第11話 Day7 変わる環境
七日目。
雪は、降り続いていた。
刑務所を取り囲む高い塀の上には分厚い雪が積もり、初日にはまだ黒い舗装が見えていた敷地も、今では全てが白く埋まっていた。
職員たちが交代で雪を掻き続けている管理棟前だけが辛うじて人の通れる幅を残していたが、その両側には除けられた雪が壁のように積み上がり、正門から山を下る道路に至っては、どこからどこまでが車道だったのかさえ判別しづらくなっている。
三日目を最後に、刑務所へ上がってくる車の数は目に見えて減っていた。除雪作業そのものは続いていたものの、連日の降雪に追いつかず、山道は除雪されたそばから再び雪に覆われていく。
交代するはずだった職員の多くも出勤できなくなり、厨房が待ち続けていた食材を積んだ納入業者のトラックに至っては、三日目以降一度も姿を見せていなかった。
それでも刑務所は動いていた。
朝になれば受刑者を起こし、点呼を行い、食事を配る。
以前のような刑務作業や屋外運動はほとんど中止されていたが、医務室には次々と体調不良者が運ばれ、厨房では数百人分の食事が作られている。刑務官は少なくなった人数で収容棟を巡回し、夜になれば房を確認して施錠する。
ただし、それを支えている職員たちは明らかに限界へ近づいていた。
「副所長、今日も三人来られないそうです」
管理棟の一室で勤務表を確認していた水城は、その報告を聞いて顔を上げた。
「三人とも連絡は取れたのか?」
「二人は取れました。一人は自宅から車を出せないそうです。もう一人は途中まで来たらしいんですが、県道で立ち往生している車が何台もあって、引き返したと。残りの一人はまだ繋がりません」
「昨日来る予定だった職員は?」
「同じです。来られていません」
水城は返事をせず、机の上に広げた勤務表へ視線を戻した。
一週間前までは、そこに書かれた名前が予定通りに入れ替わっていた。日勤が終われば夜勤へ引き継ぎ、翌朝には新しい職員が山を上がってくる。それを前提として刑務所の勤務体制は組まれており、その循環が止まることなど誰も想定していなかった。
ところが今では、刑務所に残った職員は自宅へ帰れていない者がほとんどだった。夜勤を終えた職員を空いている事務室や仮眠室で数時間眠らせ、起きれば再び持ち場へ戻す。それでも人手は足りず、事務を担当していた職員まで食事の運搬や物資の整理を手伝うようになっていた。
「今日も刑務作業は全部中止だ。受刑者の移動はできるだけ減らしてくれ。夜勤明けの人間は最低でも数時間は休ませる。今ここで職員まで倒れたら、本当に回らなくなる」
「分かりました。ただ……」
報告に来た刑務官が、言いにくそうに言葉を止めた。
「どうした?」
「受刑者の方も、かなり荒れてきています」
水城は小さく息を吐いた。
「……寒さか」
「それが一番です。あとは、いつまで房に閉じ込めておくんだとか、外がどうなってるのか説明しろとか、家族に連絡させろとか。今朝は食事を配る時にも揉めました」
「分かった。俺も収容棟を回る」
水城は勤務表を閉じると、そのまま席を立った。
◇
収容棟へ入った瞬間、水城は以前より明らかに冷たくなった空気を感じた。
暖房設備そのものは動いている。それでも窓際へ近づけばガラス越しに冷気が伝わり、場所によっては窓枠に白い霜が付いていた。同行している刑務官も制服の下に何枚か着込んでおり、水城自身も数日前から同じように防寒着を重ねている。
「副所長!」
廊下を歩き始めて間もなく、鉄格子の向こうから声が飛んできた。
水城が足を止めると、一人の男が格子を掴んで立っている。その隣や向かいの房からも何人もの受刑者がこちらを見ており、どうやら同じことを言いたいらしい。
「どうしました?」
「どうしたじゃねえよ! 暖房、本当に動いてんのか? 昨日なんか寒くてほとんど寝られなかったぞ!」
「設備そのものは動いています。ただ、外の気温が下がり続けていて、施設全体の温度が上がりきっていません。設備担当にも確認させています」
「だったら毛布くれよ。予備があるんだろ?」
「その件については、もう一度所長と話します」
水城がそう答えた途端、男の顔に苛立ちが浮かんだ。
「またそれかよ。初日からずっと言ってんじゃねえか!」
「こっちは昨日から咳が止まらねえんだ」
「夜中なんか寒くて何度も目が覚めるんだよ!」
「副所長、いつまでこんな状態なんだ!」
一つの声をきっかけに、それまで黙っていた受刑者たちまで次々と訴え始めた。同行していた刑務官が「静かにしろ!」と声を張ったものの、以前ならそれだけで房の奥へ戻っていた者たちも、この日はなかなか引き下がろうとしない。
水城にも、彼らの不満が理不尽なものだとは思えなかった。
職員でさえ制服の下に何枚も着込み、夜になれば仮眠室で毛布を重ねて眠っている。それでも寒いのだ。鉄格子の向こう側にいるというだけで、同じ寒さを感じている人間に規定だから我慢しろと言い続けることが正しいとは、水城にはどうしても思えなかった。
「分かっています。毛布については必ずもう一度掛け合います。それと、体調が悪い者は我慢せずに申し出てください。順番にはなりますが、医務室で診てもらいます」
「……頼むぞ、副所長」
先ほどまで声を荒らげていた男が、最後には疲れたようにそう言った。
水城は頷いてその場を離れたが、廊下を進むたびに別の房から同じような声が飛んできた。暖房をどうにかしてくれ、毛布を増やしてくれ、いつまでここに閉じ込めておくつもりなのか。
中には刑務官へ悪態をつく者もいたが、その多くは怒りというより、先の見えない状況に対する不安をぶつけているように水城には思えた。
彼らには自分で外へ出て状況を確かめることができない。
家族がいるものは、無事なのかも分からず、いつまで雪が続くのかも分からない。それでも毎朝決められた時間に起こされ、鉄格子の向こうで待っているしかないのだ。
水城自身、いつまで待てばいいのかという問いに答えを持っていなかった。
◇
収容棟を出た水城が次に向かったのは厨房だった。
中へ入れば、大きな釜から湯気が上がり、昼食の準備をする職員や受刑者たちが忙しそうに動き回っている。調理器具の音が絶え間なく響き、料理の匂いも漂っている。その光景だけを見れば、七日前と大きく変わったようには見えなかった。
だが、厨房責任者の田所正雄は調理場にはいなかった。
水城が厨房脇の事務室を覗くと、田所は机いっぱいに在庫表や納品予定表を広げ、それを何度も見比べていた。
「田所さん」
「ああ、副所長。ちょうど話をしようと思ってたところです」
田所は水城を見ると、手にしていた紙を机へ置いた。
「やっぱり今日も来ませんでしたよ」
「納品か」
「ええ。三日目に来る予定だった便も、その次の便もです。一度だけ業者と連絡がつきましたけど、今はここまで移動できないと言われました。それからは電話も繋がったり繋がらなかったりで、次にいつ来られるのかも分かりません」
水城は机の上に並べられた数字へ目を落とした。
「今使っている食料は、あとどれくらいある?」
「今日と明日でほぼ終わります」
田所の答えに、水城は顔を上げた。
「そんなに少ないのか?」
「本来なら定期的に納品されますからね。毎回大量に抱えておく必要がないんです。今使っている分がなくなったら、備蓄倉庫を開けるしかありません」
「備蓄があるなら、しばらくは持つんじゃないのか?」
水城が尋ねると、田所はすぐには答えず、別の在庫表を引き寄せた。米や乾麺、缶詰、保存の利く食材などが項目ごとに記載されているが、田所の表情は明るくならない。
「七百人ですよ、副所長」
「……ああ」
「受刑者だけでそれだけいる。職員まで合わせればもっとです。備蓄って言ったって、これだけの人数を何週間も外から何も来ない状態で食わせることを想定した量じゃありません」
田所は数字を指で追いながら、一度計算を確かめるように黙り込んだ。
「今まで通り三食、同じ量を出すなら……備蓄倉庫を開けてから一週間程度です」
「一週間か……」
「多少は前後します。乾物や缶詰を全部使って、献立なんか考えずに腹へ入るものを片っ端から使えば、もう少し伸ばせるかもしれません。でも、それでも何週間も持つような量じゃない」
水城は厨房の方へ目を向けた。
大きな釜から立ち上る湯気の向こうで、受刑者たちが昼食を容器へ分けている。今日も朝食は通常通りだった。昼食も予定通り作られており、おそらく夕食も出せるだろう。
一週間前までなら、それが当たり前だった。使った食材は次の納品で補充され、翌日になればまた同じように何百人分もの食事を作る。
今は、使った分が二度と戻ってこない。
「……そろそろ量を減らす必要がありますね」
「はい」
田所は頷いたものの、すぐに付け加えた。
「ただ、やるなら慎重にしてください。今だってかなり苛立ってますから」
「そうですね」
「寒い、外へ出られない、家族がどうなってるかも分からない。そこへいきなり飯まで減ったら、揉めますよ。それと――」
田所は少し言いにくそうにしてから、水城を見た。
「減らすなら、職員も同じように減らした方がいいと思います」
「私もそう思っています」
「ならいいんです。受刑者は見てますからね。自分たちだけ減らされて、職員が今まで通り食ってるなんて分かったら、それだけで話が変わります」
水城は頷いた。
「所長には俺から話す」
◇
「受刑者の分だけ減らせ」
大庭は、田所の報告を最後まで聞いても驚いた様子を見せなかった。
水城は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「……受刑者だけですか?」
「そう言った」
「職員も同じ食事を取っています。全体で少しずつ減らした方が、受刑者からの反発も――」
「職員は今まで通りだ」
大庭は水城の言葉を遮った。
「ただでさえ人が足りないんだ。夜勤明けの人間まで休ませながら使ってるんだろう? そんな状態で職員の食事まで減らしてどうする」
「だからといって、受刑者だけを減らせば必ず不満が出ます。今でも寒さや職員不足でかなり不安定になっています」
「不満だ?」
大庭はそこで初めて書類から顔を上げた。
「犯罪者が刑務所の飯に不満を言うから、職員まで腹を空かせろっていうのか?」
「そういう話ではありません」
「同じことだろう」
大庭は椅子の背にもたれ、水城を見た。
「お前は少し、あいつらに肩入れしすぎじゃないか?」
「肩入れではありません。七百人近い人間を管理しているんです。こちらが露骨に扱いを変えれば、それだけで秩序が崩れる可能性があります」
「人間、人間って……お前はあいつらが何をしてここにいるのか忘れたのか?」
水城の表情が僅かに強張った。
「忘れていません」
「殺人、傷害、強盗、性犯罪。まともに生きてきた人間なら、そもそもこんな場所には入らない」
「だからといって、何をしてもいいわけではありません」
「何をするっていうんだ。飯を食わせないと言ってるわけじゃない。量を減らすだけだ。それくらいで死にはしない」
大庭はそう言うと、机の上にあった書類へ再び視線を落とした。
「職員は外へ出られない中で働いてる。あいつらは房の中にいるだけだ。どちらに食料を回すべきかなんて考えるまでもないだろう」
「……受刑者も、この状況を選んだわけではありません」
「刑務所にいる状況は自分で選んだ結果だ」
水城は言葉を失った。
大庭は気にも留めず、書類へ何かを書き込んでいく。
「受刑者の食事量を減らせ。職員は現状維持。それで田所に計算させろ」
「所長!」
「水城」
今度は大庭が遮った。
「ここは保護施設じゃない。刑務所だ。あいつらを快適に暮らさせるために、俺たちがいるんじゃない」
しばらくの間、水城はその場から動かなかった。
言い返したい言葉はいくつもあった。
しかし、今ここで大庭と怒鳴り合ったところで食料が増えるわけでも、道路が開通するわけでもない。それどころか、受刑者の食事をどうするのか、暖房をどう維持するのか、減り続ける職員をどう配置するのか、決めなければならないことは山ほど残っている。
「……分かりました」
それだけ答え、水城は所長室を出た。
扉が閉まった後も、しばらくその場に立っていた。
自分たちは受刑者を管理しているからこそ、その命にも責任がある。
水城はずっとそう考えてきた。
だが、大庭にとっては違うのかもしれない。
◇
その日の昼食から、受刑者たちの食事は減らされた。
「……おい」
配られた食事を見た一人の男が、すぐに違和感に気づいた。
「少なくねえか?」
「俺も思った」
「飯、昨日より明らかに少ねえだろ」
最初は一つの房だけだった声が、配膳が進むにつれてあちこちから上がり始めた。主食も副食も、それまでより目に見えて量が減っている。何百人もの食事を一斉に減らした以上、気づかないはずがなかった。
「食料の納品が止まっている! 当面の間、食事量を調整する!」
刑務官が説明すると、廊下の空気が一気に変わった。
「納品が止まってるって、飯ないのかよ!」
「いつまでだ!」
「外どうなってんだよ!」
「俺たちに何も説明してねえだろ!」
鉄格子の向こうから一斉に声が飛ぶ。
刑務官が静かにするよう命じても、今度ばかりは簡単には収まらなかった。
その騒ぎを聞きながら、水城は廊下の端に立っていた。
想像していた通りだった。
いや、まだこれは始まりに過ぎない。
受刑者たちは今のところ、食料が足りないから全員が少しずつ我慢していると思っている。
職員の食事量が変わっていないことを知れば、この程度では済まないだろう。
◇
さらにその日の午後、管理棟へ一本の連絡が入った。
通信は途中で何度も途切れ、相手の声も聞き取りづらかったが、上部機関から伝えられた内容は明確だった。
広域的な電力需給が急速に逼迫している。
今後、重要施設を含めた各施設にも電力使用の抑制が求められ、状況によっては供給そのものが制限される可能性がある。非常用電源を備える施設については、可能な限り燃料を温存し、長期化を想定した運用へ移行するようにとの通達だった。
その報告を受け、管理側の職員たちがすぐに集められた。
机の上には刑務所全体の図面が広げられている。管理棟、複数の収容棟、作業棟、厨房、医務室、面会区画。それらを繋ぐ設備系統を前に、設備担当の職員は難しい表情を浮かべていた。
「停電した場合、自家発電には切り替えられます。ただ、あくまで非常用です。この規模の施設を今までと同じ状態で何日も動かし続けることは想定していません」
「どれを止めればいい?」
水城が尋ねる。
「作業棟はすでにほとんど使っていませんから、最低限を残して止めます。面会区画も必要ありません。管理棟も使用する部屋をまとめれば多少は削れます。ただ、それだけでは足りません」
設備担当者は図面の上で指を動かし、複数の収容棟を順番に示した。
「一番大きいのは、ここです。暖房を維持する範囲を減らさないと厳しい。受刑者を使う棟へ集めて、空にした収容棟の暖房を止める必要があります」
「一房あたりの定員を超えるぞ」
刑務官の一人がすぐに言った。
「分かっています。でも、全ての棟を今まで通り暖めて、途中で全部止まるよりはいい」
「男性側だけで何とかならないのか?」
「それだと削減できる量が足りません」
設備担当者は少し躊躇ってから、女性収容棟を指した。
「可能なら、女性側もこちらへ集約したいです」
室内が静まり返った。
「待ってくれ」
別の刑務官が身を乗り出した。
「男と女を同じ収容棟に入れるってことか?」
「同じ房ではありません。階と区画を分けます」
「そういう問題じゃないだろ。今まで完全に別棟だったんだぞ」
「男だけで五百人いる。今だってかなり荒れてるんだ。そこへ女性受刑者まで近づけたら、何が起きるか分からないぞ」
「女性側の管理には女性職員も必要です。今の人数で動線まで完全に分けられるんですか?」
次々と反対意見が上がる。
水城も、簡単に賛成することはできなかった。
「女性棟だけ残すことはできないのか?」
「できなくはありません」
設備担当者が答える。
「ただ、その分だけ一棟丸ごとの暖房を維持する必要があります。今ならまだ電力は来ています。でも制限が始まって、それでも今の運用を続けていたら、自家発電へ切り替えた時に燃料がどれだけ持つか分かりません。照明だけじゃないんです。監視設備、電気錠、通信、給排水、厨房、医務室……止められない設備はいくらでもある。その上で暖房まで全棟維持するのは無理です」
「だが、男女を一緒にした結果、暴力沙汰でも起きたらどうする」
「だから区画を分けるんです」
「それを管理する人間が足りないって言ってるんだ!」
声が大きくなり始めたところで、それまで黙っていた大庭が口を開いた。
「一緒にしろ」
室内の視線が一斉に大庭へ向いた。
「所長、本気ですか?」
「設備が持たないんだろう? だったら他に選択肢がない」
「ですが、今の受刑者たちの状態を考えると――」
「同じ房へ入れるわけじゃない。階を分けて、間の扉を施錠すればいい。それで接触できないようにしろ」
水城がすぐに口を挟んだ。
「それだけでは足りません。食事や入浴、医務室への移送もあります。男女で時間を分けるなら、その分だけ職員も必要になります」
「なら、お前が配置を考えろ」
「所長!」
「水城。電力が止まってから考えるつもりか?」
その言葉には、水城も返せなかった。
判断そのものは間違っていない。
このまま施設全体を維持しようとして、ある日突然暖房も監視設備も止まる方が遥かに危険だ。使う場所を減らし、残った資源をそこへ集中させる必要があることは水城にも分かっていた。
問題は、そのために何を犠牲にするのかだった。
◇
「――ちょっと待って」
そこで朝霧の声が入り、水城の話が一度止まった。
焚き火の向こうで、朝霧は少し驚いたような顔をしている。
「同じ棟に……? 男性と女性を?」
「はい」
水城が頷いた。
「本来、男性受刑者と女性受刑者の居住区域は完全に分けられていました。当然です。ですが、あの時はもう、それぞれの収容棟を今まで通り維持すること自体が難しくなり始めていました」
「それは分かるんですが……」
「もちろん階と区画を分け、間の扉も施錠しました。食事や入浴の時間もずらし、できるだけ接触しないようにする予定でした」
「予定……?」
朝霧が、その言葉に引っかかった。
水城は僅かに視線を落とした。
「ええ。少なくとも私たちは、それで管理できると思っていました」
焚き火の向こうで、火野が小さく鼻を鳴らした。
蓮は何も言わなかった。
水城が再び話し始める。
◇
その日の午後、刑務所の中で開設以来ほとんど例のない規模の移動が始まった。
「寝具と許可された私物だけ持て! 列を崩すな!」
「押すな! 順番に出ろ!」
刑務官たちの声が長い廊下に響き、次々と鉄扉が開けられていく。
受刑者たちは何が始まるのか十分な説明もないまま、寝具や最低限の荷物を抱えて房から出された。職員の人数が足りないため、一度に動かせる人数にも限界があり、廊下のあちこちで列が止まっては動き、また止まる。
「どこ連れてく気だよ」
「房替えだって言ってただろ」
「なんで今さら房替えなんだよ」
「知らねえよ。暖房がどうとか言ってたぞ」
「飯まで減らしといて、今度は部屋まで取り上げるのかよ」
不満を口にする者は、朝より明らかに増えていた。
一房に収容する人数も増やされた。これまでの定員を超えて寝具を敷かなければならず、新しい房へ入った受刑者からはすぐに怒鳴り声が上がる。
「おい、ここに何人入れるつもりだ!」
「こんなの寝る場所ねえだろ!」
「詰めれば入る! 今だけだ、我慢しろ!」
「その今だけっていつまでだよ!」
刑務官にも答えられない。
それでも移動は続いた。
暖房を止める棟から、暖房を残す棟へ。
人間を一か所へ集めれば、その分だけ使う設備を減らせる。数字の上では合理的な判断だった。
だが、そこへ集められているのは数字ではない。
寒さと空腹に苛立ち、外で何が起きているのかも分からないまま、一週間も閉じ込められている七百人近い人間だった。
そして、その空気がさらに変わったのは、男性側の移動がある程度終わった頃だった。
「……おい」
一人の男が、廊下の奥を見た。
「なんだ?」
「あれ……女じゃねえか?」
その一言で、近くにいた男たちが一斉に同じ方向へ顔を向けた。
廊下の向こうから、数人の刑務官に囲まれた女性受刑者たちが歩いてくる。
それぞれ寝具や最低限の荷物を抱え、男性たちが収容されている区画の前を通って上階へ向かうところだった。
もちろん、同じ房に入れられるわけではない。
階も違えば、区画の間には施錠された扉がある。
だが、それまで別々の建物に収容され、互いの姿を見ることさえほとんどなかった男女が、初めて同じ収容棟の中へ集められた。
「マジかよ……」
「こっちに女まで入れんのか?」
「おいおい、急にサービス良くなったじゃねえか!」
どこかから笑い声が上がった。
「房から出るな! 下がれ!」
刑務官が怒鳴ったが、男たちのざわめきは収まらない。鉄格子の向こうから女性たちを覗き込み、口笛を吹く者もいれば、わざと聞こえるように下品な言葉を投げる者もいた。
女性たちは誰もそちらを見ようとせず、荷物を抱えて足早に廊下を進んでいく。
だが、その列の途中で一人の女が足を止めた。
「火野、止まるな!」
付き添っていた刑務官がすぐに声を上げる。
火野朱美は従わなかった。
寝具を片腕に抱えたまま顔だけを男たちの方へ向け、格子の向こうからこちらを眺めている何人もの受刑者を睨みつける。
「何見てんだよ」
男の一人が笑った。
「別に見てるだけだろ」
「だったら壁でも見てろ」
「怖えなあ。姉ちゃん、名前なんていうの?」
周囲から笑い声が上がった。
火野の眉が吊り上がる。
「火野! 行け!」
もう一度、刑務官が強い声を出した。
火野はしばらく男たちを睨みつけていたが、やがて舌打ちすると前を向いた。
「チッ……」
再び歩き始めた火野の後ろを、何人もの女性受刑者がついていく。
この時、まだ彼女たちは互いに助け合う集団ではなかった。
男性受刑者と女性受刑者も、施錠された扉によって隔てられている。
職員も残っている。
食事も、一応は一日三回出ている。
暖房も動いていた。
刑務所としての規則も、まだ失われてはいない。
それでも、一週間前まで当然のように守られていたものは、すでに一つずつ削られ始めていた。
最初は毛布だった。
次に、食事の量が減った。
そしてこの日、男女を隔てていた建物そのものがなくなった。
それがこの刑務所で起きる次の問題の始まりになるとは、この時の水城にはまだ分かっていなかった。




