番外編 専属医のお仕事
「あ、知らない天井だ……」
目を開けて、最初にそう思った。
頭が重い。身体には鉛でも詰め込まれたような倦怠感があり、喉は焼けるように痛い。鼻も詰まっているらしく、呼吸をするだけでも妙に苦しかった。
「あ! 起きた? レン!」
声のした方へ顔を向ける。
「……朝霧?」
「ちょっと、どうしたのよ? すごい熱だったから寝ぼけてるの?」
「あ、ああ……そうかもしれん。ここは?」
「もう、2501に決まってるじゃない。ちょっと本当に大丈夫?」
朝霧は呆れたように言ったあと、すぐに表情を変えた。
「まだ熱があるかもしれないわね。ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出た朝霧は、すぐに診察器具を持って戻ってきた。
体温を測り、喉を診て、呼吸の状態を確認する。さっきまでの呆れ顔が嘘のように、その表情は真剣そのものだった。
「んー……まだ熱がかなり高いわね。症状を見る限り、おそらく――」
俺は黙って朝霧の言葉を待った。
「ウイルスによる急性上気道感染症ね」
「……インフルエンザか」
「そうよ。熱に喉の痛み、倦怠感もかなり強い。薬は出すけど、今日は絶対に安静。水分もしっかり取って。熱が下がってもすぐに動いちゃダメよ」
「どれくらいかかる?」
「今の状態なら、あと二日くらいは覚悟した方がいいわね」
「二日か……」
思ったより長い。
「それと、こういう時こそ栄養のあるものを食べた方がいいわ」
「それなら……何か出そう」
こういう時に食べられそうなものならいくらでもある。何を取り出そうかと考えていると、朝霧がすぐに首を横に振った。
「ダメよ。あなたが収納してるの、ほとんどお店の料理じゃない。脂っこいものとか味の濃いものは、今は余計に身体へ負担がかかるわよ」
「それなら――」
雑炊もある。
そう言いかけたところで、朝霧が立ち上がった。
「私がお粥作ってあげるわ」
「……え?」
「材料なら冷蔵庫にあるもので十分だから、あなたはこのまま寝てて」
「お、おい……」
止めなければ。
そう思ったのに、喉がやられているせいで声がうまく出ない。
「ゆっくり寝てて。すぐできるから」
朝霧はそう言い残し、寝室から出ていった。
……まあ。
お粥なら、さすがに問題ないだろう。
米を水で煮込むだけのお手軽料理だ。せいぜい卵か、消化によさそうな具材を少し入れる程度。
いくら朝霧でも、失敗のしようがない。
それに、あいつの料理の練習にもうってつけだろう……
そして俺は諦めて目を閉じた。
少しだけ休むつもりだった。
◇
「……ん」
気づけば眠っていたらしい。
どれくらい寝ていたのか、自分でも分からない。
ただ――。
「…………なんだ?」
鼻が動いた。
さっきまで詰まっていたはずの鼻が、なぜか通っている。
いや、通ったというより、無理やり何かにこじ開けられたような感覚だった。
何かが鼻腔の奥へ突き刺さってくる。
薬のようでもあり、食べ物のようでもある。
これまで嗅いだことのない、複雑怪奇な匂いだった。
「…………」
俺は黙って天井を見つめ、嫌な予感がする。
ものすごく嫌な予感がする。
そして、やがて廊下から足音が近づいてきた。
「あれ? 起きたの? さっき見にきた時は寝てたのに」
来た。
「ジャジャーン! できたわよ!」
満面の笑みを浮かべた朝霧が、お盆を持って入ってきた。
その上には湯気を立てる一つの器。
俺はそれを見た。
「…………」
もう一度見た。
「……朝霧」
「ん? なに?」
「これは……なんだ?」
「何言ってるの。お粥よ?」
「…………」
俺が知っているお粥とは違う。
卵や刻んだネギらしきものまでは分かる。
問題は、そのお粥がドス黒いオレンジ色になっていることと、中央から堂々と顔を出している、細長い根のような物体だった。
「……これ、なんだ?」
「朝鮮人参よ」
「は?」
「漢方にも使われるくらいだし、こういう時にはちょうどいいと思って」
「こんなのあったか?」
「あったじゃない。前に薬の話をした時に蓮が出してくれたじゃん」
「え? そうだったか……?」
「もう、やっぱり熱のせいね」
朝霧は呆れたように息を吐くと、器を俺の前へ置いた。
「ほら、早く食べて、食べたらまたすぐ寝ていいから」
「……ああ」
まあ、確かに身体には良さそうだ。
見た目は少々不安だが、朝霧は医者だ。少なくとも身体に悪いものを病人へ食わせるはずはない。
俺は匙を手に取った。
「……朝霧」
「なに?」
「これ、本当に食べないとダメか?」
「当たり前じゃない。病人なんだから、ちゃんと栄養を取らないと」
「いや、でも……」
「大丈夫よ。ちゃんと味見はしてあるから」
朝霧は自信満々に胸を張った。
「料理は愛情。食事は根性。きっと栄養満タンよ」
「…………」
ん?
今の言葉……。
どこかで聞いたような……。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
なんだろう。
妙な既視感がある。
つい最近、まったく同じ言葉を目にしたような気がするのだが……。
……気のせい、か?
「ほら、冷めちゃうわよ」
「……ああ」
俺は覚悟を決め、匙ですくったお粥を口へ運んだ。
「――――っ!?」
最初に襲ってきたのは、強烈な甘さだった。
その直後、朝鮮人参の独特な苦味が追いかけてくる。
さらに何かの辛味が割り込み、最後に酸味が容赦なく舌を刺した。
味の津波だった。
しかも一つとして調和していない。それぞれが好き勝手に押し寄せ、病気で弱りきった俺の味覚と身体を蹂躙していく。
「…………っ」
「どう?」
「……何を入れた」
「え? 栄養をしっかりつけてもらおうと思って朝鮮人参いれたでしょ?」
「ああ……そうだな」
「でもそれじゃ苦いと思って、隠し味に蜂蜜を入れたの。さらに風邪に効く生姜、さらに味気ないと思ったから梅干しもいれたわ」
返事をする余裕などなかった。
これはまずい。このままでは命に関わる気がする。
本能がそう告げていた。
俺は震える右手を前へ突き出し収納――
「…………」
できかった。
さらにもう一度、収納。
「…………?」
なぜだ。
いくら右手を伸ばしても、いくら収納しようとしても、目の前のお粥らしからぬ物体が消えない。
「あ! また《パンドラ》に収納しようとしてる!」
朝霧が俺の右手を見て声を上げた。
「今回はダメよ! これは本当に身体にいいの! 全部食べてもらうわ!」
「いや……」
「ダメよ。食べなさい」
「…………」
朝霧の声が一つ低くなり、表情もどこか怖い。
もう、逃げられない。
だが……まあ。
自分のために、苦手な料理をせっかくここまで作ってくれたんだ。
ここは――。
俺は食った。
食って、食って、食い続けた。
襲いかかってくる味の津波に耐え、何度も止まりそうになる手を動かし、必死に喉の奥へ流し込む。
死力を尽くして――。
最後まで、食べきった。
「…………」
直後だった。
身体から力が抜けていく。
視界がぼやけ、朝霧の顔が遠ざかっていく。
意識が、どんどん深いところへ沈んでいく。
「え? ちょっと! どうしたの!?」
朝霧が慌てて俺の身体を支えた。
「ねえ、しっかりして! レン!?」
――その瞬間。
俺は、すべてを思い出した。
そうだった。
俺は……レン。
神崎蓮じゃない。
――宵白レン。
……どうりで《パンドラ》が使えないわけだ。
そして同時に、もう一つ思い出した。
昨日、俺はあとがきに体調を崩したことを告げた。
すると、大勢の読者が心配してくれた。
『体調には気を付けて下さい』
『お大事にしてください』
『お体に無理のない範囲で』
『ご自愛ください』
『体調が早くよくなることを祈っています』
『無理せずお大事にー…』
『無理は絶対にしちゃイカンとです!』
『ゆっくりと休んでください』
『健康を1番でお願いします』
『por favor recupérate sin preocuparte demasiado』
など、お見舞いの言葉が溢れていた。
嬉しかった。本当に嬉しかった。
それこそ、涙が出そうなくらいに。
――だが。
その中に、奴は現れた。
田村先生を呼ぶのはいい。何か悪意のようなものは感じたが彼も立派な医者だ。
――だが。
『朝霧先生にお粥とか作ってもらって下さい』
『料理は愛情です。食事は根性です。きっと栄養満タンです』
…………。
おい。
高熱を出してる俺に、なんてことをしてくれたんだ。
見舞いじゃなかった。
奴は――俺を殺しに来てた。
「もう……料理のために死ぬのは、ごめんだ……」
読者を信じ、薬を飲み、寝起きの高熱の中でも作品を書き続けた。
その結果が、これだった。
「次があるなら……今度は……」
薄れていく意識の中で、レンは最後に一つだけ願った。
「星と……フォローを……」
その言葉を最後に――。
宵白レンの意識は、完全に闇へ沈んだ。




