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氷河期ストレージ ~雪が止んだ日、世界は再び動き始めた~  作者: 宵白レン
第二章

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第12話 秩序を守るため

 それから更に三日が経った。


 刑務所を取り囲む景色はさらに白く埋まり、気温も日を追うごとに下がり続けていた。暖房を維持する範囲を減らしたことで、少なくとも収容棟の室温は以前より安定するようになったが、その代わり一つの建物へ押し込められた受刑者の数は増え、房の中は定員を超えた人間で窮屈になっていた。


 男性と女性は階と区画を分けられ、その間にある扉も施錠されている。食事、医務室などへの移動時間もずらされ、職員たちはできる限り両者が接触しないよう管理していた。


 少なくとも、その仕組み自体はまだ機能していた。


 だが、一つの問題を解決したところで、別の場所から次の問題が現れる。


 食事を減らされた受刑者たちの不満は、この三日間で収まるどころか、むしろ強くなっていた。


 変わったのは、不満の大きさだけではない。それまでなら職員に注意されれば口を閉ざしていた者が平然と言い返し、廊下を通る職員に房の中から怒鳴りつける者も増えた。言葉遣いも態度も、ほんの十日前まで守られていた刑務所の規則からますます外れ始めていた。


 初めのうちはその都度注意し、従わない者には規則に沿った対応をしていたが、受刑者たちの態度が荒れていく一方で、それを管理する側の人数は日に日に減っていた。


 交代要員は来ない。帰宅できない職員は何日も施設内に泊まり込み、短い仮眠を取っては再び持ち場へ戻っていく。


 監視、巡回、配膳、医務室への付き添い、そのどれも以前と同じようには回らなくなり、少しくらいの暴言や規則違反であれば、その場で注意するだけで先へ進まざるを得ないことも増えていた。


 昨日まで許されなかったことが今日は注意だけで終わり、今日見過ごされたことが明日には当たり前になる。そうして受刑者たちの態度は少しずつ乱暴になり、それとは反対に、刑務所側が彼らを押さえ込む力は確実に弱くなっていた。


 ◇


「おい! 飯、まだかよ!」


 収容区画の奥から怒鳴り声が響いた。


「いつまで待たせんだ!」


「腹減ってんだよ!」


「おい、聞こえてんのか!」


 昼食の時間は、とっくに過ぎていた。


 廊下を歩いていた職員が「順番に配っている! もう少し待て!」と声を張り上げるが、それで静かになる者はもうほとんどいない。


 その日の配膳が遅れているのにも理由があった。


 ただでさえ人手が足りないところへ、厨房と配膳を担当していた職員まで体調を崩したのだ。朝から高熱を出して動けなくなった者に加え、もう一人も体調不良を訴え、昼食の準備が始まる頃には普段の人数では到底回せない状態になっていた。


「誰でもいい! 手の空いてる人間をこっちに回してくれ!」


 厨房責任者の田所正雄が声を張り上げた。


 だが、手の空いている職員など、もうどこにも残っていなかった。


 結局、普段は配膳に関わらない職員まで応援に回され、その中には施設内の清掃を担当していた男もいた。


「これを運べばいいんですよね?」


「ああ、悪いが頼む。こっちはまだ次が終わってない」


「分かりました」


 慣れない仕事を任された男は、何度も周囲を確認しながら配膳用のカートを押し始めた。


 厨房には複数のカートが並び、職員たちはそれぞれの作業に追われている。受刑者の食事だけでも数百人分あり、さらに職員の分も用意しなければならない。普段なら置き場所も運搬する人間も決まっていたが、欠員を埋めるために人員配置まで崩れたこの日は、いつもの手順そのものが乱れていた。


「遅えぞ!」


 収容区画へ入った途端、男に怒鳴り声が浴びせられた。


「す、すみません。今配りますから……」


「早くしろよ!」


 男は額に汗を浮かべながら最初の房の前で足を止め、食事を渡していった。


 次の房、その次の房へと進んでいく。


 すると、それまで響いていた不満の声が少しずつ違うものへ変わり始めた。


「おっ、今日は前の量に戻ってるぞ!」


「マジか!」


「やっとまともに食えるのかよ!」


 その声が廊下に響くと、まだ食事を受け取っていない房からもすぐに反応が返ってきた。


「本当か!?」


「こっちも早くしろよ!」


「今日はちゃんと食わせてもらえるんだろうな!」


 数日前から明らかに少なくなっていた食事が、ようやく元に戻った。そう思った受刑者たちの声には、久しぶりに喜びさえ混じっていた。


 だが、配膳を続けていた男の表情は次第に曇っていった。


「……あれ?」


 カートの中を確認する。


 まだ半分も配り終えていない。それなのに、残っている食事は明らかに少なかった。


 数を間違えたのかと思い、もう一度確認する。しかし、どう考えても足りない。


「おい、どうした!」


「早くしろって!」


「す、すみません! ちょっと待ってください!」


 男はそれ以上配るのを止め、カートを押して厨房へ戻った。


 そこで、まだ残されている別のカートを見た瞬間、男の顔から血の気が引いた。


「……これ」


 そこに並んでいたのは、受刑者用として用意された食事だった。


 数日前から量を減らされた、明らかに小さな食事。


 男が間違えて運んだのは、職員用だった。


「お前、まさか……」


 近くにいた職員が低い声を漏らした。


「す、すみません。俺、てっきり同じだと……」


「何人に配った?」


「え?」


「何人に配ったんだ!」


「た、多分……二十人くらいは」


 答えを聞いた職員が顔をしかめた。


 今さら取り戻すことなどできない。すでに食べ始めている者もいるはずだった。


「いい。もういいから、こっちを持っていけ」


「でも……」


「まだ配ってない房にこれを配るんだ。余計なことは言うな」


「……はい」


 男は青ざめたまま頷いた。


 今度は間違いなく受刑者用のカートを押し、再び収容区画へ戻っていく。


「遅えぞ!」


「何してたんだよ!」


 先ほどまでとは違い、男はほとんど顔を上げなかった。


 最初の房の前で止まり、食事を渡す。


 受け取った男が、すぐに手元を見た。


「……おい」


 清掃職員の手が止まった。


「なんで俺らの少ねえんだよ」


「え……」


「さっき、量が戻ったって言ってただろ!」


 すると、先に食事を受け取った房から声が飛んできた。


「こっちは普通だったぞ!」


「前と同じくらい入ってる!」


 今度は別の房から怒鳴り声が上がった。


「じゃあなんで俺らだけ少ねえんだよ!」


「お前らが多く取ったんじゃねえのか!」


「知らねえよ! 配られたの食っただけだ!」


「こっちにも同じの持ってこいよ!」


 清掃職員は何も答えず、次の房へ食事を渡そうとした。


 だが、もう誰も黙って受け取ろうとはしなかった。


「おい、待てよ」


「……なんで二種類あるんだ?」


「答えろよ!」


「これは……」


 男の喉が動いた。


 何かを言おうとして、言葉を飲み込む。


 その反応だけで十分だった。


「……職員用じゃねえだろうな?」


 誰かが言った。


 廊下が、一瞬だけ静かになった。


「は?」


「最初に持ってきたやつ、職員用なんじゃねえのかって言ってんだよ」


「……おい」


「だから量が違うのか?」


 清掃職員は答えなかった。


 だが、その顔を見れば、否定できないことは誰にでも分かった。


「ふざけんなよ、こら」


 低い声が響いた。


「俺らの飯だけ減らして、自分らは今まで通り食ってたってことか?」


「おい、そうなのか!」


「答えろ!」


「なんで俺らだけ減らされてんだよ!」


 一つだった声が二つになり、二つが四つになった。


 それまで食事の到着を待っていた者たちまで房の奥から扉の近くへ集まり、職員に向かって怒鳴り始める。先に職員用の食事を受け取った者たちも、自分たちだけが偶然多くもらったことを理解し、食事を減らされていた理由そのものへ疑問を向け始めた。


「食料が足りねえから減らしたんじゃなかったのかよ!」


「俺らだけなんか! ああん?」


「職員は今まで通り食ってたってことだろ!」


「静かにしろ!」


 刑務官が声を張り上げた。


「全員、房の奥へ戻れ!」


「なんでだよ!」


「先に説明しろ!」


「今ここにある食料は全員のもんだろうが!」


 誰かが房扉を蹴った。


 鈍い音が収容区画に響き、それに呼応するように別の場所からも音が返ってくる。


 食器を扉へ叩きつける者まで現れた。


「やめろ!」


「扉から離れろ!」


「聞こえないのか!」


 職員たちが叫ぶ。


 しかし、もう声で押さえられる状態ではなかった。


 受刑者たちは房の中にいる。扉も施錠されている。物理的には誰一人として廊下へ出てきてはいない。


 それでも、収容区画全体が暴れているようだった。


 怒鳴り声と扉を蹴る音が幾重にも重なり、コンクリートの壁と天井に反響して、何を叫んでいるのかさえ聞き取れなくなっていく。


 その騒ぎは、男性区画だけに留まらなかった。


 ◇


「何かあったの?」


 女性区画でも、男たちの怒鳴り声に気づいた女たちが次々と顔を上げていた。


「飯がどうとか言ってない?」


「職員だけって聞こえたけど……」


「また食事のこと?」


 何人かが不安そうに房扉の方へ集まっていく。


 男性と女性は同じ収容棟へ移されたとはいえ、階も区画も分けられ、その間には施錠された扉がいくつもある。


 それでも、男たちが何を叫んでいるのか聞き取れてしまうほどの距離しか離れていなかった。


「ねえ……大丈夫よね?」


「扉は閉まってるんでしょ?」


「でも、最近職員も減ってるじゃない……」


 その言葉に、何人かの女が黙り込んだ。


 火野は房扉の向こうへ目を向けたまま、何も言わなかった。


 男たちが何を叫んでいるのかよりも、その声がここまで届いていることの方が気になった。


 以前なら別の建物にいたはずの男たちが、今は壁と施錠された扉の向こうにいる。そして、その扉を管理する職員は日に日に少なくなっている。


 その間にも男性区画の騒ぎは収まるどころか、さらに大きくなっていた。


 ◇


「所長、駄目です! もう我々だけでは収まりません!」


 報告を受けた大庭重徳は、苛立ったように椅子から立ち上がった。


「何が原因だ」


「配膳のミスです。職員用の食事を一部の受刑者に配ってしまって……」


「何だと? バカ野郎!」


「それで、職員の食事が減らされていないことが知られました」


 大庭の顔が歪んだ。


「役立たずどもめ……」


「所長?」


「俺が行く」


 大庭はそれだけ言うと、制止しようとする職員を無視して部屋を出た。


 収容区画へ近づくにつれ、騒音は大きくなっていく。扉を一枚抜けるたびに怒号が近づき、やがて個々の声を聞き分けることすら難しくなった。


 大庭が収容区画へ姿を見せても、最初は誰も気づかなかった。


「静かにしろ!」


 腹の底から響くような怒声が飛んだ。


 いくつかの房から声が消えた。


「静かにしろと言っとるんだ!」


 もう一度。


 今度は、先ほどまで地鳴りのように響いていた騒ぎが目に見えて小さくなった。


 大庭は廊下の中央まで進むと、左右に並ぶ房を睨みつけた。


「何が不満だ!」


 返事はない。


「職員はお前らと違って、今も毎日働いとる! 雪で家にも帰れず、何日もここに泊まり込んでいる者だっている! 誰のために働いていると思ってる!」


 どこかの房から、小さく舌打ちが聞こえた。


「食事を作るのも、運ぶのも、暖房を動かすのも全部職員だ! それに比べてお前らは何をしている! 今は房の中で、飯が運ばれてくるのを待っているだけだろうが!」


「俺らだって好きで房に籠ってるわけじゃねえぞ!」


 突然、声が飛んだ。


「今ここにある食料は全員のもんだろ!」


 別の房からも声が上がる。


「そうだ!」


「なんで職員だけ今まで通りなんだよ!」


「食料が足りねえなら全員減らせよ!」


 大庭の顔が赤くなった。


「黙れ!」


 その怒声に、再び声が止まった。


「緊急時だからと少し甘くすれば、つけ上がりやがって! その言葉遣いは何だ! 規則はどうした! お前ら、自分が受刑者だということを忘れたのか!」


 今度こそ、収容区画は静まり返った。


 大庭は荒い息を吐きながら周囲を見回した。


 誰も何も言わない。


 だが、その沈黙は長く続かなかった。


「……ふざけんなよ」


 どこかの房から、低い声が聞こえた。


 大庭が振り向く。


「何だと?」


「俺らだって人間だろうが」


 その一言をきっかけに、別の房からも声が上がった。


「そうだ!」


「腹減んのは一緒だろ!」


「俺らだけ飢えさせるのが規則かよ!」


 房扉を叩く音が響いた。


 それに応えるように別の扉が蹴られ、さらにその奥からも怒鳴り声が上がる。


 一つの声に別の声が重なり、それがさらに次の房へ広がっていく。最初はまだ一人一人の言葉を聞き取れたが、十秒もしないうちにそれさえできなくなった。


 扉を蹴る音、食器を叩きつける音、職員を罵る声。それらがコンクリートの壁に何重にも反響し、まるで建物そのものが唸っているような音へ変わっていく。


「いい加減にしろ!」


 大庭が叫んだ。


「おい! 今の奴!」


 近くにいた職員を振り返る。


「あの房を開けろ!」


「所長?」


「さっきから煽っている奴を連れ出せ! 独房行きだ!」


「しかし今は――」


「聞こえなかったのか! お前らで行け!」


 命令を受けた職員五人が顔を見合わせた。


 やがて一人が鍵を取り出し、残りが問題の房へ向かう。周囲にいた職員も、何かあればすぐ動けるよう距離を詰めた。


 鍵が回り、房扉が開いた。


「お前だ。出ろ」


「なんで俺だけなんだよ!」


「出ろ!」


 男が抵抗しようとした瞬間、三人の職員が中へ入り、腕を押さえた。


「離せよ!」


 同じ房にいた者たちも立ち上がる。


「何してんだ!」


「そいつだけじゃねえだろ!」


 その声を聞いた大庭が、さらに顔を険しくした。


「そいつらもだ」


「……所長?」


「連帯責任だ! 同じ房の奴らも全員連れていけ!」


「待ってください!」


 水城の声が飛んだ。


 騒ぎを聞いて駆けつけた水城が、人をかき分けるようにして大庭のもとへ来る。


「今声を上げた者については、こちらで確認したうえで必要な処分をします。ですが、同じ房にいたというだけで全員を懲罰対象にするのは認められません」


「……何?」


「他の者まで騒ぎを先導したという確認は取れていません。それに今は、何人も懲罰区画へ移して管理できるほど職員に余裕がないんです」


「だからこそだろうが!」


 大庭が水城を睨みつけた。


「これ以上好き勝手に騒がれたら、少ない職員でどうやって七百人を管理するつもりだ!」


「見せしめにすれば静かになるという話ではありません!」


「現に今まで静かにできなかっただろう!」


 大庭は収容区画を指差した。


「食事を運ぶだけでこれだ! 職員が何人も倒れて、人手が足りない中でもこいつらの食事を作り、暖房まで維持してやっている。それでも足りない、気に入らないと騒ぎ続ける! これ以上どうしろと言うんだ!」


「だからといって、規則を守らせる側が規則を曲げていい理由にはなりません!」


「もういい!」


 大庭が水城の言葉を遮った。


「お前のそういう甘さが、こいつらをつけ上がらせやがるんだ!」


 そして職員たちへ向き直った。


「全員連れていけ!」


「所長!」


「命令だ!」


 大庭は譲らなかった。


 結局、その房にいた六人全員が連れ出された。


 先頭を歩かされるのは、最初に大庭へ声を上げた男だった。その後ろを同じ房にいた五人が続き、職員たちに囲まれながら廊下の奥へ消えていく。


 六人が姿を消したあと、先ほどまで収容区画を揺らしていた怒号は嘘のように消えていた。


 静かになった。


 大庭はそれを確認すると、水城へ視線を向けた。


「見ろ。これでいい」


 水城は何も答えなかった。


 確かに静かになった。


 だが、それは大庭の言葉に納得したからではない。


 次に声を上げれば自分も連れていかれる。


 受刑者たちがそれを恐れただけだった。


 ◇


 その夜、気温はさらに下がった。


 そして、六人が入れられた懲罰区画には、暖房が機能していなかった。


 平時であれば、そこへ収容した受刑者についても職員が状態を確認し、異常があれば対応する。しかし、その夜の刑務所には、そこへ人員を割き続けるだけの余裕が残っていない。


 通常の収容区画だけでも、体調を崩す受刑者が相次いでいる。暖房設備にも不調が出始め、夜間の巡回中にも何度も職員が呼び止められた。昼間の騒ぎで疲れ切った職員たちは、目の前で起きる問題を処理するだけで精いっぱいだった。


 懲罰区画へ六人を入れたあと、そこへ常時見張りを置くことはできない。


 そして夜が更けるにつれて、暖房のない室内から少しずつ熱が奪われていった。


 ◇


 翌朝。


「出ろ」


 職員が扉を開けた。


 しかし、返事がない。


「おい、出ろ」


 中を覗いた職員の表情が変わった。


 五人の男たちが、壁際で毛布を体に巻き付け、互いに身体を寄せるように座り込んでいる。顔色は悪く、唇は青ざめ、まともに立ち上がれない者もいた。


 そして、その少し離れた場所に一人の男が横たわっていた。


「……こいつ、動かねえ」


 一人が震える指で床を指した。


 職員が慌てて中へ入る。


「おい!」


 肩に触れる。


 反応はなかった。


「おい! 聞こえるか!」


「無駄だ……」


 昨日、大庭に食ってかかった男が、掠れた声で言った。


「夜中からずっと動いてねえ」


 職員が男の首元へ手を当てた。


 その顔から血の気が引いた。


 ◇ ◇ ◇


「最後に確認したのはいつですか?」


 駆けつけた水城の声は低かった。


「……昨夜です」


「何時ですか?」


 職員は答えられなかった。


 水城の表情が険しくなる。


「六人を入れたあと、最後に確認したのはいつですか?」


「……収容した時です」


「それから朝まで、一度も?」


「人が足りなかったんです。通常区画の巡回だけでも手いっぱいで……」


 水城は何も言えなかった。


 職員を責めても意味がない。


 自分も分かっていた。


 もう、現場にはすべてを以前と同じように行うだけの人間が残っていない。


 死亡した男は、昨夜大庭へ食ってかかった受刑者ではなかった。


 同じ房にいただけだった。


 それだけの理由で連帯責任を負わされ、暖房のない場所へ移され、朝を迎えることができなかった。


 残った五人は医務室で状態を確認されたあと、元の収容区画へ戻された。


「……一人足りなくねえか?」


 戻ってきた五人を見て、誰かが言った。


「あいつは?」


 五人のうち一人が足を止めた。


「死んだ」


「……は?」


「凍死したよ」


 それだけだった。


 だが、その言葉は昨日の食事の話よりも速く広がった。


 懲罰区画で一人死んだ。


 暖房のない場所へ入れられた。


 夜の間、誰も見に来なかった。


 所長に逆らった房の人間がまとめて連れていかれ、そのうち一人が朝までに死んだ。


 話は房から房へ、区画から区画へ伝わっていった。


 やがて事実と噂の境界まで曖昧になり、最後には一つの言葉だけが残った。


 所長に逆らったら、殺される。


 ◇


「所長!」


 水城は所長室の扉を開けた。


 ノックをする余裕さえなかった。


「何だ、騒々しい」


「一人死にました」


「……聞いている」


「聞いているじゃありません!」


 水城が机の前まで歩み寄る。


「昨日、懲罰区画へ入れた受刑者です。低体温症による凍死だと思われます。あそこに暖房がないことは、所長も知っていたでしょう!」


「だから何だ」


 水城が言葉を失った。


「……だから何だ?」


「所長、これは人権問題ですよ!」


「人権問題だと?」


 大庭は一瞬呆れたように水城を見たあと、鼻で笑った。


「何を甘っちょろいことを言っとる。そもそも、ここに入ってくるようなクズに人権なんかあるか!」


「所長!?」


 水城の顔色が変わった。


「なんてことを言うんです! 彼らだってここで更生して、刑期を終えればいずれ社会に戻る人間なんですよ!」


「だから何だ!」


 大庭が机を叩いた。


「お前だって分かっとるだろう! ここを出ていった連中のうち、何人がまた犯罪を犯して戻ってくる! 何度言い聞かせても、何度刑務所に入れても、また同じことをして戻ってくる奴がどれだけいると思っとる!」


「だからといって、全員がそうじゃないでしょう!」


「同じだ!」


 大庭は吐き捨てるように言った。


「クズはクズだ! そう簡単に変わりゃせん!」


「……所長」


「俺たちの仕事は、あいつらを立派な人間にしてやることじゃない。決められた期間ここに閉じ込めて、問題を起こさせず管理することだ! まして今は緊急事態だぞ!」


 大庭は立ち上がった。


「昨日の状況を見ただろうが! 命令しても聞かない、職員を罵倒する、房の中から扉を蹴り続ける! あのまま放っておけば暴動になっていたかもしれん!」


「だからといって――」


「七百人だぞ!」


 大庭の怒声が水城の言葉を遮った。


「七百人が一斉に暴れ出したら、今残っている職員だけで止められると思っているのか! 昨日は誰かを処分しなければならなかった。あいつらにもう一度、ここが刑務所で、自分たちが受刑者だということを思い出させる必要があったんだ!」


「そのためなら、人が死んでもいいと言うんですか!」


「死なせるつもりで入れたわけじゃねえ!」


「つもりがあったかどうかの話をしてるんじゃありません!」


 水城も声を荒らげた。


「我々には、ここに収容している人間を生きたまま管理する責任があるんです! 緊急事態なら何をしてもいいんですか! 暖房もない場所に一晩閉じ込めて、確認すらしなかった。その結果、一人死んだんですよ!」


「結果論だろうが!」


「結果論で人の命を片づけないでください!」


 部屋の外にいた職員たちにも聞こえるほどの声だった。


 だが、二人とももう気にしていなかった。


 水城は机に置かれていた死亡者の記録へ目を落とした。


「……この人は、昨日何をしたんですか?」


「何?」


「亡くなった彼です。昨日、所長に暴言を吐きましたか? 騒ぎを先導しましたか? 職員に危害を加えましたか?」


「同じ房にいた」


「それだけでしょう!」


 水城の声が室内に響いた。


「この人は何もしていない! 同じ房にいたというだけで連れていかれて、暖房のない場所へ入れられて、それで死んだんです!」


「連帯責任だと言ったはずだ!」


「人の命まで連帯責任で奪うんですか!」


「奪ってなどいない!」


 大庭も机を挟んで水城を睨み返した。


「事故だ! 今は何もかも普段通りにはできん! 職員だって限界なんだ! 一晩中あいつらを見張るために人間を置いて、通常区画で何か起きたらどうする! お前は一人のために残りの七百人を危険に晒すつもりか!」


「そういう話をしてるんじゃありません!」


「同じ話だ!」


 しばらく、二人は黙ったまま睨み合った。


 先に口を開いたのは大庭だった。


「綺麗事で七百人を管理できると思うな、水城」


 水城はすぐには答えなかった。


 机の上に置かれた一枚の記録へ、もう一度目を落とす。


 昨日まで生きていた人間の名前が、そこには書かれていた。


「……綺麗事じゃありません」


 水城は顔を上げた。


「それを捨てたら、俺たちと受刑者を分けているものがなくなると言ってるんです」


 大庭は答えなかった。


 水城も、それ以上何も言わなかった。


 この日、一人の受刑者が死んだ。


 だが、この刑務所で失われ始めていたものは、それだけではなかった。

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