」


「普通のエンジニアは爆弾作らないだろ」


「まあ……そうですね」


 久世は少し困ったように笑った。


 水城がその続きを引き取る。


「久世さんのご両親が、その宗教団体の信者だったんです」


 最初は小さな寄付だった。


 だが、それは次第に大きくなった。


 救われるため、家族のため、さらに信仰を深めるため。そう言われるたびに両親は金を出し、やがて貯金を使い果たし、家や土地まで手放した。それでも終わらず、最後には借金まで抱えた。


「両親はずっと信じていました。自分たちが苦しい生活をしていても、それには意味があるんだと」


 久世の声は穏やかだった。


 だが、その手だけが強く握られていた。


「ですが、最後に知ってしまったんです。自分たちに質素な生活を説いていた人間が、寄付された金でどんな暮らしをしていたのか。自分たちが何を信じて、何を失ったのか」


「それで?」


「返してほしいと訴えました。当然、返ってきませんでした」


 そして、両親はその後、二人で自ら命を絶った。


 残されていた遺書には、たった一言だけ書かれていた。


『かず、すまなかった』


 その下には、父と母、二人の名前。あまりにも短く、あまりにも寂しい遺書だった。


「それで爆破しようとした?」


「はい」


「中にいる人間ごと?」


 久世は少し間を置いた。


「当時の私は、そこにいる人間を区別していませんでした」


「…………」


「幹部も職員も信者も、全員同じに見えていた。父と母を殺した連中だと思っていました。今なら、それが間違っていたことは分かります」


「じゃあ、もう恨んでない?」


「いいえ」


 久世は首を横に振った。


「それは別の話です」


 蓮が久世を見る。


「あいつらは神の使いなんかじゃない」


 久世は焚き火を見つめながら、静かに言った。


「神は……います。私は今でもそう信じています」


「まだ神を信じてるのか?」


「はい」


 久世は迷うことなく頷いた。


「むしろ、以前よりさらに信じています」


 久世はそこで僅かに目を伏せた。


「ただ、あそこに神の使いなんて一人もいませんでした。いたのは――悪魔だけでした」


 蓮は何も答えなかった。


 久世が信じているものについて、今ここで何かを言うつもりもない。


「爆弾は完成してたのか?」


「はい、ほぼ完成はしていました」


「じゃあ、なんで捕まった?」


「材料です。いくつかの購入記録から警察に辿られました。実行する前に家へ来られて、それで終わりです」


「機械なら何でも分かるのか?」


「何でもは無理です。ただ、機械設計、加工、電気、制御、そのあたりならある程度は」


 蓮は小さく頷いた。


 その視線が次へ動く。


「次は」


「火野さんです」


「ああ?」


 名前を呼ばれただけで火野が睨んできた。


「火野さん」


「分かってるよ!」


 水城に止められ、火野は苛立ったように頭を掻いた。


「傷害だよ。現場の監督ぶん殴った」


「現場?」


「建築現場だよ」


 その言葉に水城が補足する。


「火野さんは十代の頃からずっと建設や解体関係の仕事をしていたようです。刑務所へ入るまで十年以上です」


「へえ」


「なんだよ、その反応」


 蓮は答えず、水城を見る。


「それで?」


「現場で作業をしていた時、まだ人が危険な場所に残っているのに、重機を動かすよう指示されたそうです」


「時間押してたんだよ」


 火野が吐き捨てるように言った。


「今日中にここまで終わらせろって上から言われてたらしくてな。けど、まだ下で作業してる奴がいた。そんな状態で動かせるわけねえだろ」


「断った?」


「当たり前だろ」


 火野は眉を寄せた。


「そしたらあの馬鹿、別の奴に乗れって言いやがった。ろくに経験もねえ若い奴にな」


「それで揉めたのか?」


「ああ。頭にきてぶん殴った。まあ……ちょっとやりすぎてな」


「それで傷害罪か」


「そういうことだ。文句あんのかよ!」


 一瞬火野は怒鳴ったが、すぐに焚き火へ視線を戻した。


「まあ……あんな奴のために刑務所まで入ったのは馬鹿だったと思ってるよ」


「後悔してんのか?」


「いや、後悔はしてねえ」


 即答だった。


「あの状況で動かせって言われても、今でも動かさねえよ」


「そうか」


 火野の声を聞き流し、蓮は最後の一人を見る。


 ここまでほとんど会話に入らず、焚き火の前で小さくなって座っていた女が、蓮と目が合った瞬間に僅かに視線を逸らした。


「次」


「彼女は寺川さんです」


 水城が答える。


「寺川容子《てらかわようこ》さん。二十五歳。不正アクセス禁止法違反などで服役していました」


「不正アクセス?」


「はい。それも、一般企業のシステムだけではありません。国防に関係するシステムへの侵入も確認されています」


 蓮が寺川を見る。


「……ハッカーか」


「その呼び方、あんま好きやないんやけど……まあ、否定はせえへん」


「そこまでやって、結局捕まったってことか」


「ちゃうねん!」


 寺川が勢いよく身を乗り出した。


「ハッキングで見つかったわけやあらへんで!」


「……?」


「そこはちゃんと言うといて! うち、一回も見つかってへんから!」


「じゃあなんでここにいる?」


 寺川の勢いが止まった。さっきまでの得意げな表情が消え、気まずそうに視線を逸らす。


「……それは、その……」


 なかなか続きを言おうとしない寺川に代わって、水城が一度咳払いをした。


「寺川さんが逮捕されるきっかけになったのは、ネットカフェでの器物損壊です」


「……器物損壊?」


「はい」


 水城は続ける。


「読んでいたライトノベルが、その日に更新される予定だったそうなんですが……」


「…………」


「更新されなかったそうです」


「……それで?」


「腹を立てて、手元にあったコップをそのままパソコンのモニターへ……」


 蓮は寺川を見た。


 寺川はもうこちらを見ていなかった。


「店員が警察を呼び、その時の事情聴取で――」


「ちょ、そこまで細かく言わんでもええやん!」


「自分から、普通なら知っているはずのないシステム内部の話をしてしまったそうです」


「…………」


「そこから調べられ、過去の不正アクセスまで繋がりました」


 しばらく誰も話さなかった。


 薪が爆ぜる音だけが響いた。


 蓮は寺川を見る。


「つまり……ハッキングでは一度も見つからなかったのに」


「そうや!」


 寺川がすぐに顔を上げた。


「そこ大事やで!」


「ラノベが更新されなくて、コップ投げて捕まった?」


「…………まあ、結果だけ言えば」


 蓮はしばらく寺川を見つめた。


「お前……馬鹿なのか?」


「ちゃうわ!」


 寺川の声が、静まり返った刑務所の中に響いた。


 四人の話を聞き終えた蓮は、もう一度その顔を順番に見た。


 人を殺した元自衛官。


 宗教団体への復讐のために爆弾を作ったエンジニア。


 安全を無視した上司を半殺しにした重機オペレーター。


 そして、誰にも見つからず不正アクセスを繰り返していたのに、ライトノベルが更新されなかったことに腹を立てて捕まった女。


 まともと言っていいのかは分からない。


 ただ、少なくとも水城たちがあの時、この四人を選んだ理由は少し分かった。


「それで?」


 蓮は水城を見る。


「その四人を出してから、どうなった?」


「……そうですね」


 水城も焚き火へ視線を落とした。


「最初の数日は、私も上手くいったと思っていました」


 ◇


 四人に職員の仕事を手伝わせるようになってから、現場の負担が軽くなったのは事実だった。


 もちろん、たった四人増えただけで刑務所全体の人手不足が解消するわけではない。それでも、物資を運ぶだけで職員一人の手が取られていた場所に二人を付けられるようになり、食事の配膳準備や各区画への運搬、日用品の補充といった単純だが人手を食う作業を任せられるだけでも、疲弊していた職員たちにとってはありがたかった。


 植松は指示されたことを正確にこなし、久世は設備や機材に異常を見つければ職員へ報告した。寺川は必要以上に人と話さなかったが仕事は早く、火野は文句を言いながらも途中で投げ出すことはなかった。


 少なくとも、四人が問題を起こすことはなかった。


 問題を起こしたのは、むしろ周囲だった。


 刑務所で最も人手を必要としていた仕事の多くは、受刑者たちから見える場所にあった。


 食事を運び、物資を各区画へ届け、必要なものを回収する。そのため四人が職員と一緒に廊下を歩く姿を、他の受刑者たちも毎日のように目にするようになった。


 さらに、四人には通常の配給とは別に、ほんの僅かではあるが食事が追加された。


 特別扱いをするためではない。


 房の中にいる受刑者より明らかに身体を動かす量が多く、その分だけ最低限必要なものを足したにすぎなかった。職員と同じ量を与えられていたわけでもなく、追加された量そのものも決して多くはない。


 だが、すでに食事を大幅に減らされていた他の受刑者たちにとって、その僅かな差は小さくなかった。


「なんであいつらだけ出てんだ!」


「俺にも仕事させろ!」


「働いたら飯増やしてくれるんだろ!」


 そんな声が、四人が通るたびに房の中から飛ぶようになった。


 最初は単なる不満だった。


 だが、それは日に日に大きくなった。


 自分も働かせろと訴える者が増え、なぜあの四人だけが選ばれたのかと職員に詰め寄る者も出た。中には四人が職員へ取り入ったのだと決めつける者までいた。


 水城は追加で何人か選ぶことも考えた。


 人手は依然として足りない。


 四人が問題なく働けている以上、人数を増やせば職員の負担をさらに減らせるはずだった。


 だが、大庭は認めなかった。


「その案は却下だ」


「ですが、四人は問題なく働いています」


「四人が問題を起こしているとは言ってない」


 大庭は各区画から上がってきた報告書を水城へ見せた。


「こいつらを出したことで、他の連中が騒ぎ始めてると言ってるんだ」


「それは説明すれば――」


「説明して納得するなら、とっくに静かになっとる」


 水城は言葉を止めた。


「働けば飯を増やしてもらえる。選ばれれば房の外へ出られる。そう思わせた時点でもう失敗だ」


「ですが、実際に職員は助かっています」


「だから最初の四人はそのままでいい。今さら房へ戻したところで、せっかく増えた人手を捨てるだけだ。ただし、今後は他の受刑者から見えない場所の仕事だけをさせろ」


「ですが、それでは任せられる仕事がかなり限られます」


「仕方ない。これ以上騒ぎを大きくするよりましだ」


 水城は納得しきれないまま黙った。人手が最も足りていないのは、各収容区画への物資の運搬や配膳など、どうしても他の受刑者の目に触れる仕事だった。そこから四人を外せば、職員の負担は再び増えることになる。


「それと、五人目は出さん。受刑者を職員の補助に使う話は、この四人で終わりだ」


「……分かりました」


 こうして、受刑者を職員の補助として使う案は、それ以上広がることはなかった。


 最初に選ばれた四人だけが、その後も限られた仕事を手伝い続けた。


 そして、その間にも食料は減り続けていた。


 ◇


 寒波到来二十日目。


 水城は毎朝、厨房へ足を運ぶようになっていた。


 田所と一緒に残っている食料を確認し、前日に使った量と照らし合わせ、あと何日もつのかを計算する。十四日目に大庭が命じた通り、職員の食事も減らされ、受刑者への配給量はさらに削られていた。


 それでも、食料が増えることはなかった。


 水城自身も、その六日間何もしなかったわけではない。


 自治体、警察、消防、これまで取引のあった業者。連絡できるところには何度も支援を求めた。刑務所まで運ぶことが難しいのであれば、こちらから取りに行ける場所まででも構わない。食料だけでも、燃料だけでもいい。


 だが、結局一度も支援されることはなかった。


 外の状況は、刑務所だけが特別に悪いわけではなかった。


 道路は各地で寸断され、物流は止まり、街の側でも食料や燃料が不足し始めている。以前なら連絡のついた相手が電話に出なくなることも増え、助けを求めた先から逆に「こちらにも余裕がない」と言われることさえあった。


 そして二十日目の朝、水城がいつものように厨房へ向かうと、田所は何も言わずに奥の食料庫へ歩いていった。


 水城もそのあとを追った。


 扉の向こうにあった棚は、六日前とは比べものにならないほど空いていた。


「……これだけですか」


「はい」


 田所は短く答えた。


「使えるものは全部使いました。缶詰も残ってる分は今日と明日の調整に回します。冷凍庫もほとんど空です」


 水城は棚を見たまま動かなかった。


 分かっていた。


 食事を減らせば、なくなる日を先へ延ばすことはできる。


 一週間を十日にすることも、さらに何日か延ばすこともできる。


 だが、新しい食料が入ってこない限り、最後は同じだった。


 その最後が来ただけだ。


「……開けるしかありませんね」


「はい」


 田所が答えた。


 二人が向かったのは、通常の食料とは別に管理されていた非常用の備蓄庫だった。


 これまで、最後の最後まで手を付けないよう残してきた食料だった。


 職員が鍵を開け、重い扉が開かれる。


 中には保存食や飲料水などが積まれていた。


 水城はそれを見て、安心することができなかった。


 昨日までなら、通常の食料がなくなってもここがあると思うことができた。


 だが、今、その扉を開けてしまった。


 ここを食べ尽くしたあとには、もう何もない。


「田所さん」


「はい」


「今の配給量を続けた場合、これでどのくらいもちますか?」


「一週間ほどですが、正確な数字は、もう一度全部確認してからになります」


「さらに減らせば?」


 田所は答えなかった。


 水城が見ると、疲れ切った顔でこちらを見ていた。


「副所長」


「はい」


「もう、食料だけの話じゃないですよ」


 田所は静かに言った。


「受刑者はかなり弱ってます。職員だって同じです。数字の上だけなら、もっと減らせば何日か延ばせます。でも、人間の方がもつかは分かりません」


「…………」


「食料が残ってるのに、人が先に死んだら意味ないでしょう」


「……そうですね」


 水城はそれ以上何も言えなかった。


 厨房を出たあとも、すぐには所長室へ向かわなかった。


 事務室へ戻り、もう一度電話をかけた。


 これまで支援を求めた先へ、再び連絡する。


「こちらは本日から非常用備蓄へ切り替えます。もう通常の食料は残っていません。少量でも構いません。何か支援できませんか?」


 返ってきた答えは変わらなかった。


 無理です。こちらも不足しています。道路が使えません。車両を出せません。今は対応できません。


 一件、また一件と電話を切るたび、水城の手元には何も残らなかった。


 最後の電話を切ったあと、水城はしばらく受話器に手を置いたまま座っていた。


 やがて立ち上がると、田所から受け取った最新の在庫表を手に取り、所長室へ向かった。


「失礼します」


「なんだ」


 大庭は机に向かったまま答えた。


「食料について報告があります」


 水城は大庭の前へ在庫表を置いた。


「通常の食料が尽きました。今日から非常用備蓄を開けています」


 大庭の手が止まったが、驚いた様子はなかった。


 大庭自身も、こうなることは分かっていたのだろう。


「田所さんと確認しました。今の配給量でも長くはもちません。さらに減らすことはできますが、受刑者も職員もかなり体力を落としています。食料を延ばせても、人間の方が先にもたなくなる可能性があります」


「そうか」


「所長」


 水城は少し身を乗り出した。


「もう一度、他に支援を求めることはできませんか?」


 大庭が顔を上げる。


「県でも国でも構いません。刑務所まで――」


「そんなことは言われんでも分かっとる」


 大庭が水城の言葉を遮った。


「……え?」


「毎日、至るところに連絡している。自治体にも警察にも、上にもな。食料だけじゃない。燃料も人員も、出せるものがないか何度も聞いている」


 水城は黙った。


 自分だけではなかった。


 大庭もまた、同じことを続けていたのだ。


「だが、答えはどこも一緒だ」


 大庭は在庫表へ目を落とした。


「今の外は、どこも似たような状態だ。道路は使えん。物流も止まってる。街の方でも物が足りなくなってる。ここに回せる余裕なんてない」


「それでは……」


「ああ」


 大庭は淡々と答えた。


「このまま何も入ってこなければ、いずれ備蓄も尽きる」


「…………」


「最悪の場合、ここにいる全員が餓死する可能性がある」


 水城の表情が強張った。


 分かっていた。


 分かっていたはずなのに、所長の口からはっきりとその言葉を聞かされると、重さが違った。


「それなら、もっと政府に……!」


「それが無理だと言っとるだろ!」


 大庭の怒声が所長室に響いた。


 水城は口を閉じた。


「俺だって何もしてないわけじゃない! 毎日連絡してる。何度も支援を求めてる。それでも来ないんだ!」


「…………」


「今はここだけが被災してるんじゃないんだぞ」


 大庭はそこで一度息を吐いた。


 声を荒らげたことを悔いている様子はなかったが、その顔にも疲労が滲んでいた。


 水城は初めて、大庭の机の上に置かれたメモへ目を向けた。


 いくつもの連絡先と、その横に書き込まれた日時。


 一日に何度も同じ場所へ連絡した跡が残っている。


 水城は視線を落とした。


「……分かりました」


 今ここで同じことを繰り返しても、食料が増えるわけではない。


「田所さんと、もう一度相談してきます。これ以上食事を減らせないか、少しでも備蓄を延ばす方法がないか――」


「待て」


 背を向けかけた水城の足が止まった。


「……え?」


 振り返ると、大庭は椅子に座ったまま、水城を見ていた。


「方法がないわけではない」


「何かあるんですか?」


 大庭はすぐには答えなかった。


 しばらく考えたあと、ゆっくりと口を開く。


「災害時に適用される規定がひとつある」


「災害時?」


「ああ」


 水城の表情が変わった。大庭が何を言おうとしているのか、予想はついていた。


「災害時の避難及び解放だ」


「…………」


 水城はその言葉を聞いて、ようやく大庭の意図を理解した。


「避難解放……ですか」


「ああ」


 大規模な災害が発生し、刑事施設の中で職員や被収容者の安全を確保することができず、さらに安全な場所へ護送することもできない。


 そのような非常事態に陥った場合、刑事施設の長の判断によって、被収容者を施設から解放することができる。


 あくまでも、災害によって施設内に留めておく方が危険になった場合のために設けられた規定だった。


「しかし……」


 水城はすぐには賛同できなかった。


「今、外へ出しても避難にはなりません……」


 水城は窓の外を見た。


 二十日間、一度も止むことなく降り続けている雪が、今日も窓の向こうを白く染めていた。


「道路はほとんど使えません。車両で全員を移送することもできない。一番近い市街地まで徒歩で向かわせることになります」


「それがどうした」


「この気温ですよ……」


 水城の声が強くなる。


「もう二十日も食事を減らしているんです。受刑者の中には、普通に歩くだけでも辛そうな人間が大勢いる。その状態で、この雪の中を何時間も歩かせるんですか?」


「…………」


「街へ辿り着く前に凍死する可能性が高いです」


「そんなことは知らん」


 あまりにもあっさりと返され、水城は一瞬言葉を失った。


「……え?」


「出たい奴は出してやればいい」


 大庭の声は変わらなかった。


「ただし、一度門を出た者は二度と中には入れん」


 水城は耳を疑った。


「門を……閉じるんですか?」


「当然だ」


「ですが、外へ出て街まで行けずに戻ってきたらどうするんですか?」


「締め出す」


「所長……」


「何のために解放すると思ってる」


 大庭は机の上の在庫表を指で叩いた。


「ここにはまだ七百人近い人間がいる。その全員に食わせ続ければ、備蓄はすぐになくなる。百人減れば、その分だけ残った人間が食える日数は延びる。二百人ならもっと延びる」


 水城は大庭を見つめた。


 そこでようやく分かった。


 大庭が考えている避難解放は、水城が考えていたものとは違う。


「……食料が尽きる前に、中にいる人数を減らすつもりなんですか」


「そうだ」


「それでは……」


 水城は言葉を詰まらせた。


「それでは、受刑者に死ねと言っているようなものです」


「だからどうした」


 大庭の表情は変わらなかった。


「外に出たいんだろ?」


「…………」


「なら、出してやるまでだ」


「それじゃ受刑者たちは……」


「何度も言わせるな」


 大庭の声が低くなった。


「俺はここの責任者だ。責任者である以上、職員の安全を第一に優先する」


「だからといって、受刑者を外へ出して死なせてもいい理由にはなりません」


「職員まで共倒れさせるつもりか?」


 水城が言葉を止めた。


「職員が倒れれば、この刑務所そのものが終わる。誰が受刑者を管理する?」


「それは……」


「今日で二十日だ」


 大庭は窓の外へ視線を向けた。


「こんな馬鹿げた雪も、いつまでも降り続けるとは思えん」


 水城も窓を見る。


 確かに、誰もこんなものが永遠に続くとは考えていなかった。


 二十日。


 すでに異常という言葉では足りないほど長い。


 それでも、いつかは止まる。


 そう考えるしかなかった。


「雪が止まれば道路も復旧する。時間はかかっても、物流だっていずれ戻る。支援も届くようになる」


 大庭は水城へ視線を戻した。


「だから、それまで何としても耐え抜かねばならん」


「…………」


「全員を助けられるだけの食料がないなら、今ある食料で少しでも長く耐える方法を考える。それが俺の仕事だ」


「ですが、誰を……」


「出るかどうかは本人に選ばせる」


「選ばせる?」


「ここに残りたい者はこれまで通り規則に従わせる」


 大庭は続けた。


「外へ出たい者は止めん。門を開けて出してやる。ただし、一度出たら戻さない」


「そんなもの、選択とは言えません」


「選択だ」


「本人に選ばせたから責任はないとでも言うんですか?」


「誰が責任がないと言った」


 大庭の声がさらに低くなった。


 水城が黙る。


「責任があるから決めるんだ」


「…………」


「全員をここに残して、食料が尽きました、全員死にました。それで責任を果たしたことになるのか?」


 水城は答えられなかった。


「ならないだろう」


 大庭は在庫表を水城の方へ押した。


「俺はここに残る職員と受刑者を、雪が止むまで最大限に生かす。そのために必要なら、避難解放を使う」


 水城は何も言わなかった。


 大庭の考えを受け入れたわけではない。


 だが、完全に間違っていると言い切ることもできなかった。


 食料は有限だった。


 外からの支援は来ない。


 七百人近い人間が、毎日それを食べ続けている。


 誰も外へ出さず、全員をここに残すことが本当に全員を守ることになるのか。


 水城にも、その答えは分からなかった。


 ただ一つだけ確かなことがある。


 二十日前まで、刑務所の扉は受刑者を外へ出さないために閉じられていた。


 その扉を――。


 今度は、生き残るために開けようとしていた。

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― 新着の感想 ―
 トロッコ問題in蠅の王、的な展開。  まあ極限状態とはこういう問題も起きるってことですな。  現実だって「想定外」の自然災害が頻発しているし、誤報だったけどM10クラスの地震が実際に発生したら⋯⋯。
責められない
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